奈良原生織「エスケープ・フロム」 | VG+ (バゴプラ)

奈良原生織「エスケープ・フロム」

カバーデザイン 浅野春美

奈良原生織「エスケープ・フロム」
4,992字

一番うしろの席でチケットが取れたときだけ私はシネマに行って映画を見た。

いつもアユムと一緒だった。シネマの暗さは私のこの身体を理由も聞かず匿ってくれるからそれが好きだった。いつだかアユムにそう話したらアユムも同感だと言った。アユムはこの国の人でそれも背が低いほうなのに、偉民の私と同じことを感じるのは不思議だった。

私はティーリガからの最初の留学生としてその国に渡った。あとになって思えば、それはたんに海をまたいだ人の移動にとどまらない意味あいを最初から含んでいたはずで、でも私は一八歳で、良くも悪くも自分のことばかり考えていた。島の外での生活に憧れていたし、島の人々はそれまでのことがなかったみたいに出発前の私を英雄あつかいした。

その国でティーリガは「貝楼諸島」つまり幻の島と呼ばれていて、公式の地図からは削除されている。それでも私の内の英雄が不安をはねのけた。出発の直前、ティーリガはそのころ厳しい寒波に見舞われていたけれど、夢のなかにいても頭が冴えて二時間と寝ていられなかった。夜中に飛び起きて本を読むというより睨んだり筋肉のストレッチをやり始める息子を父は心配してくれたけれどほんとうは迷惑していたと思う。

到着した異国の港は人であふれかえっていた。

みんなが私を驚いた顔で見上げる。写真を撮りたがる。握手を求める。

はるか海の向こうで私は有名人でしかも人気者だったのだ。これならもっと早く来たらよかった、そうしたら島でのあれこれや気まぐれな天候を一八年も我慢しなくて済んだのに、そう思った。ユニフォーム姿のスポーツマンと並んで写真を撮った。彼は今日、ただ私と身長を比べるためだけに駆り出されたみたいだった。見上げる彼と見下ろす私との間にはそれでも一メートル以上の差があって、彼はしきりに「すごいっす、やばいっす」と連呼して自分もカメラを向けた。私はティーリガで唯一の歯医者の本棚で読んだ『ガリバー旅行記』を思いだした。物語のあらすじは忘れたけれど小人の槍がガリバーに命中してくすぐったがるシーンは変だと思った。いくら小さくても、それが槍なら痛いに決まってる。でも私に向けられたのは槍ではなくカメラのレンズで、幸いどこかが痛むということはなかった。

到着から何日かはひとしきり好奇心を浴びながら過ごした。テレビに映った自分を見るのは妙な感じだった。テレビの映像はこの国で私がよそものでありしかも人一倍巨大であるという事実を私に分からせ、私以外の全員にもきっと存分に分からせた。

そういう手の込んだ分からせのあと残ったのは、慣れからくる無関心か、怖そうなものは避けるという本能的な反応だった。

四月から大学が始まった。

法学部のクラスメイトはみな知的で正義感が強くておまけに他人を思いやれるいい人たちだった。でもだからこそ、その人たちは決して傷跡を残さないやり方を心得ていた。気づくと彼らと私との間にはチョークで線が引かれていて、それ以上先へは進めなかった。

私が偉民だからだと、最初はそう思っていた。でも注意して観察してみると同じようなことは私に対してだけでなく教室のあちこちで起こっていた。誰もがチョークを片手に過ごしていて、そのせいで手は白く汚れていたけれど、これはすごい技術なんだと思った。

ティーリガの学校では新学期には決まって虐められる生徒がいた。それきり学校に来なくなるのもいたし、ほとぼりが冷めるのを待つタイプもいたけれど、誰かが犠牲になることは避けられないと思いこんでいた。チョークのことを島にいる父に手紙で知らせた。こういう解決法があるなんてまったく予想外だった、と。

アユムとは語学のクラスが一緒でそれで知り合った。出身地を英語で紹介するワークでペアになったアユムは目が大きくて歯も大きくて、その歯を出して笑うと左の頬にえくぼが沈んだ。

前にペアを組んだ学生はみなティーリガのことを年じゅう気温が低くて政治体制が古くて産業に恵まれない場所と思っているみたいだった。話をする前から神妙な面持ちをされるのでどうしてもそっちの方向で話をすることになった。けれどその日ペアになったアユムは

