暴力と破滅の運び手「灰は灰へ、塵は塵へ」 | VG+ (バゴプラ)

暴力と破滅の運び手「灰は灰へ、塵は塵へ」

カバーデザイン 梅野克晃

先行公開日:2022.5.28 一般公開日:2022.6.25

暴力と破滅の運び手「灰は灰へ、塵は塵へ」
13,537字

更衣室で着替えていたら、小指の先が折れて床に落ちた。作業服の穴に引っかかって折れたらしい。指は見る間に転がっていき、ロッカーの間に吸いこまれてしまった。

そのまま出ていこうとすると、同僚に呼び止められた。

おい、拾わねえのかよ。

ヨハンは無精ひげをぽりぽり掻いた。

いらん。誰にやるでもないし。

じゃ、おれが拾って材料部に売っていい?

少し考えた。硝子になるのもいやだし、自分の指先が幾らになったか知るのもいやだ。

結局ヨハンは、箒を隙間に滑り込ませた。

作業場の入り口で、班長が今日の分担を言い渡す。今日は、炉に灰をくべる係だった。ちょっと熱いけど、機械に巻き込まれる心配が少ないので好きな作業だ。

集積場からリヤカーに塵を移し、こぼさぬよう運ぶ。赤熱する炉の中に中身を空けると、一瞬上のほうが黒くなって、また赤く輝きはじめる。その繰り返し。燃えたあとの灰は違う班が運び出して、更に高熱の炉にくべる。この塔は、硝子を作っている。

調子が出てきたヨハンが、歌いはじめる。歌劇場で覚えてきた曲をなぞることもあれば、酒場で肩組みして歌うような下品な歌のときもある。ヨハンの声は機械の音にかき消されずに響くから、同僚たちはラジオ代わりに聞いている。知っている曲なら声を合わせて歌う。

 ふと、ヨハンのスコップが何かに当たった。掘り起こすと、片腕が出てきた。薬指に白金の指輪が嵌っている。きっと、固い床の上に落としたら涼しい音がするだろう。

炉に落とすと、腕は一瞬だけ透明になって沈み、すぐに黒いどろどろになった。自分たちが塵に還る一瞬前に透明になるということを、ヨハンはここで初めて知った。

休憩の直前になって、作業長に呼び止められた。運ぶものがあるらしい。

搬入口まで降りると、巨大な箱が置いてあった。つなぎ合わせた襤褸ぼろを何重にも巻き付け、その上から縄で縛ってある。

水槽?

水族館か。

いや、歌劇場、と作業長が言うと、みな納得した。あそこはいつも、妙なものを作らせる。

縄の部分を掴んで、一斉に持ち上げた。敷地の開けたところまで持っていくと、ヘリコプターが飛んできて、箱を持ち去った。

帰りの更衣室でさっきの同僚が、今日どう? とグラスを傾けるジェスチャーをしてきた。

ヨハンは横に首を振る。歌劇場行くからパス。

うわ、またかよ。つきあいわりー。

おまえらも貯金しろよ、貯金。

同僚たちに手を振って別れ、自転車で歌劇場に向かった。途中、学生のデモが機動隊と揉み合っているところと遭遇する。舞い上がった塵が、家の軒先に飾られた国旗たちを曇らせる。

そのうち歌劇場に着いた。職員用の駐輪場には、いつものバイクが停まっていた。

なんとなく始めたダブルワークだった。チケット売場の仕事だと言われて行ってみたら、初日から大道具に回された。即日辞めなかったのは、その日の帰りに駐輪場から出ていくバイクを見て一目惚れしてしまったからだ。

