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ベールを脱いだ「日本のバットマン」
日本の著名クリエイターが結集
6月15日に日本で劇場公開された『ニンジャバットマン』は、アメコミファン、アニメファンから熱狂(狂気?)をもって迎え入れられた。
< 最新TVCM先行解禁♡ >
問:(『ニンジャバットマン』に対し過激なワードが飛び交っている)ここは、どこだ?
答:日本#全部褒め言葉です#ヤバい#最高にクレイジー#考えるな感じろ#ぶっ飛んでる#ゴリラ#どうかしてる#やりたい放題#ネジが外れてる#ホットな感想お待ちしています pic.twitter.com/8RtbDRYrRR
— 『ニンジャバットマン』公式 妥協は死 (@batmanninja2018) June 20, 2018
アメコミヒーローとヴィランたちを戦国時代にタイムスリップさせるという無茶なアイデアを実現したのは、『天元突破 グレンラガン』(2007)、『キルラキル』(2013-2014)で脚本を手がけた中島かずき、『AFRO SAMURAI アフロサムライ』(2007)の原作者として知られ、本作ではキャラクターデザインを手がけた岡崎能士、そして水崎純平監督率いる神風動画。更に、展開によって風味が大きく変わる各シーンには、パート監督が振り分けられており、いくつかのアニメーション/CG制作スタジオの協力によって制作されている。SF設定考証には、数多くのアメコミ作品の訳書を手がけた堺三保が参加。日本のクリエイターが結集して作り上げた作品と言っても過言ではないだろう。
戦国×バットマン
『ニンジャバットマン』の物語は、バットマンやジョーカーらスーパーヴィランが拠点とするゴッサムシティから始まる。バットマンシリーズではおなじみのアーカム・アサイラム(犯罪者を収容する精神病院)から、ゴリラ・グロッドが作ったタイムマシーンによって、バットマンらヒーローチームとアーカムに収容されているヴィラン達が丸ごと戦国時代にタイムスリップしてしまうという展開。バットマンの実写化作品だけを見てきたファンには耳馴染みのないキャラクターも多く登場しており、バットマンチームには初代ロビンから4代目ロビンまで参戦させる徹底ぶり。一方で、全てのヴィランが実在した戦国武将と入れ替わるというコンセプトが採用されている為、日本の観客には圧縮されたバットマンの世界を、海外のバットマンファンには戦国史の世界観を提示するような構造となっている。
バットマンが戦国時代で奪われたもの
「ゴッサム」の外へ
人気シリーズとなったドラマ『GOTHAM/ゴッサム』(2014-)でもフォーカスされているように、ゴッサムの街での出来事を描くのが「バットマン」シリーズの特徴だ。原作コミックでは、バットマンがゴッサムシティを守ることにしか興味がないため、「世界」を守りたいスーパーマンとぶつかることも。
Criminals of Gotham take notice: it’s #BatmanDay. #BatmanvSuperman pic.twitter.com/AAhVGFqDgj
— Batman v Superman (@BatmanvSuperman) 2017年9月23日
だが、『ニンジャバットマン』では、そんな設定が通用しない。街の悪党とヒーローが、戦国時代の日本列島に散らばってしまい、バットマンは「歴史」を守るために戦うのだ。バットシグナルではなく、自らの意志に要請されて。
失った「スーパーパワー」
バットマンから奪われるものは、ゴッサムという街への執着だけではない。多くのアメコミヒーローと異なり、「超人」ではないバットマンの武器は、財力とその財力に裏打ちされた科学力。スーパーヒーローが結集した『ジャスティスリーグ』(2017)では、自身が持つスーパーパワーを尋ねられたバットマンが、「I’m rich(金持ちだ)」と答えるシーンが話題を呼んだ。本作では、戦国時代にタイムスリップしたことで、財力と科学力の双方を失うことに。だが、この設定がバットマンという混沌としたキャラクターを、純朴なヒーローへと仕立て上げる。科学と富を奪われたバットマンに残るものは–––是非、劇場で確認していただきたい。
相対主義を正面突破した『ニンジャバットマン』
『ダークナイト』が生んだ「ヒーローと苦悩」
時や場所を超えても、バットマンが対峙するのは、宿敵・ジョーカーだ。ティム・バートン監督の『バットマン』(1989)では、ジョーカーがバットマンを作り出し、バットマンがジョーカーを作り出したという皮肉な物語が描かれた。そして、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(2008)は、バットマンとジョーカーの関係を「深化」させるのではなく、「純化」させ、ジョーカーは「正義の味方」であるバットマンや「善良」な市民の心に内在する「狂気」の存在と、その矛盾を問うた。そして、この問いはバットマンとジョーカーの個人的な対立の域を超え、多くのヒーローが正義の根拠を問われる時代を迎えた。ポストモダン以降、そして911以降の流れも手伝い、アメコミ作品でも、正義とは相対的なものであり、悪党にもそれなりの事情とロジックがあるという設定が多く見られるようになったのだ。スーパーマンやキャプテン・アメリカといった、ナチスドイツや大日本帝国と戦いを繰り広げてきたレジェンド達も例外ではく、もはや「ヒーローと苦悩」はセットで販売されるコンテンツとなった。そして、その臨界点として描かれたのが、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018)における最強のヴィラン・サノスであり、『アベンジャーズ4(仮題)』(2019)において、ヒーロー達がサノスのロジックをどう乗り越えるかに注目が集まっているのだ。
時代劇、スーパー戦隊を想起させる勧善懲悪
このように、『ダークナイト』を起点としたヒーローにその正義を問う風潮は、10年の時が経ち、一つの決着を迎えようとしている。そんな中で「相対的な正義」というある種の「流行」を真っ向から突破していくのが、『ニンジャバットマン』なのだ。時代劇やスーパー戦隊モノを思わせる爽快な勧善懲悪の物語は、バットマンに呪いをかけていた町の景色や、彼を飾り立てていたテクノロジーを取り払うことで実現したものだ。悪の巨大ロボットが合体し、ジョーカーとバットマンが力と力のぶつかり合いを見せる展開は、決して哲学的な正義論争に対して答えを提示するものではない。だが、ポストモダンの時代で「正しく悩むこと」を強制されたスーパーヒーローが、ひと時でも解放されている姿をみるのは、微笑ましくもあり、感慨深くもある。長年人々から愛されてきたバットマンというキャラクターであればなおさらのことだ。バットマンを小旅行に連れ出すことで、流行とは全く異なる(むしろ逆行する)ヒーロー像を提示して見せた『ニンジャバットマン』。本作は「正義論」に疲れた我々現代人にも、バケーションを与えてくれる作品なのだ。
映画『ニンジャバットマン』は6月15日より、全国で公開中。