アザラシの子どもは生まれてから三日間へその緒をつけたまま泳ぐ | VG+ (バゴプラ)

アザラシの子どもは生まれてから三日間へその緒をつけたまま泳ぐ

第二回かぐやSFコンテスト大賞受賞作品

「アザラシの子どもは生まれてから三日間へその緒をつけたまま泳ぐ」

君たちはエッセンシャルワーカーだとオンライン会議で会長が言った。

会社の食料自給率を上げて国に貢献するといういつもの演説だ。頭が悪いのか愛国者なのかよくわからない。わかるのは、この非常時に普段通りなのは会長だけだったことだ。専務と社長はゴール間近の短距離ランナーのように先を争って高飛びした。国内にも高い場所はあるが地震が起きたらどうなるかわからない。海外なら地震もない。実際、すでに富裕層は硬い地盤に建てられた高層タワーに引っ越したそうだ。ニュースでそう言ってた。世界は高い場所と低い場所に分断されたのだと。世界と違い、社内では三派に別れていた派閥が一本化した。三本の矢が集まれば愚行も正当化され、スポットライトと拍手喝采を浴びる。

会長が話し終えると、それほど情熱的ではない拍手がぱらぱらと起こった。おれも拍手した。隣のイーヨーも手をたたいている。身近に見える範囲ではそれだけだったので、どこからか録音された拍手の音が流れているのかもしれない。プロジェクトリーダーが壇上に上がると、マスクをしたまま話し始めた。まずは肌のチェックだ。塗り薬による成果は徐々に出始めていて、ぱっと見、すごく脂性の人に見えるタイプはぷるぷるした薄い膜が顔や身体を覆っている。おれもそうだ。タオルで強くこすると拭きとれるが、だんだん難しくなってきている。塗り薬は身体の六十パーセントほどに塗るよう推奨されていた。多くは八十パーセントまで拡大している。塗りすぎると服がぴたっとくっつく。服の繊維が膜を吸うとやっかいで肌が焼けるように熱くなる。軽度の火傷に近い症状で、数日はひりひりする。だから六割に留めるのは賢いやり方だが、海で酸素を取りこむ表面積は広いほど安心だ。そこに葛藤がある。

「手指にはあまり塗らないように」プロジェクトリーダーは言った。「手の器用さは残しておかねば海中での作業効率が落ちるから。それから近日中に制服は下着も含めてビニール製になる」

喜べよお前ら、という口調だ。次に眼球の状態について発表するよう指示した。発表はおれからだ。今朝は目じりの近く白目の部分に透明な塊があった。ビーズほどの大きさで、指先でつつくと形を変える、ぶよぶよとしたゼリーのような手触りだ。眼球の膜に水が溜まっているようで、目を閉じると瞼に違和感があり、まばたきするたびにそれが気になる。みなもおれと同じようなものだった。発表を聞き終えるとリーダーは、水ぶくれのようなそれは結膜浮腫だと説明した。その説明はもう百万回くらい聞いたけれど誰もそうは言わなかった。

「君たちの目の状態は細菌性の特殊な結膜炎に似た症状で、特に心配することはない。放置しておけば水分は眼球に吸収される。で、吸収されなくなってからが本番だ」

本番がどうなるのかの説明はなかった。あとはそれぞれのグループで、最近の悩みについて時間までセッションするようリーダーが命じた。どんな悩みが多いかをまとめ、グループごとに発表してもらうと続ける。

おれたちのグループではエルシーが真っ先に口を開いた。まず私の不満を話すねと口火を切ると、子どもが自分の姿を怖がってオンラインで会話してくれない、それは夫も同じなのだと話した。

「以前の同僚に話しても口を濁すし、またオンラインで話そうと言っても連絡が途絶える。私はね、誰かと話がしたい、ここにいる人ではなくて」

どうしてここの人ではいけないのかエルシーは説明しなかったし、おれたちも聞かなかった。エルシーの気持ちはよくわかる。おれも息子と会いたかった。しかし面会は契約で禁じられていた。オンラインでもここ一年は会ってない。おれの外見を怖がって会いたがらないのだと妻は説明した。妻だったら息子を叱るべきだ、もっと息子におれを尊敬させるべきだと話したら、横暴だとなじられた。いつもそばにいないくせに教育に口出ししないでと泣いた。それっきり連絡はない。こちらから連絡しても拒否されてしまう。おれは家族のために仕事を引き受けたのに。もちろん、おれが十人に一人の遺伝子を保有していたからというのはあったが。

「人類の十人に一人が保有する遺伝子というのは欺瞞だ」ミアが口を開いた。「だって、ここにいるのは富裕層以外の人ばかりじゃないか」

ミアは長髪を耳にかけた。ミアだけはビニールの手袋をしている。紙の本を読むのに必要だからだ。以前は八百比丘尼と小川未明の書簡集を読んでいた。最近はグローバル・ウォーミングと人魚遺伝子の発見は何を意味するのかという学術系の本を読んでいる。おれの知り合いで本を読むのはミアだけだ。おれも含め、他の連中は本を見るだけで吐き気を催す。なんだって文字ばかり書いてあるものを読まなきゃいけない? そうすれば魂が天国にいけるのか? そう聞くとミアは笑って、くそ天国に行かないために読むんだと答えた。

「悩みについて話すんだろ。海は暗くて色がないのが嫌だ」ミアは口を尖らせた。「なあ、ここにいるのは金に困ってるやつばかりだ。リーダーを見ろよ。こんな湿気たとこにしゃれたスーツでめかしこんでる。金に余裕があるからだ」