昔からバイクが欲しかった。あんな、乗っただけで塵になりそうな乗り物を買うのはバカしかいない。暴走族はエンジンを崇め、集会の最中に誰かが塵になると歓声をあげる。

バカがいる職場、いいじゃん、と思った。

舞台袖に向かうと、天井を開いて水槽を搬入している最中だった。初日のあとにこんな大物を? と首をかしげていると、横にいた大道具チーフが笑いを漏らした。

ヨハンは居なかったっけか。プレミエで水槽が割れちまったんだよ、アロイスがバカ声出したせいで。

アロイス・ノヴァークは一番人気のテノール歌手だ。あの細身からは到底考えられない声量が、愛される理由だった。

市営歌劇場は口減らしのために維持されている。

オーケストラが鳴る。座席が揺れる。人が塵に還る。

合唱が吼える。空気が震える。人が粉々になる。

歌劇場に来る人々は、美しいものに包まれながら死にたいと思っている。音響上の焦点と重なるため効率的に「安らぎ」を迎えることができる席すらある。

アロイスは、一人で歌っていても「癒し」を与えることができる稀有な歌手だった。

あるオペラのアリアで、高いドの音を出す度に「癒し」たという逸話がある。合計九人。ぽん、ぽん、とポップコーンのように人が弾ける様をヨハンは想像する。

水槽をみなで持ってゆっくりと下ろす。それから、縁の高さに合わせて足場を組み、上に大道具を載せる。客席から見ると、水槽の中が水面下の断面図のように見える。

どんなオペラなんすか? これ。

チーフは肩をすくめた。水の精が人間の王子に恋をしちまう話だとよ。

ひととおり組み上げると、楽団員たちがオーケストラ・ピットに入ってきた。幕間の舞台転換までは特に仕事はない。

事務所に戻ろうとしたところで、小道具の同僚に呼び止められた。

これ、ノヴァークさんに持っていってくれない? 渡すの忘れちゃって。

いいけど……おれ、話したことないよ?

大丈夫、本当はいい人だから。

アロイスの楽屋に入った瞬間、水底にいるのかと思った。壁が一面、青い布で隠されている。備品や家具も覆われて、正体を失っている。

ひとり身支度をしていたアロイスは櫛を止め、深い藍色の瞳で来訪者を見つめる。

あの、これ、届けてくれって言われて。

託された短剣を掲げる。変なことを言ったつもりはないのだが、相手はかすかに目を瞠って、うつむいた。

どこに置いたらいいすか。

短剣を振って注意を引こうとするが、どうしても目が合わない。何が大丈夫なんだよ、と思っていると、普段の歌声とは似ても似つかぬぼそぼそした声が聞こえてきた。

変なところがないか、見てほしい。

へ?

鏡見りゃいいじゃん、と思って、気づいた。この部屋には、鏡がない。布は、鏡台や壁に打ち付けられた鏡を隠すためにあるのだろう。傍らにある布の塊は、おそらく姿見だ。

変なところって、たとえば。

メイクとか。

言われたとおりに顔を覗き込む。左右の対称が崩れているところもなければ、塗りがおかしいところもない。それ以上に、見える限り、身体に欠けたところや妙に隆起したところがない。あんな声が出るくらいだから身体も丈夫なんだろう、と思った。

問題ないすよ、と言ったら、またうつむいた。こんな内気なやつだったとは。

部屋を出たところで総支配人とぶつかりそうになった。慌てて謝ったが、何も言わず睨まれる。おれ、なんかした?

その日の公演は、水槽が割れることもなく終わった。

転換の時以外は、天井近くにある照明のブースに入れてもらって舞台を観るのがお決まりだった。

水槽と「地上」の二層、それから舞台前方に垂らした薄い幕の前後。そういった仕掛けで人間たちと妖精の間に存在する可視と不可視の関係を表現する舞台が、簡素ながらも物語に適切な補助線を引いていた。

アロイスは陰気な顔をして歌っていた。おおむねよいのだが、時々声が飛ばなくなってしまう。大道具や吊り板の配置が悪くて、声を殺しているのかもしれない。

座席の塵をみなで掃いて集めた。搬入口に集荷のトラックが来て、袋がいくつも硝子塔へと運ばれるのを見送った。

呑んで帰るか、と思いながら駐輪場に向かうと、いつものバイクの前で誰かがしゃがんで悪態を吐いていた。

大丈夫ですか。

バカの顔を確かめるいい機会だ、と思って声を掛けると、その背中が跳ねた。振り返った顔を見て、ヨハンも飛び上がりそうになる。

まじかよ。

アロイスは恥ずかしそうにうつむく。

動かなくなってしまって。

指先が、ねばついた油で汚れている。ヨハンは見ていられなくなって、自分の自転車を引っ張り出した。

後ろ、ほら。乗ってよ。

街なかは、工場が夜通し動いているせいで騒がしい。しかも今日は暴走族の集会らしかった。ペダルを漕ぎながら、飲みに行きませんか、と怒鳴ると、胴を掴む手に、力が籠もった。

もう歌いたくない。

ポテトをフォークでつつきながら、アロイスはそんなことを言う。

身体が資本のオペラ歌手をこんな煤煙が容赦なく入り込む安居酒屋に連れてきてよかったのだろうか、と思案していたところだった。

どうして。

全部やめたい……工場で働きたい。

ヨハンは苦笑して、アロイスの手をぐいと掴んだ。

きれいな手だ。おれのとは大違い。工場で働くとこうなるよ。

手に手を重ねる。先が欠けているのは小指だけではない。手のひらは無数の縫い痕や火傷痕で窪んでいる。アロイスは、さっと顔を背けて手をひっこめた。

やりすぎたかな、と思っていると、アロイスは意外なことを言った。

あなたは……いい声だ。歌うところを聞いてみたい。

ヨハンは目をぱちくりした。そんなこと、言われたことないけど。

あなたの声は低い。震わせはしても、砕き、殺す声ではない。人々は純粋な楽しみのために、あなたの前に列を作るだろう。

素人だ。

覚えればいい。

それなら、とヨハンは身を乗り出した。教えてくれない?

