麦原遼「それはいきなり繋がった」 | VG+ (バゴプラ)

麦原遼「それはいきなり繋がった」

カバーデザイン 浅野春美

先行公開日:2021.4.24 一般公開日:2021.5.29

麦原遼「それはいきなり繋がった」
14,090字

僕は今まで伝えていなかったわけだ、あの年について、自分の経験したことを、ありのまま包み隠さずというふうには。

君が十二になったら話そう、いや十四になったら、と年々先延ばしにしていたけれど、意を決する前に僕が死ぬ可能性も考えて、覚え書きを残しておくことにする。

あの年は、無論、僕たちの世界であの感染症が広がった翌年だ。ウィルスは依然として国々で猛威を振るっていたが、それを置いておいて、あのことが起きた。と書いてはみたものの、自分のまわりについてどう切り出せばいいのか、どういう距離感で話すことが正しいのか、まだ確信が持てない。

でも、とりあえず、始めてみよう。遠回りにはなるが、僕の近所に住んでいたはずの、Aさんのことから始めてみよう。

あれは、陽射しの穏やかな春の日だったはずだ。

Aさんが後でつけたブログによると、そのときAさんは家の近くを散歩中だった。いつものコースに従って、小さなスーパーを過ぎたら左折。そのまま東側の川にかかった橋を渡ろうとして、そこで体が固まった。

川向こうには、三階建てのアパートと、がらがらの駐車場があるはずだった。だが見えるのは、過ぎたはずのスーパーの脇腹だ。Aさんは空を振り仰いでまた驚いた。午後三時の、川の東にあるはずの青空に、太陽がもう一つ浮かんでいる。首を右にねじれば、ついさっきまで顔に浴びていた陽射しの主であるはずの太陽が、きちんと見える。

狂ったのか? 目が? 頭が? 世界が?

顔が熱いような冷たいような気がした。着けているマスクの上から頬を掻いた。焦ったときの癖で、衛生上よくないと時々父親に注意されるのだが、直りきらない。そんなAさんは、橋の先に自分以外の顔を見つけた。

この近辺は、決して都会だとは言えないが、田舎らしい田舎だとも言えないぐらいの場所だった。目立つのは、てかてかしたマンションではなく、築数十年のアパートと戸建て。田畑と用水群。点在するチェーン店と、住宅脇に生えた狭い個人商店。最寄りの駅からは昼間二十分に一度のバスが出て、鳥の糞や落ち葉が彩る通りを均していく。ここは、そのバス通りを救急車が通れば聞こえるぐらいの位置にある橋だ。通常の人出は、渡るときに一人か二人出会うか出会わないか程度。そして今Aさんの正面には二人の人間がいて、膨らんだエコバッグを腕にぽかりと口を開けている。

AさんはスマホでSNSのアプリを開いた。しかし画面情報は更新されず、ネットワークエラーを告げる表示が出てきてしまった。原因の探究よりも、端末を握って駆け出すほうをAさんは選んだ。恐怖が一線を越えると事態の中心に飛び込むたちだったようだ。

Aさんが橋を渡ろうとしたのとほぼ同じころだった。南北にある道路では衝突事故が発生した。付近では停電もあった。さらに十分ほど過ぎてからだったか、もっと広い地域の人も大混乱に巻き込む情報が流れだした。

ある川に沿った、長さは十キロメートルほどにして高さは不明の境界面をもって、われわれの世界は鏡の世界と繋がってしまったようである、と。

さて川のあちらへ走り出したAさんは、ガラスに貼られたチラシも鏡文字になったスーパーの前を駆け抜けた。ネタになるかと思い立ちスマホでビデオを録ったらできた。車用信号のあるレーンも信号の赤と緑も左右逆になった道を録りつつ、祖母と父親と自分の三人で住む家があるはずの場所を目指した。表札に行き着いた。正しく反転した自分の苗字だった。インターホンを鳴らせば、ドアが開き、なじみ深い顔が現れた。

「母さん」と端末をつい下ろして叫んだ。

右の頬にあったはずのほくろが左の頬に見えているが、左右逆なら当然の話だ。なんであれ家族が存在している。安心感で膝が崩れかけてから、母親とは今は離れて住んでいるはずじゃないか、と思い出し、頭の中が歪んだような気がした。

「あら、どうしたの、急に」左右逆の母親は驚いたようだった。「急に帰省するなんて言ってなかったじゃない。あらもしかして具合悪いの? マスクして――でも痩せたって雰囲気じゃあないねぇ」

