【連載】Kaguya Book Review 第4回 ベンハミン・ラバトゥッツ『恐るべき緑』 | VG+ (バゴプラ)

【連載】Kaguya Book Review 第4回 ベンハミン・ラバトゥッツ『恐るべき緑』

Kaguya Book Review、第4回は『恐るべき緑』

月に一冊ずつ、新刊・既刊問わず素敵な翻訳作品を紹介するKaguya Book Review。第4回はベンハミン・ラバトゥッツ著・松本健二訳の科学史にまつわる短編集『恐るべき緑』をご紹介します。

ベンハミン・ラバトゥッツ/松本健二訳『恐るべき緑』(白水社、2024/2発売、本体価格2,500円+税)

知らなかったころにはもう戻れない

知らなかった頃には戻れない、というのは、なんと恐ろしいことだろう。

チリの作家ベンハミン・ラヴァトゥッツによる短編集『恐るべき緑』に登場するのは、全く新しい法則や物質を発見し、西洋の科学史に輝かしい功績を残した実在の科学者たち。著者はかれらを物語の主人公に据え、その名を歴史に残すことになった発見前夜の興奮や逡巡、絶望を、静かな高揚感とともに描く。

空気中から窒素を取り出し、第二次世界大戦におけるガス兵器の開発に大いに寄与した化学者のハーバー。ブラックホールを理論上見つけた天文学者シュヴァルツシルト。あまりに斬新な理論、そして流浪と隠遁の生活スタイルから変人扱いされた天才数学者グロタンティークと、彼を慕い、のちに数学史上の難問「abc予想」を証明する望月新一。ミクロの世界に目を向け、量子力学の端緒をひらいた物理学者たち。

この数式を解いてしまえば、あの天体を見つけてしまえば、世界のあり方は決定的にあきらかになり、あるいは全く予想していなかったものがあらわれて、世界的な研究の流れも、我々の世界の捉え方も、知らなかった頃には戻れない。自らが招いたそんな瞬間に直面した科学者たちは、果敢にそれを解き明かして世界を変え、競うようにその扉に手を伸ばし、あるいはその発見のあまりの恐ろしさに目を逸らす。

超常的な出来事は起こらない。だが、人生の悲喜劇と知的探求の頂点、そしてどの短編にも濃い影を落とす戦争が次々とクロスしていく物語の連なりを追ってゆくうち、帰り道のわからないフラクタル構造の迷宮に、読んでいる自分も引きずりこまれるようだ。

知らなかったことを知るのは快い。だからこそ、フィクション・ノンフィクション問わず、たくさんの人を引きつけるのだろう。しかし、科学はおそろしく、『恐るべき緑』はその恐ろしさを容赦なく突きつける。

真の恐怖は、と彼は言った。特異点が盲点であり、根本的に不可知であるということだ。光はそこから出てこないので、我々の目でそれを見ることはできない。だが、一般相対性理論の計算が特異点において有効性を失うからには、我々はそれを頭で理解することもできない。物理学はもはや意味をなさなくなるのだ。
(「シュヴァルツシルトの特異点」53頁)

フィクションの暴力とその自覚

実在の人物をフィクションとして描くことには暴力性が必ずともなう。ひとりの人間のもつ途方もない情報量を故意に取捨選択し、物語化することは搾取的だ。著者が自覚的にこの問題に挑んでいることは、本人とみられる語り手が庭師と出会う掌編「エピローグ 夜の庭師」を読めばわかる。立ち枯れた巨木、そこで首を吊った祖母、毒殺された犬たち、燃える庭……発展の果てで人間が自然を客体化したとしてもお構いなしに、不気味で豊穣な庭の木々が過剰なまでに繁栄するさまを、終末感を漂わせた筆使いで書く。その過剰さは、フィクショナルな登場人物としての科学者たちが抱いていた、本人にしかわからない情熱と重なっている。

量子力学を理解するための代償が現実の概念そのものの解体であったとしても、彼はその代償を進んで払うつもりだった。
(「私たちが世界を理解しなくなったとき」150頁)

『恐るべき緑』は、人間の知的好奇心に対する畏怖の横溢する短編集だ。理系科目が苦手でも大丈夫、息を潜めて、恐ろしくもかぐわしく匂い立つ科学の迷宮に分け入ってみてほしい。

白水社
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堀川夢

1993年北海道出身。編集者、ライター。得意分野は海外文学。「岸谷薄荷」名義で翻訳・創作も行なう。フェミニスト。

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