『シン・ウルトラマン』ネタバレ感想&解説 “ウルトラマン”を描くことの成功と“恋愛”を描くことの失敗 | VG+ (バゴプラ)

『シン・ウルトラマン』ネタバレ感想&解説 “ウルトラマン”を描くことの成功と“恋愛”を描くことの失敗

©️2022「シン・ウルトラマン」製作委員会 ©️円谷プロ

2022年5月21日掲載

『シン・ウルトラマン』公開

2022年5月13日(金)、2019年の企画発表より3年の時を経て遂に『シン・ウルトラマン』が劇場公開された。2016年に公開され社会現象と呼べる程のヒットを巻き起こした『シン・ゴジラ』総監督の庵野秀明が企画・脚本、監督の樋口真嗣が引き続き監督としてタッグを組んで挑んだ『シン・ウルトラマン』。特撮ファンならずとも期待していた観客は多いだろう。

ネットでは早くも賛否両論賑わっているが、ここでは「ウルトラマンを描くこと」と「恋愛を描くこと」という切り口から作品を振り返っていきたい。

ネタバレ注意
以下の内容は、映画『シン・ウルトラマン』の内容に関するネタバレを含みます。

全編に張り巡らされたオマージュ

『シン・ウルトラマン』は冒頭から過去作のオマージュの炸裂した作品であり、怪獣ファンを大いに楽しませた。予告編が終わり、本編が始まる前の一連の会社ロゴでは一瞬「シン・ゴジラ」のタイトルが映し出されたかと思いきや、それが「シン・ウルトラマン」へと変化するニクい演出があった。「シン・ユニバース」作品として『シン・ゴジラ』との繋がりを感じさせる演出で、この時点で掴みはバッチリだ。

そして幕を明けた本編ではいきなり“巨大不明生物”(『シン・ゴジラ』における「怪獣」の呼称)が姿を現す。ウルトラシリーズの原点、1966年にTV放送された『ウルトラQ』の登場怪獣たちだ。

最初に姿を現した「ゴメス」は、『ウルトラQ』で実際に『モスラ対ゴジラ』(1964)版ゴジラ(通称“モスゴジ”)のスーツを改造して使用されたことを踏まえ、CGながら『シン・ゴジラ』版ゴジラをイメージしたリデザインを施されていた。続いて「マンモスフラワー」「ペギラ」「ラルゲユウス」「カイゲル」「パゴス」が登場。“巨大不明生物”が敵性大型生物“禍威獣(カイジュウ)”と改称され、禍威獣特設対策室、通称「禍特対」が設置されるまでの物語の世界観が説明された。

登場怪獣がゴジラ一体のみであった『シン・ゴジラ』とは異なり、『シン・ウルトラマン』では複数の“禍威獣”や“外星人”が登場する。禍威獣と人類とのファーストコンタクトや、禍特対設置に至るまでのドラマを丁寧に描く余裕はない。このように「あらすじ」として割り切ったのは正解だろう。

数あるオマージュの中でも注目したいのは、ウルトラマンとメフィラス星人との決闘シーン、およびゼットンを倒した後のウルトラマンの帰還シーンだ。これらはどちらも過去の庵野秀明作品のセルフオマージュと受け取れる。

ウルトラマンとメフィラス星人が互いに蹴りを放ち息ピッタリのカウンターを決めるシーンは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021)で主人公碇シンジの乗るエヴァンゲリオン初号機と父碇ゲンドウの乗るエヴァンゲリオン第13号機との対決シーンを彷彿させる。更に遡れば、工場地帯での巨大生物同士の戦いというイメージ自体が庵野秀明が強く影響を受けたと公言する『帰ってきたウルトラマン』(1971-1972)からの引用だろう。

そしてゼットンとの最終決戦後、“マルチバース(多元宇宙)”から地球への帰還を目指すウルトラマンのモノクロ映像は、庵野秀明商業初監督作品である『トップをねらえ!』(1988-1989)のラスト、やはり木星から地球への帰還を目指す主人公のタカヤ・ノリコとアマノ・カズミを思い起こさせる。

