藤井太洋「まるで渡り鳥のように」 | VG+ (バゴプラ)

藤井太洋「まるで渡り鳥のように」

カバーデザイン 浅野春美

先行公開日:2020.12.27 一般公開日:2021.1.30

藤井太洋「まるで渡り鳥のように」
11,647字

私の他に誰もいない無重力ラボの中央には、東シナ海の上空80メートルと同じ潮の香りを湛えた風が、時速50キロメートルで吹いていた。

床と水平に身体を浮かべて、風の設定を確かめていた私は、部屋の中央に浮かぶ直径2メートルほどの観測ステージの手すりに手をかけて体を浮かせた。ステージ中央に置いてあるチタン製のバードケージもまた、東シナ海の青い輝きに取り囲まれていた。ケージの内側に差し込んだ指先がわずかに下に引き寄せられる。人工重力には慣れているが、何度やっても面白い。

風の吹き込む観測ステージは、重力も東シナ海の特定海域上空に合わせた0.973メートル毎秒毎秒に合わせてある。

ステージの中央では、私がアカネと名付けた一羽の燕が羽ばたいていた。

失敗したな、と思うのは性別だ。日本人女性の名前を付けた後で、私はフィリピンから送られてきたこの燕がオスだということに気づいたのだ。

アカネの背後には息を飲むような輝きに満たされた青空と、深い青の海が投影されていた。自分の指にも、顔にも、同じ空と海の映像が投影されていることがわかる。

懸命に羽ばたくアカネを見つめていた私の顔が、突然向きの変わった風でなぶられる。

乱流だ。

アカネがステージのこちら側に流されてくる。

「記録開始」と呟くと、ステージを取り囲むケージに取り付けたfMRI(核磁気共鳴映像)センサーが取得した、脳の活動状況がアカネに重なって表示される。もちろん、この映像は、私だけに見える拡張現実だ。

私はステージに這い上って、久しぶりの重力に抗いながらアカネの顔を覗き込む。東シナ海の風景がプロジェクションマッピングされた私の顔を、彼がことはない。

私はアカネの小さな頭蓋に重ねて描かれたC12野が黄色く輝いたことを確かめた。

回遊本能を構成するニューロンの発火だ。

C12野から生まれた黄色い輝きは頭蓋の中に網を伸ばし、尾羽と翼の付け根へと信号を伝えていく。

クリと動いた風切り羽がアカネの姿勢を変えて、再びステージの中央に戻っていった。地上から見ていると滑らかに見える鳥の動きも、数十センチの距離で、神経の動きとともに観察していると、デジタルな動きの集合であることがわかる。

わずか数百のシナプスが放つ信号だけで、アカネは方向を定めて飛ぶ。ほとんど反射のようなその行動は、私たち人間の考える「思考」とはかけ離れている。

動物たちは、渡る。

すでに絶滅したニホンウナギはフィリピン沖の海溝で孵化したのちに日本の河川を目掛けて泳いできたというし、ヌーの群れは、餓えと渇きに耐えながら、人類の生まれた大陸の半分ほどを移動する。ウミガメは二年、三年の海洋生活を送った後で、自分が生まれた砂浜に戻ってくる。

もちろん、それぞれの動物たちが移動する理由は分かっている。食糧を求めて、あるいは繁殖地へ、そして、気候変動に伴って移動するのだ。

だけど――と考えたところで、顔を横切っていた水平線に動きが現れた。

身体を引いてみたスクリーンには、美しい山裾を持つ成層火山が小さく描かれていた。鹿児島半島の入り口にそびえる薩摩富士、かいもん岳だ。

水平線の上に小さく見えた開門岳は、黒潮から立ち昇る水蒸気で、紫色にけぶっていて、私はその臨場感に息を呑む。

ここまで作り込めば、アカネも騙されてくれるはずだ。

私は重力のある観測ステージから抜け出して、ケージを両足で踏みつけると、機器類が壁に取り付けてある無重力のラボスペースに飛んだ。

渡り鳥をバーチャルリアリティに閉じ込めて、その経過を観察する、というのが私――浙江大学自然工学研究所に所属する二級教授、日比野ツカサの研究だった。

プロジェクションマッピングを用いた全方位スクリーンの中央に、微妙なジオイドの変化も再現できる重力制御ステージを置き、大気中の微粒子を成分プリンターで再現した風を吹かせることで、ツバメが体験するフィリピンから京都までの行程を完全に再現している。

