こい瀬伊音「DNAR」 | VG+ (バゴプラ)

こい瀬伊音「DNAR」

カバーデザイン 浅野春美

先行公開日:2021.11.20 一般公開日:2021.12.25

こい瀬伊音「DNAR」
4,725字

DNAR(do not attempt resuscitation)――蘇生に成功することがそう多くない中で、患者本人または患者の利益にかかわる代理者の意思決定を受けて心肺蘇生を行わないこと。

ああ、こんなに遅くなってしまった。

私はネクタイを少し緩め、汗を吸って萎びた白衣の上から腰をさすりながら歩いた。帰宅の前に今日入院してきた患者の顔をもう一度見に行こうと思っていた矢先、立ち話をしていた循環器の高野の患者が急変したのだ。90代女性、DNARなし。つまり、心臓マッサージや人工呼吸器をつけるなどできる限りの手を尽くすフルコースを要する。周りにいたスタッフをかき集めて救命にあたったが、結局肋骨がばきばきと折れただけで助からなかった。彼女はこのような最期を望んでいただろうか。とても、とても切ない。

私は思うのだ。何が悲しくて、百年近く動いてきた心臓が疲れて休みたいと言っているときに、無理に鞭を打たなければならないのだろうと。人間、二百年も三百年も生きるものではないのだから、苦しみなく逝けるのなら本人も周りもそれを受け入れるのが自然なのではないかと。

22時30分。

循環器病棟がある本館六階から個室ばかりの別館へ続く渡り廊下を移動しながら、今日入院してきた佐藤さんのことを考える。

その患者は五年前に胃を全摘出した81歳の男性だ。食べることが大好きだった佐藤さんは、全摘出のあとも口からものが食べられるのかを私に何度も確認し、それからやっと手術に踏み切った。術後も経過がよく、一日五食に分けて少量ずつでも食事ができることをとてもしあわせだと笑顔を見せていた。その後、入退院を繰り返すなかで、食べられなくなったら死ぬときだと何度も私に伝え続けていた。しかし、意思決定が難しいほどに弱り実際に経口摂取ができなくなったとき、家族に対するインフォームドコンセントのなかで、私は「ご本人の意思の通り自然に任せましょう」と言えなかった。栄養経路を確保すれば生かすことができる。それをしない決断をするのは、家族にはいかにも難しいことだ。たとえ以前から聞いていた本人の意思であっても。エンディングノートに記されていたとしても。

しかし切ない。本人の意思がまるで尊重できなかったことが。すでに意思表示ができなくなった佐藤さんは、中心静脈栄養の管に繋がれ、常に体に異物が入っていることにより引き起こされる細菌感染によって半年に一度は入院してくる。そのたびカテーテルを抜いて抗菌薬で治療して、またカテーテルをいれるのだ。医療費増加のニュースを聞くたびに、自分のような医者のせいで国家予算を圧迫しているのではないかと一人勝手に気に病んでしまう。

22時40分。

佐藤さんの様子に変化はなし。このまま熱が下がり数日経過を観察したらまたカテーテルを入れるだろう。家族の前で自然にという言葉を出せない自分がいるかぎり、佐藤さんには望まぬ人生が続く。

暖房が入っているとはいっても、この季節の北側の個室はどこか寒々しい。建物のすぐ裏には林があり風が吹くたびに木々が揺れる音が聞こえる。佐藤さん、あなたの意思を尊重できず申し訳ないことです。佐藤さんが返事をするように、ざわっとおおきく木々が揺れた。

ピーーーーーーーーーーーーーーー。

突然、静寂を切り裂くような機械音が響く。佐藤さんの心電図モニターは一直線を示しているが、変わらず規則正しい寝息が聞こえている。モニターの誤作動か。

その時。

ベッドからドアのほうに向かって、左腕を下にして床に倒れている男がいるのを見つけた。この格好は方向転換をして一歩踏み出して転んだのか。まずいな、早くナースコールを押して血圧計を持ってきてもらおう。そう思うのだが、ナースコールが握れない。あのオレンジのボタンを押したいだけなのだが。あ、待てよ。なぜここは佐藤さんの個室なのに、ほかの患者が床に倒れているのだ。いや、まず倒れている人がいることになぜ今まで気づかなかったのか。

