映画『ジョーカー』を評価できない理由

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論争を生む映画『ジョーカー』

映画『ジョーカー』が公開され、様々な反響を呼んでいる。同作はヴェネチア国際映画祭で最高賞にあたる金獅子賞を受賞するなど、公開前から高い評価を受けていた。とりわけ、24キロの減量に取り組んで撮影に臨んだホアキン・フェニックスの演技は圧巻で、アカデミー賞主演男優賞のノミネートは確実とされている。

一方で、トッド・フィリップス監督とスコット・シルヴァーが脚本を担当した『ジョーカー』という作品の内容や“形式”については、賛否両方の声が挙がっている。様々な理由から『ジョーカー』を「観ない」と宣言する人も現れており、『ジョーカー』に心を打たれたという人と、『ジョーカー』という作品を否定する人の距離感は増すばかり。この分断はなぜ生まれているのだろうか。

ネタバレ注意
以下の内容は、映画『ジョーカー』の内容に関するネタバレを含みます。

『ジョーカー』への批判

『ジョーカー』に対する批判の主なものとして、作中の重要なシーンで性犯罪者であるゲイリー・グリッターの楽曲が使用されている、精神疾患を患っている人間を犯罪者として描いている、貧困に追いやられた末の解決策として暴力を肯定している、といった声が挙げられる。

とりわけゲイリー・グリッターの楽曲使用については、現実に被害者が存在している以上、観客が意図しない(望まない)形でゲイリー・グリッターの作品に触れざるを得ないつくりとなっていることは、批判されるべき決定だと言える(SF界では、生前に性差別・人種差別的な言動があったジョン・W・キャンベルの名前を冠した文学賞の名称が変更されるなど、抑圧される人々の側に立った変化が起きている点も指摘しておく)。

強烈な“ジョーカーの論法”

だが、この『ジョーカー』における“形式”を否定すること自体を、『ジョーカー』の物語が拒絶する。同作のクライマックス、コメディショーに登場したアーサーは、「コメディは主観だ」と主張し、何が笑えて何が笑えないかは人々が勝手に決めていると指摘する。世間はエリートが殺されれば悲しむが、自分のような底辺の人間が道端で倒れていても見向きもしないではないか、と。

全ての意見を各人の“主観”として片付けてしまうこのジョーカーの論法は、他者の意見を否定はしないが、全ての意見を (半ばどうでもよさげに) 肯定することで自分の意見をも無条件に肯定してしまう。「お前が私の命をどうでもいいと考えるのなら、私もお前の命をどうでもいいと考える」と。

『ダークナイト』のジョーカーは、秩序をもたらすバットマンを否定し、カオスを取り戻すジョーカーだったが、バットマンが存在しない世界を舞台にした『ジョーカー』で描かれたのは、捨象されてきた声を取り上げ、ゴッサムにカオスをもたらすジョーカーであった。『ダークナイト』のヒース・レジャー版ジョーカーが、バットマンの正義を相対化し、あらゆる正義を否定した構図を、ホアキン・フェニックス版ジョーカーは“更新”してしまったのだ。

アーサーは「何が尊くて、何がそうでないか、それを決めているのはお前たちの主観じゃないか」とうそぶく。こうした『ジョーカー』の論法の前では、あらゆる批評や評価が無下にされてしまう。ここに、映画『ジョーカー』を容易には評価できない理由がある。アーサーに共感した観客にとって、『ジョーカー』に対する率直な批判は、「貧困や障がいといったアーサーの困難に見向きもしない人々の主観から生まれたもの」としか映らないからだ。こうして現れた分断は、一筋縄で埋まるものではない。

公開前から始まっていた“仕掛け”

そして、『ジョーカー』の指揮をとったトッド・フィリップス監督と主役のアーサーを演じたホアキン・フェニックスは、公開前から『ジョーカー』という作品を明確に定義することを避けてきた。トッド・フィリップス監督は『ジョーカー』の評価を「見る人がどのようなレンズを通して見るかによって決まる」と語り、ホアキン・フェニックスはジョーカーを「定義し難い」と形容している。

『ジョーカー』の宣伝のためにコメディショー『ジミー・キンメル・ライブ!』に出演したホアキン・フェニックスは、先行上映で家族に『ジョーカー』を見せた際に家族が同作の解釈を述べる姿を見て、「それは面白い見方だね」とだけ反応したと述べている。彼は家族が述べた解釈であっても、それを肯定することも否定することもしなかったのだ。公式見解、公式設定の公言が最小限に抑えられていることで、あらゆる批評や考察を、アーサーよろしく「受け手の主観的な評価だ」と片付けてしまうことができる。

一方で、トッド・フィリップス監督もホアキン・フェニックスも、ジョーカーを“悪”と捉え、そう描いているという点は強調してきた。つまり、「ジョーカーをヒーローとして描いている」という批判は、そう評価した人自身がジョーカーにヒーロー的な要素を見出しているという反証にもなり得る。監督は、「『ジョーカー』は政治的な映画ではない」と述べ、劇中でもアーサーに「私は政治的ではありません」と言わせている。この作品を政治的だと捉えることもまた、観客の主観でしかないというロジックが成り立つ仕掛けになっているのだ。