悪ふざけのつもりで申し出たのだが、あっさり承諾してくれた。

言われた方へと自転車を漕いだ。幹線道路を走って、郊外の方まで出る。アロイスの家は、寂れた集合住宅の間に挟まれて建つ一軒家だった。国旗はない。

通された部屋には、ピアノが置いてあった。荷物をカウチに置くと、アロイスはピアノにもたれ、好きな曲を歌ってくれ、と指示した。

ヨハンは首を捻る。好きな歌の一つや二つはあった気がするが、急に言われると思い浮かばない。

咄嗟に出てきたのはさっきのオペラだった。

水魔が、水の精の行く末を嘆いて歌うシーンをなぞった。ヨハンには言葉がわからないけれど、悲しい歌だと思った。

アロイスの顔から血の気が引いた。何かまずいのだろうかとヨハンは内心落ち着かない。歌い終わってからも、しばらく無言のままだった。

なぜその歌を?

さっき聴いたから。何となく。

一度聴いただけで覚えたのか?

そうだけど……でも、歌詞の意味がわかんないや。

アロイスは信じられない様子だったが、歌った部分を訳してくれた。

かわいそうな蒼いルサルカ、

上つ国の放つ光輝に惑わされて!

おお、おお!

……水に咲くのは白い蓮のみ

それがお前の哀しき道連れだ、

お前の婚礼のベッドには、

……赤い薔薇など咲くはずがない!

どうも微妙な歌を堂々と披露していたらしい。ぎくしゃくと後ろを向き、楽譜棚を眺めるふりをした。

その辺、何冊か持ってきてくれないか。

適当な楽譜に中指を掛けたところでそう言われた。適当に引っ張り出して渡すと、アロイスはそれをピアノの上に置いて弾きはじめた。

賢い女狐が人間たちを翻弄する童話。遺産を当て込んで花嫁を売った男の話。三百歳を超える長寿のソプラノ歌手がようやく眠りにつく物語。

どれもブースから見たことがある。記憶のとおりに歌った。必要となれば裏声を使って女性や子供の真似もした。

アロイスが弾くのをやめ、ふらふらと立ち上がる。

どうやって全部覚えた。それに、その声……よいなんてものではない。誰に習った。

誰にも。

嘘だろう?

歌劇場で覚えて工場で歌ってるだけなんだけどな。

本当に人間か?

ヨハンの周りをぐるぐる歩きはじめた。どこかに七十二文字が刻まれていると思っているのかもしれない。居心地の悪さに堪えかねて、質問を返した。

あんたは隣の国から来たのか?

ヨハンは、さっきから隣の国の作曲家が作った曲ばかりだ、と思っていた。

アロイスの足がぴたりと止まった。

そうだ。

なるほど。だから綺麗なんだな、あんた。

これを聞いて、アロイスはまた下を向いた。

昔の人と同じ形をしているだけだ。煤煙から逃れられるわけではない。この前なんか、右足の小指がどこかに行ってしまった。……ピアノもいつまで弾けるものやら。

飲みなおそう、と言って、アロイスがキャビネットから酒瓶とグラスを取り出した。

おおお!

思わず瓶のもとに駆け寄った。ここまで澄んだ酒は久しく見ていない。

何これ。どこに売ってんの?

密輸、とアロイスは肩を竦めた。

ラベルを見てアプリコーゼの酒か、と言ったら、スリヴァだ、と訂正された。どっちが飲めるか勝負しようぜ、と言い出したのはヨハンのほうだ。

その辺から記憶が切れ切れになる。

水を無理矢理飲まされ、口からこぼした。便器を抱えて生まれたことを後悔し、背中をさすってもらった。

しまいにはバスルームと間違えて地下室への階段を転げ落ち、棚にしたたか頭をぶつけた。顔の横に何かが落ちてきて、中身が散らばる。

なんら?

