『ゴジラvsコング』ネタバレ感想 怪獣映画における”重さ”の表現はなぜ大切か | VG+ (バゴプラ)

『ゴジラvsコング』ネタバレ感想 怪獣映画における”重さ”の表現はなぜ大切か

GODZILLA TM & © Toho Co., Ltd. © 2021 WARNER BROTHERS ENTERTAINMENT INC. & LEGENDARY PICTURES PRODUCTIONS LLC.

『ゴジラvsコング』公開

2021年7月2日、コロナ禍における公開延期を経て『ゴジラvsコング』が遂に公開された。大迫力の怪獣バトルに多くの観客が魅了されたことだろう。本稿では「重さ」という観点から『ゴジラvsコング』という作品に対する感想をお届けする。

以下、ネタバレありでお届けするので未見の方は今すぐ劇場に足を運んで頂きたい。

ネタバレ注意
以下の内容は、映画『ゴジラvsコング』の内容に関するネタバレを含みます。

ネタバレ感想!『ゴジラvsコング』における「重さ」

「怪獣」とは何か

感想を書くにあたり、まず確認しておきたいことがある。そもそも「怪獣」とは何か。

怪獣の条件、それは第一義的には「巨大」であることだと筆者は考える。

大きいというただそれだけで、怪獣となるには十分な資格だ。極端な話、人間がそのままの形で単に十倍の大きさの「巨人」となるだけでそれはもう機能としては怪獣なのである。

何故大きさが重要か。

それは人間が自分たちの標準的なサイズをベースとして社会を、制度を、文化を組み上げ、その組み上げたシステムに安住して暮らしているからである。怪獣はまさにその大きさによって、そうした人間世界が「より大きなもの」と比較され得るものだと、言い換えれば「絶対の根拠を持つものではない」ものだということを証明する。

そしてだからこそ、筆者は怪獣に惹かれるのである。

ゴジラがビルを破壊するシーンに胸が高鳴るのは何故か。それは、身も蓋もないことを言えば筆者がそのようなビルに代表される「四角い」社会生活に馴染めないからである。そして筆者のような、この社会の標準的な価値基準においては「規格外」な人間にとって、怪獣はいつだってそうした価値観が絶対のものではないことを思い出させてくれるヒーローなのだった。

『ゴジラvsコング』は、まさにそんな規格外の巨獣同士による決闘を描いていた。しかし…

「巨大さ」は如何に表現されるか

前置きが長くなった。

では、その「巨大さ」は映像表現において如何に表現されてきたか、あるいはされるべきか。初代『ゴジラ』(1954)の昔から、怪獣の大きさはそれより遥かに小さい人間や、怪獣と同程度の大きさのビルなどの建物との対比において表現されてきた。

しかしそれらを単に同じ画角に収めるだけでは、どうしても作り物っぽさが拭えず平板な印象となってしまう。巨大な存在が、確かにそこに在ると思わせること。そのために最も重要なのはやはり怪獣の動き、そしてその動きが表現するところの目的こそが、「重さ」なのである。

巨大な存在は単なる空気人形ではない。怪獣なのである。であるからには、一歩踏み出す度に地響きが鳴り、車はピンポン玉のように道路を跳ね、ビルの窓ガラスは割れ、人は地割れに飲まれ、人間が便宜的に定めたに過ぎない制度は一切無効化されてしまわねばならない。

『ゴジラvsコング』にはこうした細部の描写がなかった。カメラは常にゴジラやコングに肉薄していたが、彼らの動きが余りにも俊敏であったために却って「巨大な生き物」としての存在感に乏しく感じられてしまった。

怪獣映画に不可欠な「重さ」

『ゴジラvsコング』において、ゴジラもコングもがっぷり四つの勝負を演じ、勝敗も濁すことなく明確に描き、非常に楽しませてもらった。

ただ一つ不満点があるとすれば、それは巷に言われるように「人間ドラマ」が薄かったことではない。まさに『ゴジラvsコング』という作品の肝であるところの「怪獣の動き」そのものである。