「大丈夫で――運動不足だけど――」

花粉症だったらあれ試してみる? あら荷物は? こっちにあんたの服なんて高校のとパジャマしか残ってないけど大丈夫? と続けてくる親を前に、何から話せばいいものかとAさんは頭を悩ませた。

鏡映しのようだ、というのが〝向こう側〟の世界の第一印象なら、第二印象は、どうも歴史は少し異なっているようだ、というものだった。調べられたところ、「何が起きた」と人々にはっきり意識される粒度の物事では、一年と数ヶ月ほど前から大きな差異が存在するようだった。

たしか騒動の日の夜中になると、科学者たちも互いの世界に派遣され、二つの世界がどれだけ同じでどれだけ違うのか探っていたはずだ。

その結果だが、どうやら、生体をつくる分子の構造のレベルでは、左右がひっくり返っているようだった。それから地理的な話でも。世界の境界を越えて〝向こう側〟に行くと、太陽は、右から昇って左に沈むように見える。ただしこの「右」と「左」という言葉もあちらでは逆になっていて、「東」や「西」も同じようだったので、単に話すぶんには「『東』から太陽が昇り『西』に沈む」という言い方が通じてしまう。けれども、僕が左手を挙げると、向こうはそれを右手だと言うわけだ。

それでいて、完全に左右が逆というのではなかった。もっと低いレイヤーでは同じ振る舞い方をするようだった。こちらの世界から行った光が向こうに入ると左右反転するわけでもなく、電磁力の実験キットはそのまま使え、弱い相互作用というのに関する鏡映変換について非対称な挙動も同様である、といったようだった。

だがどうして、この二つの世界は、僕たちのまわりで認知される範囲だと概ね一、二年程度だけ異なるように見える状態としてあらわれたのか?

物理法則の左右反転していないところが歴史の差異に繋がるんじゃないか、いやそれなら宇宙の大規模構造から違ってきて数年の差異じゃ済まないんじゃないか、いやそれを考えるなら量子的な確率の話で、もっとめちゃくちゃに世界の状態の歴史はずれうるんじゃないか……むしろ超大量に存在しうる、歴史がずれた世界のなかで、「なにかかなり似ている」部分のある二つの世界がくっついたのではないかと問いかけるのはどうだろう? ……といった話を当時僕は聞いたと思う。

語られた大きな差異の一つが、次のことだった。

川の〝向こう側〟の世界では、〝こちら側〟の世界を未だなお苦痛に浸していた、あのウィルスによる感染症が、流行していなかった。流行の兆しさえも巷間には知られていなかった。

関連して、人の暮らし方も違っていた。たとえば、医療従事者だったAさんの母親は、〝こちら側〟ではAさんの祖母の感染リスクを恐れて独居を始めていたが、〝向こう側〟では同居を続けていたようだった。さらに、〝こちら側〟のAさんが、進学の決定した大学が遠隔授業となったため実家に留まったのに対し、〝向こう側〟でAさんの立場にあった存在は遠方へと越したらしい。

けれど、僕たちの過ごし方や生き方を変えた要因は、流行の有無の相違だけではなかった。

素早く段取られた動物実験を経て、一つの推測がなされた。〝こちら側〟のあのウィルスに〝向こう側〟の動物は感染しないのではないか、と。なぜか。生体内のタンパク質から何から分子構造が左右反転しているという違いのためではないだろうか――と考えられた。

しかし仕組みの判明を待つ前に、どういうわけであっても「感染しないようだ」と見られた段階で、ある施策が政治的に検討されることになったというのは、まあわかる話じゃないか?

検討されたのは、移住だ。移住、特に交換的移住だ。

感染した場合のリスクが高い群、および、多人数に近接せざるを得ない群。かれらを、二つの世界で、交換するのだ。

交換。たとえばAさんについては、同じ名前を持ち、同名の家族を持ち、二年前までは同名の地域に住んでいた存在が〝向こう側〟にいた。同様に、一方の側のみで生や死を迎えた者は別として、多くの人には互いの側に自分と似た存在がいるようだった。それは〝対〟と呼ばれた。この〝対〟同士の交換を基本とするのが無難ではないか、と提案されたわけだ。

もし〝こちら側〟に〝向こう側〟から来ても、あの病にかかることはない。逆に〝こちら側〟から出向けば、周囲に〝こちら側〟出身者が少ない状況下では、感染のリスクが大幅に低下する。

僕らの世界は沸き立った。一部には、二世界が急に繋がったように急に分離してしまったら? と心配する者もいたけれど、祭り気分が強かった。すぐ世界間交渉が始まり、人間交換の手はずが準備されていった。