古びた旅行鞄だった。留め具が外れ、中身をヨハンに晒している。知らない国の言葉が書かれた時刻表たち。色あせた絵葉書の束。小型の銃。片手に余るほどの旅券。

階段を降りてくるアロイスに向かい、欠けた指で撃ち真似をする。

いつのまにか、ヨハンはカウチで大の字になって延びている。横で本を読んでいるアロイスの姿が目に入り、いちゃもんをつける。

まだのめりゅらろおみゃえ。

その辺に吐かれたら困るから見てるんだ。

おおひなおせわら。あんたもねりょ。

腕をひっぱって、隣に寝かせた。

……熱い、と思ってもう一度だけ目覚める。

頬が濡れている。アロイスの顔が視界の全てだった。慰めたいと思うのに、言葉を伝えるべき器官は別のことで忙しい。お互いの舌と舌が境界を失って、熱い。

なんじゃこりゃ、と思ったが、眠かったのでまた寝る。

水をかけられて起こされた。

咳き込んでいると、胸ぐらを掴んで揺さぶられ、声を出してみろ、と耳元で言われる。頭に響くことこの上ない。

起こし方ってもんがあるだろ。

アロイスは手を離し、カウチにヨハンを落とした。やっぱりそうか、などとぶつぶつ呟いている。

おい。舌噛んだらどうしてくれんだよ。

アロイスは、沈痛な目をヨハンに向けた。自分の声をよく聞いてみろ。

んだと?

ヨハンは喉を押さえた。なんだか自分の声がすごく高いような気がした。耳に煤でも詰まっているのかと思ったけれど、突っ込んだ指にはなにも付いてこない。

対して、アロイスの声は明らかに低かった。普段のヨハンと同じくらい。

うそだろ。

脆くなった人体は、ひとりでに行きたいところへ行ってしまうようになった。事故に巻き込まれてはじけ飛んだ腕が、持ち主が生前愛した居酒屋にのたくっていったりするのを見ることがある。愛し合う二人の小指がいつのまにか入れ替わる、なんていうのは今の童話では定番のオチだ。

ヨハンは大きなげっぷをして立ち上がり、ふらふらと歩みはじめた。

どこへ行く。

医者。返したほうがいいだろ、喉。交換しなおしてもらおうぜ。

戸口を出ようとしたら、服の裾を引っ張られた。

なんだよ?

言うと同時に、玄関の呼び鈴が鳴った。

青い顔をしたアロイスが裾から手を離し、ヨハンに部屋を出ないよう言い含めて玄関に向かう。

ドアに耳をつけると、総支配人の声が聞こえてきた。

……カヴァー待機の日とは言え、楽屋入りの時間になっても来ないとはどういう……連絡もなし……とりあえず今日はアンダースタディに歌わせて……どうした。喋れないのか?……

戸口で立ち竦んでいるアロイスの姿を想像した。まさか無策で出ていったのか?

慌てて廊下に飛び出した。

あれえ、総支配人じゃないですか。おはようございます。奇遇ですね。

何でこいつがここに? という顔をされたので、頭爆発アリアを歌ってやった。それでやっとご理解いただけたらしい。

何をしたのかわかっているのか。

おれ、やれます。ノヴァークさんの代わりに歌います。

総支配人が何か言う前にアロイスが、だめだ、と制止した。ヨハンはニヤっと笑って、喉を解放した。

アロイスが目を瞠り、総支配人は耳をふさいだ。電球が砕け、フィラメントが火花を散らしながら黒くなった。

ヨハンも腰を抜かした。ちょっと大きい声を出そうとしただけなのに。

総支配人が、蒼白な顔をして部屋を出て行った。アロイスがあとを追いかける。外から口論が聞こえてきたが、途切れがちになる。そのうち車が出る音が聞こえた。

こりゃしばらく帰ってこないな。

ひどい二日酔いだった。それに、頬が痛む。転んだ拍子に、陥没したのかもしれない。確認したかった。しかし、どこを見ても鏡が見つからない。

一縷の望みを掛けて地下倉庫に入った。反射光が燦めくのを期待して豆電球を灯したヨハンの目に留まったのは、旅行鞄だった。

耳が、歌声を拾った。

ヨハンはよだれを袖で拭う。帰ってくるのを食堂で待つつもりが、いつのまにか突っ伏して寝ていた。

レッスン室の扉を開いたら、ピアノも歌も止んでしまった。

楽しそうにしているかと思いきや、アロイスの頬には濡れた線が幾条も走っている。空き瓶が床に何本も転がっている。

わかっている、とアロイスは存外はっきりとした口調で繰り返した。何が、と問えば黙り込む。ややあって、返さないといけない、と呻いて、ピアノに突っ伏す。

そのまま震えはじめたのを見て、ヨハンはラジオを付ける。

煤煙と光化学スモッグの予報を聞いた。つまみを捻ってチャンネルを変える。ここは遠くの電波が入るらしい。楽しいコントが音楽番組に変わる頃にはだいぶ落ち着いた様子で、渡した水を素直に受け取って飲んだ。

