冬乃くじ「猫の上で暮らす一族の話」 | VG+ (バゴプラ)

冬乃くじ「猫の上で暮らす一族の話」

写真:冬乃くじ 題字:VGプラスデザイン部

先行公開日:2023.6.24 一般公開日:2023.7.29

冬乃くじ「猫の上で暮らす一族の話」
10,671字

夜、人間の隣で一ぴきの猫が眠っている。とちゅう、寝返ったり、ゴムのように伸びたりし、それから驚異的なやわらかさで丸くなって一息ついたとき、猫の額に住む小さな者と、猫の腹に住む小さな者が挨拶をする。

やあ。また代謝したね。

ヒタイ系の語彙の豊かさに触れると、ハラ系はヒタイ系と友達でいることが誇らしくなる。けれど代謝などという立派な言葉を自分がつかうのは照れくさくて、ハラ系は自分の言葉で返す。

きみも、この間会ったときのきみと違うね。新しい体っていいよね。ぼく死んだことに気づくたび、この腹ぜんぶ駆け回りたくなるんだ。あっ、ごめん、そんなことより、なにか新しい話はある? いま猫は何を考えてる?

ハラ系は、ヒタイ系と会うと、急かすように話してしまう。いくら猫がやわらかいとはいえど、額と腹の近づく機会はとても少ないからだ。猫の舌が腹をなめまわすときも、額は鼻と目のはるか先にある。舌の住民はいつも忙しそうで近づいても話せないし、そもそも早口すぎてよくわからない。鼻に住む一族は楽しく気さくに見えるけれど、実はお高くとまっていて、ヒゲ系としかまともに話さないらしい。ハラ系は何度か勇気を出して話しかけてみたが、そのたびにフンとそっぽを向かれ、傷つき、悩み、思った。住んでいるところが違うだけで、こんなに性格が違うってどういうことなんだろう。ヒタイ系と会ったときにそういう話をしてみると、ヒタイ系は深く共感するように言った。ふしぎだよね。わたしは土地に生える毛の長さによるのではないかと思う。わたしの住む額でも、怪我をして毛の生えていない場所と、ふさふさと生えている場所では住民の性格が違う。鼻には毛が生えていないから、外の世界がよく見えて、猫の表面のことがらにあまり興味がもてないのかもしれないよ。ハラ系はそれ以来、あたたかい風とともにとげとげした巨大な舌が天にあらわれ、大地から垂直にそびえたつ毛の群れが湿林へと変化していくとき、舌と寄り添うようにしてあらわれる鼻に注目するようになった。たしかにあの三角地帯は、腹のような肥沃な大地とは違う、という気がした。きみのいる場所は広くてうらやましいよ、とヒタイ系はよく言った。ここはなにかと手狭でね。

ヒタイ系は物知りだった。脳という、猫の動くみなもとに近いところに住んでいるから、猫の考えていることがなんとなく伝わってくるのだという。ハラ系は猫の表面にしか住んだことがなかったが、ヒタイ系は昔、中に潜ったこともあった。猫がなにか考えると、あちこちきらめいて光に溺れるようになるのだそうだ。冬に人間の手から雷が落ちることがあるだろう?とヒタイ系は言った。あのバチッという火花のようなものが、見渡すかぎり、ものすごい速さで行き交っていて、これまで感じたことのないほどの喜びと力強さで満たされた。なんていうか、生きてるって感じがしたんだ。……長い腹毛にさえぎられ、ハラ系はあまり光を感じたことがなかった。というより、もともと暗く湿った場所でしか生きられない体だった。でもその話を聞いたとき、まぶしい気持ちでいっぱいになったのだった。

そうだなあ。猫は最近、ベランダのことを考えるようになったよ。前に君に会ったときより、ずっとたくさん。それからベランダの先にある庭と、そこに来る鳥のことも。

ベランダ? 家出するってこと?

