近藤銀河「SFの中で踊る魔女 ─未来をフェミニストとして生き延びるために─」 | VG+ (バゴプラ)

近藤銀河「SFの中で踊る魔女 ─未来をフェミニストとして生き延びるために─」

カバーデザイン 浅野春美

SFの中で踊る魔女 ─未来をフェミニストとして生き延びるために─

SFに着想を得てフェミニズムを語り直そうとしたダナ・ハラウェイは「踊るなら、女神よりサイボーグを選びたい」とかつて述べた。私も彼女の思考は理解できる。でも、私は同時に思う。踊るなら魔女として踊りたい、と。このエッセイでは、SF作品の中にいる魔女的な人々を語っていき、魔女の社会を動かすパワーを伝えていく。

魔女とはなにか

魔女とは、なんだろうか?ファンタジーやSFにおいては、科学とは異なる体系の力を用いたり、辺境で暮らす女性たちかもしれない。多くの人が物語で描かれてきた魔女の名前を口にできるだろう。だが、魔女とはそれだけではない。

ある人にとってそれはキリスト教に叛逆した女かもしれない。キリスト教圏において魔女とはまさにそのような存在だった。
ある人にとってそれはペイガニズムを実践する女かもしれない。現代的な魔女の中にはかつてあった宗教の在り方を受け継ぐ者たちも少なくない。
ある人にとっては規範から外れた女かもしれない。ある人にとっては主張する女でありフェミニストのことかもしれない。ある人にとっては様々な性的少数者の女かもしれない。彼女たちは様々な差別を受けてきた。
またある人にとってはフェミサイド、虐殺された女性たちそのものかもしれない。魔女として殺された人の中には、ただ資産を持っていたとかそういう理由で殺されたひとたちもいた。

魔女たちとどう関係するかも様々だ。歴史を超えて帯同したい女たちと考えるかはたまた敵と考えるか、あるいは遠い存在と考えるか。魔女は罵り言葉だろうか、褒め言葉だろうか、魔女同士は対立するのか。それらは文脈によるだろう。

魔女とはなにかを考えることは、女とはなにかを問うことのように難解であり多くの問題を含まざるを得ない。どちらも抑圧され近代までは他者から記録されることがほとんどだった人々だ。

けれど、私にとって魔女とは?と問われると私にとっての魔女は「W.I.T.C.H」だ。ということになる。
W.I.T.C.Hは60年代に活躍したフェミニズム団体の名前で、Women’s International Terrorist Conspiracy from Hell(地獄からやってきた女性の国際テロ陰謀組織)の頭文字をとってW.I.T.C.Hとなる。
ウォール街の占拠など資本主義に対する異議申し立てのデモを行なっていた彼女たちは、魔女の信仰やキリスト教とも距離の遠い存在だった。けれど、彼女たちは魔女という言葉を選んだ。彼女たちは魔女をこう定義する。「あなたが女で、あえて自分を省みるなら、あなたは魔女だ」と。そして彼女たちは「女で、飼い慣らされず、怒り、楽しみ、不死であることであなたは魔女となる」と続ける。怒り、荒ぶる女たち。

ハラウェイは自著の中で魔女の政治的行動に触れ、魔女をサイボーグの一形態と見做し、彼女たちこそ権力網を読み解くサイボーグなのだと称賛する。だがそんなハラウェイがそれでもサイボーグという語を用い魔女を重く見なかったのは、ハラウェイにとって魔女が女神と踊るものであったからだろう。ハラウェイは女神信仰が陥りがちな女性の本質主義を警戒していた。そのような本質性はたとえばレズビアンやトランスジェンダーへの差別を引き起こしそして人種や階級の差異を覆い隠す原動力となり得る。だから境界を侵犯し境界の隙間で権力の網目を読み解くサイボーグをハラウェイは比喩として選んだ。

