宮内悠介「偽の過去、偽の未来」 | VG+ (バゴプラ)

宮内悠介「偽の過去、偽の未来」 

カバーデザイン 浅野春美

宮内悠介「偽の過去、偽の未来Pseudopast and Pseudofuture
4,422字

リビングのソファに仰向けになり、何気なく窓に目を向けた。

空き巣避けの鉄格子の向こうに、夏のブルックリンの空が広がっている。空調のうなりとともに、タン、タン、と音がするのはミシェルが叩くコモドール64のキーボードだ。犬がしゃっくりでもするみたいに、外付けのディスクドライブが動き出し、やがてタイトル画面が起動するのがわかった。身を起こすと、空の残像がディスプレイと重なる。

――指輪物語、第一巻。

BGMは単音で、画面は黒背景に白一色のみ。これは、父が日曜を使って手作りしたゲームで、費やせる時間が少なかったからだ。それでも、不思議とホビットのフロドになりきって、中つ国ミドル・アースを冒険している気にさせてくれる。わざわざ作ろうと思ったのは、市販の『指輪物語』のゲームが気に入らず、もっとRPG風のものを遊びたいと思ったからだそうだ。

ちなみに、わたしは男の子であったらアタリと名づけられていたらしい。

父についての説明は、これで充分だろう。

ミシェルは同じクラスで、得意科目は算数。前に遊びに来た彼女が、ふとした拍子にこのゲームのバグを見つけ、以来父に気に入られ、しばしば学校帰りに二人で父のゲームを遊ぶようになった。ていよくデバッグの手伝いをさせられていたとも言える。でも、そんなことはかまわなかった。わたしたちは、そうすることが楽しかったから。

そのうちに、階段を登ってくる足音がした。あれは父だ。玄関の二つの鍵が回り、仕事帰りの父が顔を出した。ミシェルの姿を見て、やあ、いらっしゃい、と温和に言う。帰宅は、だいたい母よりもエンジニアの父が先。自慢の服飾デザイナーの母は、もう少し遅い時間に、スーパーマーケットで買ったTVディナーとともに帰ってくる。それでもわたしは言う。

――おかえりなさい、少し遅かった?

返事はお決まりのもの。

――魔法使いはけっして遅れないぞ、フロド・バギンズ。早すぎることもない。

事実、父はわたしにとって魔法使いだった。このゲーム一つ取っても、どうやって動いているのか見当もつかない。父がわたしに見せてくれたもの、それは一言であらわすならば、未来だった。たった二色の画面には、けれども、来たるべき世界の息吹と脈動があった。

その後、わたしは情報工学を学び、学部から博士卒まで丸九年をかけた。ポストドクターになったころ、両親はすでに離婚していて、親権は父が手にした。一方、ミシェルは飛び級をくりかえし、わたしが高校一年のときにMIT入りした。それはもう、リーマン予想でも証明する気なのかってくらいの勢いで。もっとも彼女はそうはせず、わずか二年で学部を出ると、クイーンズの一角にソフトハウスを立ち上げ、あっさり会社を軌道に乗せた。

こんな運命の妙があり、できの悪いはずのわたしのほうが研究職に就いた。

テーマは現代貨幣理論と暗号通貨。このために、並行して経済学の学位も取った。「アカデミズムの宝くじ」を運よくひき当て、イリノイ州立大学の助教授になったのが三十五歳のとき。これを機に、アーリーリタイアを決めこんだ父とともにブルーミントンの町外れに居を求めた。

いざ引退となった父は実にのびのびと人生をエンジョイしはじめた。まず古いスクールバスをどこかから買い入れると、それを庭に置き、電気をひき入れて自分の秘密基地とした。コモドール64を中心に古いコンピュータやゲーム機を配置し、いったいどこで仲よくなったのか、週末には同世代の仲間を集めてダンジョンズ・アンド・ドラゴンズのテーブルトークRPGに興じながらジョイントをふかすようになった。