たぶん違う。これまでだって、無理にでも出ようとすれば出られる瞬間はあった。ただ一歩踏み出したいんだろう、きっと。あと最近は、昔のことを夢に見ている。寒くてひもじくて危険で、でも土の近くにいた日々を。

今の生活のほうが楽だって聞くよね。静かで穏やかで、お客が少なくて。

そうだね。ふふ。肉球にいるやつらにそう言ったら、めちゃくちゃに怒るだろうな。やつら、昔の華やかな交遊を思い出しては、今を嘆いているから。

そうなんだ。ハナ系もそうなのかな。

鼻のやつらはもちろん外に出たがっているよ。カラスを返り討ちにしたときの血のにおいが忘れられないんだ。耳のやつらには逆に、そのときのおそろしい羽音がこびりついているみたいだけど。

ヒタイ系は、きみはどうなの。

わたし? そうだなあ。もし猫が外に出たら、次から次にお客がやってきて、毎日飽きないだろうね。でもどんなことにも、よいところと悪いところがある。朝がきて人間が起き、その手をのばしてわたしたちの大地を撫でるとき、地の底から地響きがしてくるだろう。そういう猫はそうでない猫よりも長く生きるらしい。人間と一緒にいるほうが長く生きられそうなことは、猫もなんとなくわかっている。ただ、いつまでも大人になれないだけさ。……わたしは、今の穏やかで面白みのない日々も、昔の嵐のような祝祭の日々も、同じくらいに愛しているよ。

ハラ系が、ぼくも、と言おうとしたとき、猫が大きくのびをして、ふたりはまた離ればなれになった。広大な腹の上でひとり、ハラ系はヒタイ系がいたほうを見上げていた。腹毛はうっそうと茂っていたが、その先端にヒタイ系の残り香のようなものを感じた。そのほうに向かって、ハラ系は三本の腕で手を振った。

清々しい朝がきて、ハラ系はかたわらに、昨日までの自分の死体があることに気づいた。新しく乗り移った体の中で、既にいた意識と挨拶する。ハーイ。これからよろしくね。こちらこそ。こんなふうに意識が別れているのも最初だけで、すこしたつと一体化してしまい、どれがもとの自分でどれが新しく加わった記憶や思考なのか、いまいちわからなくなってしまうのだけど、意識が一つになる前のどっちつかずの時間がハラ系はけっこうすきだった。ハラ系は新しく合流した記憶をむさぼるように読む。合流した意識は、猫が外で暮らしていたころの記憶をよく残していた。腹毛に押しつけられた土の匂い、猫の舌とは比較にならないほど湿った草が絡みついたときの騒がしさ。土からの使者とひらいた盛大な市場、猫の爪より巨大な虫たちに食い荒らされたときの興奮。毎日死んで毎日生き返って、自分と仲間の意識の境界がわからなくなっていた日々。そうだった、とハラ系は思う。昔のほうが面白かったというのは確かにそうで、でも今のほうが、自分が自分のままでいられる。大切な友達がいることを忘れずにいられる。だからハラ系は今の日々のほうがすきなのだ。そうなんだ、と新しい意識が言う。うん。よかったね、いい友達がいて。うん。

意識が一つになると、ハラ系は自分の死体を運びはじめた。自分がもといた体をどうするかは、祖先の思想によって違うのだが、ハラ系の祖先は死体を臍に運ぶ主義だった。臍は腹の中央近くにある、ぽっかりと毛のない場所だ。毛は生えていないけれど、ドームのように長い毛で覆われているので、光に弱いハラ系でも訪れることができる。猫の上で暮らす者にとって、臍は聖地のような場所で、だれもがヘソ系に対して尊敬の念を抱いていた。ヘソ系がいなければこの大地は生まれなかったとヒタイ系は教えてくれた。母猫の体の中で、ヘソ系は猫を休みなく育てた。猫が生まれ、母猫が臍の緒を噛み切ったあと、偉大な役目を終えたヘソ系は、誰よりも先に猫の大地を踏んだ。そして移住者が来るたび、快く受け入れた。だから猫に住む者は、基本的に臍への信仰が篤いのだ。(もちろん全員ではない。たとえば外ばかり見ているハナ系は、臍信仰などという古臭いものには見向きもしなかったし、それで自分が困ることも、誰かを困らせることもなかった。)それから最近、臍への巡礼に楽しみが加わった。死体を捧げると、それを使ってヘソ系が作品をつくってくれるのだ。作品は網状だったり弦状だったり、その時のヘソ系の気分によって違ったが、どんな形にせよ、作品を前にすると、どんなひねくれ者でも感動に打ち震えた。生きてるってこういうことなんだ、と言われている気がするのだった。

