ネタバレ感想&考察『フェイブルマンズ』アカデミー賞作品賞含む7部門ノミネートも納得の名作 | VG+ (バゴプラ)

ネタバレ感想&考察『フェイブルマンズ』アカデミー賞作品賞含む7部門ノミネートも納得の名作

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2023年3月12日に発表を控える第95回アカデミー賞。「アバター」シリーズの13年ぶりの続編である『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(2022)最多部門ノミネートの異色作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)に社会現象にもなった『トップガン マーヴェリック』(2022)など、まさしく群雄割拠とも言うべきハリウッドだが、その中でも独特な雰囲気を放っているのが『フェイブルズマンズ』(2022)だ。

『フェイブルマンズ』は爆発や華麗なCGIなどこそ無いものの、スティーブン・スピルバーグ監督自身が自身の人生をありのまま描くということもあって、非常に繊細かつ奥深いメッセージの込められたものとなっている。

ゴールデングローブ賞監督賞を受賞した『フェイブルマンズ』だが、その作中でありのままの半生を描くという勇気のいる行動をとったスティーブン・スピルバーグ監督。本記事では『フェイブルマンズ』で描かれた単なる感動物語ではないメッセージについて感想・考察を述べたいと思う。

なお本記事は『フェイブルマンズ』のネタバレを含むため、本編視聴後に読んでいただけると一層楽しめると思う。

ネタバレ注意
以下の内容は、映画『フェイブルマンズ』の内容に関するネタバレを含みます。

“地上最大のショウ”のはじまり

サミー少年の心を掴んだ“衝突”

世の中のすべてを科学的に考え、合理性を重視する父親のバート・フェイブルマンと、芸術家肌で類い希なるピアノの才能を持った美しい母親のミッツィ・シルドクラウト・フェイブルマンとの間に生まれたサミー・フェイブルマンが初めての映画鑑賞としてセシル・B・デミル監督作『地上最大のショウ』(1952)を観に行くことから物語は始まる。

父親のバートは暗闇を恐れるサミーに理詰めで暗闇は怖くないと言い、母親のミッツィはスクリーンに美しいショーが映し出されると詩的に語る。このような正反対の二人を演じるのは『THE BATMAN-ザ・バットマン』でリドラーを演じたポール・ダノ氏と、「ヴェノム」シリーズでヒロインのアン・ウェンシングを演じるミシェル・ウィリアムズ氏だ。

『地上最大のショウ』での列車と車の衝突、そして愛する人のためにすべてを投げ打つ主人公の姿に幼いサミーは心を掴まれ、夢にまで見るようになる。そしてユダヤ教の「光の祭り(ハヌカー)で列車のおもちゃをねだり、その衝突場面をこっそり再現しておもちゃを壊すほどサミーは魅了された。そんなサミーにミッツィはその場面を繰り返し再現できるように映像に収めることを勧めるのであった。

サミー・フェイブルマン監督誕生

この言葉をきっかけにサミー少年はサミー・フェイブルマン監督へと変身する。レジーとナタリーら妹たちを巻き込み、小さなカメラを片手に映画作りに没頭するサミー。かつてはピアニストとして有望視されていたミッツィの奏でるピアノをBGMにサミーが映画作りへと没頭していく姿が繊細に描かれていく。その1カットごとがまるでアルバムを眺めているかのように引き込まれていくほど美しい。

成長してサミー少年から新進気鋭の若手俳優のガブリエル・ラベル氏演じるサミー青年へと変貌すると、サミー・フェイブルマン監督作品はより本格的に、より独創的なものへと変貌していく。バートからは趣味だと言われるが、それでもやめない情熱を持ったサミー青年。そしてサミー青年はジョン・フォード監督作品『リバティ・バランスを射った男』(1962)に熱中し、西部劇を撮り、高い評価を得たのだった。

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もはやポール・ダノ氏演じる合理的かつ現実主義者のバートから、何度も趣味だと言われ続けてきた“趣味の映画撮影”の域を超えたサミー・フェイブルマン監督作品。趣味にしておけと言われても挑戦し続けたことが一つの成果を出し始め、夢をあきらめない意味を描いていた。しかし、そんなアマチュア映画監督しての成長とは裏腹にサミー青年の人生に陰りが見え始める。