たまに近所から苦情が来て、そのときはしょんぼりするものの、翌日にはけろりとしている。

かくして、わたしは書斎の窓際に机を置き、ときおり外の黄色いバスから「ファイアボール!」などと呪文が聞こえてくるなか、論文を書くようになった。幸い、これまでの論文の参照数も悪くない。でも本当のところ、わたしが想定している読者はたった一人、ミシェルだった。ミシェルの目に触れると考えると、手を抜けないと思えてくる。事実、彼女は会社を回す立場にありながら、ときおり気まぐれにわたしの論文を読み、驚くほど的確な意見をメールしてくれたりもした。アカデミズムに飽きたらうちで働けとも言われた。

イリノイに来たわたしが着手したのは、資源配分などをめぐる複雑な合意コンセンサスの形成に暗号通貨を用いることだった。さしあたってモデルに選んだのは、カスピ海の油田採掘事業だ。歴史的には、この事業は沿岸五ヵ国がそれぞれに採掘権を主張したのち、うやむやのうちに配分が決まった。こうした合意の形成を、もう少し簡易かつフェアに実行できないかということだ。

具体的には、原油のロットごとに独自の暗号通貨のトークンを紐づける――と、このあたりは、呪文だとでも思ってくれればいい。ファイアボールみたいなものだ。トークンが作られたのちは、ブロックチェーンで承認される過程で、ゲーム理論にもとづいて所有権の配分が決まる。これを暗号通貨のスマートコントラクトにちなんで、スマートコンセンサスと名づける。

このために、コンセンサス指向言語なるものも開発することにした。厄介なのは、コンパイラの開発だ。世界中のマシンパワーを食うことを想定すると、性能はよければよいほどいい。だからこれは、開発過程からオープンにGitHubに公開してしまう。課題やわからないところを課題イシューとして公開すると、誰かが解決策をアドバイスしてくれる。もっとも、アドバイスの七割ほどは同じ人物のアカウントによるものだった。わたしは、ときおりそれがミシェルの手によるものではないかと夢想した。少なくとも、そうであったら嬉しい。――呪文はここまで。

父はというと、あいかわらず秘密基地のスクールバスにこもってレトロゲームを遊んだり、酒を吞んでそのまま寝てしまったりだった。毛布をかけてやりにバスに入ると、まず煙たさに閉口する。何より、ここに未来はない。けれど、過去にこもる父を責める気にはなれなかった。

母が再婚をしたのだ。相手は気鋭の生物学者。実のところ、これが父をスクールバス購入に踏み切らせたきっかけだった。わたしとしては、母の新たな門出を祝福したい。でもこの一件が、父の劣等感を刺激しただろうことも容易に想像できた。幾度も補修されたコモドール64の外付けディスクドライブの裏には、いまも小さな箱が隠されている。結婚指輪だ。父にとって、母はまだ「いとしいしとmy precious」であったようなのだ。

翌朝デスクで目を覚ますと、今度はわたしに毛布がかけられ、父が庭で栽培したとうもろこしを茹でたものが皿に置かれていた。なんだか童話に出てくる動物のお礼みたいだ。

スマートコンセンサスの研究は、狭いモデル内で一定の成果を挙げた。正直に打ち明けると、着実に成果を出すためのものと割り切った研究だ。ところが、これがメディアで取り上げられ、未来志向の研究者として駆り出されることが増えた。要するに、分断が次々と可視化される世界で、わたしの通貨が銀の弾丸であるかのように見なされたのだ。

まるで未来学者のように扱われ、実際、未来予測も求められた。わたしは誠実にそれに応えようとしたが、徐々に、何かが嚙みあわないと感じるようになった。研究に専念したいというのもある。けれどそれ以上に、世を見れば無数の新技術があり、こちらが咀嚼するよりも早く新たな技術がプッシュされてくる。あげく、未来はカオスという雲の向こうにある。気がつけばわたしは情報に押しつぶされ、身動きが取れなくなっていた。

助けてほしかった。とりわけ、かつて未来を見せてくれた父に。でもその父は、ジョイントで脳を煙らせ、過去のなかにいる。わたしは本来の研究も滞らせ、そして何より、未来を見失った。かつて父が見せてくれたような、次の世代に託すべきものを。