暗いほうへ向かってどんどん歩くと、腹に住む者のなかでも小さい者たちが、腹毛の根元からロミを掘っていた。あまりに夢中で掘るため、ロミがそこかしこに散らばっても気がつかない。ハラ系は引き摺る死体にくっついたロミを食べながら歩いた。ロミはまあまあ美味しくて、旅の供には悪くないが、小さい者たちがなぜそこまで夢中になるのか、よくわからなかった。それなのに昔ロミの話題が出たとき、ヒタイ系を楽しませたいばかりに大げさに話してしまい、話の中でロミは「見つけたら必ず食べたい絶品おやつ」になってしまった。そんなに美味しいものなら食べてみたいな、と言われ後悔したが、訂正する機会を逸した。だからハラ系は、ロミを見かけると必ず食べた。そして、世界のどこかに自分の話したような最高のロミがないかを探すのだった。

腹毛のまだら模様が消え、がやがやと騒がしい声が聞こえてくると、突然ひらけた場所に出た。臍だ。黄金の毛に覆われた広場には、すでにたくさんの、ハラ系だけでなく様々な系が死体を抱えて集まっていた。それぞれ、どうやってここまで来たのかについて話している。ハラ系はその熱気からすこし離れるようにして、広場の端の毛の近くに佇んだ。今日はめずらしい系がいた。インノウ系だ。睾丸がなくなってから、臍でインノウ系を見かけることはめっきり減っていた。インノウ系は前列のミミ系に話しかけた。

あなた、耳から来た。遠路はるばる、信心の深いこと。

するとミミ系がぴょんと跳ねた。ミミ系は話しかけてきた系がどこの者か知らなかったが、インノウ系の声の響きを気に入って、こう答えた。

ありがとう。ええ、実は遠出は初めてなんです。でもどうしても来たくって。だって故郷には一つの作品もないんですもの。だからお休みをいただいて、爪に乗ってまいりましたの。

休むは、よいこと。耳は、忙しい。

インノウ系が大きく頷くと、ミミ系は恥ずかしそうに身をよじった。耳には毛の長いところとうぶげのところがあるせいか、ミミ系は性格の個体差が大きい一族ではあるが、全体的に奥ゆかしい印象がある。ミミ系は大地から離れたりくっついたりしながらこう言った。

あの、わたくし、耳とはいえ奥まったところに住んでおりまして、とんと世間知らずで育ちましたの。そのせいか、お恥ずかしい限りなのですが、ここまで来るの、ほんとうに大冒険でした。なんとなく肉球が騒がしいとは思っていたのですけど、爪にさえ乗ればいいと、こと、、を甘く見ていたんですの。でも爪が毛の外に出たと思ったら突然、あの壁……嫌な壁、、、! ぎらと光る、おかしな壁が降りてきて!

金属! 爪切りだ、それは!

ご存知でいらっしゃるのね、そうです! さっと猫が手をひっこめたからよいものの、わたくし危うく切り離されるところだったそうなのよ、臍にたどり着く前に。

災難だった。人間と暮らす、悪くない。でも人間は、切る。切ると、なくなる。騒がしさが。

そうですわね。じつはわたくし、人間との暮らしは両手をあげての賛成派だったんですの。今の方が静かでよろしいわって。でも今回肝をつぶしましたでしょ、ですから人間との暮らしを厭う方々の気持ちが、すこしだけれどわかりましたわ……。

静けさ、難しい。騒がしさは、命。たくさんの命。あなたは無事、なにより。

ありがとう。でも、わたくしもう大丈夫よ。だって爪の先にいなければよろしいんですもの。爪の奥に乗ればいいのよ。簡単でしょう、ね? 一つ賢くなりました。

よかった。帰りも、爪か? 舌は、はやい。舌に乗る、一緒に行ける。

インノウ系の言葉に、ミミ系は硬い殻をぱかっと開けて喜びを示した。インノウ系も体を透明にしている。

ご親切に、お誘いありがとうございます。作品が飲み込まれないように、なるべく爪経由で帰りたいのですが、舌が早く来たら、舌経由で帰ろうかと思います。そのときはどうぞご一緒に!