暗い中目を凝らすと、男はパジャマではなく白衣を着ていた。

ピーーーーーーーーピピピピ。モニター音が静かな病棟に響く。廊下からパタパタと看護師の足音がした。よかった、これで安心だ。とにかく転んだ患者をまずはベッドに引き上げなくては。

「佐藤さーん」

ガラッと音を立てて個室のドアが開くと、キャッと短い叫び声が響いた。看護師たるもの、夜の病棟で悲鳴だなんて、叱ってやらなければ。せっかく眠っている患者が起きてしまうではないか。顔を見ても、今年の新人だとわかるだけで名前が思い出せず胸元を凝視する。首から下げている夜勤用のミニライトがまぶしすぎて名札の文字は読めなかった。途端に新人はナースステーションに向けて走り去った。

城田さん城田さん城田さん! 取り乱す声にかぶせて、「大野! 何で患者のそばを離れたの! 緊急コールを押しなさい!」と城田の声が近づいてくる。まったくその通り。普通のナースコールと違って、緊急コールは音も大きく寝静まった夜に押すには勇気がいるのはたしかだが、患者の命は一刻を争うのだ。なんともなければ「すみません」で済む話。次の新人が入ってくるまでもう三カ月しかないというのに、まだこの程度までしか育っていないというのは頭が痛い話だ。大野か。師長や副師長にも一言言っておいたほうがいいだろう。

「佐藤さん!」

大声とともに112号室に入ってきた城田の目線が佐藤さんのベッドよりずっと手前に落ちる。佐藤さんは目を覚まし、病室の入り口を見るとはなしに見ている。なんともないのは一目瞭然、ベテランの城田ならそんなのは一瞬で判断がつくだろう。患者がヤバイかどうかぐらいもうわかるようになりなさいとか、新人に小言を言わないのか。それともゆとり世代を育てるには、変だなと思ったときにすぐ報告に来られたのはえらい、とか何とか言うべきか。

「広永先生!」

城田の必死な形相。そうだ、患者は転んだんだ。

床の置物のような体が上向きに転がされる。白衣、紺の聴診器、今朝髭剃りの時に見たよりずっと疲れた顔。

え、朝見た顔?

「脈なし、呼吸なし! 大野! 緊急コール押して! 私はエマージェンシーに連絡するからほかのメンバーが来るまで胸骨圧迫!」

城田の声が矢のように飛ぶ。途端に新人の大野が床の体に飛びついた。一分間に百から百十回、研修通りアンパンマンのマーチのテンポで確実に心臓マッサージが実施される。倒れているのは私の体だ。じゃあ私はなんだ。ガラガラガラガラ、バタバタバタバタ。救急カートとモニターが来た。今日の夜勤メンバーの顔を見渡す。やれるぞ、この急変は乗り切れる!

「ルートをとってくれ! ラクテックを全開で開始!」誰の耳にも届かない声。

「大野! 代わるからこれ着けて!」

モニターを押してきた看護師が大野の向かいに陣取り、三、二、一! と息を合わせて心臓マッサージを交代をした。絶え間ない胸骨圧迫には交代が欠かせない。私は脂汗を浮かべて低くマーチをうなるしかない。

なにがきみーのしーあわせ、なーにをしてよーろこぶ、わからないまーまおわる、そーんなのはいーやだ!

「私記録取ります! 23時3分スタートで!」

石川か、頼んだ。全体を見てくれ。息を切らして病室に滑り込んできた橋本が、共用廊下から持ってきたAEDを開く。ためらいなく私の胸毛をむしり、パッドを装着した。

「奥様は30分で到着だって」

―――心電図を解析します。ショックが必要です。体から離れてください。

AEDの機械音が無機質に告げる。よく訓練された看護師たちは口々に離れてくださいといいつつ、互いに誰もその体に触れていないかさっと視線を走らせる。

「離れてください、ショックします」

ボン!

