先行公開日:2021.12.18 一般公開日:2022.1.29
正井「優しい女」
8,866字
集積1
「やっぱりいいよね女の子は、優しくて」
モニターにアイケアを繋ぎテストモードを実行する。waitの文字が一瞬現れて、すぐに女の顔に置き換わる。私の顔のはずだが違和感があるのは左右反転していないからだ。私がいつも鏡で見、「私」と認識しているのは左右が逆で、その他にも脳に届いた段階で色んな補正やバイアスがかかっている。それにしても、本当にこんな顔? 眼鏡曲がってるし……。
私は説明書に書かれている質問事項を読み上げる。好きなスポーツは?
「スポーツ自体あんまり好きじゃない。野球はちょっと見てた。今は全然」
最近どう?
「結構しんどい。いつもしんどいけど。忙しいかな割と。なんでだろね」
政治的立場は?
「それ聞く?」
私は違和感を押さえつけながら質問を読み上げる。読んでも読んでも説明書は終わらなかった。六歳まで、十歳まで、十五歳まででそれぞれ一番嫌だったことは。愛想笑いして。猫についてどう思う。緑と聞いて思い浮かぶもの。質問リストは取り留めがない。だんだんリストを読み上げる自分の声が遠くなる。モニターには私ではない私の顔が映っていて、何か答えている。自分ではないと思うとそれなりによくできていた。口の動きはなめらかで、表情にも違和感がない。目を左右に振る動き。んー、と言い淀む言い方。声はボソボソして張りがないのに、時々急に大きくなる。無理な要求を断って。考えているふりをして。
お母さんについて、どう思う?
「情報がありません。項目を追加しますか?」
モニターの中の私が訊く。声に出ていたらしい。私はいいえ、と答えて、説明書をブラウジングする。母との対話中、こんな反応があってはたまらない。幸いこの反応はテストモードの時のみで、実行中は適当に誤魔化してくれるらしい。それ用の質問項目もあった。
「誤魔化して」
私はモニターの私に向かって言う。
集積4
「いい式だったね。次はあんたの番よ」
IKEAが組み立て式の自己を発売した、とその時は冗談混じりに言われたものだ。実際には家電扱いで組み立ては必要ない。基本的には端末に繋いで使うものだが、モニターだけでも操作ができる。別に画期的でも何でもない。単機能のAIはひと昔前と違ってどこでも安価で買える。
その製品は、もとは顧客対応を目的として発売された。主にフリーランスや小規模事業者、自宅で業務を行なっている会社員向け。食事中だったり別の顧客に対応していたり、何となく気が向かなかったり、あるいは電話が苦手だったり、という場合に、相手とのやり取りや依頼内容の整理を任せることができる。デフォルトのアバターも用意されているが、自分の外見にすることもできるし、ある程度自分と顧客とのやりとりを学習させれば、近似した応対が可能になる。
ビデオ通話用のアバターは購入者のニーズに合わせたものだという。そちらの方が顧客の印象がいいという研究があるのだそうだ。たとえAIだと分かっていても、顔を見せて微笑む相手がいる方が、契約成立の割合が——何パーセントだったか忘れたが、上がる。十年ほど前に世界中を襲った新型ウイルスは、今も局地的な流行を引き起こしていて、一時的または恒常的に在宅勤務をする人の割合は増え続けていたから、この商品はかなりのヒットを飛ばしたらしい。私もいわゆるテレワーカーだったが、テキストでのやりとりがほとんどだったから、その時はすごい商品が出たな、いろんな意味で、と思っていた。
これを別の用途で使っている人々を見つけたのは、三ヶ月ほど前だった。彼らはその製品を、IKEAをもじってアイケアと呼んでいた。IKEA製じゃなくても、似た製品は全部アイケア。彼らはそれを、義理の両親や老いた親とやり取りするために使っていた。
私もすぐに買った。最新版でないと動かなかったから、端末も買い換えた。迷いはなかった。
端末からコール音。見なくてもわかる。母だ。時間を見ると五時半だった。母なりに気を使っているのだろうけど、私はまだ勤務時間中だ。フレックス式だから、九時五時で仕事をしているわけではない、と何度も説明しているのだが、いつもこの時間帯にかけてくる。理解していないわけではなく、仕事かもしれないけど、でもこの時間くらいからなら大丈夫だろう、と当たりをつけて電話しているらしい。
「はい」
『あ、マホちゃん? 今大丈夫?』
私はPCのモニターを見る。書きかけの返信メールが表示されている。急ぎではないが、手をつけてしまったものは終わらせたい。
