先行公開日:2020.12.27 一般公開日:2021.1.30
揚羽はな「また、来てね!」
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「また来てねー!」
ナオが大きく手を振る。迎えの車に乗り込み、窓を開けてエミはぎこちない笑顔で答えた。
「また、来るね」
ナオを抱き上げた夫、和希は黙って小さく微笑み、うなずいた。
「モルガナ号、聞こえますか? こちらはテラ・スペース・ゲート。ただ今から、貴船を地球帰還シークエンスに移行させます」
手元に光るボタンを無造作に叩き、エミは操縦席にもたれかかった。
エミが地球を離れて十五年。地球軌道上には宇宙港が整備され、帰還に関する宇宙船側の作業は一切不要となった。時間を持て余して、エミは窓の外に目をやる。圧倒されるほど大きく迫った地球。
――戻ってきた。
地球を発つとき、和希にすべてを託して別れを告げた。でも、忘れることはなかった。小さかったナオは、素敵な女性になっているだろう。次の探査に出る前に、ひとめでいい。会ってみたい……。
「おかえり、エミ!」
人気のないロビーに降り立つと、大きく手を振り、急ぎ足で近づいてくる和希の姿が目に入った。
――どうして?
和希は、ん? と首を傾げ、やがて穏やかに目を細めた。膝をついた和希の長い腕が、エミをそっと抱きしめる。
「……来ないと思ってた」
「まさか」
少しだけ白髪の混じる、きちんと整えられた頭髪。濃紺の上質なスーツに、磨き上げられた靴。仕事は順調なのね。少し、ほっとした。
和希の後ろに、一人の女性が立っている。それは。
「ナオ」
エミから身体を離した和希が、振り返って呼んだ。
――やっぱり!
胸が高鳴った。なにか、声をかけなくっちゃ。でも、なんて……。
「……なに、そのちんけな格好」
――へ?
ナオの口から発せられたのは、全く予期していない言葉だった。
長期間の宇宙飛行に耐えるため、エミは人間の肉体を捨てた。全身が作り物の、いわゆる、アンドロイド。重量制限もあって、身長は一メートルに満たない。
「昔の宇宙人だってもっとまともだよ。センス、わるっ」
「こらっ! ナオ。ママ、おかえりなさい、だろ」
慌てて諭す和希に背を向けて、ナオは長い足を振り出すように歩きだした。
「先に帰るよ。友だち、待たせてるし」
ナオの姿が消えてしまうと、和希の困ったような笑顔だけが残った。
こんなつもりではなかった。心の準備もできずに再会してしまったナオは、あまりにもそっけなかった。
「迎えに来てくれるなんて、思ってもみなかった」
都心に向かう車の中でつぶやいた。
「行くに決まってるじゃないか。航宙管制局に問い合わせて、ずっとエミの宇宙船をモニターしてたんだよ」
和希は胸を張る。
「出発するときに、ナオのこともあるし、……ちゃんとほかの人と結婚してねって言ったよね」
横目で和希を見た。鼻歌でも歌い始めそうな、のんきな顔。微笑みを絶やさない目尻に、ほんの少しだけ皺が寄っている。
「エミのインパクトが大きすぎてね。ほかの人はみんな霞んじゃうんだ。ぼくのせいじゃないよね」
そう言われてしまうと、二の句が告げない。
当時、有人深宇宙探査のプロジェクトを進めていたエミは、スポンサー獲得のためモルガナ社に直談判に行った。飛ぶ鳥を落とす勢いの、財閥系宇宙開発企業だ。対応したのは創業者一族で次期社長候補の和希。エミの熱意に押し切られるように、サポートを決めてくれた。
エミは肩を落として、膝に置いた手を見た。
「私、こんな身体だし」
「アンドロイドの探検家って、かっこいいと思うけど。……でも、ナオには受けなかったみたいだね」
和希の口から、くつくつと笑い声が漏れる。いやいや、そこ、笑うところじゃないよね。
「それに、次の探査にも時間がかかるし、私を待っていたら、和希はおじいちゃんだよ!」
「はい、はい。次はもっと頻繁に連絡してね。今回は連絡がなくて、心配したよ。……あ、うちの会社、超光速通信装置のプロトタイプを完成させたから、次は持っていって。時差なく話ができるよ。便利になったなぁ」
エミは開いた口が塞がらない。こういう人だから好きになったし、子どもを託して宇宙に出てもいいか、と思ったんだっけ。大きすぎるシートに、ゆっくりと身を沈めた。チャイルドシート、あったほうがいいね、と心配顔の和希をにらみながら。
なつかしいわが家は、驚くほどにあの日のままだった。ただ一つ、家事AIの名前を除いては。
『ママ』と名前を変更した、ときまり悪そうに和希が言った。
「ママって……。AIに、ママって呼び掛けてるの?」
和希は、こくこくと首を縦に振った。……私の代わり、ということ?
「ママ、夕食の準備をお願い」
――はい?