東シナ海の輝きに満たされたステージを、浮かべた足の間から眺めた私は、その向こうに拡張現実で浮かべておいた、直径1メートルほどの、地球の映像に目を向けた。

ここは宇宙島。

かつてスペースコロニー、あるいは宇宙ステーションと呼ばれていた、人類の軌道居留施設だ。ここの無重力ラボでなければ、東シナ海のジオイドを再現することはできなかった。地上の施設では、その場所よりも低い重力を作ることができないが、毎秒二兆個もの重力子を放出するGSA(重力子螺旋加速器)があるタイジーティエンロウは、直径85キロメートルの施設のどこにでも、好きなだけの重力を干渉効果で作り出すことができる。

私はそれを利用して、ラボに完全な東シナ海を作り上げた。

実験の経過は上々。

ここまでうまく動くなら、次は巨大な水槽を用意して、マグロやオキアミなどの渡りを確かめることができるだろう。このまま研究分野を広げていけば、系外惑星で見つかりつつある、生物未満の現象も扱えるかもしれない。

そうすれば、私たちがどんな現象なのかをより深く知ることができる。

私は、壁に浮かべた地球から、なん筋もの光が飛び出したことに気づいた。

明日にも、地球に戻っていた華人たち三千万人が太極天楼に帰ってくるのだ。

そして地球は遠ざかる。

地球の公転面と三十度傾いた軌道で太陽を巡る太極天楼は、一年に一度だけ地球に接近する。最接近の日付は、太極天楼の心臓部であるGSA(重力子螺旋加速器)から放出される膨大な重力子で制御されている。今年、二一二〇年の最接近は一月三十日。

私は、地球からこちらに向かってくる光の筋に書かれた標識に思わず笑いを漏らす。

チュンユン特別便〉

宇宙島に住む華人は二十二世紀になった今も、旧正月に故郷を目指して大移動を繰り広げる。宇宙エレベーターステーションのような静止軌道に居留する華人は言うに及ばず、月、あるいは火星からでも、彼らは故郷に帰る。その数は七億人とも十億人とも言われるが、彼らが年に一度帰省するために整備した航宙インフラは、火星までの行き来を格段に容易にしてくれた。

浙江大学に籍を置いてはいるものの、小国となった日本人の私が太極天楼に住むことができるのも、乱暴な言い方が許されるなら、宇宙に居留する華人たちが、春節に帰省するために用意した低軌道宇宙機網のおかげだ。