けれど、ここで私はW.I.T.C.Hの例を引いて問いかけてみたい。女神と踊らなくても魔女にはなれるのではないか、と。魔女は悪魔とだって踊るのだから、サイボーグとだって踊るだろう。いや、女神だってもっと多様な姿をとるだろう。未来の世界にもジェンダーがあり、セクシュアリティが欲望の基盤となるのであれば(多くの物語はそうなっている)、その裂け目で怒り世界に組み込まれ世界を壊そうとする魔女は必ず現れるからだ。そしてその時に魔女がなにと踊っているのか、それはSF的な想像力の中に委ねられる。
SFの中において魔女と名乗る存在が少なくても、そのような存在、性差によって作られた知識体系の簒奪者であり、その怒りを抱える存在はずっとそこにいる。
彼女たちを印づけるために私はあえて彼女たちにやがて来る偉大な魔女の先達として呼びかけたい。魔女とは虐殺された存在でもあり、私たちの歴史の中の負の存在でもある。だが、そのように呼び名乗らなければまた再び消されてしまう存在もある。彼女たちに目を向けるためにも、サイボーグと踊る魔女としてこの先生きねばならない人生の参考にするためにも、SFの中にそうした魔女の可能性を探していく。

SFの中に棲む魔女

たとえば、グレッグ・イーガンの『クロックワーク・ロケット』の世界には女たちの密かな集会が存在する。この世界では女性に振り分けられる身体を持つ人は、長命を得ることができない。彼女たちは年が来ると分裂し、死んでしまうのだ。また彼女たちはこの世界にあって、様々な権利を抑圧されてもいる。男性に振り分けられる身体を持つ人々と同じくらいの寿命を得るには違法な薬が必要になる。
生態的特徴から異性愛の制度的な強制が強いこの世界で、彼女たちは密かな集会を開いて薬をやりとりし、異性愛に抗う人々と手を取り社会の変革を目指す。彼女たちの夜の集会はW.I.T.C.Hの集会のようでもある。

もちろん忘れてはいけないのはアーシュラ・K・ル=グウィンの小説群だ。彼女の小説には私が敬意を込めて魔女と呼びたくなるような女たちが登場する。中でも私が推したいのは2000年の小説『言の葉の樹』で、この小説では官僚による中央集権体制の元で弾圧される独自の信仰と価値観が描かれる。近代的な経済を重視する国家によって排除された彼女ら彼らの伝承は知識と思考を伝えるものであり、彼ら彼女らは隠れ潜みながらその中で生きている。近代的な繁殖と繁栄を重視する政府へのアンチテーゼとして描かれるその信仰は、男女の平等や同性愛も含む拘束力の緩やかなパートナーシップを謳うなど、ル=グウィンのフェミニストとしての理想が詰められている。
魔女に正統も異端もないと思いたいけど、ペイガニズムへの憧憬と政治的焦点となる存在が交差する地点に立つ彼女ら彼らを描く『言の葉の樹』は正統派の魔女像への憧れにも近い。

ル=グウィンの物語を受け継ぐようなSFがンネディ・オコラフォーの小説『ビンティ─調和師の旅立ち─ 』だ。この小説は、地球の砂漠地帯に住む部族ヒンバ族出身のビンティ、正確にはナミブのビンティ・エケオパラ・ズーズー・ダムブ・カイプカが、故郷の伝統を守りながらもそれを飛び出し、銀河の向こうの大学へと進むところから始まる。
彼女は故郷では大学を目指そうとする異端の鼻つまみものであり、また外の世界では彼女が故郷の伝統を守ることから時折異端視される。彼女はこうした他文化の境界線上の他者として苦悩しながらも、異なる文化の血で血を流すような対立をも収めようと奮闘していくことになる。そのなかで彼女は、マイノリティとして権力の網目を読み解き生存を確保せざるを得なかった人間の持つ網目を読み解く力を用いていくことになる。

ウォシャウスキー姉妹の映画『マトリックス』に登場するオラクルというキャラクターは、その予言者という名前が暗示する通り魔女的なキャラクターだ。有色人種で社会的にマイノリティな下流層の中年女性に見える彼女は、実はバーチャル世界であるマトリックスを作ったAIで、マトリックスに救世主の伝説を流しマトリックスに抗う人々をアパートの一室で育成しサポートしている。しかし実際のところ彼女は救世主という嘘の伝説で世界を管理する存在でもあり、同時にその役割を捨て世界の仕組みを壊せる人間を求めてもいる。
世界の創造主であり破壊者という彼女のあり方は、どちらかと言えば女神に与えられてきた役割かもしれない。結局のところ、彼女の考えは愛というところで結論をみる。愛を原動力とする物語を信じていない私は彼女とダンスできるかはわからないけど、世界のシステムに組み込まれつつもそれを壊し変えるために動く彼女は、その権力の網目を読むものとして魔女なのだと思う。