これまで十何ヶ月間しぼんでいた〝こちら側〟の観光業界も、〝向こう側〟からならどれだけ人を入れても大丈夫じゃないかと高揚した。だが期待が満たされはじめたのは数ヶ月後だ。互いの世界へ行こうと人が殺到したので、すぐ行き来に規制がかかってしまい、来る人間といえば、調査と交渉の担当者、正式に移住者として選定された者、かれらの通行を支える仕事の人、と真面目極まりない名分を持った者ばかり、これでは観光にうつつをぬかせず、という状況がしばらく続いたのだ。さらに、とある理由で、飲食に関わる振興計画は出鼻を挫かれてしまっていた。

とはいえ、経済的に人の訪れを欲する人々が沈鬱に落ちたわけではなかった。ここ一年あまりの状況を聞いた〝向こう側〟の人々が同情したようで、政治家同士が損失回避の駆け引きをするのをよそに、するっと支援を始めていた。たしか多くの国では通貨について世界間での互換性を承認していなかったので、左右反転しても問題なく通じる貴金属類に需要が殺到していたと思う。行き来する者にこれを預かってもらうわけだ。現金以外の運搬可能物といえば美術品もあったけれど、左右反対になった作品をどう扱うか、元々左右対称の作品は如何、などで議論が紛糾し、その辺りの厄介ごとに僕も巻き込まれたことがあった。

はてさて僕がどういう立場でこの動きに関わっていたかというと、二世界間での荷物の運び手だ。世界間ドライバー。元から、この境界地域となった場所に住み、車を乗り回して荷物を運んでいたので、その延長線上、というべきか。

積み荷は、当初は人だの手紙だの美術品だの多岐にわたっていたけれど、一ヶ月もすると多くが食料関係になった。どうしてかというと、行った人も来た人も、食事で問題が発生するのだ。まず、消化吸収のうまくいかない食べ物が多い。ついでに、味もよろしくないものが多い。分子構造の問題があるらしい。というわけで、〝向こう側〟の客を〝こちら側〟の飲食店でもてなそうという試みは辛くも挫折してしまったわけだが、断食希望者を除けば食料が要る。そこで、輸送、というわけだ。流通量は、しばらくは移住者の総数が増すほど増えていったので、けっこうおいしい仕事だった。なお食料関係の中身だが、移住先での自給比率を上げるようにと、植物の種や球根や家畜なども運ばれていた。

でも、本当の最初の数日間、冷静さを取り戻した誰かが仕事を発注や受注する前にして、まだ行き来の規制も曖昧だった時期は、僕も探索に加わっていた。調査と報道のヘリが飛ぶ空の下、近隣住民が橋に押しかけたり舟を出したりして、知っている顔を次から次に探しにいった。同じ世界の人間かどうかは大体マスクの有無で判別した。僕も知人の〝対〟とどっさり会った。自分の〝対〟にも会ったが、鏡で見る自分とそっくりで、衝撃と、どんな警戒心もこじあけそうな親近感を覚えさせられた。

僕は〝向こう側〟の人から、僕たちが過ごさなかった一年間の話を聞き、僕たちが過ごした一年間の話を喋った。やたらと顔を合わせたのは、直接的な感触を得たいからだけじゃなく、当初は〝向こう側〟との通信が整備されていなかったせいもある。

有線通信が基本的にめいめいの世界で完結していた一方、スマホの電波については、機器や信号の識別問題でうまく使えなくなるトラブルが多発してしまった。たとえば、〝向こう側〟に住む自分の〝対〟が自分と同じ端末を使っていた場合に、〝対〟の端末も自分の端末も〝こちら側〟の基地局に繋がってしまうと、不具合が出る……といったことだ。

通信会社が対策検討している間、公園などにWi-Fiアクセスポイントが臨時で設けられもしたけれど、二つの世界で自由かつ確実に情報を交換するために、僕たちは会ったのだ。

住民といえど勝手に行き来できなくなってしまってからは、代わりに皆で観察した。人類世界の要人とおぼしき人たちを乗せた車がひしめきあい、ささやかな橋を越えていくのを見守った。道や畑やバルコニーに繰り出して、声援や野次を浴びせていた。川の向こう岸の人々も似た様子だ。ただ、あちらのほうは、同居人以外とは依然として距離をとっている僕らとは違って密集していて、それが羨ましくもあり切なくもあった。

そうだ、本来の川の向こう岸について、ちょっと補足しておこう。〝向こう側〟と繋がった副作用で、元々橋の向こうにあった場所へは簡単に行けなくなってしまった。境界面は高さ十キロメートルほどあると判明したので、軽くは跳び越せず、移動の第一選択肢は境界をぐるり迂回すること。このせいで学区や町内会の臨時再編、商店や病院の利便性の不均衡なんかが生まれた。あとで地下トンネルができると、川の下から行けるようになったのだけれど、その頃にはもう町も様変わりしていた。

