大木芙沙子「二十七番目の月」 | VG+ (バゴプラ)

大木芙沙子「二十七番目の月」

カバーデザイン 梅野克晃

先行公開日:2022.12.24 一般公開日:2023.2.4

大木芙沙子「二十七番目の月」
10,000字

妻は足の爪を切っている姿をけっして見せてくれなかった。

そのことについて、夫であるいちは何も思っていなかったわけではない。大学の同窓だった彼女とは、卒業して、就職して、二十六で結婚した。結婚して二年、付き合っていた期間もふくめれば、もう十年一緒にいることになる。今では妻のすきな曲、つけている香水、かかさず聞くラジオの番組、友人の顔ぶれ、幼いころ飼っていたハムスターの名前、行きつけのコーヒーチェーン店、苦手な天気、寝る前にする柔軟体操の手順、緊張すると唇を尖らせる癖、それに妻自身からはぜったいに見えない耳たぶの裏のホクロまで、佐一はくまなく知っていた。だからむしろ不思議だった。どうして妻が、足の爪を切るところを見せてくれないのか。

そもそも妻の足の親指を、佐一は見たことがない。厳密には、左足の親指。右足の親指は何度も見たことがある。ほかの四本よりふっくらとしたその指には四角いちいさな爪がついている。自宅ではスリッパも履かずに裸足でいることの多い妻の足の指を見ることは、同居していればそう難しいことではない。でも左足の親指だけはべつだった。妻は左足の親指に、つねにカバーをつけていた。昼夜を問わず一日じゅう。学生時代からずっと。

それ、と佐一はわりとはやい段階で彼女に訊いた。それ、なんで親指にだけ?

デリケートな話題かもしれないから、軽率にふれないほうが無難だろうかとも考えた。でもずっと妙な気を遣われるのも、彼女だって嫌だろう。それに、たとえその中身がからっぽでも、呪詛のタトゥーで真っ黒でも、ドロドロに溶けかかった緑色でも、佐一は平気だった。平気な顔をしようときめていた。しかしいちおう、こう付け足した。言いたくなければ、もちろん言わなくたっていいんだけれど。

うーん、と彼女は言った。大学近くのカフェのテラス席だった。五月の終わりで、外の席にすわるにはすこしばかり暑すぎた。彼女の九本の足の爪は蜜柑色に塗られ、左足の親指にはそれとよく似た色のサテン地のカバーがかぶせられていた。口のところにゴムが通され、外れにくいようになっているそのカバーは、シチュエーションによって素材が変わった。服に合わせてなのか、色のバリエーションも豊富だった。一本だけカバーをつけられた親指は、ナイトキャップをした赤子のようにも、布袋をかぶせられた人質のようにも見えた。サンダルの足先をぶらぶらさせて、汗をびっしりかいたアイスコーヒーのグラスをなでながら、彼女は「傷つくと大変だから」と言った。「傷つけても大変だし」

彼女によると、左足の親指はほかの指よりも爪が硬いらしい。そのため靴下をつきやぶったり、人や物をひっかいてしまったりすると危ないので、カバーをかけているという。でも最初に言った傷つくとっていうのは、その爪が、ってことでしょう? 佐一が訊くと、彼女はそうだとうなずいた。

それきりその話は終わってしまった。彼女が親指を見せてくれることはなかった。そのうち自然と見る機会もあるだろうと思っていたが、けっきょくその機会がおとずれたのはそれから十年経ってからだった。海へ行ったときも、温泉に入るときも、セックスをするときも、彼女はぜったいにカバーを外そうとしなかった。

結婚して同じ家に暮らすようになってから知ったのだが、妻は足の爪をかならず十日おきに切った。それは毎回、一日のズレもなく、きっかり十日おきだった。

爪を切るとき、妻は言う。

「ちょっと爪切るから、見ないでね」

たいてい夜で、佐一はそのとき夕飯の洗い物をしたり、動画配信サービスで映画を見たりしている。うん、と佐一が返事をするや妻は洗面所へいき、戸を閉める。中からは、パチン、パチンと爪を切る音がする。見ないでと言われた佐一は、蛇口をすこしだけしめて水の勢いをよわくする。あるいは動画の音量をすこしだけちいさくして、その音に耳をすませる。その音から、わずかでも何かを知ろうとする。パチン、パチン。