「華㝯さまさまってことなんだよね」と、漏らしてしまう。

宇宙に居留する華人は、前世紀の中頃から華㝯と呼ばれるようになった。華僑の元になった言葉だが、冠の部首が宇宙と同じなので、復活したというわけだ。

私は福建宇宙港から出発した〈春運特別便〉を探し当てて、ピンをおいた。

このロケットに、大学時代の友人で、今は生活をともにしているラボエンジニアのイェ鶴飛フーフェイが乗っている。

拡張現実に指を当てた私は、思わず「だめなのかなあ」と漏らしていた。

実際に尋ねたわけではない質問に、彼がいい顔をしないことはわかっていた。私は、昨日受け取っていたメッセージを読み返した。

「ねえ燁鶴飛。私は太極天楼を第二の故郷だと思っているよ。帰省するならここに帰ったっていい。次の場所に引っ越したら、そこが故郷になるよ」

私は、ロケットの狭い座席に座る燁鶴飛の顔を思いながら、聞けるかどうかわからない質問を口にしていた。

「どうして君は、福建でないとだめなの?」

「ただいま」

プラグドアが圧縮空気の音を立てて開くと、懐かしい声が部屋に響いた。

「おかえり――わっ!」

振り返った私の視界は、戸口から跳躍してきた彼の体で一杯になる。地上の半分ほどに調整してある重力に慣れていないのだ。

「ごめん!」と叫びながら、燁鶴飛が私の体を押し倒していく。

私は肩口にある燁鶴飛の指先を軽く、反らせるように掴んだ。

反射で伸びた彼の腕は、二週間の帰省で丸まってしまった彼の背筋を自然と伸ばし、重力下で宇宙を忘れてしまった彼の姿勢を安定させた。

「ごめん、まだ慣れてなくて」と燁鶴飛が頭をかいた。

「しかたないよ。二週間も地球にいたんだから。ただいま」

「お帰り」

真っ直ぐに立った彼と、あらためて抱き合う。地球から帰ってきた彼の力はいつも、少し強い。呼吸が止まりそうになった私は思わず、短い声をあげてしまう。

「ごめん、痛かった?」

「それほどじゃないけど、力加減には注意してよ」

「わかった」

腕を解いた彼が戸口に残したコンテナに視線を向けようとしたのを、私は頬を挟んで止める。

「荷ほどきはあとで。お茶を用意するけど、どっちを入れようか」

「岩茶も毛峰も飲みすぎたからなあ。日本茶にするよ」

わかった、と答えた私は、話の切り出し方を考えながら湯呑みと急須を用意した。

三分ほど経つと、部屋が新鮮な緑茶の匂に包まれていた。私と燁鶴飛はダイニングテーブルに向かい合って座り、二週間の間に起こったことを互いに話していた。

三杯目のお茶を入れたとき(華人にはどうしても理解してもらえないんだけど、日本茶は湯を注ぐたびに茶葉を捨てるものなの)、どうしても話しておかなければならない話題を口にすることができた。

「ウルルって覚えてる?」

「くじら座か蛇遣い座の星系の入植星だよね」

私の口にした言葉を聞き返した燁鶴飛の声が、神経質な響きを帯びた。

私は気づかなかったふりをしてうなずいた。

「そう。くじら座タウ星系の第四惑星、ウルル」

私は、英語でも中国語でもない入植星の名前を、敬意を持って正しいイントネーションで発音した。「ウルル」は、オーストラリア先住民の聖地に由来しているのだ。

ラグランジュ2の宇宙島、ニュー・シドニー区に本拠を置くオーストラリア系の惑星開発会社は、のちに惑星の執政官になる初回入植者として、五千人のアボリジナル・ピープルを選んだ。

どうしてオーストラリア先住民をルーツにもつ人々を入植者に選んだのかはわからない。ビクトリア朝時代にルーツを持つ開発会社の社長が、先祖の行った先住民虐殺に対する罪悪感を持っていたのかもしれないし、あちらこちらの宇宙島を悩ませた反・軌道グローバリズム運動も影響しているのかもしれない。だが、船を送り出した開発会社が倒産してしまった今、経営判断の理由を探ることはできなくなっている。

何せ彼らが旅立ったのは、二十七年前、まだ二十一世紀ことなのだ。

経緯はどうあれ、オーストラリア先住民の入植者たちは、重力子干渉レンズを用いたブラックホール落下航法で、11.9光年離れた、くじら座タウ星系の第四惑星に向かった。三年かけて光速の99パーセントに達した入植船は、出発から十五年後に目的地に到達した。亜光速航行のために遅れた船内時間では七年、ということになる。