芸術は心を引き裂く

父親のバートは先見の明により、コンピューター業界で名を売り、それに伴って引っ越しが増えるフェイブルマン家。実の叔父のように慕っていた父の助手であり親友であるセス・ローゲン氏演じるベニーおじさんことベニー・ローウィとの別れ。母方の祖母の死により、精神が不安定になる母親とサミー青年自身も不安定になっていく。セス・ローゲン氏は『40代の童貞男』(2005)で注目を集めた名バイプレーヤーだ。

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その矢先、母親は亡くなった祖母から「男が来るがその男を家にあげてはならない」という忠告の電話を受ける夢を見たと騒ぎ、そのタイミングで母方のトニー賞、エミー賞、ゴールデングローブ賞受賞経験のある名優のジャド・ハーシュ氏演じるボリス大叔父さんことライオン使いのボリス・ポドゴルニーが訪ねてくる。ボリス大叔父さんは無声映画の時代からショービジネスの世界で働いてきた人物だ。

ボリス大叔父さんの存在は、同じ芸術家肌の母親以上にセシル・B・デミル監督やジョン・フォード監督並みにサミー青年の人生に影響を及ぼしていく。ボリス大叔父さんは昔気質のショービジネス世界の人間で、映画業界に入る前にサーカスに入った時点で家族からは縁を切られた存在だ。

祖母の死で精神的に不安定になった母親を慰めるために、計画していた戦争映画を延期にしてまでベニーおじさんと家族で行った旅行の記録映画の編集を行わされるサミー青年。ボリス大叔父さんはそのようなサミー青年に、芸術の世界は心を引き裂くと言い、家族と芸術の板挟みによって心を引き裂かれる未来が訪れると告げた。

サミー青年がフィルムを切り貼りしていた時代とは違い、誰もが文学やエッセイ、絵画に動画、自主映画と芸術を発信できるようになった現代。発表しなければ芸術は心で腐り、発表すれば批判や中傷、下手をすれば誰かを傷つけてしまうのが芸術。ボリス大叔父さんの存在は『フェイブルマンズ』が現代に公開される意味を体現したような登場人物だ。

カットされたフィルムの中の現実

“繰り返し観れば怖くない”はずだった――

『フェイブルマンズ』という作品はスティーブン・スピルバーグ監督の代理人であるサミー・フェイブルマンという人物の目線を通して描かれる成長物語だが、一方でボリス大叔父さんのような芸術が持つ人の心を引き裂く本質についても説いた、芸術の発信が身近になった現代に公開される意義があるといえる。一方で映画が持つ美しくない部分をカットしている点についても触れている。

その一つが、サミーが祖母の死で不安定になった母親を慰めるために記録映画を作る場面だ。今とは違い、フィルムの一コマ一コマを繰り返し観て、そして映像をカットして繋ぎ合わせていく。父親からフィルムの編集機材を買ってもらう代わりに記録映画を観ていたサミーは何回も同じコマを、繰り返し観ていく。その中で、サミーは母親とベニーおじさんが親密を越える関係になっている場面と遭遇してしまう。それも何度も。

サミーはボリス大叔父さんの忠告通り芸術と家庭の板挟みで心が引き裂かれ、家庭を壊さないように必死に編集すればするほどに同じコマを観ることになる。母親が最初に言った“繰り返し観れば怖くない”という言葉とは裏腹に、サミーの心は引き裂かれていった。

実話、ありのままに描いたという触れ込みで公開された『フェイブルマンズ』だったが、スティーブン・スピルバーグ監督にとって母親の不倫とそれによる離婚というスピルバーグ家のトラウマ、ベニーおじさんも父親も母親も、誰一人として悪党にできない善人の一面を持っている葛藤を芸術が持つ暴力性と共にスティーブン・スピルバーグ監督の心を引き裂いて告白したのはすごい勇気だと感じた。

ベニーおじさんと母親が親密な関係に陥る瞬間を収めたフィルムを観る場面が、初めて母親のミッツィに自分の撮った汽車のミニチュアの衝突場面を観る場面と対比になっているのが心苦しい。スティーブン・スピルバーグ監督の語る「人生の追体験」という意味が苦く、それでいて逃れらないものとして描写されている。

すべての芸術が持つ暴力性

『フェイブルマンズ』は様々な形で芸術の持つ隠れた暴力性を表現している。それは明確なものではなく、意図せずに紛れ込むものであり、意図していないせいで気が緩んでいるところに深く突き刺さる。その代表例がサム・レヒナー氏演じる高校のいじめっ子のローガン・ホールであろう。