そう考えてみれば、同じくウォシャウスキー姉妹によるNetflixドラマ『Sense8』は魔女の組織、カヴンを描いたドラマにも思えてくる。『Sense8』は世界中の様々な困難な抑圧された状況に置かれた8人がお互いテレパシーでつながり合ったことから始まり、お互いを助け合って困難に立ち向かっていく物語だ。ゲイの俳優や、マフィア、男社会で犠牲になる女性、トランスでレズビアンのアクティビストと登場人物は多種多様で、キャラクターたちの抑圧のされ方もまた様々に異なる。
ただどの人物にも共通するのは、それぞれがそれぞれの社会の中でその社会の価値観を揺るがすような危険性を否応なくもってしまう人間である、という一点だ。『Sense8』は彼女、彼らの助け合いの物語であり私はここに魔女同士のコミュニティに繋がる可能性を見る。

N・K・ジェミシンの『第五の季節』はそうした特殊な人々の排除と世界の滅びを描く作品だ。この作品には、地震に関する力を操るオロジェンと呼ばれる超能力者たちが登場する。オロジェンたちはその能力ゆえに恐れられ管理されまた非人道的に酷使される。『第五の季節』はこの社会の歪みを、社会の歪みの中で酷使される女の身体と男の身体を、淡々と語っていく。
オロジェンたちの力は結局のところ個人で一つの世界を滅ぼし得るものだ。そんな力を持って世界の歪みを見て破滅を願ってしまうような時、果たして人はどうしたらいいのだろうか?『第五の季節』はこの力ある魔女としての問いを体感させてくる物語だ。

もちろん魔女は相手を毀損する罵声にもなる。
フランク・ハーバードのSF小説『デューン』を映画化した『DUNE/デューン 砂の惑星』ではベネ・ゲセリットと呼ばれる女性からなる宗教団体の人間が時に魔女と呼ばれていた。ドゥニ・ヴィルヌーヴによるこの映画では彼女たちの力と存在が1984年に公開されたデヴィッド・リンチ監督の『デューン』よりも強調されている。彼女たちは声によって人を操り、その力は秘匿して受け継がれ、また男尊女卑の社会にあって権力者に女性を差し出すことで血統を操作する。
彼女たちは魔女と罵られるが、そこに私は複層的な意味を見て取る。彼女たちが魔女と呼ばれる理由の一つは単に彼女たちが正統な権力を持たず怪しい術を行使する存在だからだろう。故に彼女たちは主流派の権力を持つ人々から魔女と呼ばれ罵られる。彼女たちは主流派の権力を脅かすからだ。
私はむしろ、だからこそ彼女たちは誇らしく魔女なのだと述べたい。テクノロジーと資源により父の名による社会統制が行き届いた社会の中で、その権力のネットワークを読み解き、声という技術によりこの命令系統を覆す彼女たちは、ハラウェイが語ったようなサイボーグでもある。
もちろん同時に彼女たちは優生学を使い、能力主義によって人間を選別し、また権力に奉仕し、女たちを管理し男の子を産むように仕向ける、家父長制に欠かせない装置そのものだ。
だから今のところ私は彼女たちと踊れないし、彼女たちも私と踊ろうとは思わないだろう。今の私は弱く障がいがありシステムを壊していきたいと願う魔女だからだ。

だがそんな彼女たちベネ・ゲセリットに迫るドラマ『デューン:シスターフッド』が映画のスピンオフとして現在企画中であるという。女性の連帯を示すシスターフッドもまた魔女と同じくらいに難しく(なぜならシスターフッドという言葉の歴史はまた同時に誰を女性から排除してきたかの歴史でもあり、女と呼び呼ばれるものの差異を隠しかねないからだ)また愛すべき言葉だが、このドラマで彼女たちが魔女として社会を壊す姿をできることなら見てみたい。