通行規制が厳しかった時期も、僕は〝向こう側〟へ行けるという職業上の特権を持っていた。これを活かして、同じ仕事をしていた僕の〝対〟と入れ替わったり、知人の〝対〟たちと遊んだり、細々したものを私的に運んだりした。

こんな「活用」に引け目を覚えなかったか? それを考えるどころじゃなかった。町は日々変化していき、なにかにしがみつかないと自分がわからなくなりそうだった。

ちっぽけな土地に世界中から人が押し寄せている。小さなスーパーは通行審査の関門に転用され、そこで許可を持つ者と持たない者がふるい分けられ、跳ね返された者たちが周辺を荒らして帰る。車をもっと通すようにと橋やら道やらの拡幅工事なんかがなされ、騒音と臭気の合唱だ。古くから住んでいた住民は退去を推奨され、汚れていく空気のなかで田畑が彩りを失いはじめ、早朝の公園で太極拳をやっていたおじいさんおばあさんたちはどこかへ去り、かわりに実況者が好スポットを探してうろついている。

浮ついている間に推進された実際的な変化に、気づけば翻弄され、圧倒され、僕はこの手で掴めそうなものばかりに頼った。仕事と人間と。

町の改造が進んだころには、通信手段も整備されてきていた。

スマホの問題については、〝こちら側〟で買った端末は、手続きをすれば〝向こう側〟と誤って通信を進めることがなくなった。逆に〝向こう側〟で使いたいなら、〝向こう側〟で調整された端末を持ってくればよい。

たしかインターネット全体については、お互いの世界を相手側に開くかどうかがしばらく議論されていたと思う。たとえば国によっては政治のトップも両世界で違うわけで、情報がいっしょになると混乱するんじゃないかと懸念されたわけだ。でも最終的に、インターネットの自由さを尊重しろ、とかで、ブラウザで特別な文字列をアドレスの頭に打ち込むと、相手側のウェブページが開けるようになった。基本、見る側の人間用に左右を整えた形で。

僕は、どちら側でも過ごせるよう、スマホ二台持ちだった。僕の〝対〟もそうだから合計四台だ。こちら製と向こう製を使い分けて二重の人間関係を生きていた。

二つの世界が繋がる前日まで、僕とその〝対〟は、ある相手を除けば、対称的に近い人間関係を繰り広げていた。その例外こそがJだ。

僕にとっては、Jは友人の友人だった。ついていなかったのは、数年前に近くに越してきたというJと知りあったのが、あの感染症が広がる直前だということだ。すこし言葉を交わすと、僕はJに惹かれていた。淀みない明るさや、物事に応える響きの速さに。けれどもJは、お母さんと体が弱い弟と、三人で暮らしていた。一方の僕は近親者皆現世不在の単身世帯、仕事では配達も受け持ち多くの人の玄関先に出向く立場だ。直接会わないかと誘うのが躊躇われてしまったまま時が経った。

もちろんオンラインの飲み会では顔を見ることもあったけれど、たいていJは早めに脱けた。ぽろりと誰かが話題をこぼす――この間誰と会ったときに、とか、今度ここ行かない? とか――と、ぎこちない雰囲気になった。そんなとき、画面上では何人かが目線を固定させ――きっとJの顔が出ている場所を凝視してるだろうな、と僕は思った――間の空きすぎた話題転換の声が被さるのだ。

僕や周囲の人たちも、人と会うときの感染対策には気をつけていたつもりだったはずだけれど、全く友人に会っていないというJとはレベルが違った。僕やその周りは、当時のオンライン環境を対面環境以上に喜ぶ資質を持たず、さらに立場の異なる皆で同じように楽しめる方法を見いだす賢さも足りなかった。Jは次第にこの輪から退きがちになった。

あるとき友人からJが憂鬱気味だと聞き、相談に乗れないかと通話してもみたけれど、Jは気が晴れない様子で、やはり立場の違いすぎる僕じゃだめなのかと落胆した。

けれども〝向こう側〟では違った。Jの〝対〟は、闊達だった。夏サーフィン冬スキーと動き回っていたらしく日焼けが残る顔で、よく笑った。Jはこんな人だった、と僕は久しぶりに思い出した。それで〝こちら側〟のJを励まそうと思い直した……というのが、僕たちが君に対して、あたかもあったかのように匂わせていた出来事だ。僕はそんな立派な人間ではなかった。障壁のない世界で僕の〝対〟がJの〝対〟と親しくなっているのを見て、自分を鼓舞すれば良いものを、嫉妬した。自分の〝対〟の口から出る声が、自分が喋って骨を通して聞く声より薄っぺらく滑稽に聞こえることにも、苛立ちを覚えた。