水差しから新しい水を注ぎながら、ヨハンはさりげない風を装って尋ねる。

なあ。あんた、なんかやなことさせられてないか。

例えば。

死にたがってもいないやつを無理矢理砕くとかさ。

……言いがかりだ。

硝子塔でもよくあるよ。動く麻袋が塵の山に埋まっててさ……

工場に行きたいと言ったことで不愉快にさせたのなら謝る。

んなこたねえ。

ラジオの側を離れてアロイスのかたわらにしゃがみ、顔を覗き込んだ。

なあ。させられてたんだろ。

ヨハンにははっきり分かっていた。旅券はどれも、アロイス・ノヴァークのものではなかった。銃。時刻表。明らかに逃げるための準備だ。

アロイスは唇を噛んで顔を背け、かすかな逡巡のあと微かに頷いた。

秘密警察シュタージが……反社会的分子とみなした者を、ある席に座らせる。私はそれを、砕く。何回、何人やったか、もうわからない。……仕方ないんだ。

仕方ない?

反体制の歌劇場なんてものはないんだ。チケット収入で賄えるのは出費の何割だと思う? 国が、州が、市が望むような劇場でなければいけないんだ。国旗を掲げる。翼賛的なオペラを掛ける。暗殺に手を貸せと言われたらやるしかない。……でも。

暗い藍色の瞳が、ヨハンを映す。

もうできない。私は……できなくなってしまったんだ。

ヨハンには、どう慰めたらいいのかわからなかった。何がなんだかわからないけれど、やめれば? と気軽に言える問題でもないような気がした。

だから、抱擁した。

腕の中で、微かに身を固くしたのがわかった。それから体重を預けてきて、かすかに震えはじめる。大人としての誇りを傷付けそうなので気付かなかったふりをして、ラジオの音量を上げる。

私は人殺しだ。

おれもだよ。

弦楽四重奏曲が流れてくる。水の精のオペラと同じ作曲家が、海の向こうの遠い国へ行って書いた曲だ。

物悲しい三拍子の旋律に合わせて、身体を揺らした。アロイスが身体を離して、手と手を繋ぎ直した。でもヨハンはダンスを知らなかったから、また抱擁した。

逃げられないのか。

できない。

一緒についてきてほしい?

アロイスが顔を上げる。ヨハンはいつになく切羽詰まった表情をして、小刻みに震えていた。

ごめん……吐ぎぞゔ!

一緒に逃げるなら必要だろうということで、ヨハンはアロイスの家に泊まり込んで、隣の国の言葉を教えてもらった。歌詞がわかるくらいにはなった。

ある晩ヨハンは、アロイスを置いてこっそり劇場に向かった。通用口から入って、まっすぐ総支配人室に向かい、扉をノックした。

舞台の周りから人払いがされて、演出家と指揮者が現れる。二人とも、なぜ「アロイス」は顔を仮面とマスクで覆っているのか、と聞いた。

酔っぱらって顔から転んで、そのまま道路で寝てたら風邪引いちゃったんですよね。ははは。

そう……そうか……。いやでも、なんか……身体、大きくなってない?

食べすぎちゃって。

二人は顔を見合わせた。「アロイス」も、仮面の下で冷や汗をかいた。絶対に本人が言わなさそうなことしか言っていない。

指揮者が舞台上に運ばれたピアノの前に座り、弾き始める。歌った瞬間、二人が安堵の表情を浮かべるのを見た。しばらくして、演出家がけらけら笑った。

声は元通りで安心したよ。でもあんた、病み上がりで、硝子を割れるのかい?

舞台上にある、小屋の張りぼてを指差す。窓のところに小さなガラスが嵌っている。

「アロイス」は、いつもより頑張って喉を解放した。

目の前が白熱した。自分の形を保っている力という力が解けそうになるのを感じた。

演出家が、すばらしい、と言うのが聞こえた。それでようやく、硝子が割れていることに気付いた。様子を見にやってきた総支配人も、蒼白な顔で拍手をする。

チケット売り場にはアロイス・ノヴァークが復帰、と掲示された。

リハーサルを終えて楽屋に戻ると、知らない男が立っていた。どこかで見覚えがあると思って、すぐ合点が行く。パスポートの一つで見た。変装したアロイスだった。

え、何でいるの?

有無を言わせず頬を張り飛ばされた。理不尽だとは言わなかった。

一緒にってのは嘘だ、ひとりで行け、と書き置きを残した。我ながら泣ける手紙だと思った。横に小指の欠片まで添えてある。

もうあっちの国に行ってるもんだと思ってたのに。

やめておけ。

見てた? やっぱ演技やばいかな。

そうじゃない、とアロイスは首を振る。……硝子を割ったとき、一瞬あなたは透明になっていた。この仕事に耐えられる身体じゃないんだ。

まじかよ。死にかけてんじゃんおれ。あはは。

ヨハンは化粧台の前で、見様見真似のメイクを始めた。とにかく元の顔の造作がわからないほうがいい、と思って大胆に塗っていく。

おれがここで歌ってたほうが、あんたは逃げやすいのにな。

返事がないのを不審に思った。鏡越しに、アロイスが血の気の失せた顔でこちらを見ている。

ほとんど道化師の顔になったヨハンが弾かれたように立ち上がって、肩を掴んだ。アロイスは鏡を凝視していた。魂が吸い込まれてしまったみたいに。

見える。

何が。

語りかけてくるんだ。

誰が。何を。おい――

「お前は人殺しだ」……「お前は呪われている」……「お前は一生、ここを出られない」!