エミは思わず立ち上がった。
「あなたじゃないです。……着替えてくる」
帰ってきたばかりのナオが、抑揚のない声で応じた。
傍らでは、和希がほくほく顔で見送っていた。この人は、娘にも甘いのだ。固まったままのエミと目が合うと、つくろったように神妙な顔をした。
「ナオを責めないでくれる? ママがいないって、寂しがってね。だから、家にちゃんといるよって」
「わかってる。……少しでもナオの寂しさが紛れたなら、よかった」
言葉とは裏腹に、気持ちは沈む。黙りこくったエミの前に、夕食の食器が並べられていく。和希は離れていた二人の時間を埋めるかのように、陽気に話し続けた。
ナオがテーブルについて夕食が始まった。食事を必要としないエミは時間を持て余す。見違えるように成長した娘に、何を話したらよいのか。気だけが焦る。……せめて自分の仕事を知ってもらいたい。探査に訪れた小惑星や木星の美しい姿を、おずおずと口にした。
その選択が誤りであったことに気付いたのは、壁掛け時計の長針が一周し、遠い目をしたナオがため息をついた時だった。
「いやあ、エミの情熱は出会ったころと変わらないね」
和希の愉快そうな声を合図に、ナオは席を立った。
「明日、早いから」
――やってしまった。熱に浮かれたように一方的にしゃべり倒してしまうのが、エミの最大の欠点。十五年も留守にしていた母親として、あるまじき失態……。
「初対面だと思って、ちょっとずつ慣れていけばいいよ」
心を読んだように和希がつぶやいた。
――そう、だよね。
翌朝、誰よりも早くキッチンに立ったエミは困惑していた。『ママ』に指示を出しても、うんともすんとも言わないのだ。一度電源を落としてみるか、とスイッチに手をかけた、その時。
「
HKAI
、朝食の準備をして。パパの分だけ」
いつの間にかナオが立っていた。
「紛らわしいから、元に戻した」
エミに目もくれず、ナオは玄関に向かう。引き寄せられるようにあとを追ったエミに、ナオは背を向けたまま。
「ほんとに宇宙が好きだよね。たかがAIに星団の名前を付けるなんてさ」
ハウスキーピングAI、略してHKAI。その読みを二重星団h+χ(エイチ・カイ)に重ねたことは、和希にも言っていない。でも、ナオは気づいていた!
――ナオ!
「急ぐから」
エミの鼻先でドアが閉められた。
次の探査ターゲットと出発の日程が決まった。本格的な準備が始まる。三人そろっての家族団らんは、もう無理かもしれない。和希は出張で留守。昨晩遅かったナオは、まだ寝ている。後ろ髪を引かれる思いで、荷物をまとめた。
迎えの車を待ちながら、エミは窓の外を見つめていた。このわずかな滞在に、何の意味があったのか。和希とナオをただ混乱させただけではなかったか。和希はナオを後継者にと考えているが、ナオは迷っていると聞いた。それなのに、何一つ助言できなかった。
堂々巡りを続けるエミの思考を打ち切るように、迎えの到着が告げられた。
「もう行くの?」
「……ナオ。まだ、早いのに」
「大丈夫。また寝るから」
ナオはエミの荷物を提げて、玄関に向かう。エミは焦った。この機を逃してはならない。
「ナオ、ママに何か相談とか、ない? ……将来のこととか」
ナオの足が止まった。
「……小さいころ、ママが出かけるとき、また来てねって言ってたの、覚えてる?」
振り返ったナオの目を見つめながら、エミはゆっくりうなずく。
「ママってさ、どこからか来る人だと思ってたんだ」
泣き笑いのような顔になった。
――わかってる。その言葉を聞いて、私もつらかったから。
「ママみたいに、家族を寂しくさせる生き方は、いや」
「……パパの跡を継ぐ?」
「うーん、パパみたいな生き方、悪くないとは思ってる。でも、ほかにやりたいこともある」
ナオは片手を上げた。言葉はなかった。
地球での最終日、エミは和希と自宅で過ごした。ナオは不在だった。
穏やかな時間が過ぎる。もう少し和希と会うのが早かったら。プロジェクトに関係なく出会っていたら。和希の隣で過ごす、ありえたかもしれない別の人生を思うと、少しだけ切ない。
――次に帰ってくるまで、十五年。
「ナオが独り立ちしたら、寂しくなっちゃうね」
思わずこぼれた言葉に、和希は笑って答えた。
「エミから毎日連絡があれば、寂しくないよ」
「ばっかね」
「ぼくはエミのサポーターだからね。帰還まで、待ってるよ」
壁に掛けた時計が、静かに時を告げる。そろそろ、戻らないと。エミは腰を上げた。ナオには会えずじまい。それだけが心残り。
「送るよ」
エミのサイズに合わせた真新しいチャイルドシート。ナオの子が使うかもしれないね、と笑いながら乗り込んだ。車が動き出す。その時、走ってくるナオの姿が目に飛び込んできた。
「ママ!」
ナオが息を切らして窓に手をかけた。
「決めたよ。……研究者になる」
「研究者?」
「うん。ママが探査から戻った時、もう一度人間の身体に戻れるように」
もう一度、人間の身体に?
思わず和希を見ると、満面の笑みを浮かべてうなずいていた。
「宇宙探査に飽きたら、パパとゆっくり過ごしてよ。おじいちゃんになって、ひとりじゃかわいそうだから」
胸が詰まって、言葉にならない。ナオの頬に手を伸ばした。その手に、ナオが手を重ねる。
「パパと一緒に待ってる。また、来てね!」
――うん。ありがとう。また、来るよ!
走り出した車の中からナオに大きく手を振って、エミはまっすぐ空を見上げた。