叫び | VG+ (バゴプラ)

叫び

第三回かぐやSFコンテスト審査員特別賞受賞作品

糸川乃衣「叫び」

 

一九六三年、チャーチルダウンズ。ケンタッキーダービーの最中に聞く者の鼓膜を引き裂かんばかりの絶叫が次々と上がったとき、私たちにははじめ、それがダートを疾走する馬たちの声だとわからなかった。凝視した画面のなかで、馬上の騎手がスタンドの観客が機銃掃射に遭ったようにばたばたと倒れていった。胸をおさえ喉を掻き毟り泡を吹く人々と乗り手を失い暴走する馬たちを暫し映し、中継は途切れた。

我らは群れ。

奇跡的に死者はゼロ、しかし落馬と転倒による負傷者は千人超。後に「はじまりのチャーチルダウンズ」と呼ばれるようになるこの変事の原因として真っ先に疑われたのが、東側による化学兵器の使用だった。ところが同様の現象は、分断のカーテンとは無関係に各地で起こった。イギリスの牧場で、ソビエトの厩舎で、リビアの食肉処理場で、日本の神社で。現場に居合わせた者たちは口々に語った。息ができなくなりました。心臓が破れるかと。体が千切れそうな痛みに襲われて。ええ、馬が鳴いたあと急にです。断末魔の叫びめいた、およそ馬らしくない、全身の毛が逆立つような、あの声で。

ほどなく噂が流れはじめた。

馬だ。

馬のしわざだ。

馬の叫びは悪魔の叫び、聞けば命を削られる。

我らは道づれ。

その先はもう西も東もそれ以外も関係なく、競馬場や動物園が閉鎖され、耳当て型防音具が大売れし、屠畜場の作業員に危険手当が支給されるようになり……と、どこも概ね同じ流れを辿った。どんな馬がどんな条件の下で叫ぶのか? ロバはシマウマはキリンは? ろくに調査もしないまま、私たちは馬の形をしたものをまとめて恐れ遠ざけた。

我らの道は絡まりあって延びてきた。

競馬は多くの国で無期限の休止に追いこまれた。維持に金がかかるうえいつ叫びだすとも知れない競走馬を、関係者らは自主的に、あるいは世間からの圧力に屈して潰した。後者の絶望は深かった。しまいには自死する者たちまで現れたが、命を賭した抗議も大勢を変えるには至らなかった。何を今さら。これまでだって散々、役立たずの馬や用済みの馬に対して同じことをしてきただろう。私たちは鼻で笑うと防音具で耳を塞ぎ、馬小屋に放牧地に火を放った。

我らなくしてお前たちはなく、お前たちなくして我らはない。

叫んだ馬を、いずれ叫ぶに違いない馬を、私たちは排除していった。

時とともに激しさを増すその流れのなかで、しかし、立ちどまる者もいた。

お前たちはそれをわかっているか。

アリフは八歳。少し前まで騎手だった。

彼の地域の馬は小柄だから、乗り手は子どもに限られる。レースの優勝賞金は、父さんの稼ぎひと月分。家族みんながお腹いっぱい食べるため、アリフは馬を走らせた。

舐められるな。力を使え。誰がボスだか思い知らせろ。かつて自身も騎手だった父さんは、アリフにそう教えた。馬はアリフに従ったけれど、本当は気になっていた。なにかもっと、別のやり方はないのかな。父さんに殴られるたびに思うのと同じことが、鞭を振りおろすたび頭を掠めた。

村から馬が消え、アリフたちは貧乏になった。父さんと母さんは出稼ぎにゆき、姉さんは笑わなくなり、チビたちは四六時中喧嘩してるか泣いてるか。アリフもひもじい。相当きつい。にもかかわらず、心の奥で、微かに安堵してもいた。

どこからか逃げてきたらしい馬と鉢合わせたのは、井戸に水を汲みに行ったときのことだった。叫ばれたら、と足が竦んだ。だけど馬は、じっと見つめてくるばかり。もしやと閃き、水桶の水を両手で掬う。鼻先に近づけると、吸いこむみたいに飲み干した。