そのときは!

ええ、お願いいたします。とにかく作品をもって耳まで帰らなくっちゃ。みなも喜ぶと思います。

そうこうするうちミミ系の番がきて、ミミ系は前に進み、自分の死体をヘソ系の前にうやうやしく差し出した。ヘソ系は広場中央のいと低きところ、原初の窪みに鎮座していた。ふにゃふにゃ揺れながら死体を受け取ると、ぱくりと食べた。それから体の上部にある二つの突起を白黒させ、筒状の作品を口からにゅるりと出した。筒は生えたての爪のように光り、表面は波打ち、この世のものとは思えぬほど緩慢な動きをした。そしてその動きにあわせ、小さく唸るような音を発した。作品を前に、感極まってミミ系は殻をぱかぱかさせた。ああ、ああ! なんてこと! 素晴らしいわ! ありがとうございます! インノウ系は自分の番が待ちきれないというふうに、体を火照らせ、死体を振り回していた。

そのときだった。遠くで絹を裂くような悲鳴がした。声のほうを向くと、長い毛の間を大きな柱の群れが迫りながら近づいてくる。誰かが叫んだ。

ブラッシングだ……!

それをきっかけに、その場にいた者が一斉に逃げ出した。ハラ系やセナカ系は慣れていたが、他の系は経験不足があだとなった。猫の奥からごろごろと地響きがして大地が震え、足をとられる。その間に、たくさんの毛をまとった柱の大群が、初動の遅れた系の持っていた死体や作品を、おそろしい勢いでからめとりながら去っていく。広場のあちこちで絶望の悲鳴があがった。わたしの死体が! わたしの! ここはだめだ、毛のあるほうへ逃げろ! 丈夫な毛にしがみつくんだ! そのときハラ系のわきを、先ほどのインノウ系がふわりと通り過ぎた。インノウ系は抜け毛に掴まっていた、それが自分の意思にそっているのか反しているのかわからない様子で、宙を舞っていた。口をひらいた。何かを言った。柱が起こした上昇気流に飲み込まれ、視界から消えた。柱は何度も、何度もやってきて、地上は阿鼻叫喚の様相を見せた。そのすべての悲鳴を凌駕する、猫の地鳴りと同じくらいの音量で、誰かが叫んだ。呪われろ、、、、人間、、! みなが驚き、いっせいに見た。――さっきのミミ系だった。殻と触手をわななかせていた。たった今手にしたばかりの作品と、手にしたばかりの友達を柱に奪われて。その悲しみと怒りはあまりに激しく、ブラッシングでなだらかにされた猫の毛のうち、ミミ系の頭上にある毛だけがピンと天に向かって立ち上がったほどだった。だがヘソ系も慣れたもので、神聖な窪みの中央の、さらに複雑な窪みから自分の死体を取り出すと、ぺろりと食べ、口をすぼめて、完璧な球体をひり出した。球体は光をまとい、ヘソ系のまわりをなめらかに転がった。あまりの奇跡に、その場にいた系たちはばたばたと失神していった。だがそんなことで左右されるほど、ミミ系の怒りはやわではなかった。ミミ系は叫んだ。猫よ、我らが大地よ、偉大なる獣よ! 人間に、二度と蘇らない本物の死、、、、を!――怨嗟の声は故郷の耳まで届き、すべてのミミ系が嘆きの声をあげた。猫よ、引き裂け、食らいつけ、血を啜れ! 本能を思い出せ! 猫よ、猫よ!

それで、きみの死体は大丈夫だったの。

ヒタイ系が聞くと、ああ、とハラ系はため息をついた。

じつは、ぼくのも持っていかれちゃったんだ。

それは残念だったね。

まあでも、しかたないし、別にいいよ。

あ、そう。

だって死体だよ。どうせまた死ぬじゃない。ぼくは乗り物には乗れないけれど、臍までなら歩いていけるし。かわいそうなのはミミ系とインノウ系だよ、ふたりとも遠くから来たのに……つらかっただろうな。

そうか、そうだね。わたしも聞いたよ、すごい嘆きだった。あれ以来、ミミ系はすっかり人間嫌いになって、窓の外の鳥の声が猫の耳に届くよう、がんばっているらしい。

誘ってるってこと?

