【連載】Kaguya Book Review第5回 カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』 | VG+ (バゴプラ)

【連載】Kaguya Book Review第5回 カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』

Kaguya Book Review、第5回は『大仏ホテルの幽霊』

月に一冊ずつ、新刊・既刊問わず素敵な翻訳作品を紹介するKaguya Book Review。第5回は、カン・ファギル著・小山内園子訳の重層的なゴシック小説『大仏ホテルの幽霊』をご紹介します。

カン・ファギル/小山内園子訳『大仏ホテルの幽霊』(白水社、2023/11発売、本体価格2,400円+税)

物語のらせんに巻き込まれて

三部構成のこの物語は迂遠なところから始まる。語り手は、『ニコラ幼稚園』という小説の著者である「私」。自著の中では最もユーモラスで明るい作品だというが、幼少時のある事件以来、怨恨や悪意の声に苛まれつづけている「私」はこのニコラ幼稚園という場所を邪悪な場所として書くつもりだった。現実世界でも幼稚園受験に落ちた「私」を近所の幼稚園に通わせることに、母親は乗り気でなかったという。なぜなら近所に「ペテン師」が住んでいたから。朝鮮王朝最後の皇帝・高宗の側室の娘・文鎔翁主を名乗るその「ペテン師」(実はこの「ペテン師」もふたりいる)と母親とのエピソードには、親友「ボエおばさん」が登場する。「私」の母親ととても仲良しだったボエおばさんは、自らの母親であるパク・ジウンとは仲が悪かった。中国系であったボエおばさんの父、つまりパク・ジウンの最初の夫はすでに亡く、経営していた下宿屋は上手くいかず、彼女は娘と新しい夫を連れて仁川に帰っていった。その、ボエおばさんの亡父ルェ・イハンの一族が、レストラン「中華楼」のオーナーとして所有していたのが、「大仏(テブル)ホテル」だ。
小説の取材でパク・ジウンの話を聞く「私」は、ボエおばさんの息子であり自身の恋人のジンに連れられて仁川を訪れる。今では廃墟と化したホテルの立入禁止柵の中に、「私」はひととき、緑のジャケットを着た女性を幻視する。ジンに聞くと、1955年に大仏ホテルで亡くなった従業員の女性が、ひとりいるという。そこで物語の語り手が作家の「私」から大仏ホテルに住み込みで働く「あたし」に交代し、時系列が20世紀前半へと巻き戻る……。

……こんなふうに、家系図と語りの入れ子を右往左往しながら『大仏ホテルの幽霊』は幕を開ける。だからタイトルの「大仏ホテル」が出てくるまでにかなりかかるし、読者も「ええと、この人は誰だっけ……」とページを行きつ戻りつしながら読み進めることになる。のっけから、物語の中で迷子になりそうな作品なのだ。

「恨」の張り巡らされたゴシック小説

それが、大仏ホテルで働くコ・ヨンジュと「あたし」(チ・ヨンファン)、上記のルェ・イハンの3人が登場し、実在する作家のシャーリイ・ジャクスン(!)がこのホテルにチェックインしてくるところから、アクセルが一気に全開になる。「あたし」は爆撃で両親を亡くし、本人も命からがら故郷の月尾島(朝鮮戦争の激戦地)を逃れてきている。また、聡明でしたたかなヨンジュはアメリカに渡る夢を打ち砕かれ、「中華楼」を手放し渡米した中国人一族の末裔ルェ・イハンは差別されているマイノリティだし、シャーリイは夫から適切に扱ってもらえず、孤独を抱える。この4人が、第二部の主な登場人物だ。
緑のジャケットがトレードマークで英語の堪能なヨンジュがシャーリイの世話を引き受け、「あたし」はシャーリイにヨンジュを取られてしまったように感じて寂しくなりつつも、彼女のサポートをしながら平穏な日々を過ごす。しかしそのうち、ヨンジュは悪夢にうなされるようになって……。おんぼろホテルにひっそり集まった4人の束の間の平穏は、やがて内側から破られることとなる。

客足の途絶えたホテルの呪われた階段、『嵐が丘』について語り合う女性たち、屋敷に囚われた幽霊と部屋でひとりきり物語の断片を書き続けるシャーリイ……ゴシック小説好きにはたまらないシーンや描写が次々と現れるし、シャーリイ・ジャクスン『丘の屋敷』『ずっとお城で暮らしてる』などへのオマージュももちろんある。
朝鮮半島に住む、あるいはルーツを持つ人たちに独特の「恨(ハン)」の感情(悲しみや憧れの気持ちすら内包する悔しさや恨めしさの気持ち)が網の目のように張り巡らされて、仲良くできなかった母と娘、「あの子みたいになりたい」と思っていた女友だち、生まれたときから失われていた故郷への気持ち、かずかずの、上手く扱えなかった愛が溢れていく第三部は圧巻だ。他人の人生なんて断片的なもので、だけどその断片、かけらが、自分の人生に深く深く刺さり込んでしまうことはある。

ホテルという舞台装置

それにしても、ホテルという施設はどうしてこんなに魅力的なのだろう。ホテルを舞台にした作品はどのジャンルにもあるし、おんぼろホテル、廃墟ホテルも同じくらいの頻度で登場する。
誰のものにもならない豪華で居心地のよい内装、毎日別の手によってつけられては消される部屋の明かり。パリッとしたシーツにくるまったときの独特の孤独と、チェックアウトするときのかすかな寂しさ。かつてたくさんの人がいて、今は誰も見向きもしなくなった、うつろなホール。人々がすれ違って、それぞれのストーリーが交錯していくホテルという建物は、たくさんの声が真実も虚構も合わさって響きあう『大仏ホテルの幽霊』にぴったりの舞台だ(もちろん、ゴシック的モチーフであることも外しちゃいけない!)。そして、移ろい続けるホテルで繰り広げられる物語のなかで、「あたし」の「ずっと、こうやって暮らせたらいいな」という甘い願望が切ない。

かれらの声がホテルに響き渡る。遠い昔、人であふれかえっていた大きなホール。熱い鶏ガラスープとかぐわしい香菜の香りが充満した、古い煉瓦造りの建物。かれらの声はピアノの音色のように、建物の中をいっぱいに満たす。そしてどこからかまた、別の声がする。過ぎ去った時間、歴史。そこを通過した人々の記憶として残り、建物そのものとなったすべての者たちの声。そして、その物語を想像する人々の声。

ホテルの螺旋階段を昇ったり降りたりするうちに自分がどこにいるのかわからなくなり、無心に昇りきった先の屋上に美しい光景が広がるような、一気読み必至の長編だ。

 

白水社
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堀川夢

1993年北海道出身。編集者、ライター。得意分野は海外文学。「岸谷薄荷」名義で翻訳・創作も行なう。フェミニスト。

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