加速時と同じく三年かけて、タウ星の惑星軌道速度に減速した入植船は、系外惑星開発局が定めるテラフォーミングの手続きにしたがって静止軌道に船を置いた。

その時、初めて肉眼で第四惑星を見下ろした入植者たちは、メタンを主成分とする大気ごしに見える硫化水銀の、オレンジ色の大地に目を奪われた。その色と、軌道上からもわかる巨大な陸塊が、かつて西洋人たちがエアーズロックと呼んでいた巨大な岩の聖地を思い出させたのだという。

入植者は、到着の知らせとともに、それまで第四惑星とだけ呼ばれてきた新たな大地を「ウルル」、当座の首都となる入植船をもう一つの聖地に因んで「カタ・ジュガ」と名付けたことを、地球圏に報告した。

これが十二年前のことだ。

十一年と十一ヶ月をかけて宇宙を渡ってきたニュースが地球に届いたのは二週間前。

私は、春運特別便で故郷に帰るための荷造りをしていた燁鶴飛の手を止めさせて、人類がたどり着いた新たな星について語り合った。

燁鶴飛によると、故郷でも、軌道上から帰ってきた華㝯たちが集まって、ウルルの話題で盛り上がったのだという。

地球の四倍に及ぶ質量を持つウルルから、どうやって資源を軌道上に打ち上げるといいのか。宇宙エレベーターは何基作れるのか。テラフォーミングは可能なのか、もし可能なら、オレンジ色の硫化水銀に覆われた大地と、メタンを主成分とする大気をどのように入れ替えていくのか。そして地球との、十五年かかる航宙を短縮する方法があるかどうか――これが技術者の与太話で終わらないのが、華㝯の怖いところだ。

二週間の春節帰省の間に、中国で登記された惑星開発企業は五千を超えた。実家からVRで連絡してきた燁鶴飛も「できた会社の九割は解散するよ」と苦笑まじりに言って、航宙システムに関係する二つの新興企業に、技術役員として就任したと伝えてきたほどだ。

熱しやすく冷めやすい華㝯について二人で笑ったものだが、よく考えてみると新興企業が五百社も残るあたり、さすがは華㝯と言うしかない。

私たちの暮らす宇宙島は、華㝯の技術によって支えられているのだ。資源の完全循環を実現したリサイクルプラント、直径20キロメートルに及ぶ宇宙島の軌道を易々と変えてしまう重力場航法、超小型の核融合炉を実現するプラズマ封じ込め重力子干渉レンズなどが華㝯が作り上げて、火星軌道の内側を、無数の宇宙島で埋め尽くしている。

宇宙空間に居留する技術に関しては、中国語が公用語になっているといわれるほどだ。

だが、火星軌道を離れると華㝯の存在感は薄まっていく。

資源の宝庫である小惑星帯は日本の宇宙移民――日㝯が頑張っているし、核融合炉の燃料であるヘリウム3木星や土星から汲み上げているのは、アメリカ合衆国のエネルギー複合企業と、かつて中近東で油田の開発をしていたムスリムの企業群。

太陽系の外に活路を求めたのはヨーロッパ連合と、南太平洋の島国、そしてウルルの開発に社運をかけたようなオーストラリア企業たち。

優れた居住性を誇る居留プラントや核融合炉、GSA(重力子螺旋加速器)などのシェアは華㝯製品がトップを占めるのだが、火星軌道の外で華㝯の姿を見ることはそれほど多くない。

なぜなら――と、宇宙時代の私たちは笑いながら言う――春節で帰れない場所には行かないから。

もちろん冗談だが、私は久しぶりの日本茶を楽しんでいる燁鶴飛に、大事な話をなかなか切り出せないでいた。そんな私のためらいを彼が見逃すわけもない。

燁鶴飛は、日本茶の湯飲みをテーブルにおいて、私を見つめた。

「それで、ウルルがどうかしたの?」

湯飲みのお茶は、0.6Gという低重力のせいでいつまでも揺れていた。

口を開けないでいる私に燁鶴飛は笑いかけて、会話の材料を口にしてくれた。

「そういえば、カタ・ジュガからの第二報はまだきてなかったよね。タウ星系との重力波通信は、毎秒1メガバイトってところだったかな。まだ初動調査の結果をダウンロードしているところだっけ」