「おれ、ティーリガ行ったことある」

と英語を無視して言った。まあ二、三歳とかでほぼ意識ないけど、と言った。親の仕事でヘルシンキ住んでたんだ、そのとき、と言った。

先生がアユムを注意した。アユムは生返事をして荷物を抱えて教室を出て、昼なのに薄暗い廊下を歩きだした。私の左腕を掴んだまま。

キャンパス近くのパスタ屋兼カフェに入った。こちらに来てから、学食と寮以外で食事した経験が私はない。他のお客が盗むように私を見るからなにも奪わせないために私はアユムの後頭部だけを見ていた。固そうな髪がゆるくうねっていてつむじは見えない。

「ナポリタンで!」

「じゃあおなじのをください」

オーダーを聞くと店員は身体に似合わず大きな歩幅で離れた。

アユムは同じ法学部でも学科が違くて法律家になる勉強をしていた。今は祖父と二人で暮らしている。写真のその人は車椅子に乗っていて、アユムと逆の右頬にえくぼがある、ように見えたがただ単に頬が痩けていた。私はティーリガの珍しい鳥類や植物について話した。でも話せば話すほど鳥も草もおよそこの世にありえないものみたいに聞こえた。それは私の記憶力のせいかもしれないし、私の言葉が拙いせいかもしれなかったが、アユムは疑ったりせず聞いてくれ、鳥といえば昨日、と落ちていた片足のスニーカーを鳩と見間違えた話をした。はじめて食べるナポリタンは麺がとても太く、美味しかった。

講義のあと教授が私を教壇に呼んだ。コンピューターの小さい画面に小さい字であのパスタ屋兼カフェの店名が読みとれた。チョークで汚れた教授の指が示すところに黄色い☆マークが一個あって、続けて「居心地よく味も気に入っていましたが近頃●●大から貝楼人が来るようになった。しばらく行くのやめようと思います。」と書かれていた。

はにかみながら教授は私に、なるべく学食を利用したら、と勧めた。

大学の塀を高くする工事がはじまった。防犯のためということだった。キャンパスのどこにいても工事の音がうるさかった。

アユムは講義に出られないことも多いみたいだったけれど出るときは私の隣の席に座った。ノートも取らないで教授の話を聞きながらときどき誰も笑っていないような箇所で急に吹き出してなにが面白いの? と聞いても首を横に振るだけで教えてくれなかった。アユムは映画のサークルに所属していて、私はそこの人たちとも話すようになった。俳優を目指す人、映画向きの音楽を作曲する人、とくに何もしていない人などいろいろだった。食堂のある建物の、地下へおりる階段の、人通りの少ない踊り場がその人たちのたまり場だった。塀の工事もここまでは響かなかった。何に使うのかやたら大きい機材と散乱する段ボール箱とのわずかなすきまに座るとき、私はティーリガの浜辺の黄色い洞窟を思い出す。何時間もそこにいて、ティースフヌスのリズミカルな啼き声を聞いたり、ティールッキのぽこぽこ跳ねるのを見ていた。ここにいる誰ひとり知らないはずの黄色い洞窟を、アユムや映画サークルの人たちと分け合えるこの場所が私は好きになった。

寮に届いた封筒を開けると健康診断のお知らせとあった。書いてある日付は、サークルの人たちととある映画のエキストラ撮影に参加するはずの日だったから、アユムに話して私はキャンセルしてもらった。かりに参加できたとして、私の身体がエキストラにしては目立ちすぎるのは分かっていた。

当日キャンパス内の指定された場所に行くと理学部の研究棟だった。文系学部の建物よりずっと新しく壁という壁はガラス張り、週末でも人の姿が目立った。入り口へ続く滝のような透明のエレベーターに乗ると一階のラウンジにグランドピアノがぽつんとあるのが目に入る。でも小さく感じるのは上の階から見下ろすからで、黒光りするそれはむしろ重くて巨大でこの建物には似合わない。

スライドドアを開けると三人の男がいた。二人はスウェットシャツにジーンズという格好でたぶん学生と思われ、コンピューターをいじる眼はちらりとも私を見なかった。残る一人は白衣の下に白衣より白いワイシャツとグレーのネクタイを締めている。この人が教授と思われた。