『ピートと秘密の友達』の主人公ピートを演じたオークス・フェグリー氏演じるチャド・トーマスともに、サミーをユダヤ人という理由でいじめてくるローガン。しかしローガンは学内ヒエラルキーの頂点だが、チャドとはどこか一線を引いている節がある。そんなローガンに対し、一瞬でも同じ白人の上位層の空気を味わいたいと思ったサミーの卒業記念記録映画がローガンを深く傷つけたのだった。

記録映画の中ではローガンはヒロイックにサミーの若き才能がこれでもかと詰め込まれて描かれている。これはノンフィクション的性質を持つため、ローガンがなぜ傷ついたのかわからない。しかしローガンの台詞からは彼自身が自分を卑下しているところがあり、虚勢を張ることでマチズモな白人社会で生きていけないと考えているように思われ、それゆえに記録映画の中の虚像が自分を嘲笑っているように感じてしまったのだろう。

ローガンが自身の肉体は鍛えて作り上げたものだと語る姿は、サミーがローガンのイメージをヒロイックかつマチズモなものへと固定させてしまい、弱みを晒すことすら許されなくなったと告げているように見える。ローガンとは異なり、いじめに積極的で記録映画では醜態を晒されたチャドからサミーを守るものの、ローガンは自分の無意味さを痛感していると言い、涙を流したことを誰にも言わないように言って去っていった。

他にもたった一枚の家族写真に写るベニーおじさんとミッツィの幸せそうな姿と妹たちの笑顔がバートを深く傷つけるなど、すべての芸術が持つ暴力性を表現しながら、それでもなお芸術に向き合う意義を問うような場面が散見された。

ユダヤ人として生きていくこと

『フェイブルマンズ』の中では「光の祭り(ハヌカー)」を祝い、クリスマスを祝わない、7枝の燭台メノーラーに六芒星など、サミー・フェイブルマンという名前も含めてユダヤ人であることが強調される。そして、白人と見分けがつかないにも関わらず、差別され続けるユダヤ人として生きる難しさも、社会の醜い部分として描かれている。

スティーブン・スピルバーグ監督はユダヤ系である。「トランスフォーマー」シリーズの制作の最中には、主演の一人であるミーガン・フォックス氏がマイケル・ベイ監督らを独裁者ヒトラーになぞらえて批判したことで、それにスティーブン・スピルバーグ監督が激怒してミーガン・フォックス氏が降板する騒動になるなど、ユダヤ系ということに関してはアメリカ社会に残る根深い差別問題がある。

第二次世界大戦の時代にまで遡り、アメリカもナチスと変わらないのではないかということを訴えかけた『十字砲火』(1947)という映画もある。これは原作では同性愛者の軍人が殺害されたことを捜査することで憎悪犯罪を知る話だが、映画化に伴い当時の映画界のルールでそれ禁止となり、同じくリアリティのある題材としてユダヤ人差別による憎悪犯罪を取り上げた。

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チャドから言われる「キリスト殺し」はユダヤ人差別の常套句であり、フランス映画などでも登場する。ウィリアム・シェイクスピアもユダヤ人を高利貸しのステレオタイプとして用いていた。現実的に考えればイエス・キリスト自身もユダヤ人なのだが、白人社会でユダヤ人として生きていくことの難しさは場所も時代も関係なかったと言える。陰謀論などでユダヤ人が世界を支配しているといった言説などは、これらのステレオタイプの名残と言われる。

ウィリアム・シェイクスピア作『ベニスの商人』のシャイロックなどはまさしく芸術の持つ暴力性の象徴だろう。街で唯一のユダヤ系家族ということで理不尽な差別と暴力を受けるサミーは出世のたびに引っ越しを繰り返すバートやベニーおじさんとの思い出に固執するミッツィと“衝突”を繰り返すようになる。

そもそも、現代では人種によってユダヤ人かどうか定義付けすることすら難しく、ユダヤ教信徒ならばユダヤ人という定義も存在している。作中ではさらりと流されているが、熱心なカトリックの彼女にキリストへ祈るように要求される場面などは、映画の後半のフェイブルマン宅に映し出される節々にユダヤ教の象徴的な道具の存在も考えるとサミー・フェイブルマンの苦しみの表現だったのかもしれない。