だけどそんな音で何かがわかるはずもない。とはいえはっきり「見ないで」と言われてしまっている手前、覗き見るわけにもいかない。見せてくれと頼めばあるいは見せてもらえるのかも知れないけれど、足の爪を切るところを見せてくれと頼むのは、さすがに滑稽に思えて気がひけた。だからずっと、ただその音だけを聞いていた。

でも結婚二年目、思わぬところでチャンスがめぐってきた。

「お願いがあるんだけど」

リビングのソファに腰をおろし、沈痛な面持ちで妻は言った。膝のうえに置かれた右手には、親指にだけぐるぐると包帯が巻かれている。その日の昼間、階段から落ちた拍子に手をついて、あらぬ方向に曲げられてしまったかわいそうな親指。

包帯の厚みでふだんの三倍くらいのサイズになった痛々しいそれを見ながら、佐一は何でもどうぞ、と言った。

「足の爪をね、切ってほしいの」妻は言った。

ほんとにいいの? と訊ねた佐一に、妻は「だって自分じゃできないから」と言った。やや不服そうな表情だった。それでも佐一はうれしかった。妻は洗面所の棚から紺色の巾着袋をとってきて、佐一にわたした。「これを使って、私の言うとおりに切ってね」そう言って、唇を小鳥のように尖らせた。佐一は、まかせてとうなずく。手先の器用さには自信があるほうだった。

ソファのうえで立膝をつき、人差し指と中指にひっかけるようにして、妻は左足の靴下を脱いだ。親指にだけ、今日もやっぱりカバーがかぶせられている。ふだん使いとしてよくつけている、あわい玉子色のカバーだ。靴下のときと同じ要領で、妻の指先がカバーにふれる。佐一の目の前で、妻の足の親指からはじめてカバーが外された。

カバーの下からは、呪言まみれでもドロドロでもない親指が出てきた。それはほかの指と同じようにはえていた。日頃カバーで保護されているせいか、ほかの指よりも肌が白くてやわらかそうに見えるくらいで、いたってふつうの親指だった。爪以外は。

妻の左足の親指の爪は、先端が不自然なほどまるく整えられていた。そのうえ、黄色かった。黄ばんでいたわけではない。爪全体が、きれいな黄色をしていた。それはほとんど金色のようなまばゆさで、でも角度によっては檸檬色にも山吹色にも見えるような、ふしぎな黄色だった。

「ペディキュア?」

「ちがう」妻は言った。「私の左足の親指の爪は、二十七番目の月なの」

「にじゅう、なに?」

「二十七番目の月。エチオピアの」

妻の親指の爪は、二十七番目の月だった。二十七番目の月、つまり新月の日からかぞえて二十七日目に出る月のこと。彼女は親指の爪を十日おきに切り、切られた爪は送りだされて、二十七番目の月になるのだそうだ。エチオピアで。

「まってまって」佐一は言った。「ちょっと理解に時間がかかりそう」

「なんでよ」妻は笑った。「とりあえず、言ったとおりに切ってくれる?」

佐一は妻の足の親指の爪を切る。二十七番目の月にするために。「丁寧にね」爪をのぞきこむ佐一にむけて、後頭部から指示が飛ぶ。「まずいちばん大きいやつで、ひといきに、でもゆっくり、思い切りよく、且つ慎重に」

巾着の中には大中小三本の爪切りが入っていた。ほかに、コンタクトケースのような容器と棒状のヤスリ、ひまし油の入った小瓶、上の部分が円くへこんだ定規もあった。容器の中にはすでに切られた爪が四枚入っていた。四枚の爪は容器の中でうっすらと発光していた。どれもきれいなアーチ状で、すべてが同じ厚みに揃えられている。妻はそれをお手本にして切れと佐一に言った。「大丈夫。そのいちばん大きい爪切りは、お手本とちょうど同じ厚さに切れるようになってるから」

大きい爪切りの刃の部分は、容器の中の爪と同じアーチ型になっていた。お手本の爪と、妻の足の指にはえた爪を交互に見る。爪切りの刃にちらちらと黄色い光が映る。刃を爪に嚙ませてみると、たしかにある程度のところまでしか奥へいかないようになっていた。佐一は息を止め、妻の無茶苦茶な指示に可能なかぎりしたがった。ひといきに、ゆっくり、思い切りよく、慎重に。