学籍番号と名前を聞かれたので答えると衝立の向こうに通された。そこで検査着に着替えているとき

「ほかに受診する人はいないんですか」

と聞くと

「一般の学生とは日程を分けています。偉民の方は検査項目も異なりますので」

白い衝立の奥からすごく信頼できる印象をあたえる男の声が返ってきた。

身長、体重、胸囲、視力、聴力、心電図、肺活量、三半規管の働きぐあい、手のひらの雑菌の数など、私が矢継ぎ早に数字になっていくのを最初のうちは面白く見ていたが徐々にこれは何のためにやっているんだろうと思いはじめた。身体検査は入学直後に済んでいたし、それからまだ半年と経っていないのに、と考えていたら

「今からトイレに行って、ここに出してきてください」

さっきと同じ信頼できる印象の声が言った。小さな蓋つきの茶碗みたいな容器と、成人雑誌を数冊渡された。

理由を問うことも私にはできなかった。自分でも驚くほどすばやい動きで衣服とリュックを取り戻し私は検査着のまま部屋を飛びだした。

途中、すれ違った何人かの学生たちは私を取り押さえたがっていたが腕力でかなわないことが明らかなので手を出してはこなかった。頭をかがめ滝のエレベーターに乗りこんでボタンを押す。遠くでガラスが割れる音がした。違う、これはピアノだ。ラウンジ中央のグランドピアノにさっき部屋にいた学生風の二人が腰掛けて、コンピューターでもいじるみたいな手つきで見事な連弾を繰り広げている。音楽はだんだん接近して、一階でエレベーターのドアが開くとほんとうに滝の下にいるみたいな轟音が私の耳を占拠した。

食堂棟が開いていたので私はたまり場に急いだ。塀の工事は休みなのか、私の耳がおかしくなったのか、キャンパスはとても静かだった。ティーリガの洞窟に逃げこんだあの日やあの日の出来事を、できればそうしたくはなかったのに思い出した。

たまり場は誰もいなかった。とにかく着替えて、脱いだ検査着はゴミ箱に捨てて、がらくたに囲まれてじっとしていた。

「いるのか?」

突然声がして、見上げるとアユムだった。

「すごい勢いで入っていくのが見えたから、どうした、と思って」

撮影は終わったのか。それにサークルの他の人たちは? わからないまま、アユムの大きな瞳がまぶしかった。ティーリガの洞窟には一日の限られた時間だけ太陽の光が射しこむ。晴天がすくないティーリガでそれが見られたらとてもラッキーだ。

私は起きたままのことをアユムに話した。聞きながらアユムだっていろんな可能性を考えたはずだけれど無責任な憶測はいっさい言わなかった。ただ自分がされたことみたいに怒って泣いた。私は、私にそこまで共感してくれるアユムに共感できるほど強くはなかった。そんなことをしたら身体がばらばらに崩れてしまう。

退学届を出す前に学生部から今学期いっぱいで除籍との知らせが届いた。理学部の備品を損壊したうえ無関係の学生にぶつかって負傷させたというようなことが書かれていたので、そんなことはないといちおう電話をかけてみたものの、ひっきりなしに工事の音が入って会話にならなかった。

港は静かに曇っていた。

見送りはアユムと映画サークルの数人だけだった。

「そのうちにまた行きたいね、ティーリガ」

アユムの大きな笑顔に片方だけのえくぼが沈んだ。サークルの人はティーリガを舞台に映画を撮りたいと口々に言った。そのときは私に主演してもらうからよろしくというのでそれは困ると思った。

船は定刻通り出航した。

遠のいていく三角の消波ブロック。正面のスクリーンに、巨大な船からひとり救命ボートで脱出する主人公が大写しになる。多くの乗客は気づいていないけれど船は傾きはじめているのだ。

横を見ると、隣にいたはずのアユムはいなくて、たぶんあの船の中だった。私はアユムが逃げ出してくれることだけを願って視線を泳がせた。でもいくら目を凝らしても、スクリーンの中の人は小さすぎて、どれが誰だか分からなかった。

 

 

 

 

 

奈良原生織

2021年2月まで開催されていたオンライン文芸サークル〈六枚道場〉にて活動していた。2020年には「Echo」が第二回ブンゲイファイトクラブの本戦出場。2021年には読書にまつわるエッセイアンソロジー『読書のおとも』(岸波龍編)に「濃度/Nord」を寄稿。「アリス・イン・シーフードスパゲッティ」が阿波しらさぎ文学賞の最終候補作に選出され、審査員の小山田浩子さんから「明らかに巧みな書き手による作品」と評された。また、「吹いていない風」が第52回埼玉文学賞の小説部門にて最終候補作品に選出されるなど、今後の活躍から目が離せない注目の書き手。

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