熱と光 | VG+ (バゴプラ)

熱と光

第二回かぐやSFコンテスト審査員特別賞受賞作品

「熱と光」

僕の生活は夕方から始まる。河原に登る。電波塔が遠くに見える。空が雲に色をつける。散歩中の犬が尻尾で夜を引っ張ってくる。付き合って三年になる恋人が隣にいる。幸福な時間帯だ。すべてが完璧に見える。スーラですらこの風景に付け足すものを持つまい。

「じゃあこういうのはどう」

と彼女が切り出す。

「我々の共同体を維持するには一定数の人間の供給が必要で……」

すごい全体主義者みたいになってる、と僕は口を挟んだ。彼女は両手を挙げて降参した。

「子供を持つってのは大変だこと」

「子供を持つことを正当化するのはね」

僕たちの議題はこればかりだった――なぜ子供を持つのか?

足立区中央図書館に行き、声を合わせて「子供を持つことを正当化したいんですが」とチャットボットに訊いたこともあった。閉架から出てきた司書が、聖書から反-反出生主義の本までをずらりと並べて、暗い笑みを浮かべた。お好きな思想があればいいんですが。残念なことに、自己実現も本能も神も、僕は受け入れることができなかった。彼女もそうだった。これは個人的な意見で、すぐに取り消しますが、と司書は顔の右側だけで笑った。避妊具の発明家の倫理的欠点を見つけた方が早いと思いますよ。

彼女は刈り上げにした首筋を掻いて、まったくよ、と言う。

「我々、頭でっかちなのがいけないんだよな。地元の友達、今年、三人目産んでた――何かは考えてるんだろうけどね」

完全に同意、と僕は言う。河原沿いのベンチに腰掛ける。夕暮れが僕を落ち着けた。河口に向かって風が吹いている。草の匂いがする。

「怖いんでしょ。遺伝とやらが」

彼女は核心をついていた。非情緒的な意味において、受精における男とはゲノムの提供者だ。ついでにいえば、出産における男とは手すりだ。

「まあね。僕が光線過敏症じゃなかったら、輝く太陽に信心が芽生えて、子供にそれを受け継がせたくなるかもしれない。両親の骨に筋肉と内臓と脳がまだくっついてれば――死んでないって意味だけど――遺伝について話し合えたかもしれない。認めるよ、僕は怖がってる。誰でも怖いだろ、君も目が悪い……ごめん……」

僕たちは行き詰まりつつあった。凍結された卵子は頼りなく、精子のメチル化状態は加齢とともに変化する。時間が僕たちを支配する。僕は二十七、彼女は二十九。あとどのくらい時間があるのだろう――しかし、何のための? この領域に踏み込む準備も、僕たちには出来ていなかった。健康な子供。彼女が僕の背中をなでる。

「なあ、解決できるものはしなよ。病院に行って検査しな」

 

病院に皮膚片を送った。取り方がうまくなかったらしく、二度も送る羽目になった。心理学者は「深層心理が拒否したんだ」と喜ぶだろう。「できるだけ時間のある時にお越しください」と連絡が来た。彼女に週末の予定を聞く。いける。彼女は紙の本を閉じて、ダイニングテーブルに置いた。昔、古本市で僕が買った、アンソニー・ドーアの本だった。

「この本が言うには、我々の見る光と、ラジオの電波は同じものなんだと。つまり、我々がラジオを聞いているとき、我々は同じ光を聞いてるってことらしい。なごむよな」

彼女はキャンドルの蓋を開けて、火をつけた。火を見ると落ち着くんだよ。僕も。これはいつかの会話だ。僕は部屋を眺め、そこに漂う無数の見えない光が見えるふりをした。それが僕たちふたりを笑わせているところを想像した。それは受け入れることができた。なあ、と彼女は冷蔵庫から浄水器を取り出した。

「幸福は実在する、だってあたしが幸せだから。いい?」

続けて、と僕は述べた。彼女は浄水器から直接水を飲んだ。唇の端から水が伝った。犬の絵が描いてあるTシャツにしみこんだ。

「そして、あたしは他人を幸せにできる、だってあんたが幸せだから。オーケー?」

頷く。彼女が冷蔵庫のドアを閉める。僕の前に椅子を引きずってきて座る。いつもより少しだけ近い。彼女からは墨の匂いがした。

「それに、幸せな人が増えるのはいいことでしょ。だから、あたしが子供を産んでその子を幸せにすることはいいことでしょ」

素早く記憶をたどった。ありとあらゆる議論を精査し続けた結果、僕たちは肥えた書記官を頭に飼うことになった。そいつが反論とそれに続く議事録を持ち出す前に、彼女は僕の膝をつかんだ。

「あんたさ、まだこれが正当化の話だと思ってるの?」

白目の多い目が僕をにらみつけた。多分、この後、彼女と寝ることになるんだろう。テーブルには蝋燭の火が灯っていた。その光が僕を落ち着けた。

彼女の手に自分の手を重ねた。彼女の手の熱が伝わってくる。この暖かさは僕に何を与えるのだろうか? そして、僕の体温は彼女に何を与えるのだろうか? 僕は一つの答えを提案できる。僕は幸福を認め始めている。それが受け渡せるものだとも思い始めている。この不合理を受け入れ始めている。