そう、誘っている。まあ、わたしたち地上の者がいくら何かをしても、地下にはもっとたくさんの者が住んでいるし、そもそも猫に対してわたしたちはあまりにも小さいし、できることなんてたかが知れているけどね。

意味ないのかな。

猫の意思次第さ。

そういえば帰りに聞いたんだけど、セナカ系の若い子が、人間のハナ系と恋におちたんだって。

おや。額にもいるよ、人間のハナ系と恋におちた子が。

額にも? ハナ系はハナ系でも、人間のは感じ悪くないの。

まあまあだね。何度も会って話すうちに、意気投合したみたいだよ。体の中身を交換したり、互いの家に遊びに行ったりしている。

へええ。そんなことできるんだ。いいな。腹じゃ聞いたことない。

腹には来ないのかもしれないけれど、人間の鼻はしょっちゅう額や背中に近づいてくるんだ。会う回数が多ければ、恋におちるのも道理なんじゃないかな。

そういうものかな。回数なんて関係ないと思う、だってぼくはきみがすきだよ、きみと話すと、きみがこの腹ぜんぶと同じ大きさになったような気がするくらい……。それからきみが遠くに行くと、この腹はいやになるくらい広すぎるって思う、ぼくは。

それはわたしもだな。

え? あ、そうなの。おー。

おー、と繰り返しながら、ハラ系は今の会話を反芻していた。あまりに突然だったので、理解が追いついていなかった。けれど何度目かの反芻から、徐々に嬉しさがつのっていき、瞬間、腕を二十一本に増やして叫んだ。

ぼくが爪に乗れたなら、もっとたくさん会えるのに!

するとヒタイ系も、パチンという音をたてて言った。

わたしも傷にかためられていなければ、気軽に会いに行くな。猫が病めるときも、健やかなるときも。一緒に朝露を飲んで、散歩して、ロミをあつめて、なかでも一番出来のいい、美味しいロミをきみにあげる。前に話したグニも持っていこう。額と鼻の境に、いいグニの採れる毛があるんだ。グニはきみのすてきな腕にぴったりだし、お腹がすいたら食べてもいい。きみが代謝するたび、喜びに腕を増やすたび、新しいグニを採ってきてあげるよ。それからわたしたちは毎日話す。きみが死んだ朝もわたしが死んだ朝も話して、記憶を混ぜ合わせてさ。そうやって毎日生きて、猫が死ぬとき、一緒に永遠の死を得よう。

ヒタイ系の言葉に、ハラ系はめまいがするほど嬉しくなり、すべての腕をわななかせた。毎日話す、一緒に死ぬ、グニ、とつぶやいた。だがそんな幸福は得られないことに気づくと、のび広がっていた腕十八本は抜け落ちた。残った三本の腕をふるわせ、自分の体に巻きつけた。その様子があまりに哀れだったので、ヒタイ系は思わず体を反転させた。ヒタイ系は言った。

ねえきみ、ねえ、……きみは、腹はいつもなんとなく暗いって言ってたね。毛が長くて、外で何が起きているのかよくわからないって。でも時々、すこし明るくなるときがあるだろう?

ハラ系は、腕をいっそうきつく巻きつけながら答えた。

ある。

ヒタイ系は頷いた。

それは、猫が高い窓の枠で、背骨をたてて座っているときなんだ。そこで猫は、いつも外を眺めている。そのとき、額と腹は同じほうを向いているんだよ。

そうなの。

そう。だから明るく感じたときは、光るほうを見上げてごらん。わたしも同じように見上げる。そうすれば、わたしたちは同じほうを向いているから。

ハラ系は塊みたいになったあと、腕をゆるめて、ほどいた。腕がまた、やわらかく浮遊した。

わかった。

ヒタイ系はほっとして、体をもとに戻した。もっと気の利いた言葉を言ってハラ系の心に近づきたかったが、何も思いつかなかった。ハラ系の腕のゆらめきを心に焼きつけながら、ヒタイ系はくりかえした。

