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『流転の地球』で示された価値観
Netflixで配信開始
中国産SF映画『流転の地球 (原題: 流浪地球, 英題: The Wandering Earth)』の配信がNetflixで始まり、大きな注目を集めている。リュウ・ジキン(劉慈欣)の短編小説「さまよえる地球」を原作とした作品で、中国初のブロックバスターSF作品として中国国内の興行収入歴代2位を記録するなど、2月の中国での劇場公開以降、世間を騒がせてきた。
タイトルに”流転”の文字
『流転の地球』という邦題が公開されたのは2019年2月27日のこと。『流浪地球』という原題に対し、少しニュアンスが異なる”流転”という言葉が当てられた。マーケティング上の理由もあっての選択かもしれないが、”流転”という言葉に「万物は流転する」という意味を持つ “もののあはれ” を連想した方もいたのではないだろうか。
ケン・リュウの傑作「もののあはれ」
「もののあはれ」といえば、中国生まれのアメリカ人SF作家、ケン・リュウが2013年に発表した短編小説のタイトルだ。同作は『流転の地球』と同じく地球と宇宙を舞台にして、”もののあはれ”という非西洋的な価値観を提示し、2013年にSF最高賞のヒューゴー賞で短編小説部門を受賞している。ケン・リュウ自身はリュウ・ジキンの『三体』を英訳し、アジアに初のヒューゴー賞をもたらした人物でもある。両作共に西洋的な価値観へのカウンターとなる作品となったが、今回は両作の共通点と共に、注目すべき相違点についても考えてみよう。
以下の内容は、映画『流転の地球』の内容に関するネタバレを含みます。
『流転の地球』はどのような作品だったのか
『流転の地球』のあらすじ
映画『流転の地球』で描かれたストーリーは、太陽の赤色巨星化が進み人類が “地球ごと” 太陽系を脱出しようとする中、今度は地球に木星との衝突の危機が迫る、というものだ。ウー・ジン (呉京) 演じるリウ・ペイチアンは、“ナビゲーター”として地球を引導する国際宇宙ステーションから、その息子で地球に住むリウ・チーと彼の義理の妹ハン・ドゥオドゥオは地上から、それぞれ地球と木星の衝突を回避させることを試みる。
アメリカでは「集団の意思にフォーカス」との声
VG+では、アメリカでの『流転の地球』の評価を二度にわたってお伝えしてきた。”家族との絆”、”自己犠牲”といったテーマはアメリカの観客にも馴染みあるものとして受け入れられたが、同時に『流転の地球』の物語には「集団の意思」に力点を置いているとの意見も見られた。地球の自転を止め、津波によって人口が半減することまでもが計画に含まれていたという設定は、某アメコミヒーロー映画でトラウマを背負ったアメリカの映画ファンには、ショックな内容だったのかもしれない。同時に、ヒーローらしく破天荒に突っ走るというよりも、繰り返し世界に協力を呼びかけ、あくまで連合政府との対話を続けながら事態の打開に取り組んでいく登場人物たちの姿は印象的であった。
“もののあはれ”はあったのか
ケン・リュウが描いた”もののあはれ”
ケン・リュウが2013年に発表した短編小説「もののあはれ」では、小惑星の衝突が迫る中、福岡県久留米市と鹿児島の街で生きる日本の人々の様子と、生き延びたわずかな人類が暮らす宇宙船の様子が描かれた。『流転の地球』で地球を諦め、宇宙ステーションに希望を託したバージョン、と言ってもいいだろう。
主人公・大翔の父は、幼い彼に「万物は流転する」という価値観を教える。「命あるものはみな最終的には消えていく」「然るべき時に然るべき場所にいること」といった “もののあはれ”の価値観を身につけた大翔は、おとめ座61番星を目指す宇宙船〈前途洋々 (ホープフル)〉号に住む次の世代に、命を繋いでいく。
「もののあはれ 」は日本を舞台にし、日本人のキャラクターを主人公に設定した作品だが、ケン・リュウは、”もののあはれ”という感覚は決して日本特有のものではなく、同作ではあくまで “非西洋的な価値観”を提示した作品だったと語っている。ハリウッドSFとは一線を画する価値観を提示しているという点では、『流転の地球』と共通しているだろう。
『流転の地球』が描いた”そうではない側”
だが『流転の地球』においては、地球を救うことを諦め、家族と時間を過ごすよう人類に推奨していた連合政府の諦観とも呼べるその姿勢は、まさに”もののあはれ”であった。日本人の救援隊員が希望を失い自殺してしまうシーンも、(厳密には異なる感覚だが) “もののあはれ” を想起させる。主人公たちはあくまで”そうではない側”に立ち、最後まで “最大多数の最大幸福” を諦めない。自然の法則に従い小さな希望を生きながらえさせるよりも、失敗する可能性があっても全員で生き残ってやろうという姿勢は、”もののあはれ”のむしろ逆を行くものだ。
“ホーム” へのこだわり
一方で、最後まで “ホーム”を捨てまいとするその姿勢は、移民大国であるアメリカと異なり、その土地に根ざした歴史を辿ってきた中国らしい発想とも言える。これから2,500年もの間、幾度となく直面するであろう危機を”ホーム”で乗り越えるという人類の固い決意は、『流転の地球』=「さまよえる地球」という作品の物語に独特のエッセンスを加えている。『流転の地球』で描かれたのは、「こんなところはうんざりだ」と地下から外の世界に出ようとしていた主人公のリウ・チーが、自分が暮らす地球を2,500年後につなぐことを志すようになるまでの成長の物語でもあったのだ。
“アジア的” でなくてもよい
ケン・リュウの「もののあはれ」は名作であり、英語圏で”もののあはれ”という非西洋的な価値観に根ざした物語を提示したことには、大きな意味があった。同時に、アジア系の作品だからといって、”アジア的な価値観”を備えていなければならないわけではない。『流転の地球』とその原作である「さまよえる地球」という作品の物語や構成は、ハードSFとして、”中国”というバッググラウンドを差し引いて、それそのものとして一考する価値があるだろう。
一方で、今回『流転の地球』が世界で配信されたことで、ケン・リュウの作品を引っ張り出し、アジア特有の価値観である “もののあはれ”を考える機会にも恵まれた。これまでは、こうしてアジアのSF映画と”ハリウッドとの違い”を考察することすらもままならなかったのだ。『流転の地球』という作品が登場したことの意義は、人々がその内容を考察し語る程に大きくなっていくだろう。