優しいね――君は。

何度も調べている私でもすっとは出てこないウルルの、首都の名前と通信速度をたった今、調べたんでしょう? 拡張現実のサイレントモードで。そこまで調べたのなら、結論に薄々気づいてるよね。それでもウルルの話しを続けてくれようとしている。

私は口を開いた。

「そうね、まだ全部はダウンロードできてないみたい」

燁鶴飛はすぐに話を合わせてきた。

「ダウンロードが終わってるのは先行調査だっけ。重力波、電磁波、時空波を使う文明がないことはわかっていたよね。遺跡は?」

「1メートル以上の構造物は、地下20メートルまでの範囲で見つかってない」

「樹木みたいなものは? ドローンで撮影した写真に、杉の木みたいな影が映ってたよね」

「あれは硫化水銀の結晶だったみたい。六角錐のフラクタル構造。拡大写真を見た? きれいだよ」

「みたみた。ウルル・クリスタルとかいう名前で売るといいかもね。結局、有機物はなかったの?」

「落雷とかで作られる程度は見つかってる。湖沼に脂質の泡が漂っているのはわかっているけど、RNAのような自己複製子はまだ見つかっていない。エネルギーの多い火口には、変色がある」

「これから生命になるかもしれないって段階か。海洋調査は? たしか、水の海があるよね」

「そう――海の調査も行ってる」

私の返答に、不自然な間が入り込んだことに気付いたのか、燁鶴飛は、椅子の背もたれに体をもたせかけた。

「わかった。海に、生命か、それに近い反応があったんだな。まだ、それ機密?」

私はうなずいてから、慌てて首を横に振った。

「ごめんごめん。機密指定はされていない。今週中にもリリースが出ると思うよ」

「生命はいるの?」

今度は、ゆっくりうなずいた。

「まだ、確定じゃないけど、海流とは異なる物質の移動を、カタ・ジュガから観測したんだって」

「カタ・ジュガから――って、静止軌道から見えたんだ。四万キロメートル上空から観測してわかるほど? それは大きいね」

「そう。地球のオキアミに相当する質量が動いていたんだって」

「ツカサは燕だけじゃなくて海の生き物も扱ってたんだっけ」

「私の専門は、生物の移動よ。地軸の首振り運動の早いウルルは、公転軌道を一周する一年の間に三回から四回の夏を迎える。その物質は、夏から冬にかけて、北極と赤道を行き来しているらしい」

「まるであの渡り鳥のように?」

優しい言葉にぞくりとする。もう言わなければならない。

「そう。だから、ウルル政府は私を呼んだの」

「そうか……」

「一緒に行かない?」

彼が床を見つめる。

答えられなくて俯いたのではない。燁鶴飛はそんな弱虫ではない。彼が床に顔を向けたのは、その向こう。光の速さで十秒離れた先にある故郷を確かめている。

地球軌道からウルルまでは十一年と十一ヶ月。

くじら座タウ星の第四惑星、ウルルは、この宇宙が最大速度を許した光でも電磁波でも、重力波でも、十一年と十一ヶ月かかる先にある。エンタングルメントされた双子の粒子の片割れを持っていけば、量子テレポーテーション効果は粒子の状態を同時に確定させられるが、情報は何一つ伝えられない。

顔をあげた燁鶴飛は、口元を引き締めてから言った。

「入植者の受ける環境適応は決まったの?」

私は、入植者向けのメッセージをワークスペースに浮かべて、ウルルに到着したら受けることになる遺伝子治療を読み上げていった。

「苛烈環境暴露対応は必須。V・E・M・G の四項目」

「真空(Vaccume)と高電圧(Electricty)、磁場(Magneticity)、重力場(Gravity)か。系外惑星の初期入植だと、ステーション住まいになるからその辺りは当然と言えば当然だね。地球圏でも建設作業員なら受けていることも多いけれど、他には?」

