映画『さよならジュピター』公開40周年
日本を代表するSF作家の一人である小松左京が製作・原作・脚本・総監督を務めた映画『さよならジュピター』が2024年3月17日(日)に公開40周年を迎えた。『さよならジュピター』は多くのSFファンとクリエイターに影響を与えた作品で、小松左京の生誕90年、没後10年にあたる2021年にはBlu-ray版も発売され話題を呼んだ。
映画『さよならジュピター』は1977年の映画『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』公開を受け、日本発のSF大作映画を目指して製作された作品だ。その製作過程には数々のSF作家や関係者が携わっていた。今回は、小松左京ライブラリから提供していただいた情報と共に、『さよならジュピター』の記録を振り返ってみよう。
スタートは立体アニメ
実は、『さよならジュピター』のルーツは、1976年のテレビ用立体アニメの企画にある。特撮大作映画として1984年に『さよならジュピター』が公開される8年も前の話だ。このアニメ作品について、小松左京は次のように語っている。
一九七六年に、私はあるアニメ製作会社から、3Dのテレビ・アニメ技術を使った、宇宙SFものの 原案をもとめられた。その時、「木星太陽化計画」という、ある科学者のファンタスティックなアイデアを骨子として、プロットをこしらえ、「さよならジュピター」の題名を用意したが、私の構想が、あまり大げさすぎたのにおそれをなしたのか、このアニメ化は流れてしまった。――しかし、その後、私の頭の中で、この原案のイメージは次第にふくらんで行き、一応の起承転結もついていた。
『さよならジュピター(上)』解説(サンケイ出版一九八二年)より
この作品は、東京ムービー新社の要請で企画されたもので、当時の最新技術を取り入れ専用メガネなしでもぼやけることなく見えるというものだった。このSF立体アニメ計画は企画だけで終わってしまったが、メカデザインはスタジオぬえに、男性キャラクターをモンキー・パンチ、そして女性キャラを萩尾望都にお願いする予定だったと小松左京は語っている。
海外展開を視野に入れた計画
1977年に公開された映画『スター・ウォーズ』は、エンタメ、マーチャンダイジング、そしてSFの流れそのものも大きく変えることになる。同作のアメリカでの大ヒットを受け、ゴジラの生みの親ともいえる東宝の田中友幸プロデューサーから小松左京に『スター・ウォーズ』に匹敵する、娯楽性の強い活劇もののSF映画の原作の依頼が舞い込んだ。
田中友幸プロデューサーの要請に対し、小松左京はSF映画の原作は引き受けるが、そのかわりに日本のSF作家、とくに若手がどんな映画を望むかをブレイン・ストーミングし、方向性を決めたいと返事をした。その際に、ストーリーの核となったのが、先の幻となったアニメ版『さよならジュピター』だった。
アニメ版のアイデアは、木星の太陽化計画中に、ブラックホールによる危機が発生するというのもので、『さよならジュピター』というタイトルは既にアニメ企画の際に決まっていた。十数回のブレイン・ストーミングを経て、小松左京による第一稿が1979年に完成し、スタジオぬえがストーリーボードを作成。また外国人出演者が多く、日米合作化も考えられることから、シナリオの英語版も作製されていた。
その英語版をアメリカで著作権登録したところ、『スター・ウォーズ』の製作にゴーを出した名プロデューサー、アラン・ラッド Jr.のラッド・カンパニーから原作を買い取りたいとのオファーがあったという。しかし条件が、主役をアメリカ人として、原作者が口出しすることを一切認めないというものだったため、この申し出は実現しなかった。
映画『さよならジュピター』誕生のきっかけとなった『スター・ウォーズ』の最重要関係者が本作に興味を示していたとは、何とも不思議なエピソードである。ちなみに、『さよならジュピター』を断念したアラン・ラッド Jr.は、ショーン・コネリーを主演に木星を舞台にした映画『アウトランド』(1981)を製作している。
様々な才能が結集された製作過程
映画『さよならジュピター』の製作は、ファンクラブだった小松左京研究会のメンバーにより、ビデオ絵コンテの作成(絵コンテをホームビデオで撮影し、紙芝居のように全体の流れを確認)やセットを検討するための手作りミニチュアの制作がボランティアで行われた。また、スタジオぬえのデザインを見事なまでに精巧にミニチュア化してゆく小川モデリングの小川正晴らも加わり、『さよならジュピター』のイメージを映画という形に変換させるための重要な準備が整えられていったという。
