公開日:2021.2.13
坂崎かおる「パラミツ戦記」
5,308文字
栗栖隊長ほど高潔な軍人を私は知りません。
栗栖隊長は、第××師団の中に編成された分隊の一つ、「風雪隊」に所属されていました。階級は軍曹。隊長も含めれば10人ほどで結成された小さな隊です。フーコンでは鈍重な作戦が失敗し、制空権は連合国側に支配され、私たちの船が遅れてラングーンに着いた頃には、撤退戦と呼ぶにはあまりに一方的な状況でした。私は分析官として栗栖隊長に同行していましたが、心を痛めておられるようで、船内にいる頃から、その彫りの深い顔は硬く、様々な感情には蓋をされていました。
「厳しい任務になるだろう」
普段、栗栖隊長は訓示などはしません。しかし、上陸前の船内で、珍しく隊長は私たちを集めました。
「君たちの最大の目標は何か。敵を打破することか。友軍を助けることか。生きて祖国の地を踏むことか。どれも違う。我々が我々の歴史に名を刻むことだ」
私たちは大きく返事をしました。狭い船内に声が響き渡ります。この隊長の最後の訓示を、恐らく祖国の作戦室も聞いていることでしょう。隊長は言葉を選びながら、少しだけ表情を緩めて付け加えます。
「向こうはジャックフルーツがうまいんだ。見た目はちょっと悪いが、中の果肉をひと房ずつ食べると止まらなくなる。作戦に支障をきたさぬように」
ラングーンからは、シッタン河を越えてタイ・マレー方面の別隊と合流する手はずになっていました。司令部で慰め程度の物資を補給し、私たちは行軍を開始しました。
道中は気怠い雨が強弱繰り返しながら降っていました。行軍としては最悪の条件です。軍支給の〈外套〉を羽織っていたものの、それを通して刺さるような寒気と不快を常に感じていました。私は隊長付として、常に栗栖隊長の傍にいましたが、表情一つ変えず、黙々と隊を従えて進む姿は今でも心に残っています。
「Aは追及できているか」
ペグーの手前で栗栖隊長が訊きました。私もここでは単にAと呼んでいますが、彼は隊の中でも年若で、このような任務も初めてでした。親子ほどの差もあるAを、栗栖隊長は日頃から気にかけており、厳しくも優しい眼差しで彼を見ていたことを今でも覚えています。
「異常ありません!」
後方でAが報告します。その大きい声に冷や冷やします。「ただ小便がしたいです!」
笑い声こそおきませんでしたが、隊の空気が緩むのを感じました。栗栖隊長も「仕方ない」と、放棄された寺院の三和土で休憩をとることにしました。
雨はやんでおり、少しだけ太陽も覗いていました。遠くで、野菜や果物をいっぱいにつめた籠を載せる女たちが歩いていました。どこかで小鳥のさえずりも聞こえ、平時であれば長閑と表現してもよいぐらいでした。私たちはぼんやりそんな風景を眺めていましたが、Aが、「行きますか?」と栗栖隊長に声をかけました。栗栖隊長は少し躊躇う表情を見せましたが、常日頃先陣を切りたがるAの性格を知っていたので、小さく頷きました。
Aは〈外套〉を羽織り、女たちに近づきました。そして、真正面から九九式短小銃を突きつけました。女たちは現地の言葉で何事かを叫びます。籠から野菜や果物が散らばり、泥の土に沈みます。Aも現地語で何かを叫び、女たちは籠を置いて逃げ出しました。Aは散らばったものを集め、私たちのところへ戻ってきました。
「戦利品です」
どさっと三和土に果物や野菜をAは置きました。私たちはじろじろとその「戦利品」を眺めていましたが、「食おうじゃないか」と栗栖隊長が声をかけたので、銘々好きなものを手にとり、袖で拭いただけで、そのまま噛りつきました。
「ジャックフルーツがあるな」
栗栖隊長は短刀で手際よく切ると、私たちに差し出しました。果実は大きな猫ぐらいの大きさで、匂いは甘ったるく、果肉はべたべたと、油かゴムのような手触りでした。私はそれをなぜか人間の一部のように感じました。結局食べたのはAと栗栖隊長だけで、二人は大きな果実の前で、黙々と果肉を引き裂きながら食べていました。
ペグーに着いたところで、その日の行軍は中止し、ちょうど放擲された英軍の元宿舎に泊まることにしました。もう少し過酷な環境を考えていたので、これは私たちにとって素直に喜ばしいことでした。
早々に私たちは就寝したのですが、夜中小便に立つと、栗栖隊長が外の階段で街を眺めていました。煙草の火がゆらゆらと明滅して、夜光虫のようでした。
「静かなものだな」
栗栖隊長が口を開きました。
「英軍は定時退勤だそうですから。夜間の襲撃はあまりないようです」