嘘は言えない。

「ATP鎖の反応系を、メタン呼吸系に置き換える」

燁鶴飛が息を飲む。

「それ、どうしてもやらなければならないの?」

「カタ・ジュガから遠隔調査を行なっているうちはやらなくてもいいけど、地上探査に切り替えるときは、必要になるはず」

「なんてことだ」と、燁鶴飛は呟いて息を乱した。

ATP鎖の変更は、全身のミトコンドリアを総入れ替えして、酸素を用いる代謝系をメタンベースに切り替える遺伝子治療だ。与圧服なしにウルルの大気を呼吸できるのは、その星に降り立って現地調査を行うのなら必須の要件だ。

コストはもちろんカタ・ジュガのウルル自治政府が負担してくれる。予算を圧迫する治療だが、惑星を丸ごと地球化するよりは現実的だ。何より、先住生物を虐殺することは許されない。だが、代謝系を遺伝子レベルで置き換えてしまうのは、別の問題を引き起こす。

呼吸を整えた燁鶴飛は、私の顔を見つめた。

「つまりツカサは、人間をやめるってことだよね」

黙るしかなかった。

二人の間に子供は作れない。

精子と卵子の代謝形が異なっていて、子供が持てないのなら、それは種が異なるのと変わらない。同じ部屋にいることもできなくなる。

もちろん、ウルルが初めての例だというわけではない。

二一一九年現在、入植が進んでいる十五の系外惑星ではフッ素を呼吸できる人類や、水の代わりにアンモニアを使う極低温環境に対応した人類、炭素とケイ素を置き換え、電気的に代謝をサポートする人類などが生まれている。私がいつか受けるメタン呼吸は、おひつじ座のティーガーデン星域の二つの惑星で実施済みだ。すでに十万人ほどが生まれ、二世代目に入っている彼らは、ホモ・サピエンス・メタンスピリトゥスという亜種名を名乗っている。

現生人類と呼ばれるホモ・サピエンス・サピエンスとの間に子供は持てない。

「待って。どうしてもやるって決めたわけじゃないし」

「いや、ツカサはやるでしょ。だって生物の調査に行くんだよね。他のスタッフがメタンを呼吸しているのに、酸素のボンベ背負っていくわけ? 寝るときも酸素チェンバーが必要になる。自分だけ特別扱いさせる?」

反論できない。招かれたとはいっても、私は一研究員でしかないのだ。いつかはきっとウルルの大地に立ってメタンを吸うことになる。

意を決して「やっぱり――」と言いかけたとき、燁鶴飛が先に言葉を発していた。

「どうして、遺伝子編集なんてところまで行っちゃうんだろうな」

「戻れないから」

私が即座に答えると、燁鶴飛は怪訝な顔をした。

「え?」

「行くと戻れないからだよ」

ウルル政府から連絡が来てから繰り返し考えていたことなので、スムーズに言葉が出てきた。

「知ってるよね。系外惑星への入植は片道切符なんだ。ウルルは十二年前に静止軌道ステーションを置いたばかりで、資源を軌道に引き上げるエレベーターの設置が終わるのは十五年後。地球行きの船なんて作る余裕はないよ。できても半世紀後とかになる」