ゴジラもコングも、それからメカゴジラも画面を縦横無尽に暴れ回った。

だが、筆者に言わせれば少々「暴れ過ぎ」の感を否めない。それはCGという表現の形式が、着ぐるみという「重さ」を脱ぎ捨てたことの弊害であるかも知れない。CGはまさに怪獣を”どのようにも描け”、かつ怪獣の身体のどんな部分を画面に映し出すことをも可能とした。しかしそのことに、少しばかり自家中毒的にハイになっている印象を筆者は映像から受けた。

つまり、そこには「重さ」が感じられないのだ。ゴジラもコングも100mを超す巨体である。残念ながらパンフレットにはゴジラの「血液量:約200万リットル」と記述されているのみで体重は記されていないが、仮にこれが水と同じ密度だと考えても血液だけで最低でも2,000tはあるということだろうか。その上に骨や皮膚の重さが加わるのだから、それはもう一歩動く度に地震が起きてもおかしくない。

それだけ「重い」巨体同士が全力で殴り合うのである。コングの拳がゴジラの頬にぶつかり、ゴジラの尾がコングの脇腹を捉える度にラドンよろしくソニックウェーブが巻き起こり、香港の高層ビルの窓ガラスがすべて割れてしまうくらいの描写があっても良かったのではないだろうか。

端的に言って、ゴジラもコングもメカゴジラも速過ぎた。画面では単に「絵」が動いているだけで、そこに実在する巨獣が暴れているという実感はどうしても持てなかった。ゴジラの皮膚すれすれを飛ぶヒーヴを追うカメラワークも含め、全体に「重さ」よりも「速さ」に軸足の置かれた画作りに思えた。そしてそれはハリウッド第一作の『GODZILLA』(1998)の時代から変わっていない。ゴジラの造形が如何に恐竜然としたローランド・エメリッヒ版から東宝版を意識した無骨なものへと移り変わろうとも、アメリカのゴジラは速いのである。

これは文化的なものなのか、それとも技術的な制約か、あるいは商業的な要請か、はたまた監督の趣味か。それらが複雑に絡み合った結果としての「速さ」なのかも知れないが、とは言え目まぐるしく移り変わる映像というだけでは画面に映る世界を「怪獣の実在する世界」として捉えることは筆者には難しかった。

重さというのは何も怪獣の挙動によってのみ表現されるものでもない。怪獣を見詰める人間の視点が掘り下げられれば、そこに「重い」存在としての怪獣を映し出すことも可能だろう。その意味で怪獣映画には、その存在によって相対化され、かつそれによって怪獣の存在に真実としての重さを与える「人間ドラマ」もまた不可欠な要素なのである。

しかし『ゴジラvsコング』においてアダム・ウィンガード監督はその手法を採らなかった。人間ドラマを割愛した分のリソースをすべて怪獣同士の激突に投じた。その判断は間違っていなかったと思う。実際、筆者も大迫力の怪獣バトルに大いに胸を高鳴らせられた。であればこそ、あと一歩「重さ」を意識した怪獣の描写に心を割いてくれていれば、更に作品世界に没入できただろうと思えることが残念でならない。

以上が、筆者の感想である。いつの日か、「速さ」から解き放たれた「重い」怪獣が我が物顔で画面を闊歩する怪獣映画を観られる日を楽しみにしている。

『ゴジラvsコング』は2021年7月2日(金)より全国でロードショー。

『ゴジラvsコング』公式サイト

『ゴジラvsコング』に登場した全怪獣の紹介はこちらの記事で。

ゴジラとコングの勝敗についてはこちらで論じている。

『ゴジラvsコング』で流れた楽曲についての解説はこちらの記事で。

全曲公開されている『ゴジラvsコング』のサントラはこちらから。

腐ってもみかん

普段は自転車で料理を運んで生計を立てる文字通りの自転車操業生活。けれど真の顔は……という冒頭から始まる変身ヒーローになりたい。文学賞獲ったらなれるかな? ラップしたり小説書いたりしてます。文章書くのは得意じゃないけどそれしかできません。明日はどっちだ!
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