隊長は手に写真を持っていました。僅かなあかりでそれを眺めていたようです。私の視線に気が付くと、穏やかに笑って「息子だ」と私に見せてくれました。Aよりも少し若く見えます。
「この仕事をしてるとなかなか会えないからな、こうして写真を見て自分の記憶を確かめてるんだ」
冗談めかして栗栖隊長は言いましたが、私は黙ったままでした。隊長も写真をしまい、煙草を消しました。暗闇が戻ってきました。不思議なことに、相手の姿が見えないこの闇の中の方が、隊長の心が、焦りや、悲しみや、決意が、わかるような気がしました。
「Aをどう思う?」
しばらくして、隊長はそう訊ねました。
「分析官としての立場で答えるなら、よいとは言えません」私は答えました。「今日の行動も、性急にすぎます。隊長はどうお思いなのですか」
「無理をさせてると思うよ」
言葉を選ぶように栗栖隊長は言いました。「本当であれば今回の作戦にはついてきて欲しくはなかった。Aのような若者には荷が重すぎる」
彼を頼むよ、と栗栖隊長は私の肩を叩き、戻りました。私はしばらくその言葉の意味を考えながら、じっと立ち尽くしていました。とても深い夜で、立っていると飲み込まれてしまいそうだったことを覚えています。
事態が変わったのは、シッタン河を目指して行軍を続けていた時でした。本来であれば鉄道線を軸にしたルートを考えていたのですが、事前のシミュレーションにはなかった敵兵の情報が斥候からもたらされたためです。それが連合軍なのか、国民軍なのか、それとも別の国の部隊なのかはわかりませんでしたが、交戦状態になることは私たちが一番避けなければならないことでした。
「仕方がない。我々をめぐる状況は蝶の羽ばたきのように刻々と変化している」
栗栖隊長は森を通る道を選びました。森と言うよりはジャングルと形容した方がよさそうでしたが、現地の言葉では「森」という表現だったために、私たちは森と呼びました。
この森のルートに私たちは悩まされました。泥は深く足をとられ、蛭が隙を見つけては肌のわずかな露出部に入り込んでこようとします。〈外套〉があったとはいえ、厳しい行軍でした。おまけに、虎や象がいる、という噂までありました。敵兵だけでなく、私たちは種々のことに気を配らねばならず、さすがの栗栖隊長も疲労の色を隠しきれませんでした。
ようやく視界が開けると、そこは小さな集落でした。夜通し歩いたために、空は既に白々としていました。ほとんど廃村のようでしたが、人の気配があります。私たちは散開し、その気配を窺いました。
どうやら日本軍の兵士がいるようでした。分隊レベルなのか、戦闘によって規模がここまで減ったのかはわかりませんが、少数でした。装備品はほとんどなく、ある者はバナナの木の葉を足に巻いて靴代わりにしていました。現地の男たちと何かもめています。
「どうしますか」
私は栗栖隊長と一緒にいました。その質問に隊長は首を振りました。確かにここで、日本軍の別隊と鉢合わせするのも、現地の人間を助けるのも、得策とは言えませんでした。
状況は剣呑でした。兵士たちの声は大きくなり、弾が入っているかもわからない銃をつきつけています。私たちは形ばかり銃を構えましたが、どうしようもありませんでした。
「どこの部隊か!」
突然、Aの大きな声が聞こえました。見ると、兵士たちの側まで寄っています。兵士たちは驚いたように構えましたが、Aの装いや話から、納得をしたのか、森の中へと戻っていきました。
「携行食と水を渡して、近くの別隊の場所を教えました」戻ってきたAは栗栖隊長にそう報告しました。「申し訳ありません。罰は受けます」
「罰などないさ」
栗栖隊長は穏やかに答えました。「本来であれば、君の行動の方が正しいのだから」
Aは複雑な表情をしていましたが、やがて、不安そうな顔を揃えている現地人たちを振り返りました。その中の小さな女の子に歩み寄ると、何事かを話し、頭を撫でました。「俺にもこのぐらいの妹がいるんです」
家長らしい男の厚意で、その日は村の空き家で眠ることができました。どのみちこの先は新たなルートを策定しなければならないので、拠点は必要でした。私たちは交代で貪るように眠りました。けれど、いつ起きても、栗栖隊長は立ったまま、歩哨のように外を見つめていました。それは、底が見えないほど、暗い夜でした。それでも、隊長の眼は、いつも何かを捉えていました。
だから、栗栖隊長がどうして殺されたのか、私は理由を知りません。
倒れている栗栖隊長を見つけた時、隊長の腹からは内臓がまろびでていました。虫の息ではあったものの、まだ意識はありました。