アロイスは手を振りほどいて、楽屋を出ていった。

例の旅行鞄を持っていることに、ヨハンは気付いた。

二人で逃げるつもりは最初からなかった。あの鞄は総支配人が用意したらしい。旅券の写真のベースはアロイスの顔だ。それにヨハンを変装で似せようとしたって無理がある。

それにしても、とヨハンは思う。鏡の中に何が見えてんだ、あいつ。

舞台に出た瞬間、照明が目を眩ませた。

ヨハンは、アロイスの姿を探した。客席は暗く、顔まではわからない。

成すべきことをした。

王子の最初のアリアで、身体がずり落ちるほど眠っている客がいた。なんとなくの予測は二幕で確信に変わった。同じ姿勢で寝ていたから。

あとはもう一番声がよく響く場所に向かって声をぶつけるだけでよいと、身体が理解していた。壁が、大道具が、天井から垂らした硝子のシャンデリアが……この空間にあるすべてが声を反射してその席に焦点を結ぶだろう。

だから、それに任せた。

身体が透けて、スーツだけになった。それから、砂を詰めた風船を針で突いたみたいに、命だったものが粉々になって床へと落ちた。

アロイスを見つけることができないまま、最終幕に差し掛かった。

月を模した青いランプだけを残して、照明がすべて消える。風が舞台袖から吹き上がって、地面を覆っていた水色の紗幕が浮き上がる。

半狂乱の王子が、青白く浮かび上がる。王子は水の精を裏切った報いを受けて呪われ、水辺を彷徨う。

出てきておくれ、白い雌鹿よ!

おとぎの精よ! 凍り付いたまぼろしよ!

このあこがれに、さすらいの日々に

終わりは二度とこないのか?

しかし水の精もまた、呪いによって水底を彷徨う怨霊になっている。彼女に残された運命は、王子を殺して水の底に沈むことだけだ。

水槽の縁に膝立ちで座ったとき、ヨハンは色々なことに気付いた。

この立ち位置は異様に音が篭って客席へと声が通りにくいということ。それから、水槽の中が空っぽなこと。水の精役の歌手がいるはずなのに、どこに行ってしまったのだろう。

月に手を伸ばして、もう一度歌った。

やさしき亡霊よ! いとしい人よ!

死せる魂のうちに燻ぶる全てを賭けて

天と地に誓ったのです、

神と悪魔に誓ったのです――

答えてください、答えるのです、いとしい人!

どこにいるのですか!

照明のブースに、アロイスが立っていた。

王子と現実の自分が混線した。水の精がそこに現れたのだと思った。

響きの壁を破って硝子張りのブースの中まで声を届かせようと、声の指向性を変えた。前や上に飛んでいき、舞台上に張り渡した反響板の力を借りられるように。

空気が笑ったような気がした。

身体の中で、不吉な音が葉脈のように広がった。子供の頃ワイングラスに熱湯を注いだときのことを、ヨハンは他人事のように思い出していた。

月が砕けた。

声で割ろうとしたわけではない。誰かが月を撃ったのだ。身体がぐらりと傾き、ヨハンは水槽へと崩れ落ちる。

オーケストラが止む。照明が落ちたはずみに散った火花が、瞬く間に紗幕へと燃え移る。風に舞って火の粉が上がり、ハリボテや緞帳、壁に炎が広がる。千切れた襤褸が飛んでいき、前の方に座っていた客の服や髪を燃やしはじめる。

安楽死を求めていたはずの客たちが、我先に外へと出ようとしてもみ合う。オーケストラ奏者もピットを放棄して、逃げていく。もとより崩れかけていた人々が、人込みに圧されて、断末魔を上げることもできずに塵と化す。