「今は……」
『あのね、お父さんからおそうめんのセットが届いたんだけど、マホちゃん食べる?』
私の一瞬の沈黙を了承と取ったのか、母は勝手に話し始めた。いつもこうだった。私と母は、会話のリズムが噛み合わない。今止めに入ったら、母は不機嫌になるだろう。私は彼女の話に生返事をしながら、返信メールの続きを打つ。
『お父さんが元気なのって』
「元気だよ」
『連絡してるの?』
「うん」
お尋ねの件に。つきましては。添付書類にある通り。母との会話の合間合間にキーボードを叩く。
ふいに母がはあ、とため息をついた。
『ごめんね』
「何?」
『お父さんとのこと。迷惑かけたね』
「もういいって」
『私のせいだよね。私が悪いの』
「別にどっちがどうとかじゃないじゃん。だいたい私らもうとっくに成人してるんだよ」
対応が難しく。ご希望に添えません。添えません、を消して添うことができません、に書き換える。
『ゆうくんも……』
「ゆうくんだってとっくに成人してるんだよ。お母さんが気にすることなんかないんだってば」
本当に残念ですが。
そう、と母がため息とともに言った。私は母の目を思い出す。下から覗き込むような、探るような目。私が母より背が高くなった頃から、母はそんな目をするようになった。本当にそう思っているのか、本心を見透かそうとするような目。
『ゆうくん元気かな』
「連絡とってるんじゃないの」
『うん。あれ、マホちゃん仕事中?』
「そうだよ」
ずっとそうだ。あなたが連絡してくるときはいつも。
『言ってくれればよかったのに』
「……」
『はい失礼しました。じゃあね』
母からのコールが切れる。モニターに表示された返信メールの、言葉の端々に生えたトゲを一本一本書き換える。端末に繋がれたアイケアのLEDランプが青色に点滅している。学習中、の印だ。
集積17
「一人暮らし? それなら家事もばっちりね、結婚しても安心だね」
三年前、父と母は離婚した。弟の結婚式が終わって半年ほど経ってからだった。驚きはなかった。二人が何度も衝突していたのは小さい頃から見ていたし、私が成人したあたりからはほとんど家庭内別居状態だった。
離婚を切り出したのは父だったらしい。家族のグループSNSで離婚を決めたという投稿を見た時、最初に感じたのは安堵だった。これで両親の機嫌に振り回されずに済む。
両親が衝突するのはそう頻繁にあるわけではなく、多くて年に数回程度だったが、一度起こるとこじれにこじれて長引いた。きっかけは大抵お金関係だったが、二人とも変なところにこだわりがあって頑固だった。お互いに自分の方が譲歩していると思っているから余計にこじれた。私は何とか彼らの仲を和ませようとし、やがて諦めて二人の頭が冷えるのを待つようになった。母は私に、何かにつけて父のだらしなさを冷笑混じりに話した。父は私たちに対してもずっと不機嫌で口をきかなかった。衝突の最中は家全体が帯電しているみたいに感じた。私たちはうっかり彼らの痛いところに触れて火花が散らないように、静かに生活をした。私と弟と母、三人の食事の済まないうちに玄関の鍵が開く音を聞くと体がこわばった。
ずっとそんなことの繰り返しだったので、離婚についてはちっとも意外なんかではなかった。ただ弟はショックだったようで、なんとか二人の関係を修復しようとした。私は弟に連れられて嫌々話し合いに同席し、父の決心の固いのを知ってひそかに安心した。弟は泣いていた。私たちはあまり似ていなかった。顔もそれぞれ母似と父似で、一緒に歩いていてもきょうだいだと言われたことはなかったし、私が笑う場所で弟は泣いた。その日もそうだった。
弟は、ごめんね、と謝る両親に、お母さんもお父さんもかわいそうだ、と言って泣いていた。それからごめんね、ごめんねと何度も言った。どうして弟が謝るのか、私には分からなかった。だけど、この子は本当に優しいんだなと思って、その優しさに少しだけ泣いた。
母は話し合いの初めから終わりまでずっと俯いていたが、一度だけ顔を上げて私の方を見た。あの時に、母は選んだのだ。私か弟かの、どちらかを。
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「最近なんか機嫌いいね。彼氏でもできたの?」
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「でもそういうのってやっぱり、女の人の方が得意じゃない」
母から電話。最近多い。それとも私の方で仕事が立て込んでいるからそう感じるだけか。
