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日本を代表するSF作家、藤井太洋が描いた近未来
初出から6年、名実ともに日本を代表するSF作家に
仮想通貨を扱ったSF小説『アンダーグラウンド・マーケット』(2015)の初出から、6年が経過しようとしている。同作の初出は2012年。『小説トリッパー』の2012年冬号に『UNDERGROUND MARKET』として収録された。作者の藤井太洋は、電子書籍『Gene Mapper』(2012)でデビュー。自費出版ながら7,000部以上を販売し、一躍SF界にその名を轟かせる。2014年に発表した『オービタル・クラウド』は、第35回日本SF大賞、第46回星雲賞(日本長編部門)を受賞。2015年からは日本SF作家クラブの会長にも就任し、2018年現在、名実ともに日本を代表するSF作家である。2017年には、伊藤計劃へのトリビュート作品「公正的戦闘規範」(2015)を収録した同名短編集がハヤカワ文庫から発売されている。
元エンジニア。仮想通貨が普及した東京を描く
デビュー当初はエンジニアとして働きながら小説を執筆していたという藤井太洋。そんな彼が『アンダーグラウンド・マーケット』で描いたのは、仮想通貨を利用した地下経済が形成された2018年の東京だった。『アンダーグラウンド・マーケット』は近未来SFとして、現在の東京の姿をどのように描いたのだろうか。仮想通貨の実用化も進みつつある今、改めて振り返ってみたい。
アンダーグラウンド・マーケットの原動力となった移民と若者
仮想通貨が社会的矛盾の緩衝材に
『アンダーグラウンド・マーケット』の舞台は、2018年の東京。2年後に東京オリンピックを控えるが、社会は「表」の経済と、「フリービー」(後述)と呼ばれる若者たちと移民が形成する「裏」の経済に分断されている。オリンピック招致による再開発や、TPP参加による規制緩和(あるいは規制強化)といった政治方針が、移民や下流社会に生きる若者のような社会的弱者の暮らしを圧迫しようとしている社会だ。しかし、この物語の中に生きる若者や、とりわけ移民たちは、どこか生き生きとしていて、力強い。テクノロジーと仮想通貨は、アンダーグラウンド・マーケット=地下経済という「逃げ道」を作り出し、社会的矛盾の緩衝材として機能しているのだ。6年前に6年後の現在を描いた近未来SF。技術的にはそれほど異なる点はなく、あたかも現在の東京のパラレルワールドを見ているかのようだ。
フリーランスの進化版!?主人を持たない「フリービー」とは
物語の主人公は、「フリービー(主人を持たない働き蜂)」と呼ばれるフリーランスのITエンジニアたち。ウェブエンジニアで営業もこなす木谷巧、ウェブデザイナーでフォトグラファーでもある鎌田大樹、デザインセンスは皆無だが天才的なエンジニアである森谷恵、この三人を中心に物語が展開される。
オリンピックへ向けた再開発の余波で実家を失うことになっていたり、老老介護の連鎖から抜け出すために実家を出ていたり、のっぴきならない事情を抱えて東京の街に生きている。自転車で東京の街を駆け回り、ウェブデザインの仕事を獲得してはこなしていく「未来」のフリービーの生活は、現代を生きるフリーランスの若者にとってはあまりにもリアルな設定だ。
共生する移民と若者たち
フリービーの若者たちが暮らすのは、「ハニカム・ネスト(蜂の巣)」と呼ばれる、三畳ほどの部屋が建築基準法ギリギリの密度で圧縮されている簡易アパートだ。ここに暮らすフリービーの若者と移民たちは、課税されない仮想通貨を利用して独自の経済圏を形成し、「アンダー・グラウンドマーケット」を生きているのだ。先に触れたような国家による経済的圧政に対抗しているのが、移民ネットワークというわけだ。主人公たちフリービーは、移民たちの力を借りながら、アンダーグラウンド・マーケットを取り巻く事件を解決していく。現実の2018年の東京では、移民と若者たちは、お互いの距離をどう見積もるだろうか。
「正しさ」の正体
『アンダーグラウンド・マーケット』には、SFらしくヴィランも登場する。移民や仮想通貨に対して「法律」をかざすヴィランに遂行されるのは、「経済」における正義だ。国家の施策に生活を翻弄されてきた人間たちにとっては、法律が騙る「正しさ」ほどいかがわしいものはない。それを守ったところで、救われる保障など一切ありはしない。中国系アメリカ人SF小説家のケン・リュウによる短編「月へ」で描かれた、アメリカへの亡命を目指す中国人移民の物語と重なる。法律という「高尚に見える道義」と、それを決める政府は、時と場所によって中身を変える。『アンダーグラウンド・マーケット』で生活を立て直そうとする移民たちを描写する言葉は、「生活の基盤が出来上がるまでは待ってほしい」「なんとかしようとしている」という、リアルで、法律では測りようのない「正しさ」なのだ。
近未来SFが教えてくれるもの
物語を通して、「日本人」である主人公たちは、移民たちが同じ世界に生きる仲間であり、自分も同じ立場の人間だという確信を深めていく。『アンダーグラウンド・マーケット』は、仮想通貨の物語である以上に、東京という街の物語であり、移民たちの、そして若者たちの物語だ。表社会に移行する術がほとんどないという点ではディストピア的だが、「大人たち」との棲み分けができているという点では、ある種ユートピア的でもある。近未来SFはいつだって、私たちに現実社会の「if」の姿を見せてくれる。仮想通貨はツールでしかない。仮想通貨が実用化された社会をどう生きるのかは、他でもない人間にかかっている―。そんな、大切だが見落としがちな事実を再認識させてくれるのが、『アンダーグラウンド・マーケット』という作品なのだ。
残念ながら、2018年以降の物語は、同シリーズでは描かれていない。「未来」をどう描いていくかは、他でもない私たちの手にかかっている。