近未来青春群像劇『HAPPYEND』公開
2024年10月4日(金)、空音央(そら ねお)監督長編劇映画デビュー作『HAPPYEND』が全国公開された。この作品は『ペルシャ猫を誰も知らない』(2009)、『マイスモールランド』(2022)などの作品の系譜にある社会派青春群像劇だ。『HAPPYEND』は近未来の日本の高校を舞台にAIを用いた監視社会とそれへの抵抗を描く物語である。
空監督は故坂本龍一の次男でもあり、やはりというべきか劇中音楽のセンスが光っていた。独自のカメラワークにより切り取られたシーンも美しい。だが、何よりメタファーの用い方が巧みで、考えさせられると同時にメッセージが胸に響いた。それでは、早速ネタバレありで映画『HAPPYEND』の解説および感想を語っていこう。
以下の内容は、映画『HAPPYEND』の内容に関するネタバレを含みます。
Contents
『HAPPYEND』に込められた社会へのメッセージ
多人種にルーツを持つ生徒たち
映画が始まってまず目を惹くのは、コウとユウタという二人の主人公を取り巻く友人やクラスメートの人種の多様さだ。コウ自身も在日朝鮮人一家の生まれだ。空監督はAIを使った生徒の監視というディストピアへ向けて想像力を発揮する一方で、ますます国際交流が進みあらゆる人種にルーツを持つ生徒たちが同じクラスで学ぶことが当たり前となっている〈希望〉に向けても想像力を働かせている。
そして、その描かれ方も単に「ポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)」の要請を満たすために様々な人種の役者を配役したということではなく、それぞれのキャラクターにはしっかりとした内面に対する手触りがあった。たとえばコウとユウタの共通の友人である、黒人にルーツを持つトムは二人がDJをしている部室でタブレットを持って宿題をしていた。
このシーンからは黒人=音楽好きな陽キャというステレオタイプな描き方を拒絶し、個人として独立したキャラクターとしてトムを描こうとする監督の決意が感じられる。一方で、トム自身の葛藤が深掘りされることはなく、コウとユウタの仲を取り持ち卒業後は発つ鳥後を濁さずとばかりアメリカへと渡り作中世界から去ってしまう。
このようなトムの描かれ方には、マイノリティ属性を持つキャラクターに、主人公の苦悩を聞き助言を与えるなど「都合のいい」役割を与える「マジカル・ニグロ」的な描写から抜け出し切れていないとも感じた。今度はトムが主人公の物語を観てみたいものだ。
他にも、クラスメートには坊主頭の女生徒が描かれ、しかもトムとは対照的に彼女には特に物語上の役割が与えられておらず、そのことがかえって「そういう生徒が当たり前に居るクラス」というリアリティを醸していた。余談だが、主人公の一人である「コウ」の名前、および在日朝鮮人にルーツを持つという設定は2010年代に一世を風靡したラッパーの「KOHH」から取られているのだろうか?
子供と大人を善と悪に二分化しない物語
作中のヴィランである佐野史郎演じる長井校長は、在日朝鮮人であるコウの出自や貧困を揶揄するなどナチュラルに差別をする人物として描かれている。一方で、その時「根回しや接待が仕事か?」と反撃したコウに対して、学校の耐震化の為の補助金の高い倍率を勝ち抜くためには根回しが必要だと説く。それとも地震の際にはこの校舎もろとも下敷きになりたいのか、と。
学内のAI監視システム撤廃を求めてフミたちが校長室に乗り込んだ際には、インタビュー中の記者らを追い出し、人払いした上で単身生徒たちの話を聞いた。腰巾着である秘書の平に警察を呼びますかと言われるも、それを断って生徒に向き合う姿勢には教育者としてのなけなしの矜持を感じた。
夜になり、腹を空かせた生徒たちに出前の寿司を振る舞うも「その手には乗りません」とフミは頑なに対決姿勢を崩さない。そんなつもりじゃないと言う長井校長はしかし、食えと皿を差し出しても一向に手を付けようとしない生徒たちに業を煮やし、最後には寿司を食わなきゃ退学だとまで言い出す。
そこへ、トムの誕生日パーティーを抜け出してコウが駆け付ける。差し入れに配られたキンパが印象的だ。即ち、ここでは権力者である長井校長が配る寿司には日本文化=既成秩序が代表されていて、それに対するカウンターないしオルタナティブを探す生徒たちは韓国文化であるキンパを食べて寿司に対抗するという構図が描かれている。