「戻れるなら、人のままいるってこと?」

「そうね。もしも地球圏に戻ることを少しでも考えているなら」

私は想像してみた。系外惑星に行った人たちがもう一度地球圏に帰ってきて暮らすなら、もう一度私が太極天楼のこの部屋に戻ってくるのなら――。

「重いボンベを背負うと思うよ。地上には与圧された基地を置く。だって、戻って会える人たちがいるんだもの。でも、ウルルはそういう場所じゃない」

私は燁鶴飛を見た。今度は彼が黙る番だった。説得する言葉が尽きたのだ。

「行こうよ」

「いや――」と燁鶴飛は口ごもる。

「行こうよ、私は君と行きたいよ。もしも君と暮らせるなら、ずっとカタ・ジュガにいたっていい」

燁鶴飛は答えなかった。

五年後に迎えた旅立ちの日、私の横に燁鶴飛はいなかった。

私は一人でビラルンマーと名付けられた第二入植船に乗り込み、五千人の同僚たちと共にウルルを目指した。

「可能な限りの多様性」を求められた船には、春節の帰省を諦めた五百名ほどの華㝯も乗り込んでいた。

六年も旅をするのだから、その間には恋もする。ウルルに到着した時、私は二人目のパートナーとの関係を精算したところだった。

一人目のパートナーは、ドイツから応募してきた農業エンジニアだった。それなりにうまく、長く付き合っていたのだが、旅程の中盤を迎えたところで彼が多忙になってしまい、うやむやなままに関係が冷えていった。二人目のパートナーは、改良されたGSA(重力子螺旋加速器)の主任エンジニアリングを担当している黄清明という華㝯だった。春節や華人文化に拘らないあたりは付き合いやすかったが、燁鶴飛のことを思い出してしまい、関係を深めきれずに離れてしまった。

到着した時、私の主観年齢は三十七歳になっていた。あまり意味をなさない暦年齢では四十八歳。いずれにせよ、地球圏に戻ることはない。

私は、逐次アップデートされるウルルの情報を追いかけて、ラボで過ごすことが多くなっていた。

季節に合わせて移動していた物体は、生命と呼ぶにはまだ頼りない脂質のあぶくだということがわかっていた。それでも、そのあぶくは、同じ成分を持つもの同士で寄り集まり、季節に応じて表面張力を保ちやすい場所を移動しているらしいことがわかっていた。

知能どころか代謝すらあるかどうかわからないような段階だというのに、回遊している物質塊に私は興奮したが、調査はそこで止まっていた。

泡の中身を知るための現地調査は、私の率いる五名のチームに任されていたのだ。

メタン呼吸を可能にする遺伝子治療に同意していた私と、生命探査するために入植者に加わった五名のチームメンバーは、乏しい情報を分析しながら、ウルルに到着する日を心待ちにしていた。タウ星がピンク色に輝かせる星が見えてきた二一三三年の一月、私たちはもう大地に降り立つ決意ができていた。

そんな時だった。

驚くようなニュースが飛び込んできたのは。

「〈チュンユン特別便〉?」

私は、その言葉を持ち帰ったチームのメンバーに聞き返した。

「どこに帰るっていうの?」

聞いてきたメンバーも困惑していた。

「中国……らしいんですけど」

「地球の中国? 最新型のブラックホール落下駆動を使えるこの船だって十三年かかるよ。光だって十一年と十一ヶ月かかるんだから」

「ええ、わかってます。でもとにかく、帰省したい人はGSA(重力子螺旋加速器)の塔にあたる中央ロビーに集まって欲しいとのことでした。華㝯たちはみんな集まってます」

「……本気なの?」

とりあえずスタッフと連れ立って集まったロビーの奥には、今まで見たことのない装置が置いてあった。

十人ぐらいが入れる半球型のドームを伏せたようなもの、というのが一番わかりやすいだろうか。そんなドームが、加速器から分岐された重力子の走路に接続されていた。

ドームの周囲で作業を行なっているのは華㝯たちだった。驚くことに、リーダーはつい最近までパートナーだった黄清明だ。

遠巻きに見ている人の輪が二重、三重と増えていくと、黄清明が作業の手を止めて、拡張現実に自分自身を大きく投影して演説を始めた。

「皆さん、今まで黙っていて申し訳ありません。今回の旅に、私たち中国系入植者たちは、地球圏のものとエンタングルした双子の重力子の片方を持ち込んでいました」

説明を聞いた入植者たちの間に困惑が広がった。

双子のような量子の観測結果が、空間を超えて同時に同じ状態になる量子テレポーテーションぐらいはみんな知っている。こちらで、あるいは地球でその重力子を他の粒子と作用させれば、位置か速度のどちらかが光の速度を超えて収縮する。量子テレポーテーションと呼ばれるこの現象は、量子力学の根幹をなす現象だ。