音と共にその体は跳ね上がる。

続く、絶え間ない胸骨圧迫。

ルートは取られ、点滴が開始された。当直の医師や研修医も集まり、ベッドに引き上げられた体は隣の113号室へと移された。

23時30分。

妻が真っ白な顔でやってきた。最近太ったと思っていたのに、その背中からは肉という肉が削げ落ちているようだ。病室ではずっと必死の胸骨圧迫が続いている。

だれか、大丈夫です我々が助けますと励ましてやってほしい。私には背中をなでてやることすらできない。

ナースステーションの光の下で、妻の顔は血管が透けて見えた。パソコンの前に案内された妻の視線は心もとなげに揺れている。つい一時間前に共に急変対応をした循環器の高野は、妻の視線をとらえると、発見されたときにはすでに脈も呼吸も止まっていたと一息に伝えた。

妻は一瞬、全身を硬直させた。そして、決心したように口を開いた。

「それなら、DNARでお願いします。主人はいつもDNARが大切なんだと言っていました」

な、何を言っているんだ。私はまだ死にたくない。定年まであと一年、勤め上げたら何をしようかと、どこにも連れて行ってやれなかったお前と旅行を、ああそれから4月にはウエディングドレスの早苗とバージンロードを歩いて、それから初孫を。

「意識がないまま生かされるより、医師として医師のまま死なせてやってください。この国の高齢者医療について、いつも嘆いていたんです。本人の意思の尊重が何より大切だと。意思決定ができないのに家族の感情につられて生かされているのではかわいそうだと」

それきり口を一文字に引き結んだ妻。お前の気持ちはどうなんだ。温かい私の体はいらないのか。今のお前の気持ちはだれが尊重するんだ。

「わかりました。DNARに関する広永先生のお考えは、つい一時間ほど前にもご本人からうかがったばかりです」

高野は決心したように、胸ポケットからペンライトを引き抜き、廊下を歩きだす。

待ってくれ。そのペンライトが目の前で振られたら、私は、私はもう。

ピーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

冷たいモニター音が響く。背中に汗が流れる。冷たい。汗。

目の前には寝息を立てる佐藤さんがいる。モニターの時計を確認する。22時40分。手を握ると温かい。

生きている。

意思や思考、それを伝える方法を持たない佐藤さんが。

「佐藤さーん」

ドアを開いた新人の大野が驚いた顔をする。

「先生、こんな時間なのにまだいらしたんですね」

私は動揺を隠せないまましどろもどろ、佐藤さんの顔色が悪い気がして長居してしまったと話す。すかさず大野は部屋の電気をつけ、血圧を測った。

「バイタル変動ないですけど。酸素もとれてるし、顔色も悪くないです。あ。お髭が伸びてるからじゃないですか」

髭?

「先生も、お疲れですね。明日の朝先生がこられる頃には、佐藤さんのお髭きれいに剃っておきますね。あ、ちがった。佐藤さんのお髭は奥さまが来て剃られるんでした。大切なご夫婦の時間だからくれぐれも朝剃ったりしないでって先輩に言われてました。伸びた分だけちゃんと生きてる感じがするって。黒いひげと白いひげが混ざってごま塩みたいなところを見ると癒されるって。だから先生、お昼頃には」

わかった、と短く言い私は病室を後にした。看護師の、それも新人の前で泣くわけにはいかなかったからだ。「いつもありがとうございます」という奥さんの言葉は、医者に対して仕方なく、そうとしか言いようがなく発せられているのだと思っていた。私は元気だったころの佐藤さんの意思を尊重しようとしない主治医だ。気が弱い自分が無理やりに患者を生かしているのだと思ってきた。しかしその結果、佐藤夫妻は温かな時間を持つことができている。ただそれだけ。それだけでかまわないじゃないか。

気持ちの整理がついて、立ち止まり、なんとはなしに振り返った。

そこに看護師の姿はなく、かわりに左腕を下にした男が倒れていた。

 

 

 

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こい瀬伊音

詩人を名乗る小説書き。2020年には「人魚姫の耳」が文芸オープントーナメント第二回ブンゲイファイトクラブで本戦出場を果たした。2021年には五つの単語のみで構成される文芸「伍糸布」を集めた『伍糸布集』(川咲道穂編) 、人魚にまつわるアンソロジー『海界』(阿瀬みち編) に寄稿している。日本初のオストメイトモデル、エマ・大辻・ピックルスさんのオストメイト認知向上活動に賛同し、オストメイトマークの認知向上ポスターのキャッチコピーとボディコピーを担当した。軽やかさと重たさを併せ持つ書き手で、自身のnoteでも詩、短歌、小説を発表している。

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