 

病院は昼間しかやっていない。下痢気味の腹を抱えて、千葉の病院にたどり着いた。不安が頭を覆っている。ひどく動悸がする。薬、飲む?と彼女が言ったが、抗不安薬に効き目がないことは十分知っていた。屋内に入ると腹の調子はましになった。端末に予約番号を入れる。床に引かれた紺色の線をたどってください。五番外来です。僕たちは慎重に歩き始めた。ベンチに座った身なりのいい男が僕の顔をずっと見ている。彼女が僕の手の甲をたたく。

「あんたのゲノムが野いちごのそれでも、あたしはあんたのことが食べちゃいたいくらい好きだよ」

そしてにやっと笑う。考えてたの? そりゃね。

ドアを開けると、ワイシャツにスラックスの男が座っていた。私は医者ではありません、と彼は言った。

「私は研究者です。正確には、ゲノム医学の研究者です」

彼は続けて、「いくつかお尋ねしますが、答えなくてもいいです。録音をしています。いいですね?」と尋ねた。「いいです」と僕は口頭署名をした。数秒間、誰も何も言わなかった。ヴィヴァルディの『春』が遠くで流れていた。死の概念を知らない葬儀屋が営んでいる通夜に、うっかり紛れ込んでしまったような気分だった。

 

「ご両親について聞かせていただけますか」

母は産褥で亡くなりました。父は数年前に自殺しました。お母様がどういう人だったかご存じですか。いいえ、父はとても無口だったので。彼は卓上ライトをつけた。パチッと黄色い光が散って、消えた。沈黙。

「結論を先に言いますと、あなたは遺伝的に改変されている可能性が高いです」

は? と彼女が先に言った。それってどういうことですか。彼はディスプレイを僕たちの横に出した。右側に小さな輪が、左側には大きな輪が映っていた。研究者は、研究者らしい唐突さで語り始めた。

「普通、人のミトコンドリアにあるゲノムはこの小さい輪くらいの大きさしかありません。一万六千塩基のDNA鎖です。いいですね」

そして、この右側のが僕、と僕は話題を先取りした。

「ええ、あなたのはなぜか十倍も大きい。追加の遺伝子が書き込まれているんです」

彼は画面をクリックした。様々な注釈が現れては消えていく。

「まるで作品みたいです。ここにプロモーターがあって、タンパク質が合成できるようになっている。すべてのコドンがミトコンドリア用に書き換えられている。誰かが――」

ちょっと、と彼女がブーツで床をコツコツ叩いた。

「二ついい。一つ、あなたは『改変』っていうけど、根拠は? 違法じゃないの? 二つ、だから何? ある日突然この人に翼が生えるんですか?」

研究者は別の書類を映した。『事前登録』という文字が見えた。彼は書類の一部を強調表示した。それは僕の生まれた年だった。

「前者についてですが、これは明らかに作られています。こんな配列は自然界にはない。熱帯雨林にグロピウスの建築が建ってる感じです。そして、これはおそらく合法です。私が学部生の時、遺伝しない要素に限り、政府の許可のもと、治療のためのゲノム編集が許可されました。男性のミトコンドリアゲノムにも編集許可が下りました。遺伝しませんから。

受け入れてください、おそらく、あなたのご両親のどちらかは遺伝子疾患を持っていた。その治療のために、このミトコンドリアをあなたは――正確に言えば、あなたの母の卵子は――受け取ることになった」

画面に映る巨大な環を僕は見た。それが全細胞に点描のように行き渡っているところを想像した。

「追加されたのは、一つの代謝系です。何かを作る工場といってもいい。それに光感受性のタンパク質が付加されている……わかりますか」

「いいえ」

彼女は帰りたがっているように言った。僕は不思議と落ち着いていた。散歩でもしているみたいな気分だった。研究者は僕に言った。

「あなた、今、幸せですよね」

僕は頷いた。太陽とか、強い光の下に出ると下痢になる? 僕は頷いた。動悸もしますよね? 僕は頷いた。何が言いたいんですか、と彼女が聞く。

「ある波長の光が当たると、この人のミトコンドリアはセロトニンの前駆体を生産するんです。それが血液脳関門を越え、脳に到達し、セロトニンへ変換される。平たくいえば、幸せを感じる物質です。もっとも、過剰の場合は動悸や不安を引き起こしますが。わかりますね?」

研究者が卓上ライトを叩いた。そこからは何の光も出ていないように見えた。しかし、僕の体のすべてが、そこから出てくるものを知っていた。

端的に言えば、と彼は続ける。あなたの幸せは、この私には見えない色なんですよ。

彼が何か言い、僕は何かを答えた。自然界の摂理と僕たちの科学は、この無慈悲な調和を、僕の体から一滴も漏らさないだろう。この幸福は永久に失われるだろう。未来と過去を問わず。家系図にも系統樹にも名を残さず。彼女が僕の背中に触る。僕は目を閉じて、その暖かさだけを感じようとする。とても長い時間が経つ。僕が何を受け入れようとしていたのか、僕には思い出せなかった。

 

 

 

 

一階堂洋

山梨県出身東京在住。ブログ『みそは入ってませんけどね』を運用(以下のリンクを参照のこと)しています。尾の先端がドアに引っかかってしまうのが悩みです。

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