書評:田中兆子 著『徴産制』
『徴産制』(2018, 田中兆子 著, 新潮社) の舞台はスミダインフルエンザによって若い女性が激減した、2090年以降の日本。人口減等に対応するため、日本国籍を有する満18歳以上、31歳未満の男性は最大24ヶ月の “産役 (女性への性転換)” が義務づけられている。
この『徴産制』という小説は、産役によって “女性” になった五人の男性をそれぞれ主人公とした、五つの短編から構成されている。
男性として生きてきた主人公たちが女性になって生きていく過程において、彼らの内面化している女性差別や、現代日本の女性が社会から受けている様々な抑圧やプレッシャーが多角的な視点からあぶり出されるという構造の物語なのだ。
例えば、“家” の存続が求められ、世継ぎを産むことができる若い男性は、“子供を産む機械” として見られる。産役中に子供を産んでいるかどうかがその人に対する世間からの評価に直結する。見た目のことを露骨にとやかく言われるし、知らぬ人からブスと罵倒されたり、セクハラにあったりもする。見た目の “女性” らしい人ほど、パートナー契約を結びやすい。これらは現実社会で多かれ少なかれ女性が受けている扱いである。
また産役中に出産することは義務ではないが、出産への圧力が構造として存在する。例えば、出産したら子どもを国に委ねて早く産役を終えることができる。男ばかりの会社でやりがいのない仕事をやらせることによって、誰かとパートナー契約を結ぶか人工受精をして会社をやめたいと思わせる、周囲も「やめろ」という雰囲気をつくることに成功しているという記述もある。これもそのまま、多くの女性が日本社会で直面している現実の反映である。
また、食料問題や過疎化の問題、移民問題、安直な愛国心と全体主義など、題材とされている問題は多岐に及ぶ。
女性差別と性の多様性
そして現代日本の女性差別をあぶり出すだけではなく、主人公の “元男性” が自らの性や外見について自由に選択できる状況において、自分や周りの人との関わり方、生き方を模索し、自分らしく生きていく姿が描かれている点がこの本の魅力だと思う。
男性が女性になることで女性差別を追体験するというのが、第一章から第三章のメインテーマだとしたら、第四章と第五章は性の多様性についての希望と展望が描かれているのだ。
作者の田中兆子自身、センス・オブ・ジェンダー賞大賞受賞の言葉の中で「『セックスや出産を強制されることの理不尽さ、グロテスクさ』を伝えたかったのですが、書いていくうちに、自分のつくりあげた登場人物であるにもかかわらず、彼らが『男らしさ』を手放すことによって、より解放され、人と人とのよき関係を築き上げていくことに喜びを感じていきました。」とコメントしている。
テーマに感じた物足りなさ
しかし、広く “性” がテーマであるならば、この物語には問題点や物足りなさもあるように思う。
まずは、女性差別を扱う上で物足りない点。
「美しくあれ」という強制、つまりルッキズムは、いわゆる「ルックスのきれいな」人や「モテる」人の主体も剥奪するのだが、それについてはテーマとして出てこない。もちろん描かれていないことをあげつらうのはずるい気もするが、五人の主人公を通して女性差別を多角的に扱うのであれば、「モテないブス」であることで受ける侮蔑と表裏一体の、「美人」への差別も扱ってほしかった。
現実の日本社会では、「モテてきれいな女性」は様々な形で主体性を奪われることが多く、こじらせずにそこから脱却することは困難なのだから。
そして、未来への希望が描かれている第五章においてさえ、数が減ったことでますます弱い立場におかれている女性が背景としてしか扱われていないこと。もちろん、救いのないディストピアを描くという意味でならそれでもよいのだが、希望を描くのであればその中に女性がおらず、そのことへの問題提起も出てこないのは本末転倒ではないだろうか。
セクシャルマイノリティへの視線
そして、「男らしさ」にとらわれない性の多様性を扱う上ではっきりと問題だと思うことは、第一章の主人公シュウマが、手術をして、女性らしさの教育を受け、バーチャルセックスを体験し、ごく自然に自分のことを女性だと思うようになり、男を好きになり、女として認められたいと思うようになるという展開だ。
トランスジェンダーやゲイに対して、「治せばいい」などといった偏見が未だにある現代社会において、この展開は問題ではないかと思う。後半には、性転換手術をしても性的な指向は変わらない人も出てくるのだが、シュウマの場合を読んだらその先を読もうとは思わないだろう。
「性同一性障害」という言葉を、なんの問題意識も提示せずに使っていることもあり、セクシャルマイノリティに対する理解が足りないのではないかと思う。
もちろん、誰とどんな関係を結びたいかということについて、人の好みは変わりうる。例えば、異性愛を刷り込まれている現代において、自分がバイセクシャルだと後から気がつくとか、後から変わるということだってもちろんある。だから、男性とのセックスを初めてあり得る選択肢として検討したときに、自分の中に新しい可能性を発見することがないとは思わない。でも、手術と教育によってころっと “女” になるという設定は、セクシャルマイノリティの直面する困難や差別にあまりに無自覚ではないかと思う。
自分自身を問う第四章
ただ、私はここで、「配慮」に欠けた文章は良くないよねということだけを言いたいわけではない(もちろんそれは良くないんだけど)。性の多様性をマイノリティの問題として扱うのではなく、自分は男/女で異性愛者でマジョリティだと思っているすべての人に対して、自分自身の性を問い直し、その豊かさを発見し、実践していこうという投げかけになっている第四章は面白かった。
第四章「キミユキの場合」では、妻と子どもがいる男性が産役につく。
この話の中で彼/彼女らは、「一人の人の中にオトコのコとオンナのコが両方いて、どちらが多いかはその人が決めればいいのだ」と、つたないながらも自分の性について自分の言葉で語る。一般的な「男らしさ」や「家族らしさ」よりまず先に、自分と大切な人たちがどうやってどんなことをしながら生きていきたいのかということを土台にして、生活やセックスや服装や妊娠について具体的に関係性を紡いでいくのだ。
「男らしさ」や「女らしさ」といった規範の多くは、他者との関係によって規定されている。良き母、良き妻、良き恋人といった「らしさ」にとらわれないで生きていくためには、自分のことを見直すのと同じくらい、他者との関係も見直さなければならない。誰とどんな風に会話をし、時を共に過ごし、暮らし……ということについて、その都度関係する人々とともに内実を作っていくということが不可欠だ。
「配慮」のためにセクシャルマイノリティ当事者の言葉を大切にするのではなくて、現状においてセクシャルマイノリティが直面しているアイデンティティをめぐる問題であったり、社会的な困難をめぐる問題であったりについて具体的に考察し行動することが、(つまりマジョリティの原罪と向き合うことが、)自分自身の解放につながるのであり、それを楽しもうということを言いたい。
この小説が投げかけてくるテーマを掘り下げながら、私たちはもっと自由に生きていくことが出来ると思う。