離婚して以来、母は頻繁に電話をかけてくるようになった。短い独身生活を除けば数十年ぶりの一人暮らしが不安なのだろうと、最初はこまめに出ていたものの、その日の出来事や流行のニュース、という当たり障りのない話題に、「女同士」なんだからと露骨な話が混じり出し、話題も二周三周と同じことをぐるぐる繰り返すようになったあたりからだんだん負担になってきて、ある日それとなくやんわりと仕事の邪魔になっていることを伝えた。
『……あっそう。わかった。邪魔してごめんね』
その後はしばらく連絡が絶えた。テキストメッセージすら来なかった。私は少し気になりながら、その時は仕事と生活で手一杯で、それを頭の片隅に押しやった。仕事に一段落ついてから母にメッセージを送ると、すぐに折り返しで電話が来た。『仕事はもういいの?』と尋ねる母の声は心なしか弾んでいて、私は小さな罪悪感を覚えた。
そんなことが以前、あった。
私はPCのモニターを眺める。今のところ、仕事には余裕がある。でも、今日はあまり気が進まなかった。そうこうしているうちに電話が切れる。申し訳ない気持ちがありつつ、やっぱりほっとした。
母からもう一度電話があったのはその日の夜だった。ちょうど風呂に湯を張り始めた時に母から連絡が来た。一日に二度かけてくるのは珍しい。何か急ぎの連絡でもあるのかと電話に出る。
『マホちゃん? 今いい?』
「いいけどどしたの?」
『別にどうっていう用事もないんだけどね。あ、今度お父さんとご飯食べに行くの。マホちゃんも来る?』
なんだ。少し脱力しながら風呂場に戻り、湯船を確かめる。まだ底から十センチも溜まっていない。
不思議なことに、父と母は、離婚したあとも食事や映画に行ったり、お互いに物品を送りあったりしていた。たまに会う二人は、仲がいいというほどでもないけれど、それなりに付き合いの長い友人のように見えた。家の中ではお互いに距離が近すぎたのだろう。たまに会う分にはいいが、一緒に暮らせるほどには性格が合わなかったのだ。
「その日はちょっと」
『そう? でね、こないだ聞いたんだけど、まいちゃん覚えてる? 同級生の大川さんとこの』
「えーと」
『あの子結婚してアメリカ行ったんですって。それで大川さんも移住しようかなって』
「へえ……あのさ、お母さん」
『それでね』
母の話は尽きない。尽きないまま風呂に湯が溜まっていく。お湯の中に手を入れてちゃぷちゃぷと遊ばせる。指先だけだったのが、指の付け根に、手のひらに。
「ねえ、たまにはゆうくんに電話しなよ。私じゃなくてさ」
『だめだって、あの子には家庭があるんだから』
それを聞いた瞬間、私の体がすっと冷えた気がした。弟は結婚していて、今は奥さんと二人暮らしだが、じきに甥っ子も生まれる。母の相手をする暇はないだろう。でも、じゃあ、私は?
私はいいの?
私は立ち上がってリビングに向かう。とりあえず学習させたまま、充電器に置いてほったらかしにしていたアイケアを手に取った。ちょっとお手洗い、と言って保留にする。端末にアイケアをつないで実行モードにする。応対の対象は現在立ち上げている通話アプリだ。青色のランプが灯る。保留を解除する。
「もしもし?」
アイケアが私の声で言った。母は気づかず話し続ける。私は端末とアイケアを机の上にそっと置いてサイレントモードに切り替える。母とアイケアが無音の端末の中で会話を続けている。
風呂から上がった時には、もう通話は切れていた。あの後二十分ほど話をしていたらしい。ログを確認すると、近所の人とのトラブルや芸能ゴシップ、父との会話等にまじって、また「ごめんね」という声が聞こえた。ごめんね、お母さんのせいだね。
「いいんだってば、別に」
アイケアは、そんな風に答えたらしい。私もそう思う。もういい。どうでもいい。私が一番謝ってほしかった時はもうとっくに通り過ぎたのだから。
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「それってあなたが騒ぐからじゃないの?」
アイケアは私の生活になくてはならないものになった。最初は仕事の時にかかってくるものだけアイケアに繋いでいた。でも、いざ私が出たら「疲れてるの?」と母は尋ねる。
「疲れてるんでしょ? いいのよ、無理しなくても」
母が心配してくれているのはわかっていたが、そう言われること自体に重苦しさを感じた。だんだんとアイケアに繋ぐことが増えていった。疲れている時。気の進まない時。手の離せない用事の時。連ドラを一気見してて止めたくない時。これが全部になるのに、そう時間はかからなかった。