『ジョーカー』に強い影響を与えたとされる『キング・オブ・コメディ』も、そのエンディングを巡って論争が起きた。マーティン・スコセッシ監督は、同作の結末をどう解釈するかは、観客がどのようにこの作品を捉えているかを表すものとしている。この態度は、「コメディは主観」というアーサーの主張にそのまま反映されているが、トッド・フィリップス監督の『ジョーカー』という作品の見せ方自体も、このマーティン・スコセッシ監督のスタンスを取り入れていると考えられる。

『ジョーカー』が逆手に取った『アクアマン』の手法

こうした複雑な構造を持つ『ジョーカー』という作品が登場した背景も語っておく必要があるだろう。『ジョーカー』と同じくDCコミックスから米国で2018年末、日本で2019年2月に公開され、大ヒットを記録した映画が『アクアマン』だ。

「バットマン」や「スーパーマン」といったアメコミシリーズを擁するDCコミックスの映画作品では、名作『ダークナイト』以降、ヒーローはその正義を相対化され、ヒーロー自身が正当性を問われるダークな展開が主流となっていた。『ダークナイト』でヒース・レジャーが演じたジョーカーは、バットマンの正義を個人的な復讐でしかないと看破した。そして、DC映画は“ヒース・レジャー版ジョーカーの呪い”とも言えるこのロジックを『アクアマン』で乗り越えるまで、実に10年を擁した。

『アクアマン』では、混血のマイノリティという主人公のヒーローとしてのオリジンを丁寧に描くことによって、ミクロな視点の“相対化できない正義”を提示した。自らの行動を自戒しながら、自身がマイノリティであることに価値を見出し、前に進んでいくアクアマンの姿は多くの人々に受け入れられた。『アクアマン』が10年の時を経て、『ダークナイト』超えとなるDC映画史上最高の興行収入を達成したことで、ヒーローが正義の拠り所を見失った“ポストダークナイト”と呼ばれる時代に一旦の終止符が打たれることになった。

だが、ヒーローのオリジン=ミクロで絶対的な物語を描くことによって、斜に構えた相対主義に打ち克つという『アクアマン』の手法を、『ジョーカー』は逆手に取った。『ジョーカー』もまた、アーサーの個人的で相対化できない物語を描いた上で、「全ては主観だ」と結論づけることで、ゲームを振り出しに戻してしまったのだ。

ジョーカーの“主観論”を超えて

『ジョーカー』への批判が、批評者の“主観”だと拒絶されないためには——こうして露わになった分断を乗り越えるためには——私たちは何を考え、どう表現するべきなのか。「アーサーが異常なだけだ」という一方的な自己責任論への拒否感こそが『ジョーカー』への共感を生んだのだとすれば、私たちは、ジョーカーのロジックを否定しながら自己責任論に陥らないアクロバティックな理論を見つけ出さなければならない。

この論考は『ジョーカー』という作品を否定するものではない。トッド・フィリップス監督が「映画は社会の鏡」と述べたように、『ジョーカー』はこの社会に存在する分断を露わにしただけだ。だが、『ジョーカー』は乗り越えられていくべき作品である。私たちはジョーカーの論理を乗り越える“何か”を見つけ出すことができるはずだ。少なくとも、そう信じるべきだ。

性犯罪者であるゲイリー・グリッターの楽曲を使用している件に話を戻せば、このようなケースでは、多くの場合は被害者自身が声を上げることは難しく、代弁者を必要とする。現実に存在する被害者の痛みを想像し、共感の想いを寄せ、人々が批判の声をあげることは至極真っ当なことだ (この件に関しては、『ジョーカー』は自ら分断を生み出したと言える)。

一方で、『ジョーカー』はあくまでもフィクションだが、アーサーを他でもない“代弁者”だと感じる人は少なくない。貧困、障がい、虐待の経験を抱え、拠り所や代弁者を求める声もまた、切り捨てられたり、捨象されたりするべきではない。

こうした痛みと痛みがぶつかり合う複雑な状況下で求められるのは、互いの間に線を引くロジックではなく、互いの痛みに想いを寄せる感受性や他者性なのかもしれない。そしてそれは、『ジョーカー』という作品の世界には微塵も存在しなかったものだ。いずれにせよ、ジョーカーが現代社会に突きつけた難題を乗り越え、分断を埋めていく作業は、映画の登場人物ではなく現実社会に生きる私たちが担っていかなければならない。『ジョーカー』に評価を下すのは、それからでも遅くはない。

齋藤 隼飛

齋藤 隼飛

VG+編集長。1991年生まれ。
社会保障/労働経済学を学んだ後、アメリカはカリフォルニア州で4年間、教育業に従事。アメリカではマネジメントを学ぶ。名前の由来は仮面ライダー2号。
編著書に『プラットフォーム新時代 ブロックチェーンか、協同組合か』(社会評論社)。
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