僕は、自分の〝対〟に卑怯な相談を持ちかけた。

――こっちの世界じゃJが誰とも会えなくてかわいそうだ、そっちの世界じゃとても楽しそうなのに――と。

相手はすこし黙ってから、痙攣的に瞼を瞬かせて、口を開いた。言葉は、Jの〝対〟に相談する、という無難なものだったが、僕は、自分の〝対〟の仕草に、自分と通じる、ある種の反射的な電卓叩きを見て取った。

こんな話だ。

元々の僕の〝対〟とJの〝対〟が関わって得られていた満足度を1としてみる。自分と自分の〝対〟の性質はかなり近いと考えられ、それならば、僕とJの〝対〟が関わった場合に得られる満足度は0.8ぐらいになり、また僕の〝対〟とJとが関わった場合に得られるのも0.8ぐらいになるんじゃないか。ここで現状、僕とJとは関われずに満足度が0だ。なら、片方を〝対〟と入れ替えた方が、満足度の合計が0.8+0.8で1+0より大きくなると見込めるのではないか?

相談する前に、僕はこう期待したのだ。僕の〝対〟は、同じ思考をしただろうと思われた。程なくしてJに僕の〝対〟が話しかけるようになったらしいのは、そういう理由だったろう。とはいえJの〝対〟が納得しないと、成り立たない話だった。

けれどJの〝対〟も、僕と二人で会って話すようになった。ある日「僕たちに同情したの?」とわけを尋ねると、「それだけじゃない。君のほうが、悪いひとだと思ったから」とあのひとは答えた。僕の罪悪感を減らすことにかけては、あのひとには恐ろしいものがあった。

――世界間共同開発 成果紹介……

――移住した医療従事者 遊興に顰蹙? ……

――移住者、同居家族が病に伏せっている間に倒れて死亡 責任は……

――移住者まとめ 「ち」と「さ」をつい間違えちゃう編……

――【質問】同じ世界の困っている人間より別の世界の人間を支援するのはおかしくない? ……

――大学生Aの日記(196) 自分の〝対〟を殺したらどのように裁かれるのか? ……

――二世界共通トークン開発者 脅迫を受ける……

――クーデター人員倍増計画 選択と集中の……

――【質問】失敗した人生のほうの自分です死んでいいかな? ……

――「〝向こう側〟の選挙結果が正当」と主張する集団、〝向こう側〟の政権による〝こちら側〟の統治を求めて運動……

情報の流れていく日々、荷物を運びながら、互い違いの組で会う頻度を増やしていった。

経験したなかで最も陽射しのきつい夏が来た。

地域を歩く人間の量は、一時期を境として減少に転じた。訪問者たちが飽きたのもあったろうが、交通の整備が大きかったはずだ。みんな車で過ぎていく。

道路の拡幅は進み、通行審査も路上の機械に置き換えられた。土地の有様は、深い虫歯の治療でごっそりと削られた後の歯のようだ。川縁の並木や雑草も、野菜の直販所も、Aさんの家も消えていた。汚れと齲蝕がなす模様は削がれ、充填剤がはめ込まれる。元のささやかな橋もコンクリートに埋まっている。川を挟んで並んだパン屋とパン屋の〝対〟がしばらくは競いあって集客していたけれど、その二軒も道になった。

目に映るのは、一日に何十万人何百万人の往復を可能とするべく居並んだ、一方通行の道と道と道と、通行者を支えるトイレや自販機……。と、こんな静かな印象は、一時間あたりに通る車の台数にも制限がかかる夜中のことだったか。昼間は流れる車がビーズみたいに眩しく、加えていつも単調にうるさかった。

盲腸に住んでいたらそこが心臓に変化していったような気持ちなんだろうか、と思った。血球の流れを見守る元腸壁の気分を思った。誇らしさと違和感。もっとも僕自身だって血に運ばれる成分の一部にもなった。ときには、あまり褒められたものではない成分に。

ある晩、Jからの通話を受けた。

「〝鏡のひと〟とはうまくやってる?」

僕は肯定した。Jが〝鏡のひと〟と呼ぶあのひととは、道路ばかりの町からの避暑も兼ねて、近々旅行しようという話をしていた。ただ僕が仕事予定を増やし過ぎて、いつになるかは不透明だけれど。