我らにはわからなくなった。

無口と名づけた馬を、アリフは森に隠した。

ふたりは大抵並んで歩く。無口が乗れば? と誘ってくれたら、そのときは喜んで乗せてもらう。体温が溶けあうのを感じつつ、歩調をゆだね、呼吸をあわせ。心と体をかさねていると、じきに境目が消失する。アリフの耳には聞こえない音を拾い集め、無口の目には映らない色を数え、蹄が落ち葉を踏みしだく感触を足の裏で楽しみながら、ひとりになったふたりは進む。

この先もともにあるべきか、お前たちは我らに値するのか。

ヴェルナーとその家族は競走馬の厩舎を営んでいた。

というのは、遠い昔の話。

三人いた息子と方々から任されていた馬たちは、先の大戦で出征し、それきり戻ってこなかった。心痛で妻も死んだ。ヴェルナーだけが生き残り、敵兵を殺して繋いだ命をひとり酒でふやかしている。

ある晩、用を足そうと表に出ると馬がいた。

潰す金を惜しんだ誰かが棄てていったのだろう。青毛の若駒だ。慣れない場所と知らない男に怯え、神経質な足踏みをしていた。

悪かった。

掠れた声が、闇に落ちた。

悪いことをした。あんたらには、本当に……。

我らは問いかけた。

ヴェルナーは夜毎、泣き叫びながら目を覚ます。

夢だと理解してからも、全身に染みついた血の臭いは消えてくれない。外に飛びだしホースを掴んで頭から水をかぶろうとしたとき、奇妙な音が聞こえてきた。

ぷう、ぷすう、ぷすう、すう……。

音を辿って厩を覗くと、寝そべって熟睡する青毛が目に入った。

穏やかに上下する腹をヴェルナーはみつめる。

一息ごとに鼻腔を満たす馬の匂いが深くなり、血の臭いが引いてゆく。

この苦痛に気づいているか。

ゴール板を駆け抜けた馬群をうっとりと見送るエバに、当時交際していたマヌエラが言った。

馬は群れることで身を守る生き物だ。置き去りは即ち死。だから一頭が走ればみんな走る。競馬はその性質を利用してるんだよ。

勝ちたくて走ってるんじゃないの?

それはない。走る理由は一に調教、二に性質。あとは苦しい時間を一秒でも早く終わらせたいとか、せいぜいそんなところでしょう。

黙りこんだエバを、ナイーブだとマヌエラは笑った。走らせてやればいいんだよ。競馬がなけりゃ、この子らは生まれてすらこない。そういうものなんだから。

そういうもの。

確かにその通りなのだろう。

わかっちゃいる。

わかっちゃいるが呑みこめず、せめて一線を退いた後は心のままに過ごせればと、引退馬のための小さな牧場を作ったのだった。

五年続けたその牧場を、先月畳んだ。近隣住民らによる脅迫が原因だった。

世話していた十頭みんなを生かす道を探したけれど、手伝ってくれていた友人たちも去り、独りで救えたのは四頭きり。その四頭とともにエバは今、人里離れた山あいで暮らしている。

奴隷ではなく友として、向きあいなおす気はあるか。

四頭と一人の生活をはじめてから三年が過ぎた。

その間一度も、馬たちは叫ばなかった。興奮したりはしゃいだりして大きな声を出すことはあれど、それはただの嘶きにすぎず、話に聞く叫びとは明らかに違った。

叫ぶ馬と叫ばない馬がいるのだろうか。

そもそも叫びとはなんなのか。

エバは誰かと話したかった。だが、馬を擁護する素振りを見せただけで吊るし上げられるこの世界のどこにそんな相手がいるのか、皆目検討がつかなかった。

我らは訴えた。

アリフ、ヴェルナー、エバ。彼らは私たちの内に存在した。

だのにああ、お前たちときたら。

では、その他大勢の私たちは? 名前で呼ばれた馬たちや、それよりも遥かに多くいた名もなき馬たち、その声を少しでも聞こうとしたか?