初代『ウルトラマン』においては殆ど出任せのように作られたとしか思えないゼットンがの「一兆度の火球」を放つという設定を生真面目に拾う姿勢にも愛を感じる。それが現実にはどの程度の破壊力を有するのかということを真剣に考察することで、改めてゼットンの他の禍威獣の追随を許さない超越性が強く印象付けられた。

他、作品の全編に亘ってウルトラマンシリーズのファンであればある程楽しめるオマージュが散りばめられているが、中でも最も怪獣/特撮ファンの意表を突いた隠し玉は竹野内豊の登場だろう。竹野内豊と言えば特撮ファンには『シン・ゴジラ』における内閣総理大臣補佐官、赤坂秀樹役でお馴染みだ。『シン・ウルトラマン』への出演は事前にアナウンスされておらず、役名については「政府の男」とされている。これは『シン・ウルトラマン』が『シン・ゴジラ』と世界観を共有する作品であるとの解釈の余地を残すものであり、まさにサプライズだった。

“ウルトラマン”をやるということ

『シン・ウルトラマン』は過去作のオマージュや怪獣バトルなど個人的には非常に満足度の高い作品であったが、とは言え気になる点が皆無という訳でもない。それは作劇上個々のキャラクターの心理描写が物足りなく感じられたことや、主人公の神永新二がウルトラマンと融合する際に特に対話やきっかけらしいものが描かれなかったことだ。段階を追って進んでいくものと期待したよりも展開が性急で、物語に置き去りにされたように感じられてしまった。

要するに、『シン・ゴジラ』的なリアリズムのテイストで“ウルトラマン”という作品が語り直されることを期待していたところ、どうやらそれは違うらしいという違和感に序盤は戸惑った。しかし、その戸惑いはザラブ星人の登場以降解消されてゆくこととなる。

ザラブ星人は圧倒的な超能力を見せ付けて人類を翻弄する。そして原典の『ウルトラマン』よろしく“ニセウルトラマン”に変身してウルトラマンを抹殺しようとするが、逆にウルトラマンに返り討ちにされてしまう。この辺りの描写はまさに「空想特撮映画」のキャッチコピー通りに想像力を逞しく働かせたもので、『シン・ゴジラ』で描かれたような人類組織やゴジラの生態学的なリアリズムを突き詰める方向とは一線を画する。

しかしそれこそがまさに“ウルトラマン”をやるということではないか。思えば初代『ウルトラマン』からして不条理であったり荒唐無稽とさえ言えるようなエピソードは多かった。ウルトラマンが両手両足を一直線に伸ばして回転しながらガボラにキックをお見舞いしたり、浅見弘子がメフィラス星人によって巨大化させられてしまうシーン(これも初代『ウルトラマン』においてフジ隊員がメフィラス星人により巨大化させられたことのオマージュ)などは荒唐無稽でありながらも、荒唐無稽であるが故に印象深いシーンとなった。

臆面もなくそのような演出を選ぶということが、まさに作り手に求められる「ウルトラマンになる勇気」なのではないか。そしてウルトラマンの最大の魅力というのは、このような演出の荒唐無稽さと人間ドラマや怪獣に込められたメッセージ性の同居、それらが生み出す緩急にこそあるのだと感じる。

『シン・ゴジラ』がゴジラを主題に正面から「ハードSF」に挑んだ作品であったとすれば、『シン・ウルトラマン』はまさにキャッチコピー通りの「空想特撮映画」なのだ。

『シン・ゴジラ』によって確立された「現代社会において怪獣を描くこと」の“正解”とも言える方法論。それを単になぞるということではなく、今の時代にそれでも“ウルトラマン”をやろうという気概が随所に感じられる画作りに、作り手の愛と矜持が溢れていた。

“セクハラ”表現は誰に向けられたものか

それでもやはりどうしても気になってしまったのは、劇中で長澤まさみ演じる浅見弘子がウルトラマンである神永新二に「体臭」を嗅がれるシーンだ。これは、物語上ではメフィラス星人のベーター・ボックスが人類にもたらされ、人間がウルトラマン同様巨大化して「生物兵器」として利用されることを防ぐ為という理屈付けがなされている。最初にベーター・ボックスで巨大化させられた浅見弘子の生体データとしての体臭を採取することで、隠されたベーター・ボックスの位置を探ろうということだ。