パチン。

見せて、とすぐさま妻は言った。佐一は切ったばかりの爪をそっと手のひらにのせて、妻に見せる。吹けば飛びそうでこわかった。妻は爪をまじまじと見た。佐一の手のひらのうえ、皮膚の輪郭をにじませるみたいにして爪がよわく発光していた。妻はそれを中指でちょんちょんといじったり、佐一の手のひらの角度を動かして光にあててみたりした。

「オーケー」

妻は言い、佐一は胸を撫でおろす。

十日で伸びたぶんの爪からは、二枚の月ができるという。もう一枚も同じように切って、二枚の月を容器に収納した。それから二種類の爪切りを使い、はえている爪の形をきれいに整えヤスリをかける。こちらの作業のほうが面倒で、大変だった。ヤスリでならした部分が、大きい爪切りのアーチにぴたりとはまるようにしなくてはいけない。巾着の中にあった定規のへこんだ部分で何度も形を確認しながら、佐一はふたつの爪切りを駆使してパチン、パチンと爪を整え、ヤスリをかけた。なんとかそれを終えたら、仕上げにひまし油で保湿して完了だ。容器に入れた爪は、ある程度貯まったところでベランダから送りだしているそうだ。

「送りだす? ベランダから?」

説明することのいちいちに佐一が引っかかるのが、妻はおかしくてたまらないようだった。「あたりまえでしょ」眉をハの字にして言った。「ねえ、まさか本当に知らないってわけじゃないでしょう?」

まさか本当に知らないってわけなのだった。切った爪はたしかにふつうの爪ではなさそうだったけれど、それが月だなんてどういうことなのか、佐一にはぜんたいわからない。「君の爪が二十七番目ってことは、ほかに五番目とか、十番目とか、二十八番目がいるってこと?」

そりゃそうでしょう、とさも当然のように妻は言った。全員が爪でやっているのかは知らないけど、そりゃどこかにいるでしょう。だって、いないと困るじゃないの。

「エチオピアの夜に月がなくなるから?」

「そう」

エチオピアの夜に月がなくなるから、と妻は復唱した。

でもエチオピアの月と君の爪は関係ないだろ。佐一が言うと、妻は心底驚いた顔をした。

「本気で言ってる? 世界のどこかで誰かが泣いたり汗をかいたりするおかげで海には水があるし、誰かがくしゃみをするからどこかの草原で風が吹いてる。今ベランダに出たら見える今日の三日月は誰かの爪で、私の爪も同じ。私の場合は、左足の爪が二十七番目の月だった。そういうあなただって、何か持ってるんでしょう?」

楽々佐一は海になる汗も風になるくしゃみも月になる爪も、何も持っていなかった。そう言ったら、そんなわけないと妻は首をふった。「役所へ行って聞いてみれば? 自分で把握してないだけだよ。だってそんな人がいるなんて、聞いたことない」

こっちの台詞だった。そんな人がいるなんて聞いたことがない。妻は佐一のその態度がやはり愉快だったのか、ごめんごめんと言いながら、まだ半笑いの顔でこう言った。でもじゃあきっと、保有者ポゼッサーなんだろうね。

役所の入り口に設置された窓口案内図を見ると、たしかに妻の言っていたとおりの課があった。戸籍課のすぐとなりの窓口だった。

窓口にいた職員にすみません、と声をかける。

「なんでしょう」自分と同い年くらいに見える女性だった。背が高く、眼鏡の奥の目がするどい。佐一はすこし緊張しながら、事情を説明した。自分の妻の足の爪が二十七番目の月であること、妻によるとみんな何かしら、そういうものを持っているはずだということ。もし自分のそういうものについて、調べられるのであれば調べてほしいということ。

話している途中で、自分がおかしなことをしゃべっているのではないかと不安になった。けれど職員の女は、佐一の話をしっかり相槌を打ちながら聞いてくれた。感じのいい対応にほっとする。

「なるほど」佐一が最後まで話し終えると、職員の女は言った。「お調べいたしますので、こちらの用紙にご記入いただけますか。それと身分証明書になるものを何か、はい、免許証でかまいません。では少々お待ちください」

記入した用紙と免許証をわたすと、女はいったん窓口の奥へ消え、五分とたたずに戻ってきた。「お待たせいたしました」手にはタブレット端末と、先ほど記入したのとは別の用紙を持っている。

「ご担当は……あ、そうなんです。お問い合わせいただいた件については、役所のほうでは『ご担当』という呼称になっております。楽々様のご担当はですね、こちらになります」