ミシェルを思うと恥ずかしかった。自分のこんな姿を、彼女には見せたくはない。

わたしの様子がおかしいことに勘づいた父が、珍しく苦言を呈してきた。控え目な口調ではあったものの、それはつまるところ、暗号通貨などという怪しい新宗教から手をひいたらどうか、というものだった。つい、わたしはかっとなってやりかえしてしまった。過去という病に蝕まれた父さんなんかに言われたくない。ノスタルジーの先に、死のほかに何があるのか、と。

父はというと、寂しげにこんなことを漏らしたのみだった。

「……俺は希望的な言葉を述べたかもしれない。でも、希望は勝利とは違う」

結果――わたしは、投げた。偽の予言者を演じるのをやめ、休暇を取って書斎にひきこもった。最初は何もせず、情報を断ち、庭を訪れる小鳥なんかを眺めた。そのうちに思い至った。確かに、過去という病はある。しかし、同じくして未来という病もあるのだ。

それから、研究者の本能か、ぽつぽつと自分のコンセンサス指向言語の改良に取りかかるようになった。途中、こんなことを思った。わたしは自分のキャリアのためにある程度無難な題材を選んだつもりだった。そうではなかった。ここには心からの声があった。わたしは、父と母にこそ、合意と和解をしてほしかったのだ。

いつのまにか累積していた皆のイシューに応じ、自分でも新たなイシューを立ち上げる。ここでまた、いつものあのアカウントから応答があった。そこには具体的な解決策とともに、おまけとして、最後にこんな一言が加えられていた。

――どのような代に生まれるかは、決められないことだ。

――決めるべきことは、与えられた時代にどう対処するかだ。

あの魔法使い、ガンダルフの言葉だ。

すぐにわかった。これまでわたしのイシューに答えてくれていたのは、父だったのだ。

それからだ。思わぬ形で、わたしの研究は現実に染み出していった。ミシェルの会社がわたしの暗号通貨を取り上げ、実験的に、漁業への応用に取りかかった。収穫をトークン化し、スマートコンセンサスで絶滅危惧種レツド・リストなども考慮し、持続可能な漁業を成立させようとするものらしい。国をまたいだ導入を促すために、買い手側にもインセンティブをつける。

うまくいくかはわからないけれど、ミシェルの実験は大きく取り上げられた。とにもかくにも、現実においてそれは動き出し、投資され、ミシェルの会社は大きくなっていった。

そのころ、わたしはスクールバスを訪ねて父の仲間たちに交じり、テーブルトークRPGを教えてもらった。煙たいのだけは困りものだけれど、やってみると案外に面白い。

「俺の時代は終わったんだよ」

ダイスを振りながら、父が片目をつむらせてそんなことを言う。そのわりに、指輪はまだ火山に捨ててはいないようだ。でもそれは仕方がない。わたしとて、無欲で勇敢なフロドのようにはなれない。魔法使いでもない。ただ、現在と向きあうのみだ。

結果、未来の創造につながればいいけれど、別にそうならなくてもかまわない。

 

 

 

 

 

宮内悠介さんにSFの題材としての暗号通貨技術について詳しくお伺いしたインタビュー記事をKaguya Planetにて先行公開中。「偽の過去、偽の未来」をより一層楽しめる内容となっておりますので、ぜひお読みください。

宮内悠介

1979年生まれ。小説家。日本SF作家クラブ、日本推理作家協会会員。2010年に「盤上の夜」が第1回創元SF短編賞で選考委員特別賞を受賞。同作を収録した連作短編集『盤上の夜』(東京創元社,2012年)にてデビューし、第33回日本SF大賞を受賞。SFや純文学など、ジャンル横断的に活躍しており、作品は韓国語、英語、中国語(繁体字)など、多くの言語に翻訳されている。2021年には『偶然の聖地』 (講談社文庫)が文庫化、『WIRED』(2021,vol.42)に「最後の共有地」を掲載。「最後の共有地」は「偽の過去、偽の未来」と合わせて暗号通貨シリーズとなっている。海外での経験も多く、執筆、翻訳、プログラミング、作曲など幅広い創作活動をしている。
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