「同じもの食べて喜べないからうまくいかないなんて、嘘だよ」

僕が、そのころ流布していたQ&A――移住者のほうに好意を持ってしまったけれどうまくいくでしょうか――の否定派定番回答第一位を批判すると、Jは笑った。

「体外受精、考える?」

僕は瞬いて唾を飲んだ。〝こちら側〟出身者と〝向こう側〟出身者の間では生殖が不可能だろう、という話は、否定派定番回答の第二位だった。だから、それを望むなら同じ側の者同士でのやりとりが求められる。心の中でうれしさとためらいが混じった。将来がすぐ頭に浮かばなかったのだ。

「でも、誰が育てる?」

「四人で育てればいいよ。世界が繋がってる限りさ。〝鏡のひと〟も同意してる」

「重要な問題だから――」

と言いながら仕事予定を思い出していた。盛況すぎる運送仕事は、質の意味でも危険な範囲に入っていた。ときどき、怪しそうな物の複数回輸送などを高額報酬と引き換えに頼まれ、僕はほいほい受けていた。それも、中身を詮索しないようにする程度の護身策しか講じていない。でも子どものことを考えたらどうするのがいい? 安全を取る? 金を取る? などとはJに訊けなかった。自分の〝対〟にも話していない。

「うん、ならさ、一緒に話しあわない? ちょっと顔合わせて」

「顔を?」

「ん? ――うん、そう。家族が越したら」

「あ――君のほうも、越すんだ」

あのひとの家族が転居を計画しているという話は知っていた。

四年前にここに越してくるときのメリットだった評判いい専門病院も遠くにいっちゃったし、生活機能は壊れてくばっかだったし、というらしい。

「うん。〝鏡のひと〟より早いよ。それでさ、どこに住むかってのも問題じゃありません? ってのもあって。ほら開発計画。家を消す代わりに高いマンション建てるんでしょ? 今だと、家を失う住民特典で、いい条件のとこ入りやすいみたいで」

「そっか、それで何人住みかも考えたいのか」

「そう」

後であのひとから聞いたところ、あちら側でも、似た話をしたらしかった。二人の家族の引っ越しが過ぎ、僕とJは顔を合わせた。

Jはただあのひとの双子であるかのように見えた。友人の〝対〟と話したとき時々覚える違和感――利き手の違いや顔の左右差――を超えて、別のひとだという感覚が、すとんと腹の底に落ちた。大事なひとの大事なひとだ。

僕とJはそんな感じだった。僕は、減らすことに決めた怪しい仕事の始末に追われ、Jとは翌々週まで会わなかった。

翌々週。どんな流れがあったのか僕はもうよく覚えていない。だがその木曜日だった。僕は、あのひとと僕の〝対〟が事故に巻き込まれて入院したという報せを聞いた。週末に見舞おうとしたができなかった。通行規制のせいではない。院内感染発覚のためだ。次の週、僕は二人が死んだことを知った。死因は感染症だった。

それは、この院内感染をきっかけに認知されたものだった。それは、前年僕たちの世界を打ちのめしたものよりも、さらに感染力が強いものだった。〝向こう側〟は一時期パニックに陥った。だが今度は〝こちら側〟から出向いていた者たちが、対抗する戦線を張った。やはり感染しなかったためだ。

当時様々な土地で敵意や噂が吹き荒れたはずだが、僕はよく記憶していない。住んでいたあの地域は、台風の目めいて静かだったように思う。たまに叫び声や煙が起きてもすぐ鎮められた。世界間の橋となるこの土地の機能は死守すべきだと、冷ややかな殻が被さっていたかのようだった。

日を追い、はっきり身にしみた変化は、多くの人々が身の回りで一種の合理化を進めていったことだ。僕らも行っていた自分の〝対〟を活用した感染対策に似ているが、より徹底的なものが秩序だって現れた。

白と黒の碁石を交互に敷き詰めるように、直接顔を合わせる相手を、同じ側出身者以外に限る。同じ側出身者と会うのは〝対〟に委ね、〝対〟と互いの情報を共有する。

皆が生きた〝対〟を持つわけではないが、こんな行動がマナーのように推奨され、拡散し、企業などでは〝対〟とのペア業務に関する手続きが整備され、情報共有コンプライアンス講習の広告が顔を出した。

もちろん、仮に全員が実践したら人の半分が〝対〟と入れ替わるのが求められるような行動が広がった背景には、行き来の規制が不要なほど潤沢に人間を輸送できるようになってきた状況があった。