ログの確認も、最初は全部聞いていたけれど、次は早回しになって、テキストによる要約になっていった。十行ほどにまとめられた会話の中で、母は楽しそうだった。
申し訳ない気持ちはある。でも、仕方がないと思うようにした。母には親しい友達がいない。友人がいないわけではないが、「深い話」のできる相手がいない。私と弟とを大学に行かせるために、ずっとパートタイムで働いてきた。職場も何度も変わっているから、そういう友人を持つ機会が中々なかったのだ、と母は言っていた。それに母は、家庭内の問題を外に出すのは恥だ、と思っているふしがあった。
これは、母にとっての新しい友達だ。
と思ったけれど、当然罪悪感は消えない。
どうせ母は私と話したいんじゃない。話を聞いてくれる何かが欲しいだけだ。
そう思う方が気が楽だった。
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「わがままばかり言ってちゃだめだよ」
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「娘さん独身? じゃあ、将来面倒見てもらえるじゃない」
コール音。また母だろうか、と思ったら弟だった。弟が電話なんてかけてくるのは滅多にない。胸騒ぎがした。
「もしもし?」
『あ、マホちゃん? 今大丈夫?』
「うん。どうしたの?」
『最近お母さんと話した?』
どきっとした。私はアイケアをPCの方につなぎ、要約ログを出力する。最近は忙しくて、ログの方もろくに見ていなかった。
「何かあったの?」
『えっと』
やっぱり直接会って話せる、と弟が言った。私は了承した。弟の最寄駅近くの居酒屋で落ち合うことになった。ログは全部で百個以上ある。どこから見ていないのかすら記憶にない。データを端末に移し、移動中に新しいものから目を通す。いつもとそう変わらないような気がするけれど、わからない。結局全部読みきれないまま、目的の駅に着いた。
久しぶりに会った弟は、少し痩せたようだった。仕事が忙しいのだろうか。ゆうくんと話せば、と母に言ったことを思い出す。
「実はさ……、お母さん、詐欺にひっかかっちゃったみたいで」
「えっ」
弟の話を詳しく聞くと、詐欺、というよりは詐欺まがいのプロバイダ契約で、なんとか通信電話だのタブレットだのいらないものを買わされたらしい。騙されたというよりは押し切られる形での契約だったそうだが、弟夫婦が母のところに遊びに行って発覚したときには、クーリング・オフ期間も過ぎていた。
「マホちゃんとよく話してるみたいだったから……何か聞いてないかと思って」
弟が私を下から覗き込むような、探るような目で見る。私は手の中の端末を握りしめる。端末の中の、母とアイケアの会話のログ。
「話した……けど、ごめん。忙しくて……ちゃんと話聞いてなかったかも」
「そっか」
弟が小さくため息をついた。しきりに水を口に運ぶ。何かを考えている時の弟の癖だ。アイケアのことを知ったら彼は何と言うだろう。呆れる? 怒る? でも、お母さんのことを引き受けていたのは、私だ。
「ごめんね」
「え?」
弟がずるっと鼻を鳴らす。泣いている。私はカバンの中からポケットティッシュを出して弟に渡した。弟が音を立てて鼻をかむ。
「マホちゃん、忙しいのに。お母さんのことマホちゃんに押し付けてた」
「忙しいのはお互い様だよ……」
「小さい頃から、お母さんマホちゃんばっか頼るから。じゃあいいや、って思ってたんだよ俺。お母さんはマホちゃんを選んだって馬鹿みたいなこと思ってた」
「……そう」
やっぱり、私たちはきょうだいだった。考え方がよく似ている。私は、お母さんはゆうくんの方を選んだんだと思った。ゆうくんの生活は大事にするけど、私の生活は消費してもいい、と決めたんだと。
本当はどっちも間違いだ。母の本当の気持ちなんて、私たち、全然ちゃんと聞いたことがなかったんだから。
「ごめんね」
「いいよ。謝らないでよ」
私が悪いんだから、という言葉は飲み込んだ。
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「働いてるの? 子供がかわいそう」
弟と別れて、家に帰ってからアイケアを起動してみた。モニターに繋いで、テストモードを実行する。
画面に現れた女は、驚くほど柔和な顔をしている。
私はお気に入りのコップに入れたほうじ茶を一口飲んで、質問リストを読み上げる。好きなスポーツは?