我らの叫びを闇雲に恐れるばかり。

私たちはわかっていなかった。

我らは決断する。

決定権を持つのが自分たちだけだと、どうして思いこんでいたのだろう。

この群れに見切りをつける。

馬が溢れた。

チャーチルダウンズからまもなく六十年になろうというある日のことだ。これだけの数が一体どこに隠れていたのか、もしくは匿われていたのか、大都市の路上から無人の荒野にまで湧きだすように現れ、そして叫んだ。

咆哮が連鎖する。空を裂き海を割り大地を震わせ轟き渡る。

私たちは耳を覆って逃げ惑ったが、奔流と化した叫びは壁を貫き防音具も指も突き破って押し入ってきた。

予期したような肉体的な苦しみは訪れなかった。

ただ心が、張り裂けんばかりに痛かった。

私たちはようやく理解した。

だけどもう間にあわない。

我らの道は絡まりあって延びてきた。切り分けることは能わない。

馬たちはゆく。走るために作られた身も牽くために作られた身も関係なく、駆けたいものは駆け、そうでないものは悠々と。愛された馬、顧みられなかった馬、飼い慣らされた馬、野に生きた馬、温厚な馬、猛獣のごとき馬、いま生きている馬、かつて生きていた馬、すべての馬がひとつの大いなる群れとなり、蹄で世界を踏み均す。

馬たちは出てゆく。

記憶から。

記録から。

であれば根本からほどくまで。

馬たちが首を振るうたび、きつく絡みついた絆が緩んでゆく。

私たちは忘れる。対話を試みてくれた同胞がいたことを、彼らを駆り立てる競技があったことを、許しを得または捩じ伏せその背に跨ったことを、馬力という言葉の意味、誰に重い煉瓦を運ばせたのか、なんのために道を舗装したのか、物語から天馬や一角獣が去り、絹の道は消え、騎馬隊を操る王たちは存在しなかったことになり、私たちは散り散りに隔てられる。私たちは失う。速さを遠さを広がりを繋がりを。ねだられて額を掻く間この肩に預けられていた、重みと温みと匂いとを。

さようなら、永遠に。

もしくはまた、別のどこかで。

私は目を覚ます。

行商に向かう途中、木陰で寝入ってしまったらしい。

夢を見ていた。巨大な市場の夢だ。嘘みたいな色の目や髪や肌をした人たちが、知らない言葉と匂いが、用途のわからない奇妙な品々が、石で固められた通りに氾濫していた。

人々の傍に獣がいた。獣は大きく、静かだった。脚が長く、首も顔も長く、見事な筋肉で胸は隆起し臀は締まり、風になびく鬣と左右に振れる尾をもち、豊かな睫毛の下の瞳は、光を浮かべながらも底が見えず……

地面に描こうとする端から残像が遠ざかる。

私は頭を振り、立ちあがる。

重い荷車を牽き、軋む脚で、ぬかるんだ道を歩きだす。

 

 

 

 

【参考資料】
辻谷秋人(2016)『馬はなぜ走るのか やさしいサラブレッド学』三賢社
林由真(2023)『引退馬保護活動が抱える理想と現実 引退馬の未来に小さな光を』日本橋出版
藤沢和雄(2022)『これからの競馬の話をしよう』小学館
本村凌二(2013)『馬の世界史』中央公論新社
本村凌二(2016)『競馬の世界史 サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで』中央公論新社
BS世界のドキュメンタリー『少年騎手の宿命〜インドネシア島物語』Seventyone Films(独、2019)

 

第三回かぐやSFコンテスト特設ページ

※糸川乃衣「叫び」は審査員特別賞の副賞としてKaguya Booksから刊行された短編集、糸川乃衣『我らは群れ』に再録されています。

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糸川乃衣

少ない文字数では小さなことしかできないという思いこみから長編だけを読み書きしてきた。それがいかに物知らずであったかに気づかせてくれたのが、蜂本みさ著「冬眠世代」。わずか7,363字でこうも豊かな世界を描けるとは、という衝撃とともに視界が開け、自分でも短編を書くようになった。第1回星々短編小説コンテスト正賞受賞、以降、雑誌『星々』各号に作品掲載。モズがミミズをはやにえにする瞬間を目撃したことがある。

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