「オシロイバナより」
船体の震えが足を引っ掛けているバーから伝わる。分厚い壁の向こうでカーゴハッチが開いた振動だ。
カーゴ内のカメラから送られてくる映像を息を詰めて注視する。探査機が固定具を外され、ぬるりと虚空へ向かって滑り出す。金の断熱材に包まれた探査機が視界から離れ、離れ、離れ、小指ほどのサイズになったとき、チカチカとスラスターが瞬き、カメラからふっと消える。
モニターの表示を切り替える。探査機の仮想的な相対位置情報と現在の軌道、そして予定軌道が平面図として表示される。
探査船を示すアイコンが本船から離れて地球へと近づき始めた。イオンエンジンが始動し、減速を開始したのだ。
探査機は地球へ向かって加速しながら落下し、地球を一周して月へ向かう。
「よし、軌道誤差許容範囲内。探査機発射完了」
「ごくろうさん。次はなんだったっけ?」
肩越しにモニターを覗き込んでいた船長が声を掛けてくる。
「しばらくはなにも。三時間後くらいですかね、無重力状態での走光性微生物の実験が……」
船長は顔をしかめた。
「そうか……そうだったな。全く、こんなに仕事が無いのはいつぶりだ?」
わたしは肩をすくめる。あの探査機射出ミッションが、9割以上のミッションを押しのけ、押し出し、すかすかにしてしまったのだ。あのばかでかい探査機を乗せて宇宙へ飛ばすためだった。
この件で宇宙局の被った損害がどれほどか。金銭的損害だけじゃない。信用にも傷がついただろう。
「なあ、”アレ”、おまえは一体何だと思う?」
「何って……ただの小惑星ですよ、きっと」
発見は偶然だった。幸運と言っても良い。系外惑星探査望遠鏡のデータを発掘していた研究者が、たまたまそれを発見した。発見というか、データの欠落に気づいたのだ。
ある領域の恒星が少しずつタイミングをずらして減光し、すぐに元に戻っていた。
光を放たない天体が、星の光を遮っている。そう考えた研究者はそこに光学望遠鏡を向け、何も見つからなかったので続いて赤外線望遠鏡を向け、ようやくその天体の姿を捉えた。
反射率ほぼゼロ、大きさ1km〜10km、メインベルトを横切る長い楕円軌道、おそらく炭素質コンドライトの、小惑星だ。
大きさにやたら幅があるのは、反射率が極端に低いせいだ。おかげでかなり地球に接近しているのに未だに正確な数値が出せてない。反射率が低いというのはつまり真っ黒だということだ。”オシロイバナの種”というあだ名はそこから付けられた。
「そんなわけ無いだろう。あんな小惑星、いままで見たことも聞いたこともない」
天文学者でもある船長が、大きく腕を振ってわたしの答えを否定する。
「知られてなかったからって無いってことにはならないでしょう。あれだけ見つかりにくいんです、実はメインベルトにはあんな小惑星がゴロゴロあるのかも」
船長が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「自分でもそんなこと、信じてないだろ」
”オシロイバナの種”は地球と交差する軌道を取っていた。精密な観測の結果、そいつが月の軌道の内側まで入り込みはするものの、地球に落ちる確率は0.1%以下であることが分かった。
奇妙な性質を持つ地球近傍天体。宇宙局が興味を持つには十分な材料だったが、貴重なロケットの予定をジャックして探査機を飛ばすほどの動機にはなり得ない。
発見から三日後、似た反射率、似た軌道、似た大きさの別の天体が発見された。さらに重要なことに、そいつはオシロイバナの種の三ヶ月後、地球とニアミスする軌道を取っていた。
そのあとの一週間で、さらに同様の5つの天体が発見された。そのすべてが地球とニアミスすると判明した。
偶然ではあり得なかった。宇宙局はすべての予定を放り投げ、別のミッションに使う予定だった探査機をプログラミングしなおし、わたしたちの乗るロケットに詰め込んだ。
発見から二ヶ月経った現在、その数は20を超えている。
”オシロイバナの種”は地球には落ちない。でも他のものは? 再び交差する時は? 天体は長い時間が経てば経つほど、さまざまな影響によって軌道が変わる。もし一つでも落ちれば、人類は滅亡する可能性が十分にあった。たとえ大きさの見積もりが最小値であってもだ。
モニターに目をやる。探査機はゆっくりと地球を回っている。これから探査機は月と地球でスイングバイを合計三度行い、”オシロイバナの種”に追いつけるだけの加速を行って、最終的にはこの宇宙船と逆行する地球軌道に入り、地球をかすめる”オシロイバナの種”を目指す予定だ。
宇宙局は人類の未来をこの探査機に賭けた。つまりそういうことだった。
§
「天体の軌道を変える方法?」
「核爆弾を埋め込んで爆発させる」
「ロケットを取り付ける」
「太陽帆は?」
「他の天体をぶつけよう」
「その天体をどうやって動かすんだよ」
「そりゃ、また別の天体をぶつけるんだ」