女がわたしてくれた薄緑色の紙には、佐一の名前と生年月日、現住所が記載されていた。戸籍謄本に似ていたが、名前の下には見慣れない欄があった。

担当種別 : 保有者ポゼッサー

身体位置 : 胸椎T1~T12

世界位置 : Jaiskivelハイスキベル (Gipuzkoa, Spain)

「ハイスキベル」はじめて口にするならびの片仮名だった。

女は「そうですね」とうなずいた。「スペインのバスク地方にある山です。身体位置は胸椎ですから、このへんですね」

言いながら、端末画面に人体の骨格図を出してくれる。グレーのマニキュアが塗られた指で示されたのはゆるやかに湾曲した脊椎の、真ん中よりすこし上あたりだった。それからすぐにべつのタブで世界地図をひらき、欧州の地域を拡大していく。「で、ハイスキベルが……ええっと、どこだ……ああ、これですね。もうすこしアップにしましょうか。これです。こちらがご担当いただいておりますハイスキベルです」

それはちいさな山だった。山頂部に白字で標高が書いてある。標高547メートル。「これがぼくの胸椎?」

「はい。ご担当いただいているのはこちらです。楽々様はハイスキベルの保有者となります。お話を伺った感じでは、配偶者様は提供者ドナーだったのでしょう。月は遠いですからね。太陽光の反射だけでは本来見えませんので、地域ごとにご担当の方がいるんです。

ご担当種別には二種類ございまして、それぞれ『保有者』と『提供者』と呼ばれています。

保有者の場合は何らか、、、の世界位置がご自分の身体位置に属しており、提供者はご自分の身体位置から何らか、、、を世界位置に提供していただきます。一般的に、ご担当は思春期から青年期のあいだに兆しがあらわれて気づくのですが、何しろ身体のことですから個人差がございます。ですので、保有者の方からのお問い合わせは、じつは結構あるんですよ。提供者とちがい、見た目にはあらわれていない場合が多いのが保有者の特徴ですから。

たとえばご本人は知らなかったのに、こちらで調べたらつむじがインドネシアのカルデラだった方や、上腕二頭筋がアマゾン川の三角州だった方もいらっしゃいました。ご高齢になるまで知らないという方もめずらしくありませんし、おそらく知らないまま亡くなられる方もいらっしゃるのではないかと思います。保有者のほうではとくに何もしなくていいわけですし、ご担当はひじょうに個人的なことなので、あまり誰かと話す機会もないでしょうし。ですから兆しがなかった場合には、こうして調べないとわからないことも多いんです」

女は慣れた調子ですらすらと説明してくれた。

ハイスキベル。佐一はもう一度、その慣れない言葉を口のなかで転がした。困惑している様子の佐一に、女は励ますような笑みを向けた。「定期的な提供は面倒ですから、保有者の方がうらやましいですよ」

女の言葉に、佐一は「あなたは提供者なんですか?」と訊いた。

女はそれには答えず、「こちらの用紙はお持ち帰りになりますか」と言った。言いながら、すでに封筒に用紙を入れていた。うつむいた女の、とがった耳を見ながら佐一は「はい」と答えた。眼鏡のつるが掛かった耳には、何かの足跡みたいにピアス穴がたくさんあいていた。

封筒を受け取った楽々佐一が窓口から去った後、つくもひとは端末で、先ほど開いたページの画像をもう一度ながめる。ハイスキベルの詳細写真をいくつかスワイプする。教会のような建物、ハイキングをする人びと。ふと、ポニーが何頭か写りこんでいる画像で指をとめる。芝の上で、長いたてがみのポニーがぼんやりした顔で草を食んでいる。ふふ、と思わず白仁美は笑みをこぼす。素敵な山だ。

白仁美の担当は、アルジェリア中部のワルグラにある砂丘だった。身体位置は右耳で、定期的に耳垢を提供している。週に一度の耳掃除でとれる耳垢は、保管用の小瓶に入れるとさらさらと崩れて砂になる。恋人は、その砂をきれいだと言う。仁美はとくにきれいだとは思わなかった。耳垢は耳の中にあるときはかたまっているけれど、どういう理屈か小瓶に落として空気にふれるとこまかい砂状になった。

「いいじゃん、私も提供者がよかったなあ」恋人は言った。

彼女は右下顎に生えている第二大臼歯が、グリーンランドの氷床の一部だった。でもとくべつ、青かったり冷たかったりすることはない。保有者の場合、その部位の見た目や機能は一見してほかの人のそれとは変わらないことが多い。恋人の第二大臼歯も例外ではなく、あくびをしたときにちらと見える色形も、仁美の舌先がふれたときに感じる温度も、まるきり普通の歯のそれだった。