地上や加速器の中では散々行われてきた実験だが、11.9光年離れた重力子のペアで実験することには何かしらの価値があることは、この場に集まった入植者たちなら皆知っている。

困惑しているのは、〈春運特別便〉との関係なのだ。

ざわめきを前にした黄清明は頭をかいた。

「ごめんなさいね。十三年前にこの量子を託された私たちにも、これから行う実験が何を引き起こすのかはわかっていません。なにせ、私たちの知識も十三年前で止まってしまっているので」

ギャラリーの一人が声をあげた。

「実験? GSA(重力子螺旋加速器)を使うのか?」

「はい。加速器に、エンタングルした重力子を五十兆個投入して、このドームの中央で観測するようにと言われています」

「すると、地球圏の重力子と同じ振る舞いが再現される?」

「……ということになるんでしょうか。ただ、この十三年で地球圏の友人たちがどこまで進んだのかは、まるでわかりません。ただ重力子が蒸発するだけかもしれませんが――」

私は声をあげていた。

「うまくいかないときのことはいい。向こうの実験て、何?」

「ひとを繋ぎたいのだ、ということでした」黄清明が私の顔を見た。「発起人は、燁鶴飛さんです」

私が目を見開くと、黄清明は、実験はもう始まっていると告げてドームに体を向けた。

華㝯たちも手を止めて立ち上がる。

ドームの中央には、光が集まりはじめていた。部屋には少しだけ、懐かしい大気の香りが漂った。

「ワームホールですね」と黄清明が告げた。「地球圏でも同じように配置された重力子の干渉効果を用いて、ワームホールを作っています。宇宙に穴を開けているんです」

光がおさまっていくと、ドームの内側には別の空間が見えていた。

その中央には燁鶴飛が立っていた。

記憶よりもずっと、そして私が重ねた年齢よりもわずかに歳を重ねた彼の広げた腕に、私は駆け寄ろうとする。

黄清明が手を広げて私の前に立ちはだかった。

「ごめんなさい。僕たちが先ですよ」

「通してよ!」

「順番は守ってください。僕たちは、十三年も春節を待たされたんです。さあ、帰りましょう」

華㝯たちが空間の穴を通り抜けていく。

全員が通り抜けて行った後で、向こうから燁鶴飛が歩いてきて、私を抱きしめた。

覚えているよりも細くなった腕が私を抱きしめる。このハグを私の体は覚えていた。涙が溢れてくる。

「間に合った」と燁鶴飛が囁いた。

「え?」

「君が人でなくなる前に、捕まえることができた。僕たちが、違う種になる前に引き止めることができた。僕らは宇宙のどこにでも、行って、戻ってこられるようになった」

「そう、そうだね」

私は、こみ上げてきた感情で言葉が言葉にならなくなる前に、彼が聞かせてくれた優しい言葉をささやいた。

「まるで渡り鳥のように」

 

 

 

 

※「まるで渡り鳥のように」は、科幻春晩で2020年1月22日に中国語版が掲載され、『Future Science Fiction Digest』2020年12月号に英語版が掲載された作品です。

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藤井太洋

1971年、鹿児島県奄美大島生まれ。ソフトウェア会社に勤務する傍ら執筆した長編『Gene Mapper』を電子書籍で発表し、2012年のKindle本で最多販売数を記録する。2015年、『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞および第46回星雲賞日本長編部門を受賞。2019年、『ハロー・ワールド』で第40回吉川英治文学新人賞受賞。2015年から2018年まで、第18代日本SF作家クラブ会長を務める。海外のSFイベントにも数多く出演。様々なメディアでの発信やSF関係者との交流を通して、日本SFの成長に貢献している。

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