ねえ。きっとそうしてくれよ。

うん。そうする。

ねえ、

そこでふたりはまた離ればなれになった。それから八十日間、猫は額と腹を近づけなかった。八十一日目と八十二日目はひどい台風で、猫は雨の音に興奮し、走り、風の音が聞こえない場所で寝た。そして八十三日目は、からりと晴れた。

日が昇ると猫はいつものように伸びた。毎朝やかましいアラームが鳴っていたのに、その日は鳴らなかった。人間が起きなかったので、猫も寝直し、静けさを満喫した。しばらくして、人間が跳ね起きた。あー洗濯できなかった、こんなに天気がいいのに! 猫は人間に食べ物を催促し、水を飲んだ。猫がそうしている間、人間はあわただしく動きまわっていた。それから、じゃあ、留守番よろしくね!と言うと、鞄をつかんで外に出た。鍵のかかる音がした。猫はテーブルに飛び乗り、ゆうゆうと歩いた。ボールペンを床に落とした。音がいつもより響かなかった。猫は首をのばし、五感を研ぎ澄ました。猫に住むすべての者がざわめいていた。あきらかに、いつもと何かが違っていた。

窓だ。

ベランダの窓が開きっぱなしだった。しかもいつもよりも広く。

開かれた窓の前に、猫は座った。自分の体であれば通れる幅であることに、猫は気づいていた。猫は耳を前に向けて音を聞いた。カーテンの衣擦れの音、アスファルトに靴を引きずりながら歩く音や隣の家のテレビの音、すこし遠くの学校のチャイム。車。人間同士の会話。耳にはそういう音が大量に流れ込んできていたが、猫はそれら人間の音に埋もれた、遠くから聞こえる小さな音に耳を傾けていた。空のあちら側からシャーワシャーワ、向こう側からチュチュチュチュチュ、前方の遠くからホーホー、ホホーと鳴き交わす鳥の声。そして草の、木の、葉が互いに擦れあう音。

猫は喉からミャアーと鳴いた。振り返り、部屋を歩き回り、腹の底からミュオオオーと鳴いた。人間はさっき出ていったのに、人間を呼んでいた。こんなふうに呼べば来るはずだった。どうしたの、かわいい声を出して、何か欲しいものあるの。そんな声とともにやってくるはずだった。そして、外はだめなの、感染症がね、などと言いながら撫でてくるはずだった。だがその日は来なかった。ただベランダから、風が吹いていた。

猫は別の高い窓枠に飛び乗り、背骨をたてて座った。ガラス越しの光を受けて、額と腹の毛が光っていた。そこは中庭を一望できる窓だった。初めてそこに座ったとき、鳥たちがヂューイヂューイと警戒した。だがすぐに鳴き交わした。あの猫は大丈夫、窓の向こうから来ない。あの猫は人間。猫は鳥たちが何を話しているのか知っていた。それから鳥が中庭の端にそびえる高い木に集まること、その木が部屋のベランダ近くまで枝をのばしていることも知っていた。猫はずっと知っていたのだ。

ニャー、と猫は自分のために鳴いた。さっと振り返り、床に飛び降りた。そしてもう一度、ベランダの前に音もなく向かった。今度は床に腰を落ち着かせなかった。四つの足で立ったまま、ベランダをじっと見た。自分や人間の眠る布団が干してあった。空は青く、窓のサッシが太陽の光をはねかえし、ベランダ床のアスファルトの白い細かな砂はことごとく光っていた。

猫の上に住む者たちは息をひそめていた。何かが大きく変わるかもしれないことを、みなが感じていた。猫の目の前で、ほこりのような虫が浮かぶように飛んでいた。猫が目で追っている間に、虫は去った。猫はふたたび視線をベランダの床に戻した。それから静かに、窓の外に手をのばした。

一つの肉球がアスファルトをとらえた。瞬間、わっと猫の上で歓声が起き、同時にああーと溜め息も漏れた。また一つ、もう一つ、そしてすべての肉球が、新しい地を踏んだ。体ごとかがむような姿勢で、鼻がアスファルトのにおいを嗅いだ。耳はあちこちに向きを変え、ひげはすべて下を向き、額は風を受けていた。空を見上げた。鼻を鳴らした。しっぽを水平にしたまま、ベランダの端の、葉擦れの音がする方へ、まっすぐに向かっていった。