魔女としてはたらかせるSF的想像力

ここまで、私が思う魔女の定義をあげ、魔女と名指しされてはいなくても私が魔女だと思う人々をSFの中から拾い集めてみた。こうしてみるとあらためてSFは随分と色んな女性たちを描いてきたのだということがわかる。繰り返しになるがSFが未来を描き読者がそれを読み解く時、未来のテクノロジーや社会がいかにジェンダーとセクシュアリティを再編するのかという視点を回避するのはかなり難しい。
そしてまたありきたりな言葉だが、テクノロジーはすでに常に現代の社会と密接に関連しているのであって、SFはこの現代という根っこから生まれ読み解かれる。

こうした前提の元に、マイノリティとしてサバイブする女性を魔女として語り直すことは現在に今ここでサバイブする女性の生き方を模索する手助けになる筈だ。テクノロジーによって社会が再編され続け、性に基づく不平等があり続けるなかで、どのようにどんな魔女として生きるのか?
どんな性別に振り分けられどんな性別を願いどんな性別を生きているのであれ、この問いはこの世界を生きる上で重要にならざるを得ない。そしてSFはこの問いに応えるための想像力を与えてくれる。

たとえば『クロックワーク・ロケット』の女性たちはどんな生態を私たちが持っているとしても、私たちの性差より大きな差異が横たわっているとしても、それを乗り越え助け合う事の出来る可能性を示してくれる。
そしてまたSFの中の魔女たちは、様々なものと踊る。
『言の葉の樹』に描かれるル=グウィンの理想の民間伝承は、正邪の基準や信仰を伝える神話とは違う物語として、語られるたびに変化するものとして描かれる。『第五の季節』で様々な異能を発揮するオロジェンたちは戒律に従い共同体を作るが、オロジェンたちの力も生活も神々とは縁遠いものであり、その力は歴史と組織によって制御されている。『ビンティ─調和師の旅立ち─ 』では主人公は女神への信仰を持ちながらも、異星人や生きた船と関わり、お互いの歴史と権力の調停を図っていく。
この人々が踊っているのは、なにか超越的で本質的な存在としての神ではなく歴史とそれによってつくられた権力の網目の総体なのだ。

サイボーグと踊りながら魔女のプロトタイピングを行うこと。それはまた見過ごされてきたものに、私たちの社会と歴史に立脚しながら目を向けることでもある。私の考えるSF的な想像力とはそのようなものであり、SFの想像力は本来そこにも届きうる筈であり、適した想像をSFに向ければ魔女は語りかけてくれるとも、私は信じている。

 

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出典

小説
ダナ・ハラウェイ、ジェシカ・アマンダ・サーモンスン、サミュエル・R・ディレイニー『サイボーグ・フェミニズム』(小谷真理・巽孝之訳/トレヴィル)

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アーシュラ・K・ル=グウィン『言の葉の樹』(小尾芙佐訳/ハヤカワ文庫 SF)

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ンネディ・オコラフォー『ビンティ─調和師の旅立ち─ 』(月岡小穂訳/新 ハヤカワ・SF・シリーズ)

N・K・ジェミシン『第五の季節』(小野田和子訳/創元SF文庫)

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映画・ドラマ
ラナ・ウォシャウスキー、リリー・ウォシャウスキー監督『Matrix』(1999)
ザ・ウォシャウスキーズ監督『Sense8』(2015)
ドゥニ・ヴィルヌーヴ『DUNE/デューン 砂の惑星』(2021)

 

 

この論考はKaguya PlanetジェンダーSF特集に掲載された論考です。特集では6つのコンテンツを配信しています。

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近藤銀河

フェミニズムとセクシュアリティの観点から美術や文学、サブカルチャーについて研究・執筆し、アーティストとして実践を行なっている。日本SF作家クラブの会員。2020年には「フェミニストによるフェミニズムSF」を『SFマガジン』2020年8月号に、「女/オタクという多重する経験を生きること。創作を通してアイデンティを語ること。」を『ユリイカ』2020年9月号に寄稿している。2021年には「未来の女を想うとき──SFはフェミニズム」を『フェミニズム文学ガイド』(水上文編) に、「『シン・エヴァンゲリオン』とポストフェミニズム」を『『シン・エヴァンゲリオン』を読み解く』(河出書房新社) に寄稿している。

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