「保有者なんかつまんないよ。提供者のほうが、自分の一部が世界の一部になってるんだって実感できそうじゃん」

そうなのかな、と言いかけて仁美は口をつぐんだ。かわりに「まあね、そうだよね」と言った。

小瓶に入った砂状の耳垢を見るとき、仁美はそれをとくにきれいだとは思わなかった。ただ、これが還っていくのだ、と思った。

役所や人びとが言うように、自分の身体の一部を世界に提供しているのだというふうには、仁美はどうしても思えなかった。だから『担当』『保有者』『提供者』、それらの呼称の使い方にも違和感があった。逆だと思っていたからだ。

白仁美がワルグラの砂丘を担当しているのではなくて、ワルグラの砂丘がたまたま今、白仁美を担当している。保有しているのも、提供しているのも、こちら側ではなくて世界の側だ。そんな気がずっとしていた。

ごく親しい間柄の人間であっても、自分の担当を明かさない人はすくなくない。みんな目をそむけているだけで、本当は仁美と同じことを思っているんじゃないだろうか。最近ではそんなふうに思うようになった。だから自分の担当を人に言わないのではないか。担当を明かすことはつまり、目の前にいる自分がかりそめの姿であることを相手に告げるようなものだから。

でも恋人はちがった。だから互いに担当を明かしたけれど、それがよかったのかどうか、今でも仁美は判断できずにいる。

恋人の鈴が鳴るような笑い声を聞きながら、うすい唇にふれながら、おわん型の乳房に顔をうずめながら、今自分が抱いているのは、あたたかくてやわらかな身体を担当しているグリーンランドの氷なのだという思いがいつもあった。それもふくめて愛しいと思った。幸運だと思った。ワルグラの砂が、グリーンランドの氷に出会うことができるだなんて。同時にひどくさびしかった。そうだとしたら、私たちは本当の姿で愛しあうことはぜったいにできないから。

あの男性は、と仁美は端末画面のポニーをなでながら思う。自分の担当を知って、どんな気持ちだったんだろう。「妻はエチオピアの月」だと彼は言っていた。ワルグラの砂がグリーンランドの氷にふれられないように、エチオピアの月はバスクの山からは見えない。それについて、どんなふうに思うんだろう。

仁美はこれまでに二人、月の担当者に会ったことがある。月は世界位置が多く、見えている形状も複数あるため、担当者も多い。浮かんだ月は明け方とともに光に溶けていくと聞いた。粒子になったそれは遠くの月へ還っていくのだ。月はグリーンランドより、エチオピアより、もっとずっと遠い。

すみません、と窓口の方から声がして、はい、と仁美は立ちあがる。ポニーの画像をとじる。暗くなった画面に、感じのいい笑顔を浮かべた白仁美という女が映っている。耳の奥で、がさっという音がする。そろそろ耳の掃除をしなくてはいけない。

家に帰ると、妻が玄関まできて「どうだった」と訊いた。「あった」と靴を脱ぎながら佐一は言った。「胸椎がスペインの山だった」

ほら、と妻は得意げに腕を組んだ。包帯を巻いた親指が、指人形のようにぴょこんと飛びだす。やっぱりあったでしょ。山かー。

「ハイスキベルっていう山だって」

佐一の言葉を聞いているのかいないのか、妻はもう一度、不自然なほどあかるい調子で「山かー」と言った。「いいなぁ。いちいち何かを切ったり取ったりして送らなくていいんだもんね、うらやましい」

ついさっき窓口で職員が言ったことと同じようなことを妻が言うので、佐一はなんだかおかしくて、思わずすこし笑ってしまう。

「え? なに?」妻が言い、佐一は「なんでもない」と言う。

洗面所でシャツを脱ぎ、背中を鏡に映してみる。でもそこには山はない。ぽつぽつと日焼けによるシミができている。背中をかるく丸めてみると、背骨がとつとつ浮き上がる。自分の背中をきちんと見るのは、これがはじめてのような気がした。首をめいっぱい回した無理な姿勢になるため結構つらい。それだけやっても満足に背中全体をながめるのはむずかしかった。