「大丈夫だ」
隊を呼び戻そうとする私を栗栖隊長は引き止めました。「数値はどうなっている?」
こんな時に、栗栖隊長はそんなことを気にしました。私は焦りながらも、端末を取り出してチェックします。
「速報値ですが総合値Bマイナス、2ポイント出発時より下がっています」
隊長は頷きました。私は今朝のことを思い出していました。突然日本軍の別隊がやって来て、集落の人々を連行していったのです。Aは慌てて隊の兵士に次第を確認しましたが、「スパイの容疑がある」とだけ告げられ、後は何も答えませんでした。家長の男が栗栖隊長に向かって何かを叫びました。その声に、Aはぎょっとしたように隊長を振り返りました。隊長はただ前を向いていました。Aは小さな女の子が、森の向こうに消えていく様子をぼんやり眺め、そしてもう一度隊長を見ました。私は端末の感情値をチェックしたい欲求に駆られました。この行動は、大きく感情値を下げるものだったからです。
初めて歴史の「感情」を時間遡行によって修正したのは、はるか昔のヨーロッパの領主に対してだったということです。それ以降、色々な国が「感情」の修正を試みていることはご存じの通りです。
もちろん私たちの表向きの任務も、過去の戦争時の、我が国に対する各国の悪感情の軽減でした。ツェペシ条約で重大な歴史改変行為は禁止されていますが、「感情」という表面化しにくい事項については適用外です。多くの国がそのようにして各国との融和を試みてきたように、我が国もこの過去の戦争において様々な形での関与を続けています。私たちはそれを逆手に取り、逆に感情値が下がるように作戦を続けました。栗栖隊長の隊に志願した時から、たとえ国に逆らうとしても、私たちの祖国がそのような修正でもって少しでも許されることなど、許したくはなかったのです。
栗栖隊長は険しい表情のままでしたが、私の言葉に少しは満足したようでした。私は隊長の最期を見届けると、捜索に出ていた隊を呼び戻しました。
Aは戻ってきませんでした。
恐らく皆さんは栗栖隊長を殺したのはAとお考えでしょう。私もそう思います。しかし、あの出来事の後、即時帰還命令が出て、兵舎で謹慎措置を受けている間、一人でぼんやりあの時のことを考えていると、私にはわからなくなってきました。しまいには、栗栖隊長はより作戦を成功させるために、自刃したとすら思うようになってきました。そんなとき、私はジャックフルーツを思い出します。やけに甘ったるい、べたべたと粘っこく、栗栖隊長とAが二人で食べつくした、あの果物です。あの時の二人は、まるで親子のようでした。この裁判で、あの二人の何を裁けるのでしょうか。
私はそもそも、証人として来ることも気は進みませんでした。それでもここへ来たのは、裁判員や傍聴席の皆さんに、私たちの罪についてお伝えしたかったからです。それは、Aの殺人や私たちの軍規違反でもありません。歴史の罪の話です。いくら歴史の微細な情動を時間遡行でもって修正していっても、私たちの罪がなくなるわけではないのです。私は、私たちは、現在の時間遡行技術による、感情を主戦場とした新たな戦争は誤りであると考えています。皆さんはどう考えますか。
心残りは、栗栖隊長を当該時間軸に置き去りにしなければならなかったことです。それは隊長が望んだことでした。栗栖隊長は、最期にこう言いました。
「自分の死体が残ることで、彼らの敵対心は受け継がれていくだろう。それは正しい歴史認識につながっていくはずだ」
正しい歴史認識とはなんでしょうか。私はあれからずっと考えています。私のこの憎しみは、悲しみは、喜びは、正しい認識なのでしょうか。私にはわかりません。ただひとつ、もし私が正直な言葉を口にしてもいいのなら、私はやはりこう繰り返します。
私は、栗栖隊長ほど高潔な軍人を、知りません。
この作品は、SF短編小説「リモート」で第一回かぐやSFコンテスト審査員特別賞を受賞した坂崎かおるさんへの副賞企画の一部として公開されました。2021年春に完成を予定している『SFG Vol.03』には、「パラミツ戦記」の姉妹編「常夜の国」が掲載されます。世界設定を共有する姉妹作品をウェブ媒体と紙媒体で公開する新しい試みです。
詳細はこちらをご覧ください。
「常夜の国」あらすじ
空襲でドミトリーが焼け、避難してきたココ。僕はココに、よくおとぎ話をしてくれていたスーの面影を感じ取っていた。ココは言葉を口にしないけれど、僕らは一緒に紙の本を読む。そして僕は、自分の心に耳を傾ける。