こうした長井校長の描かれ方は、悪意なく差別をする、自らの心に巣食う差別に無頓着な典型的な日本人男性が代表されているとの感想を抱いた。しかしながら、それを単に倒すべき悪として断罪しておしまいにしないところに『HAPPYEND』という映画の新しさがある。耐震工事の為にお金が必要だというのも、腹を空かせた生徒たちに何か食べさせてやりたいというのも、つい口をついてしまったコウへの差別心と同程度には‟本心”なのだろう。
そんな長井校長だからこそ、一人で十人以上の生徒の話を聞き、最後にはAI監視システムの撤廃というフミたちの主張に耳を傾けた。一方で、そうした巨大なシステムに対抗するにあたって「権力者の良心」に頼らざるを得ない歯痒さをフミに語らせるところに、この映画を単なる「HAPPYEND」に終わらせない空監督のセンスが光る。
巧みな演出とメタファー
『HAPPYEND』という作品は、ストーリーや役者の芝居もさることながら演出やメタファーの使い方が非常に巧みだという感想を抱いた。前述のキンパに込められた抵抗の意志の他にも、「地震」の使われ方も印象深い。緊急地震速報の誤報から、本当に起こってしまった地震、そしてユウタが職員室から先生を外に追い出すために偽の緊急地震速報を流すシーンなどだ。
地震は特に物語の本筋とは関わらないが、いつまでも続くかに思えた日常がある日呆気なく崩れ去ってしまうような思春期や日常といった作品モチーフの脆さないし有限性の象徴として用いられている。何より、デモの参加を咎められたコウが母親と家に帰る途中、夜の商店街で「自警団」らしき人々と遭遇するシーンは怖かった。これは、明確に1923年に起きた関東大震災後の朝鮮人虐殺の主体となった「自警団」を意識したものだろう。
このような直接的な描写によって緊張感をもたらす一方で、『HAPPYEND』という映画は全編を通して非常に抑制的だという感想も抱いた。それは音楽の効果によるところが大きい。劇中に使用される音楽は基本的に歌詞のないインスト楽曲だ。例外的にフミとコウが担任教師である岡田に連れられて参加した飲み会で、人民の連帯のために歌われた諷刺ソングがあった。
この歌の最後の「この世で一番偉いのは電子計算機」というフレーズも皮肉が利いていて印象深い。だが、いくら社会に目を向け自らの日常に葛藤を感じたとしても、コウがマイクを持ってラップすることはない。社会に対して言いたいことがあり、かつ音楽をやっている若者であるコウがラップをしたとしても違和感はない筈なのに、である。
メッセージは直接言葉にすれば伝わるものなのだろうか。必ずしもそうとは言えないだろう。むしろ、言葉にすることによって損なわれてしまうものもあるだろう。何より、映画というのは映像メディアであり目で見て楽しむものだ。カメラワークや演出、役者の表情などから我々は充分にメッセージを受け取ることができる。
そのような映画の「伝える力」を信頼しているからこそ、空監督は敢えてコウに「メッセージソング」を歌わせることを選ばなかったのだろう。『HAPPYEND』という映画を観て最も強く抱いた感想は、そのような抑制ができる空監督のバランス感覚は非常に信頼できるものだということだ。
『HAPPYEND』全体の感想
大人になるための儀式
そもそもの発端はユウタの思い付きのいたずらだった。コウはそのいたずらに協力しただけだ。だから、長井校長が全校生徒を前に「いたずらの犯人が名乗り出ればAI監視システムを見直す」と宣言した際、ユウタは一人で名乗り出た。コウはただ、それを見守るばかりだった。ここへきて、それまでもっと自分以外の世界に目を向けろ、社会を考えろと言ってきたコウの主張が途端に嘘臭くなる。
そうは言ってもお前は友達を見捨てたじゃないか、と。結果、卒業を目前にユウタは高校を退学、奨学金の審査に受かったコウは大学へと進学することとなる。映画のラストで、二人はいつもの歩道橋を歩いている。突き当りの、左右に分かれた階段をコウは左に、ユウタは右へと下りていく。その直前、ユウタがコウの腹へとパンチを一発見舞ったところで画面が静止した。
果たしてこれは誰にとっての「HAPPYEND」なのだろうか。そのままエンドロールに入るのかと身構えながら、このパンチの意味を考えた。それは勿論本気のパンチではないだろう。だからと言って、それまでと変わらない無邪気なじゃれ合いとも言えない。ユウタに「ごめん」とも「ありがとう」とも言えなかったコウは、このパンチを果たしてどう受け取ったのだろうか。
謝りたくても謝れなかったこと。本当は動くべき時に動けなかったこと。誰しも思い当たることがあるだろう。そのような苦い経験を経て人は大人になっていく。だとしたら、そのような苦味をいつまで噛み締めていられるか。それが、たとえばフミに軽蔑されないような大人で居るためには必要なことなのかも知れない。
