Contents
『メガロボクス』が愛された理由
世界で愛された異色作
2018年に公開されたSFボクシングアニメ『メガロボクス』は、近年のアニメ界では異色とも言える作品だった。同作は”『あしたのジョー』連載開始50周年企画”として制作され、高森朝雄・ちばてつやの『あしたのジョー』(1968-1973)を原案としているが、ジャンルは”SF”に位置付けられ、経済格差が拡大した近未来を舞台としている。2018年にボクシングアニメを、それもSF作品として創造し直したのだ。同作は米アニメアワードで最多ノミネートを果たすなど、海外でも高い評価を得た。
『あしたのジョー』から受け継いだテーマ
50年以上も前に連載が始まった『あしたのジョー』を原案とした『メガロボクス』が、なぜこうも高い評価を受けているのだろうか。その最大の理由は、『メガロボクス』の物語に、時代と国境を越えて共有されるテーマとメッセージが込められていたことだろう。『メガロボクス』は、長期連載で展開された『あしたのジョー』の物語から最も重要で根元的なテーマを抽出し、全く異なる設定の中で描き直したのだ。
『あしたのジョー』で描かれた「あした」
その日暮らしの青年の物語
両作に通底するテーマは、「あした」という概念だ。『あしたのジョー』で綴られた物語は、ドヤ街で喧嘩や盗みに明け暮れ、その日暮らしの生活を送っていた矢吹丈の成長の物語であった。少年院に入った矢吹丈は、永遠のライバルとなる力石徹と出会い、ボクシングにのめり込んでいく。丈の才能に惚れ込んだ元プロボクサーの丹下段平による指導の下、丈は少年院でトレーニングを積んでいくのだ。
「あしたのために」
丹下段平は、少年院の中にいる矢吹丈に葉書を書き続ける。「あしたのために」と題された手紙には、哲学的な問答や励ましのメッセージが書かれているわけではない。「=ジャブ=」、「=右ストレート=」といった副題と共に、ただひたすらにトレーニングメニューが書き記されているだけだ。だが、その日暮らしの矢吹丈に必要だったのは、抽象的な励ましの言葉ではなく、歯を食いしばって臨む鍛錬の日々だった。“刹那”を生きてきた丈が、より強い自分、リングに上がる“あしたの自分”、つまり「あしたのジョー」の為に練習を重ねる。社会の最下層で”刹那”を生きてきた青年が、”あした”という概念を手に入れるのだ。
『メガロボクス』で描かれた「あした」
ドヤ街から未来の格差社会へ
『メガロボクス』においても、同様の物語が展開される。だが、東京は山谷のドヤ街を舞台にした『あしたのジョー』に対して、『メガロボクス』の舞台は未来の極端な格差社会だ。貧困層の人間には市民権もない。主人公のジョーは、“ギア”と呼ばれる強化骨格を身に着けたボクサー同士が戦う“メガロボクス”のボクサーだ。本名もIDも持たないジョーは、非合法な地下の賭けボクシングで八百長行為に加担することで生計を立てている。
ジョーを変える、他者との出会い
『メガロボクス』におけるキャラクターの設定や物語は、『あしたのジョー』と大きく異なる。だが、共通しているのは、何も持たず格差社会の底辺に生きる青年が、ライバルとの出会い (つまり他者との出会い) によって、「あした」という概念を獲得していくという展開だ。目標を見つけ、「あした」に向かって突き進むジョーの目の前に現れるのは、同じく「あした」を目指すライバルたちだ。各々が一つ上のステージに立つ自分の姿を追い求め、リングに上がる。この出会いが、ジョーに新たな概念をもたらすのだ。
ライバルにあって、ジョーにないもの
戦争で全てを失ったアラガキは、ジョーへの嫉妬や南部への復讐心を乗り越え、「前に進むため」にジョーと拳を交わす。アラガキのモチーフとなった『あしたのジョー』の金龍飛は、朝鮮戦争でのトラウマを抱えながら矢吹丈と戦った。壮絶な過去を持つライバルたちは、ある意味では“空っぽ”の主人公であるジョーと丈の前に立ちはだかる。だが、紙一重でライバルたちを超えていくジョーと丈の後ろには、一筋の道ができていく。あしたに向かって生きる中での、ほかでもないライバル達との出会いとリングの上で育まれた友情が、ジョーと丈の「過去」を形成していくのだ。
『あしたのジョー』の矢吹丈と、『メガロボクス』のジョーは共に、社会の底辺で刹那を生きる若者だった。そんな青年が、”あした”と”過去”という概念を獲得し、一人の人間となっていく。この物語は、50年の時を経て、国境を越えても、人々の心を鷲掴みにした。『メガロボクス』は、世界中の人々に「あしたのために」生きることの大切さを思い出させてくれたのだ。