座席が空になったころにようやく青白い非常灯が点き、スプリンクラーが作動した。

白濁した水が水槽に流れ込み、あっという間に顔が半分浸ってしまった。やっとの思いで身体を起こすと、縁から誰かが覗き込んでくるのが見えた。総支配人だ。

かわいそうに。そんなに濡れてしまっては、這い上がれないだろう。

目だけが爛々と輝いて見えた。引き上げてくれ、と返そうとして、ヨハンは塵を吐いた。

黒く染まった水面を呆然と眺めていたヨハンが、見えない糸に引かれたように顔を上げる。総支配人は憐れみの表情でヨハンを見下ろしている。

あの子はね、隣の国でさらわれて売られてきたんだ。あそこには丈夫な人間がうんといるからね。工場を逃げ出して路上で歌っていたあの子を引き取ったのは、私だ。

密輸だ、という声がヨハンの脳裡を掠めた。総支配人は、かわいそうな子だ、と話を続ける。

劇場とあの子の声が、シュタージに目を付けられた。暗殺の依頼が来るようになった。でも……あの子はしくじるようになった。スパイに、誰を殺そうとしているかを教えられたらしい。密入国をして工場と公害の記事を暴こうとしたルポライター。兵器工場を破壊するために送られてきた工作員。……そのうち、シュタージが、あの子を始末しろと言ってきた。こっちに向けられちゃ困る、けじめをつけろ、とね。

あいつがあんななまくら装置じゃ砕けないって分かってただろ。

まだ話せるのか、と総支配人は眉を上げた。

そうだ。やつらには、このシーンで大きな声を出すと自分に跳ね返ってくる、あの子が自分の声で死ぬところを見たくないか、と言って先延ばしにしてきたんだ。……でも、限界だった。

ヨハンは黙って見上げている。総支配人の顔に穏やかな微笑が浮かんだ。

きみが、あの子の喉を奪ってくれてよかった。みなの目の前で砕けてくれてよかった。あとはあの子が逃げてくれれば――

ふと言葉を切って、顔を上げた。がらんどうの客席しかないはずだった。何が見えているのか、ヨハンにはわからない。

聞いていたのか?

総支配人はたどたどしい足取りで、客席に近付いた。突然何十歳も老け込んだようだった。ヨハンが危険に思い至ったときにはもう、オーケストラ・ピットへと吸い込まれていた。

硝子越しに、恐怖に見開かれた目と、目が合った。

痛ましく思う気持ちは持続しなかった。冷たい水がまどろみを誘う。再び水面に落ちる影を見ても、死が形を伴って訪れたと思うばかりだった。

頬に触れる冷たい手の感触でようやく覚醒した。

誰に見おろされているのか、一瞬わからなかった。アロイスの表情からはあらゆる情動が剥落している。

ひとりだけ生き延びていいはずがない。私は、ここで死ぬべきだ。

自分に言い聞かせているように聞こえた。あるいは、〈鏡の向こう〉の声をなぞっているのか。

しっかりしろ!

肩を掴んで揺さぶるとアロイスはぜんまいが切れたように倒れ、それからゆっくりと起き上がった。

劇場は私を殺そうとしていたんだな。上から見てわかった。……身体が竦んだ。

そんなの、誰だってそうなるだろ!

いつかこうなるとわかっていたはずなのに、どうして……撃つのが遅れた。あなたを、見殺しにした……

なあ。おれがこの劇場で働いてたこと、忘れたのかよ。あんたが殺すのを手伝ってきた。おれはあんたを殺す装置を組み立てたんだ。自業自得だよ。

だから何も思うな、と?

そうだよ。

無理だ。私はここで死ぬべきだ。

堂々巡りだな。

背中のほうに回ると、アロイスがのろのろと顔を上げた。ヨハンは耳元で囁きかける。

なあ、今もそこにいるのか、あんたのその……何が見えてるのか知らねえけど。

ああ。

でもあんた、帰りたいんだろ。

鏡像のアロイスが、苦しげに眉根を寄せる。

あちらとの縁はもう何もない。私を知る人は一人もいない。戻ったところで何になる。

うそつくんじゃねえ!

ヨハンが怒鳴った。水槽が震え、鏡像がぼやける。

あんた、あっちの時刻表、擦り切れるまで読んでただろ! 帰りたいから、そんなことしてたんだろ! なあ……そうじゃないのか。

硝子がしんとした。けれど、アロイスの鏡像は震えたままだった。水底の色をした瞳から、透明な雫が流れる。

もう一度だけでいい。たとえすぐ離れることになってもいい。この目で見て確かめたいんだ。暮らした街を。ヴルダヴァを。母と歩いた旅路を。……でも、あなたを置いていけない。

ヨハンは笑って、アロイスを後ろから抱きすくめた。

おれがあんたにあげられるのは自由だけだよ。

鏡像のアロイスの胸のあたりに、指輪が埋まっていた。あの時、炉にくべた指輪だ。ついさっき、気付いた。想像の中で聞いた、胸が透くような涼しい音を思い浮かべる。

アロイスの耳を、崩れかけた両手で塞いだ。やめろ、という掠れ声が聞こえた。

ヨハンは不敵な笑みを浮かべ、指輪に向けて声を解放した。

響きが水槽の中で増幅され、水琴窟のように空間全体が鳴る。アロイスの鏡像がぼやけ、指輪を中心として細密なひび割れが入る。そこまで見届けて、ヨハンの目の前は真っ白になった。

身体を構成する粒子ひとつひとつの存在を感じた。

そのまま空気中に溶けていってしまってもよかった。死への恐怖より、空気に同化することへの興味が心を満たした。

でも、呼び掛ける声が遠くから聞こえた。自分の声だった。自分が自分に呼びかけることなんてあるだろうか?