現代に『フェイブルマンズ』を公開する意味

フェイブルマン一家のモデル

『フェイブルマンズ』に登場するフェイブルマン一家はすべてスティーブン・スピルバーグ監督の家族がモデルであり、ミシェル・ウィリアムズ氏演じる母親のミッツィはリア・アドラー氏、ポール・ダノ氏演じるバートはアーノルド・スピルバーグ氏という実際のスティーブン・スピルバーグ監督の両親がモデルである。映画の献辞に「リアとアーノルドに捧ぐ」と書かれているのはそのためである。

妹たちもすべて実在の人物であるなど徹底して実在の人物をモデルにしている『フェイブルマンズ』の中で、スティーブン・スピルバーグ監督はパニック発作を起こす自分の姿など、前述のローガンとは異なり、弱みを見せる勇気を見せている。

ジョン・フォード監督との対話

サミーは大学になじめずに苦しむ中、必死に各所に手紙を送り続け、CBSという放送局にて、『OK捕虜収容所(原題:Hogan’s Heroes)』(1966-1971)というアメリカの軍人たちのナチスの捕虜収容所からの脱出劇を描いたドラマシリーズの仕事を獲得することに成功する。

サミー青年は映画スタジオにて、かつて熱中した『リバティ・バランスを射った男』を撮ったジョン・フォード監督と会話できることができた。ジョン・フォード監督はサミーに地平線は上にあっても、下にあっても良いカットが撮れるが真ん中にあるとつまらないという教えを受け、その指示に従ってカメラの角度が変わって物語は幕を閉じる。このジョン・フォード監督の存在は大きいと思われる。

ジョン・フォード監督は西部劇の神様と呼ばれる名監督だが、彼はサミー少年の心を掴んだセシル・B・デミル監督と正反対の思想の持ち主として知られる。赤狩りが盛んだった時代には赤狩り賛成派に近いジョン・フォード監督と赤狩り反対派でハリウッドの風潮の中心だったセシル・B・デミル監督と意見は正反対だ。その中でもこのような言葉を残していることでも知られている。

私の名はジョン・フォード。西部劇を撮っている。私はセシル・B・デミル氏以上に、アメリカの大衆が求めているものを知っている人はいないと思う。その点では敬意を払う。だがC・B、私はあなたが嫌いだ。あなたが支持するものも、今夜の振る舞いも大嫌いだ……。

ジョン・フォード監督はセシル・B・デミル監督に敬意を払い、政治的な意見が違っても政府に家族のような存在であるスタッフらを密告することを嫌ったと言われる。二極化や意見が対立して誹謗中傷などが引き起きやすい現代において「あなたは尊敬できるが、あなたの意見とは相いれない。しかし、それを理由にあなたの作品に敬意を払わないようなことはしない」という姿勢を演出したかったように思える。

サミー・フェイブルマンが残していったもの

ミッツィとバートのフェイブルマン夫妻が「私たちの関係にTHE ENDはない」と言っていたが、『フェイブルマンズ』という作品もはっきりとしたTHE ENDのない作品だと言える。あくまでも『フェイブルマンズ』はスティーブン・スピルバーグ監督の半生を描いた物語であり、彼の人生が続く限り『フェイブルマンズ』は続いていくのだ。

世界が変わり芸術の発信がしやすくなった現代社会。だからこそ、芸術が持つ他人と自分の心を引き裂く暴力性や趣味と言われてもそれを生業にしていく勇気、今も残る社会に残る差別、そして意見が対立し合ったときの対処法など、考え続けなければならない問題が表面化している。

『フェイブルマンズ』を通し、スティーブン・スピルバーグ監督が自分の弱みや家族のトラウマ、挑戦し続けることでしか得られない夢など引き裂かれた心をさらけ出して伝えたかったこと。それを観客たちに問いかけてくれる作品であり、アカデミー賞作品賞を含めた7部門ノミネートも納得の名作だった。

映画『フェイブルマンズ』は2023年3月3日(土)より、全国の劇場で公開。

『フェイブルマンズ』公式サイト

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を救ったスティーヴン・スピルバーグ監督の一言はこちらから。

鯨ヶ岬 勇士

1998生まれのZ世代。好きだった映画鑑賞やドラマ鑑賞が高じ、その国の政治問題や差別問題に興味を持つようになり、それらのニュースを追うようになる。趣味は細々と小説を書くこと。
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