「スポーツ自体あんまり好きじゃないかな。野球はちょっと見てた。今は全然だけど……」
最近どう?
「まあ、忙しいかな、割と。ありがたいけどね」
政治的立場は?
「言いにくいこと聞くよね」
画面の女は、全ての質問に柔和な笑みを浮かべながら答える。柔らかい声で、表情で、目を左右にふり、んー、と言い淀む。それは私の癖をなぞりながら、全く私とはかけ離れていた。私は尋ねる。
「ごめんね。私のせいだよね」
「いいんだってば、別に」
画面の中の女はいともあっさりと言ってのけた。本当に別に気にしていないような、軽い声だった。私が黙っていると、女は気遣わしげに私の目を覗き込むようなそぶりをする。思わず目をそらした。それは、母の目だった。
画面の中から母が私を覗いている。優しく、柔和な、気遣いに満ちた目で。単に似ているだけだ、と頭では分かっている。けれどその目は母の視線を思い出す。私が友達と喧嘩をして帰った日や学校に行きたくなくて黙り込んでいる日、母は無理に理由を聞こうとはしなかったが、きっとこんな目で私のことを見ていた。家を離れても、目をそらしても、私はその眼差しから逃れられない。
誰も優しくない人間になりたいわけじゃない。母も、私も、本当は優しくなりたかった。母が私の前で父をこきおろす時も、本当はそんなことをしたいわけじゃなかった。
「質問をして下さい。質問はリストから選んで下さい」
画面の女が言った。私はアイケアを終了させた。PCの画面上には、アイケアのログがまだ残っている。百以上ある長いやりとりだった。そのうちの一つを開いてみる。目を通したけれど、内容が頭に入ってこない。私はアイケアの管理画面に入り、ログのカテゴリ「謝罪」で検索をかける。ごめんね、の出現頻度は最近になるほど少なくなっている。
涙が出るような予感がしたけれど、出なかった。頭の芯のところが麻痺したようになっていて、そこまで悲しみが到達しない。
もっと早くに言えばよかった。どうして一人暮らしなんかするの、と言われた時に、母が私に冷笑を向けた時に、まだ怒りを抱いていた間に、とにかくもっともっと前に言えばよかった。話を聞いてよ、と。あなたに対して怒ってる、と。あなたは私にひどいことをしている、と、こんなに離れてしまう前に言えばよかった。そして喧嘩をして、お互い優しくなれるまで、ちゃんと話をすればよかった。
ごめんね、お母さん。
集積…
「やはりおうちのことは、お母さんがプロフェッショナルですから」
集積…
「家庭内の無償労働は年間およそ400万円に相当する」
母が購入した物品や、その後始末は、父が処理することになった。離婚はしたけど、一度は結婚相手に選んだ人だから、と父は言った。
「お母さん、老後の生活費に、ってこつこつお金を貯めてくれてたんだ。離婚する時に初めて知った。そんなの全然気にしたことがなかったから驚いたよ。まあ、年金もあるし、これは恩返しみたいなもんだ。お前たちは気にするな」
「気にしてないよ」
父が働いている間、私たちを顧みなかったように、あるいは母を怒鳴りつけている時に、私たちのことを気にしなかったように、私も父の貯金は気にしていない。父が勝手なことをするたびに、母が何を言ったか、どれほど泣いたか、この人は知らない。知らないままでいられる。父の穏やかな横顔を見つめながら、私は尋ねる。
「最近どう?」
「フェイスブック見てないか? アクアリウム始めたんだ。友達に勧められてさ……」
父がアクアリウムの写真を見せる。小規模だが、本格的な設備のように思われた。
母には親しい友人がいない。それは、母が自分の人生のほとんどの時間を、私たち家族に捧げて来たからだ。私と弟、それから父の食事を作り、家の中を綺麗に保ち、生活費の足しにと働いて子供たちに良い教育を受けさせた。私たちみんなが、母の人生から彼女の時間を奪ってしまった。そして今は、押し付けたり押し付けられたりするものになっている。
……なんで、私は、こんなところでまで、優しくできないんだろう。
後で調べてみたら、アイケアはやわらかな受け答えに補正されるよう設計されているらしい。
母はまだ、私ではない私と対話している。
集積
「優しい子になってね。優しい、いい子に」
正井「優しい女」はKaguya PlanetジェンダーSF特集の作品です。特集では6つのコンテンツを配信しています。
- 高山羽根子さんによる魔女SF「種の船は遅れてたどり着く」
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