そして、本編を橋本幸治監督、特撮を川北紘一監督が担当し、『スター・ウォーズ』で迫力ある宇宙シーンを描いたミニチュア撮影用のモーションコントロールカメラを、工業用ロボットの生産で知られる株式会社アマダの協力で日本で初めて導入。出演は三浦友和や、後に小室哲哉ひきいるglobeのメンバーとして活躍するマーク・パンサーも天才少年科学者役で登場している。音楽は「マクロス」シリーズや映画『復活の日』(1980) で知られる羽田健太郎、そして主題歌「VOYAGER〜日付のない墓標」は松任谷由美が担当し、非常に豪華な布陣となった。
小松左京を始め、様々な人の想いを込めた映画「さよならジュピター」は、1984年3月17日に劇場で公開。しかし、残念ながら高い評価を得ることは出来なかった。日本のSFファンのために、世界に誇れる日本発のSF超大作を創り上げる。その挑戦は無謀であり、見果てぬ夢だったのかもしれない。
しかし、小松左京は『さよならジュピター』のあとがきで述べた「たとえ勝ち目はなくとも、挑戦する側にくみしたい」という気持ちこそが、このプロジェクトそのものを象徴している。それに、商業用映画に初めてスタッフとして参加した樋口真嗣監督をはじめ、庵野秀明監督ら多くのクリエーターに『さよならジュピター』は影響を与えている(アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) の舞台となった“第三新東京”の名称は、実は「さよならジュピター」の冒頭を飾った宇宙船“TOKYOIII”が元になっているという)。
『さよならジュピター』のその後
先に、『さよならジュピター』はアラン・ラッド Jr.のラッド・カンパニーからハリウッドでの映画化の打診があったことを紹介したが、実は2011年に小松左京が亡くなった後に、別のプロダクションから新たな映像化の打診があったという。企画を検討していたのは、紀里谷和明監督、モーガン・フリーマン主演の映画『ラスト・ナイツ』(2015) を製作した Luka Productions Internationalだ。
その後、試算したところ映像化には100億円でも製作費は足りないということで、莫大な費用がネックとなり交渉は中断された。それでも、ラッド・カンパニー、Luka Productions International、いずれも『さよならジュピター』がハリウッド映画になるポテンシャルを秘めていると判断していたことは確かだろう。
Luka Productions International に『さよならジュピター』の映像化を提案し尽力した堺三保はその後、ハリウッドでクラウドファンディングによる短編映画「オービタル・クリスマス」製作を企画し、2021年に自身の制作・監督・脚本により完成させた。現在は長編版『オービタル・クリスマス』の開発資金を募集しており、2024年5月7日(火) までクラウドファンディングを実施している。
2021年には『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の重要なシーンで松任谷由実が作詞作曲した『さよならジュピター』の主題歌である「VOYAGER〜日付のない墓標」が起用され、大きな話題となった。これは、庵野秀明監督が松任谷由実に直接お願いをして実現したという。この時に『さよならジュピター』が再注目されたことをきっかけに、同年、ハルキ文庫『さよならジュピター』が重版され、『さよならジュピター』初のBlu-rayも発売されることになった。
公開から40年が経過しても、多くの人々に影響を与えている『さよならジュピター』。日本時間2024年3月11日(月) には、山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』がアジア映画初のアカデミー賞視覚効果賞を受賞した。かつて小松左京が『さよならジュピター』の製作時に掲げた「挑戦」の精神は、確かに日本のSFに根付いている。
Blu-ray版『さよならジュピター』は東宝より発売中。
小松左京が自らノベライズを手掛けた小説版『さよならジュピター』はハルキ文庫から文庫版が上・下巻で、徳間文庫からKindle版が発売中。
情報提供
小松左京ライブラリ
小松左京「日本沈没」50周年の特集記事はこちらから。
2019年10月から12月まで世田谷文学館で開催された「小松左京展―D計画―」では、『さよならジュピター』に関する貴重な資料が展示された。詳細はこちらの記事で。