……頬が熱い。

目覚めるなり、アロイスの泣き顔と対面した。

手を付いて、起き上がる。傍らに指輪が落ちていた。それを拾い上げようとしたヨハンの腕はすぐに見えなくなり、ほどなくして同じだけの砂が水に落ちた。

ヨハンは、そのままの恰好で、一生のお願いがあるんだけど、と切り出した。

バイク乗せてくんない? 後ろでいいからさ。

アロイスは激しく咳き込んでから、ヨハンを睨みつけて、あなたはバカだ、と本気で怒った。

なんてわがままな人なんだ。こんなときに自分のバイクで来たはずがないだろう。

アロイスはヨハンを背負ったまま歩いて、暴走族の集会に出向いた。族長と顔見知りらしい。事情を聞いた族長は、手下のひとりにバイクを貸すよう命じた。

後ろに乗るのは無理だったので、前に紐で括りつけてもらった。脚も風化しつつあるので、これ以外に方法がない。

走り出すまでには、まだ時間があった。

自分のせいだ、はナシだからな。

そう先回りされたアロイスは考え込んだあと、あなたの声がほしかった、と消え入るような声で言った。

自分の声が嫌いだった。あなたの声を聞いたとき、私がこの声だったらよかったのに、と思った。……あなたみたいになりたかった。

嬉しいこと言ってくれるじゃん。泣いちゃうね。

返していればこんなことにはならなかった。

これでいいんだよ。灰は灰へ、塵は塵へと還るもんだ。

……私はどうしたらいい。

あっちに行ったらわかるよ。

不安なんだ。

心配すんなって。あんたはちゃんとわかるから。

また、後ろからすすり泣く声が聞こえた。ヨハンは苦笑して、歌いはじめた。アロイスが泥酔して歌っていた歌だ。

母さんはよく歌を教えてくれたけど、

変だと思ったんだ、よく涙ぐんでいたから。

でも、おれも分かるようになった、

さすらいの子どもたちに手遊びと歌を教えている今では。

バイクの群れは街を抜けて、山へと向かった。峠の道は、煤が薄い。不意に花の匂いがヨハンの身体を満たした。

ああ。もう五月か……

ヨハンの声が、透明になっていく。追いかけるように、身体も見えなくなる。

二つの身体が一瞬だけ重なり合って、アロイスの背中で灰になる。輝く欠片は薄く広がって、すぐに風にまぎれてしまう。

歓声が湧く。アロイスは、調子よく応える声を聞いた気がした。

暴走族と別れてしばらく走り、バイクを停める。

二股の道の間に、菩提樹ぼだいじゅが立っている。古びた小屋には錆びた風見鶏。絵葉書と同じ景色が、目の前にある。

滲んだ視界の中で光が二度、瞬く。国境越えの協力者と取り交わしていた合図だ。

合図を返さなければ、と思っていたけれど、できそうにない。もうしばらくは。

胸ポケットには、萎びた指先と指輪が入っている。

 

 

 

 

暴力と破滅の運び手「灰から灰へ、塵から塵へ」はKaguya PlanetとSF同人誌『SFG』の主催するシェアード・ワールド企画の作品です。Kaguya Planetに掲載している枯木枕「となりあう呼吸」と世界観を共有する作品として執筆されました。またKaguya Planetにはシェアード・ワールド作品としてもう1編、野咲タラ「透明な鳥の歌い方」を掲載しています。
そして『SFG vol.4』には枯木さん自身による姉妹編「ささやかなおとの鳴る」が掲載されています。詳細はこちら

 

暴力と破滅の運び手

暴力と破滅の運び手。「エッチな小説を読ませてもらいま賞」審査員長。Crazy Gal Orchestra運営ギャル。短編集『ブラームスの乳首』や『ケモのアンソロジー』等同人誌を積極的に制作。掲載歴に井上彼方編『京都SFアンソロジー』(Kaguya Books/社会評論社)等に小説、橋本輝幸編『Rikka Zine vol.1』にて翻訳(ソハム・グハ「波の上の人生」橋本輝幸氏との共訳)等。
社会評論社
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