工事は冷静に進行した。

土地はもう一日あたり数千万人の輸送を可能とするほどに改造された。

空中に葉脈のように伸びはじめた自動輸送用の試作チューブ類の下、大地に広がるのは、各地からの道が集ってできた、幅数キロメートルの一方通行の道路。同じ世界の施設間で荷運びする裏方用の通路は地下に収められた。地上では、車線の横に通行許可識別機が控えるスタート地点より、主に大型車両が統制された滑りを見せるなか、所々では、ドライブスルーの島が浮かぶ。二世界の中間地点では、空中輸送網の中継ポイントを兼ねた高層ドライブスルーの透明な壁から、何十年もののスーパーが二つ透けて見えた。新品ばかりの商品棚に紛れ込んだ薄汚れた毛皮のようだった。

二人の遺影を見た日は、人々の合理化が高度になるより前だった。あのときは吐き気がして、連れていかれる組みあわせが間違っていると思った。僕はこの僕が生きていることを呪った。鏡に向かって、おまえあほだ、としばらく管を巻いていた。Jが来た。鏡越しに見るJはあのひとによく似ていた。Jも僕と〝対〟についてそう言った。翌日、鏡に覆いを掛けた。許しを乞うた。

半月して行動力が幾分回復すると、Jと僕は引っ越した。「こちら→向こう」道路と「向こう→こちら」道路の間にできた地帯の新築マンションで同居を始めた。締め切った防音窓を前に過ごした。畑の畝めいた、いやもっとプレーンな、似た縞模様を繰り返す道路を見ながら。

心の中では苛みが燻ぶっていた。根拠はなかったが、〝対〟も僕と似たような危険なことをしていて、その絡みで何かに巻き込まれたのではないかとも、疑った。もし結果的に二人を死に追いやったのが僕の〝対〟ならば、それは僕が二人を死に追いやったこととほぼ等しくないか? そう考えると悪夢だった。あるいは、あのひとが去り、Jが去らなかったことをも、口には出さずに恨んだ。だからこそ、逆に、僕たちは互いを憐れみ、支え、大切に取り扱った。

Jの後ろ姿を見ると浮かんでくる喪失感は、憎しみになり、憎しみはそれを呼び起こす存在についてのかけがえのなさとなる。そもそもあのひととJにどんな違いがあったのだろうか、そんなことに拘らなくていいじゃないか、元々おまえは1か0.8か程度の差としてしか思っていなかったじゃないか、と自分を嘲ってくる思い――すべてが混ざり、Jも同じように僕のことを捉えているだろうかと思ったからこそ、僕もまたJのための、汚れた鏡像になろうと思った。

けれど冬になって僕たちは懐妊を知った。その子には、僕らを結びつける鏡は、関わらない。僕たちは生活の面を見た。この見方で現状を振り返ると、Jはもう紛れもなく生活の相棒になっていた。驚きを覚えつつ僕はそう認識した。僕たちはすんなりと養育について話した。この地域は乳幼児にとってはどうかと話し、住み家を移すことにした。僕も、境界の向こうに荷物を運ぶ仕事をやめた。この世界の、もっと奥の方に、移った。

だから、この目で、世界と世界の間の最後をみることはなかった。

世界間境界は、狭まりだしていた。

境界のきわに設置された観測点で変化が検知された。元々の川向こうが再び見えるようになっていったのだ。境界面の幅や高さの減り方は、指数関数的だったらしい。だから最初のほうは緩く、日を追うにつれて急になるのだ。でも、そんな変化の仕方自体はかなり安定していたらしく、かえって、当初は両世界の急な分離を心配していた人々のなかにも、移住に踏み出す人が現れた。境界が保つと試算された期間は、接触開始から十四年間だった。

一方で、数年間かけて、二つの感染症の脅威は下火になった。変身を重ねるウィルスに、ワクチンを筆頭とした手立てが追いつき、実生活上での危険性の押さえ込みが宣言された頃には、境界線はまだたっぷり残っていた。

そのあと、補助具抜きで左右逆の文字を読むのにも慣れてきた移住者たちが、生まれ育った世界に帰還した。食糧事情もだいぶ改善し、輸送せずとも自給自足で住める見込みが生じていたが、帰還を選んだ人のほうが多かった。むろん、新たに築いた人間関係のために残る者もいた。これとは別に、自分自身の〝対〟と頭を突きあわせる効率の良さに目覚めた人々の一部が、〝対〟とともに片側に固まることも選んだけれど。

いずれにせよ、多くの者はどちらに住むか意志を固めた。境界部分の幅が初期の四分の三ほどになったころには、行き来するのは観光客と調査団と政府関係者ぐらいに減っていた。