ユウタは飽くまでも「今楽しいこと」をしようとする。そんなユウタの「考えなさ」に次第にコウは苛立ちを募らせる。だが、蓋を開けてみればユウタはコウの為に行動できたが、コウはユウタの為には動けなかった。そのことで、今自分の目に見える世界、周りの友達が大事だとするユウタが退学させられることで自立を迫られた。
結果的に‟外の世界”へと一足早く踏み出すことになる一方、コウは友達を失わず大学へも進学するということでしばらくは「今の自分の世界」を保つことになるというのも皮肉だ。だが、ユウタは必ずしもコウを恨んではいないのではないかというのが筆者の感想だ。勿論、ユウタがコウをどう思っていようと、そのこととコウが自らの選択をどのように捉えるかということとは別問題だ。
その上で、今目の前の楽しさだけを追求しようとするユウタの刹那的な態度は、その実誰よりも未来を見据えていたことの裏返しだったのではないかと思える。ユウタ、コウ、トム、ミン、あたちゃんの仲良し5人組の中で、ミンとあたちゃんは付き合うこととなり、トムはアメリカへと渡る。
残されたコウとの関係はぎこちない。本当は終わってほしくない関係にもいずれ終わりが訪れる。そのことを誰よりも不安に思っているからこそ、そんな未来がこないように、一秒でもそれを遅らせられるようにユウタは‟今ここ”の世界に没入しようとしたのではないか。ユウタはけれど、それが避けられないことも知っている。
だから、最後は自分で全校生徒の前で名乗り出ることによって、自らそのモラトリアムに終止符を打ったのではないか。これはユウタの少年時代への訣別のために必要な儀式でもあった。だからそれはコウとの間のというより、ユウタ自身の問題であったのだろう。
これは誰にとっての「HAPPYEND」なのか?
全体の感想としては、『HAPPYEND』はとにかく情報量が多い映画だということだ。しかもそれぞれの要素が有機的に絡み合い、一切無駄を感じさせない。それぞれバックボーンの異なる生徒たちがそれでも「友達」として一緒に居られる時間を祝福しながらも、そのバックボーンの違いがやがて個人として何を目指して生きるのかという違いに結び付く物語は、今の十代のみならずかつて十代を過ごしたすべての大人にも刺さるものだろう。
SF的には、空に浮かぶ文字や『ブレードランナー』(1982)よろしくビルに大写しになる政治家のシーンなどの細かい演出も面白い。しかもそれは何も耽美的に演出されておらず、近未来の日本、僕らの退屈な日常の延長に新たな技術が導入されたとしてもどうせこの程度だろう、とでも言いたげな安っぽさが真に迫っていた。
無軌道な大人や社会への反骨心を抱えてはいても、それが大人になること=変化することへの不安に根差すが故に社会を「変化させる」ための政治的なエネルギーに変えることができなかったユウタと、誰よりも社会の変化を望みながら自分の周りの世界一つ変えることができなかったコウ。
対照的な二人の主人公の生き様はしかし、どちらも「ではお前はどうするのか」とスクリーンの前の私に問い掛けてくるようだった。エンタメ作品に政治性は必要かという議論があるが、個人的にはこれは問いが逆転しているという思いだ。エンタメ作品に政治性が必要なのではなく、政治性があることによってエンタメ作品はより面白くなるのだ。何故なら、今自分の目に見える限られた範囲より広い世界を想像することは、紛れもなく「楽しい」ことだから。
『HAPPYEND』という映画は、そのタイトルに反して必ずしも「HAPPYEND」とは言えない独特の余韻を残す作品だったという感想だ。フミたちの行動は確かに校長の心を動かし学内の監視システムを打倒したが、代償としてユウタは退学を余儀なくされた。大学への進学が決まったコウは、一方で「嘘吐きな自分」を胸の内に抱えることとなった。
『HAPPYEND』というタイトルは、必ずしも映画の内容を表しているのではなく、むしろそこには空監督の願いが込められているのかも知れない。果たしてこれは誰にとっての「HAPPYEND」だったのだろうか。あるいは、この人生を「HAPPYEND」として迎えるために、今自分は何をすべきなのだろうか。そんなことを考えさせられた。
映画『HAPPYEND』は、2024年10月4日(金)より全国公開中。『UDCast』方式による視覚障害者用音声ガイド、聴覚障害者用日本語字幕に対応。
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