「でもリーダーは遺伝子が適合してないって言ってた」

「エルシー、ぼくだって金があればそう言うよ。汚れ仕事は貧乏人に任せてね。十人に一人が保有する遺伝子の持ち主が、みんな金のない奴らばかりって確率的にあり得ないだろう。そんなもん、資本家の夢の世界にしかない。そしていいか、ここは資本家にとって夢の世界なんだ。今も昔もな」

「それでどうしたい? ミア、あんたはそう考えた。それで?」

「銀行強盗しよう。分け前は均等にする。幸い、ぼくらは力が強い」

「筋力はアップしているけど金庫を壊せるほどじゃない。それに」エルシーは顔をゆがめた。「銀行にはもう金なんてない。食料が詰まってるんだって」

「食料ってどんな」

「マイクロプラスチックを食ってない魚」

「胃袋切り落とせよ」

おれたちは銀行には行かなかった。その後もカビだらけの海沿いのホテルで暮らした。一日に五回か六回クリームを塗り、契約通りウェイトトレーニングをこなし、怪しげな目薬をさしてから海で泳ぎ、家族と連絡をとろうとしては失望した。離婚するものも何人かいた。おれたちの皮膚を覆う膜は肌の色がくすんで見えるほど分厚くなった。結膜浮腫はある時を境に、水分を吸収されて消えたりせず、成長し続るようになった。どんどん大きくなり、今では眼球全体を覆っている。そのため目は少しだけ飛び出して見えた。瞼を閉じるのは可能だが違和感が強くて落ち着かない。気を抜くと瞬きをしないで長時間過ごしてしまう。当たり前だが眼球は乾かない。瞬きしたいという欲求はわかなかった。水中では物がよく見えた。明るく感じた。これまではどんなに頑張っても深海に行けば行くほど暗くなったのに。海が明るくなると泳ぐのが楽しくなった。仲間との関係性は濃くなり、以前よりも噂話が飛び交うようになった。例えばクリームの成分について。クリームの主成分は深海のチューブワームだとも、人魚のレバーをすりつぶしたものだとも言われている。おれたちは会社の食料自給率を高めるためではなく、海底資源を探すための捨て駒だという噂もあちこちでささやかれていた。会長が食い物のために金を使うわけがないというのが根拠だった。ぼくはミアからその噂を聞いた。エルシーもミアから聞いたと言う。ミアは誰から聞いたのか言わなかった。もうミアは本を読まなくなっていた。そのころのミアは色に夢中だった。

「ある宇宙飛行士がこう言った」ミアは目を輝かせる。「宇宙では全てが暗黒だった。そこに色はなかった。孤独を感じた。しかし、地球に目をやると存在するすべての色があったんだ、とね。今はぼくも同じ気分だ。あそこには全ての色がある」

「おれは色は感じないな。明るくはなったけど」

「これを使え」

ミアが教えてくれたのは映像に色をつけるアプリだった。携帯端末にインストールすれば、モノクロに色がつく。映像はインターネットに蓄積されたデータによって着色される。《ちくたく》というそのアプリは灰色の映像と着色された映像を交互に映し出す。画面を見つめてトレーニングをすると、今度は脳が勝手に着色してくれるようになる。

「盲点は目に見えないだろう。脳が勝手に見えている映像を補正してくれる」

「難しそうだ」

「寝る前に五分でいい。変化した目に脳が慣れるタイミングで騙せば、まず夢が着色される」

四週間ほどで深海に色がついた。アプリは流行り病のようにコミュニティに広まった。競争心が色の獲得に拍車をかけた。海の底に色がつけばつくほど、地上の生活は味気なくなっていった。地上はどんよりとした膜に覆われていてクリアではないし、あちこちに緑色のカビが生えている。家族とは連絡が取れない。金があれば問題ないのだろう。妻も息子も金を欲している。あるいは、以前のおれの外見を。

魂は置き去りにされた。

たとえばコップにコインを入れる。一枚で水はこぼれない。二枚でも同様だ。三枚、四枚と続けても表面張力でこぼれないが、五枚目でついにこぼれる。大事なのは五枚目のコインと一枚目のコインには違いがないことだ。おれたちの脱走も似たようなところがあった。それまでと違いはない。ただ表面張力が限界に達した。

最初に脱走したのはミアではなかった。おれでもエルシーでもイーヨーでもない。そいつは規定の海域を抜けまっしぐらに外洋へと飛び出した。素晴らしいスピードだった。すぐに全身が暗がりに溶けた。

ミアが続いた。エルシーも。

おれも力の限り泳いだ。みんなの笑い声が聞こえてくるようだった。

後ろを振り返る。

陸地が影になって揺らめいていた。前を見る。存在する全ての色がそこにあった。魂の求めに応じ、手を伸ばして水をかいた。思い切りキックした。

 

 

 

 

吉美駿一郎

どうも聞いたところによると、祖父は商売上手だったんですが「男は小金を持つと浮気するから」と儲けを寺に寄付していたそうです。病棟の清掃をしながら、内外の小説を読み、どうすればよい作品が書けるか手を動かしつつ考えています。西崎憲さんが主催する原稿用紙六枚で殴りあう大会、ブンゲイファイトクラブ1および2において本選に出場しました。犬と街灯さんによるエッセイアンソロジー『みんなの美術館』にも参加してます。

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