しかし、あれだけの超能力を持つウルトラマンであれば、そもそも人間態でわざわざ浅見弘子の身体に鼻を近付けて「嗅ぐ」という描写をせずとも、単に「目をつぶる」というような動作で「体臭のデータを採取した」ことにすることも十分可能だっただろう。

要するに、理屈に基づいて描写が選択されたのではなく、その描写が最初に選択され、それを合理化する為の理屈が後から作られたということだ。物語というのは、それが何であれ「書かれた時点ですべて嘘(フィクション)」であるのだから、そこではどれ程説得力のある描写であれ、それが説得的に見えるように計算されて描かれている。

では、何故ここでは超人的な能力を持ち、どんな方法で「体臭」データを取得したとしても納得できる筈のウルトラマンが、敢えて人間と同様に「鼻を近付けて相手の身体を嗅ぐ」という方法を取ったという風に描かれたのだろうか。それは勿論観客に性的なニュアンスを“匂わせる”為だろう。

しかし、物語として浅見弘子と神永新二の恋が描かれた訳でもない。何も恋や性を描くなということではなく、描くのならば正面から描くべきだということだ。神永新二や浅見弘子が相手を性的に眼差している様子が描かれず、にも拘らず状況に迫られているから仕方がないのだと「大きな目的=大義」の為に個人のプライベートな領域が無遠慮に踏みにじられるような描写は、やはり「セクハラ」と断罪されても仕方がないのではないか。

それは、映画界や演劇界、文壇といった人間の文化的な活動領域において権威を持つ監督などの立場の人間が、その権力の非対称性を利用して俳優や作家などの地位の低い相手を性的に搾取する現実の状況と重なって見える。これは当たり前だ、そういうものだ、と上から押し付けられた「状況」によって、自らの意に反して尊厳を売り渡させられる人が居てはならない。ウルトラマンはそのような苦境に立たされる人々にとってこそ味方であって欲しい。

浅見弘子は、せめて上着を一枚脱いで神永新二に手渡すことで自らの尊厳を守ることだってできた筈だ。作家はそのように描くことで、浅見弘子を守ることができた筈だ。

だが、浅見弘子自身も、無遠慮に他者の尻を叩く「セクハラ」をするキャラクターとして描かれていた。劇場で先行販売された『シン・ウルトラマン デザインワークス』によれば、庵野秀明の意図としては神永と浅見との恋愛を描きたかったようである。どうやら、その為にこのような性的なシーンが挿入されたということらしい。

しかし、こんな「セクハラ」じみた描写をせずとも正面から「恋愛」を描くことはできただろう。「恋愛」と「セクハラ」を区別するのは、それが双方向的であるか一方的であるかの違いだ。いきなり一方的に他者の尻を叩くということではなく、例えば「頑張ろうね」という声掛けをするという風に描けばそれで積極的に他者と関わろうとする浅見の快活な性格は描けた筈だ。「尻を叩く」というインパクトに頼らず、そのように丁寧に人物を描写することによって「セクハラ」ではない「恋愛」は描けた筈だし、ひいてはそれがドラマの完成度を格段に高めたに違いない。

まとめ

セクハラ表現に少し残念な気持ちにはなったものの、全体としては怪獣のデザインや俳優の芝居など『シン・ウルトラマン』は非常に楽しめた作品だ。個人的には『進撃の巨人』ファンにも『シン・ウルトラマン』は是非観て欲しい。『進撃の巨人』自体がウルトラマンの系譜に位置付けられる作品であるが、『シン・ウルトラマン』には更にその『進撃の巨人』からの影響を受けたと思われる設定があるからだ。ウルトラマンの影響を受けた作品からまたウルトラマンが影響を受ける。そのような往還関係があればこそ、ウルトラマンという文化はこれだけ長い間人々に愛されてきたに違いない。

『シン・ウルトラマン』という作品が未来のウルトラマンにどのような影響を与えるのかを今から楽しみにしている。

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腐ってもみかん

普段は自転車で料理を運んで生計を立てる文字通りの自転車操業生活。けれど真の顔は……という冒頭から始まる変身ヒーローになりたい。文学賞獲ったらなれるかな? ラップしたり小説書いたりしてます。文章書くのは得意じゃないけどそれしかできません。明日はどっちだ!
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