長さは礼儀正しく縮んでいき、二つの世界が出会ってから十四年後、君が十二歳のときだ、人々は別れの時を迎えた。人類が見つけた半身の喪失。その意味を僕は扱いきれていない。出会いすら扱いきれなかったのだ。

君が学校に行っている間、今も僕はときどきあの場所に戻る。大量の車輪の跡を残す道路群の一部は、記念公園に改装された。地区開発前に架かっていた橋が道から掘り出され、境界となった部分の上に記念碑が載せられた。傷口を塞ぐガーゼのように。

記念公園、研究施設、宿泊施設……これらが集った場所と実験用地として確保された土地を除けば、道路地帯は住宅地として再建されつつある。とはいえ物資輸送用の空中路と中継施設の外殻は大方残されているので、見上げれば変化の跡は明らかだ。あのスーパーもいつの間にか消えていた。

でも春のぬるい風を食いながら復元された橋に座り、空中路が落とす葉脈のような影をただ浴びて、川の向こう岸を眺めていると、最初から〝向こう側〟なんてなかったんじゃないか? 死んだ僕たちごと存在しなかったんじゃないか? 単に異様な地区開発が起きただけじゃないか? そう思おうとする誘惑に襲われる。実際、あたかも部分的にはそうであるかのように、僕は君に接してきた。Jと僕が直接惹かれあい、欠けるところがなく今に至って君の二親となっているかのように。

学校の友達の多くに〝対〟がいるんだ、自分も欲しい、と六歳の君に言われたとき、君にも〝対〟がいたはずだと話しそびれた。十歳になった君がネットを駆使して〝向こう側〟に親友を見いだし……「鏡録り」だっけ? 二つの世界の対になる場所で、お揃いの動きを録画することに明け暮れたのを見てほっとしたが、君たちが別れる日には、僕も身が切られるようだった。いつも、僕は自分たちのことは話さずにいた、傷つけるのではないかと思って。しかし君は、ためらう僕など追い越しているのかもしれない。君からは、僕たち四人が目指そうとした形態の家族を持っていたという友達の話も聞いた。とすると、今まで述べたことは、君にとってはありふれた類いのものなのかもしれない。

君は近頃、超大量にありうるかもしれない世界の中、この世界があの世界か別の似た世界とまたくっつくことを期待しているようだ。応援しているが、僕は怖い。奪いあいの話だ。複数世界間での人間集団同士の対立や不均衡、資源収奪や侵略の懸念なら、君が学ぶ複数世界学でもよく取り上げられているはずだ。防ぐための枠組みの議論もしているのだろう? だが僕が怖いのは、人に属するものの条約や契約の網では阻みがたい、ちっぽけな内心の話だ。再び〝対〟たちに出会うのが怖い。僕が僕の〝対〟の死を聞いてから、あのひとのことを知らされる前に、およそ百二十分間あった。よくなれ戻れと歯噛みする時間の中に、一瞬の泡立ちがあった。1か0.8か、いずれにせよ、僕の前に二つ並んで足されるという将来の泡が浮かんだ。たしかに喜びを嗅いだ。咎められるべきでないと言う人もいるだろう。だけれども、〝対〟との共存が、いかに穏やかな暮らしでも相手の消失を喜ぶ可能性を含みつづけたものなら、僕はそんな生活が怖い。家族でも友人でも、消えたら喜ぶ気持ちと在るのを喜ぶ気持ちとが比率は人によれど共存するものだと言われるかもしれないが、双方の思いは、大抵は相手の個性によってこそだ。ただ自分と酷似して、手の届く存在であるという理由だけで、敵になる。敵と見なされる。それが怖い。だが君たちなら、違うのかもしれない。〝対〟との共有を前提とした社会で育った君たちなら違うのかもしれない。僕は、いつの日か自分もそうなれぬものかと、考えている。

 

 

 

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麦原遼

1991年生まれ。ゲンロン 大森望 SF創作講座の2期生。2018年に『逆数宇宙』で第2回ゲンロンSF新人賞優秀賞を受賞してゲンロンSF文庫からデビュー。Toshiya Kameiが英訳した「GかBか(ガール・オア・ボーイ)」(『Sci-Fire 2018』収録)がスコットランドのShoreline of Infinity誌に掲載予定。2020年には『S-Fマガジン』2020年8月号の「それでもわたしは永遠に働きたい」、『小説すばる』2021年1月号の「2259」、『文藝』2020年冬季号の「〈90年代生まれが起こす文学の地殻変動〉アンケート」、『Sci-Fire 2020』の「嗅子」など、多くの媒体に活躍の場を広げている。圧倒的な強度を誇る新鋭SF作家。

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