「ところでさ、なんでずっと爪を見せてくれなかったの」

シャツを着直してから佐一は訊いた。

「だってあなたも胸椎の山を教えてくれなかったじゃない」妻は言った。「まさか知らないとは思ってなかったけど、だから私も教えなかったの。教えてくれないってことは、知りたくないんだろうなって」

サーモンピンクのカバーをつけた親指をお辞儀させるみたいに器用に動かしながら、それに、と妻は言った。「こういうのって一度見せたら、見せる前にはもう戻れないじゃない」

夕食のあと、佐一は妻といっしょに爪を送りだすことになった。上着を羽織ってベランダに出ると、東の空には月が出ていた。今日の月は四番目、容器の中にある爪よりもすこしだけ分厚い。佐一はそれをちょっと見て、それから妻のかわりに容器の蓋を開けた。

容器からとりだした六枚の爪をそっと妻の左手のひらにのせる。妻が目で合図をして、「いくよ」と小声で言う。佐一が黙ってうなずくと、妻はバースデーケーキの蝋燭を吹き消すように、ふうっ、と手のひらに息を吹いた。

六枚の爪がハラハラとこぼれ落ち、佐一はおもわず「あっ」と声をあげる。途端、こぼれ落ちた爪は、空中でゆったりと跳ねるようにして浮かびあがった。

宙に浮かんだ爪たちは、ふらつきながら一列に整列した。群青の闇にやわらかな黄金の光がにじむ。空に向かってのびるみじかい階段のようにならんだ爪は、やがて両端の鋭い部分をよちよち前後に動かしながら、西の方向へむかってのぼりはじめた。ときおりフワッと風にあおられると、波打つようにその風に乗り、そのぶんだけ大きく前へ進んだ。

「かわいいでしょう」妻は言った。かわいい、と佐一はこたえた。「ああやって、ときどき風に乗りながらエチオピアまでいくみたい」

エチオピアについた六枚の爪は、すでに着いている爪の後ろにならぶのだろうか。佐一は、口には出さずに考える。そこにはきっと五番目とか、十番目とか、二十八番目の月がすでにいて、爪たちはその間に順番に入りこむ。そうやって、自分たちの出番をエチオピアのどこかでひっそり待っているのだ。そうしてようやく自分の番がまわってきたら、東から夜空をのぼり、くだり、沈んでいく。エチオピアの二十七番目の月として。

爪たちは、佐一たちのほうをふりむくそぶりもなく、よちよちふわふわ空をいく。佐一はなんだか急に不安になって、ふと隣の妻を見た。妻はベランダの柵に顎をのせ、爪たちの行く末を見つめていた。見慣れたはずのその横顔が、なぜかその瞬間、まったく知らない人間に見えた。目をこすり、まばたきをした。背骨がきしむ。風が冷たい。今自分の隣にいる、この女はいったい誰だ?

女は、ゆっくりこちらをむいた。

「寒いね、そろそろ入ろう」そう言った妻は、もういつもの妻の顔だった。西の空を見ると、爪たちはいつのまにか見えなくなっていた。

ひと月が経ち、利き手のけががすっかり治ると、妻はまた爪を切っているところを見せてくれなくなった。

ちょっと爪切るから。そう言って、妻は洗面所の戸を閉める。しばらくすると、中からパチン、パチンと爪を切る音が聞こえてくる。夕食の洗い物を終えた佐一は、濡れた手をしっかり拭いてソファに座る。シャツの下に手を入れて、背中をなでる。かるく背を丸め、骨の凹凸をゆっくりなぞる。目をとじて、バスクにそびえるちいさな山と、エチオピアにのぼる二十七番目の月のことを考える。

 

 

 

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大木芙沙子

1988年生まれ。2019年からオンライン文芸誌「破滅派」にて活動。2021年、”Neighs and Cries” (原題:馬娘婚姻譚) がNew World Writing に掲載されたのを皮切りに『Mythical Creatures of Asia』(Insignia Stories)など英語圏の媒体にも活動の場所を広げている(翻訳はいずれもKamei Toshiya)。余韻の残る短編小説が魅力の書き手で、『kaze no tanbun 夕暮れの草の冠』(柏書房)に短編小説「親を掘る」を寄稿、短編集『花を刺す』(惑星と口笛ブックス) を刊行している。2022年には文芸同人誌『閑窓 vol.5道辻を灯す』に寄稿した「ふくらはぎ」が同人雑誌優秀作に選出され、『文學界 12月号』に掲載された。
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