猫の上の者たちはもう、思ったことを口にすることをためらわなかった。大気をただよう小さい者たちと交流をはじめた。猫の上はひじょうな騒がしさで、そのせいなのか、遠くの系の言葉も聞こえた。猫の上の者たちの声をよそに、猫は、この家に来る前は自由にできていたこと、そしてこの家に来てからずっと考えていたことを、実行しようとしていた。――ベランダの端で、猫はぴたりと止まった。柵の間から上半身を出し、さらさらと揺れる葉の間に見え隠れする、しっかりとした枝をまっすぐに見た。先日植木屋が来たせいで、木の枝は全体的に短くなっていた。でも猫は枝だけを見た。他のものは見なかった。

猫は体を沈めた。自らの肉球の弾力を確かめ、筋肉の動きをシミュレーションした。鼻息を荒くし、すべてのヒゲを集中させた。肩甲骨と背骨と四つの足のしなりを確認し、後ろ脚の肉球を強く、強く踏みしめると、枝に向かって、勢いよくベランダを蹴った。

宙に浮いたその瞬間、ハナ系が雄叫びをした。ヒゲ系はすべての触手を振った。ミミ系は歌い、セナカ系は濃密な風に身をまかせていた。着地できるのか?!とツメ系が叫んだ。あの枝、肉球と同じくらいの細さだぞ! するとミミ系が、爪を切らせなかったから大丈夫よ!と叫んだ。爪でひっかかることができるわ! 額の傷にいる者は、はるか昔、まだ猫がちびすけだったころ、餌食にしようと飛んできたカラスに立ち向かい、跳びあがってカラスの脚から血飛沫を噴き出させてやったときのことを思い出していた。カラスの爪が額をかすめ、それは猫にも浅くない傷を残した。だが目を爛々と光らせた、いさましいちび猫の鋭利な爪に驚いたカラスは、一目散に逃げ飛んだ。小さくなっていく黒い鳥の影を、猫は鼻息を荒くしながらいつまでも見ていた。……ヒタイ系は、裂けた額から猫の体の中に潜り込んだときのことを思い出していた。猫の中にいた者たちとの出会いを。あの時浴びた、光の海を。同じころ、ハラ系は、久しく忘れていた土のにおいを一身に受けて、うっとりとしていた。たくさんの客の生命のにおい。頭上の腹毛の間から、葉に反射した太陽の光が漏れていた。ハラ系は光のするほうをしっかりと見ていた。こんな眩い光に溺れたのは初めてだった。猫の頭の中で行き交う光もこんなふうなのだろうかと思った。きっとそうだ。だって今、生きてるって感じがするもの。

猫は枝に着地できるだろうか。鳥を捕まえるだろうか、庭を転げまわるだろうか。庭の外に向かうだろうか、人間のもとに帰るだろうか。そんなことは、猫の上にいる者も、中にいる者も、猫自身でさえもわからなかった。ただ猫は、手足をいっぱいにのばし、両目の瞳孔を糸のように細くして、空中を飛んでいた。だからきっと、中庭の木の、葉っぱの上に住む者たちからは見えるはずだった。木の上を飛ぶ猫の、見開かれた二つの目にたたえられた、雨上がりの草原の光が。

 

 

 

 

 

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冬乃くじ

2019年、2020年の第一回・第二回ブンゲイファイトクラブで2年連続本戦出場し、2022年の第四回ブンゲイファイトクラブで見事に優勝を果たした、ブンゲイファイトクラブの申し子。Kaguya Planetに逆行する都市を舞台にしたSF短編小説「国破れて在りしもの」(2022年)を寄稿し、そのセンス・オブ・ワンダーで話題となった。フラッシュフィクション週刊誌『CALL MAGAZINE』にSF掌編小説「星降り」(2023年)を寄稿。noteで漫画「カバンたんとフトンたん」も発表したり、池澤春菜監修『現代SF小説ガイドブック 可能性の文学』(ele-king books)で作家紹介を執筆するなど多彩な魅力を持つ書き手。
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