「レーザーで一端を蒸発させる」
「全て同じだ。その方法は全て、同じ方法で軌道を変えている。つまり全て、同じ問題がある」
「何らかの方法でエネルギーを与える」
「そう」
「エネルギー保存則」
「そのとおり」
「つまり与えるエネルギーが」
「足りない」
「いや、エネルギーはある。ただ、それほど利用出来ないだけだ」
「太陽は? エネルギーを事実上無限に供給している」
「太陽帆?」
「時間」
「サイズ」
「耐久性」
「いや、時間は問題じゃない」
「それは?」
「解決策だよ。光学素子だ」
「これが?」
「自己増殖型ナノマシン。低重力、真空、特定の組成の岩の上でのみ増殖する」
「おいおい」
「ここでは増殖しない。設計レベルで増殖出来ない。不可能なんだ」
「エネルギーは……」
「太陽光」
「微小光共振器?」
「こいつは光を最大1時間閉じ込められる。そして任意のタイミングで放出出来る」
「それで?」
「太陽帆は必要ない。天体は」
「そうか、赤外線」
「そう、受け取った太陽光を」
「完全黒体」
「それだけじゃない。こいつらは自分たちを再配置し、回路を形成出来る」
「演算回路を」
「太陽光で計算するのか」
「軌道を変えられる」
「それで」
「それで?」
「ドミノ倒しさ」
§
二週間後、探査機が”オシロイバナの種”に最接近するときが迫っていた。
探査機とのリンクを確立。天測および三角測量による位置情報の確定。問題ない。機能チェック。いくつかのエラー。仕方がない、突貫工事だった。
探査機の光学カメラから映像が届く。きらめく地球。宇宙の闇。違う。壁だ。真っ黒な壁。壁がカメラの視界を圧し、やがてすべてを飲み込むように画面が全て闇で塗りつぶされる。何も見えない。息を飲む。ここまでとは。反射率0。完全な黒。探査機が観測したデータを送ってくる。光学映像だけじゃない、赤外線、レーダー、熱、大気、重力、磁力、放射線。解釈しなければ全く意味のわからないデータの奔流にちらりと目を向け、
「……おい、なんだこれ」
船長がつぶやく。光学映像に目を戻す。
見ているものが信じられなかった。
§
「意味はあるのか?」
「つまり、われわれはその時」
「二千万年後」
「そう、居ないだろうね」
「問題はこれだけじゃない」
「二酸化炭素が枯渇する」
「水」
「磁気圏の消滅」
「どれもが地球の生命を滅ぼす」
「ああ、だが今出来るのは」
「これだけ」
「コストも」
「ロケットで適当な小惑星に打ち込むだけだ」
「でも意味は?」
「意味は」
「意味は?」
§
それはメッセージだった。
”オシロイバナの種”の地表が光を放っていた。様々な色に輝き図形を描いている。意味のあるメッセージを伝えている。
花。一瞬そう思った。放射状に花弁を広げた、菊のような花。だが違う。中心で花弁が交差している。ボタンで止められたように、中心に赤い円がある。花弁を横切るように、いくつもの同心円もあった。
ふと気づく。これは太陽系の模式図だ。花弁は交差しながら楕円軌道を巡る一つ一つのオシロイバナの種。中心は太陽で、同心円は惑星軌道だ。
同心円の一つが特別なのはすぐに分かった。その同心円は水色の帯で覆われ、同心円の線上にだけ青い丸がくっついて、ゆっくりと線の上を動いている。
その丸が花弁を通るとき、花弁の上の黒点も丸に近づく。隣の花弁と交差するタイミングで、黒点、つまりオシロイバナの種が丸をかすめていった。
「スイングバイ…」
船長が呟く。スイングバイ? 確かにスイングバイをしているように見える。だけど意味があるとは思えなかった。なにせ種はわずかに軌道を変えながら太陽をめぐり、また地球をかすめる軌道に戻ってくる。スイングバイは軌道を変更し、加速あるいは減速するためのもので……
「! そうか! エネルギー保存則! こいつらは地球でスイングバイしてるんじゃない、逆だ!」
スイングバイで軌道を変え、自分の天体を加速したり減速したりするということはつまり、使われる天体自体が減速あるいは加速されるということだ。魔法のようにエネルギーが湧いてきたりはしない。エネルギーは一定で、物体の間を行き来するだけだ。
「こいつらは、地球を動かしてるんだ……!」
なぜ? それもすぐに分かった。水色の帯の内側ぎりぎりにあった地球が、時間が経つごとに少しずつ外側の軌道へと移動していたからだ。
「ハビタブルゾーン……」
中心の赤い丸、つまり太陽が輝きを増し、水色の帯がゆらめいて少しずつ外側へ広がる。それに合わせるように、地球の軌道も少しずつ外側へ移動する。
笑い声が船内に響いた。船長が立てていると思ったけど、笑っていたのは自分だった。いや、船長も笑っている。わたしたちは顔を合わせ、笑いながら抱き合った。
§
「必要ない」
「意味など」
「われわれは未来を予測出来る」
「明日を憂う能力がある」
「対応する手段がある」
「なら」
「ああ」