ジブリ映画『魔女の宅急便』を解説&考察
映画『魔女の宅急便』は角野栄子による児童文学を、スタジオジブリの宮崎駿監督が1989年にアニメ映画化した作品。同年の邦画興行収入でナンバーワンを獲得し、その後も日本テレビの「金曜ロードショー」枠でも繰り返し放映されるなど、非常に愛されているジブリ作品の一つだ。
今回は、『魔女の宅急便』のラストに注目して、劇中で起きたこととそこに込められているメッセージについて解説と考察をネタバレありで行っていきたい。誰もが知る『魔女の宅急便』には、どんなメッセージが込められていたのだろうか。
なお、以下の内容は『魔女の宅急便』の結末と、映画『君たちはどう生きるか』(2023) の内容についても若干のネタバレを含むので注意していただきたい。
以下の内容は、映画『魔女の宅急便』の結末に関するネタバレを含みます。
Contents
ジブリ映画『魔女の宅急便』ラストをネタバレ解説
「労働」と共に変化する主人公
魔女の血を受け継ぐキキは、街で1年間の修行をしなければならないというしきたりに従い、13歳で黒猫のジジと共に旅に出る。思いもよらず行き着いた大きな街コリコで、キキは人の冷たさと温かさに触れながら、ホウキで空を飛ぶ力を使って「魔女の宅急便」を開業。おソノのパン屋に居候させてもらいながら、“仕事”を始めるのだった。
『魔女の宅急便』は“お仕事アニメ”であり、そこに一貫している「労働」というテーマは、映画『千と千尋の神隠し』(2001) と共通する。しかし、『魔女の宅急便』ではキキは嬉々として労働に励み、人の役に立つことに率先して挑戦するのに対し、『千と千尋の神隠し』では千尋は当初は気だるそうな少女で、労働を通して徐々に表情が変化していくという違いがある。
ここには、キキが13歳で千尋が10歳、キキは田舎育ちで街に出るが千尋は都会っ子で森の中の異界へ行くという設定の違いも反映されているのだろう。加えて、『魔女の宅急便』では宮崎駿が描く凛とした少女像が反映されているのに対し、『千と千尋の神隠し』ではジブリの若手のエースであり、リアルな現代の少女像を追求した安藤雅司が前半の作画を担当していたことの影響もあるものと考えられる。こうした背景を踏まえた上で、『魔女の宅急便』のラストについて見ていこう。
トンボとの友情と、ニシンのパイの孫娘
『魔女の宅急便』の終盤、雨の中ニシンのパイを届けたキキは体調を崩して寝込んでしまう。この時点でキキは気づいていないが、黒猫のジジと話せなくなっており、ホウキで飛ぶこともできなくなっているものと思われる。
それでも、体調が回復したキキはおソノの計らいで地元の少年トンボと友人になる。初めてこの街でできた友達だ。キキはこの街で様々な大人たちから影響を受けているが、唯一できていなかったのが友達だった。トンボはキキのことをからかったり、恐れたりすることもなく、「魔女の家に生まれればよかった」と羨ましがる。空に憧れを持つトンボは、ホウキで空を飛べるキキにも憧れの感情を抱いていたのだろう。
魔女としてのキキを受け入れてくれる同世代のトンボとの出会いで、キキに転機が訪れたかに思われたが、そこに現れたのは街の若者たちだ。トンボに飛行船を見に行こうと誘っているメンバーの一人は、ニシンのパイを届けた家の少女だ。この少女がキキが宅急便をやっていることを知っていたのは、その時に出会っていたからである。
キキは、自分に仕事を依頼してくれた老婦人が孫娘のために用意したニシンとカボチャのパイを焼くため、薪を運んで火を起こして、服をボロボロにしながら手伝った。ここでもキキは誰かのために率先して「労働」を行っている。だが、キキが雨に降られながら、必死に守り抜いて届けたニシンとカボチャのパイは、孫娘からは「要らないって言ったのよ」「このパイ嫌い」と言われてしまう。キキは大きなショックを受け、翌日から魔法が使えなくなってしまったのだ。
ここでは、キキがどれだけ懸命に仕事に臨んだとしても、必ずしもそれがみんなを幸せするわけではないという悲しい現実が描かれている。誰かの思いを別の誰かに「届ける」というのが「魔女の宅急便」の仕事だが、送り手と受け手の思いが通じ合っていなければ、その仕事は迷惑にもなりうる。キキはここで、都会の人の冷たさというより、労働の暗い側面に直面したと言える。キキが飛行船を見に行こうと誘われたトンボに憮然とした態度を見せたのも、そのグループにこの孫娘がいたからではないだろうか。
魔法を使えなくなったキキ
誘いを断り徒歩で帰宅したキキは、「素直で明るいキキはどこかへ行っちゃったみたい」と自分の態度に嫌悪感を示しつつ、ジジが喋れなくなっていることに気が付く。ホウキでもうまく飛べず、魔法が使えなくなっていることを知るのだ。キキの体調が回復した後に、ジジがキキの近くにおらず喋る機会がなかったり、おソノに頼まれたトンボへの宅配をキキが「近くだから」と歩いて配達に行ったのはその伏線だ。
「魔法がなくなったらなんの取り柄もなくなる」と自分を追い込むキキだが、そこにウルスラが現れる。ウルスラは中盤でキキが黒猫の人形を宅配に行った際に出会った森に住む絵描きで、キキはそのときもウルスラのために働いていた。このとき、ウルスラがキキの絵を描きたいと言っていた約束を果たすことに。二人はウルスラの家へとヒッチハイクしながら向かうのだった。
ここでキキはトンボに続いてこの街での新しい関係を手に入れることになる。ウルスラはいわば姉のような存在で、一人で森に住み、絵を描くことやヒッチハイクなど、ウルスラの行動は13歳のキキにとっては新鮮に映ったはずだ。なお、ウルスラの声を演じているのは、キキの声を演じている高山みなみ。キキとウルスラの一連のシーンは、高山みなみの一人芝居ということになる。
家に戻ったウルスラは、カラスたちと仲良くなったと話す。このカラスたちは、キキが巣に突っ込んでしまって嫌われたカラスたちだ。カラス=鳥が脅威となる演出は、宮﨑駿監督が2023年に発表して、『千と千尋の神隠し』以来となるアカデミー長編アニメ部門を受賞した『君たちはどう生きるか』の演出と重なる部分もある。大自然の空を自由に飛ぶ鳥たちは人間にとっては半ば脅威の存在、そんな感覚が宮崎駿監督の中にはあるのかもしれない。
そんなカラスたちと仲良くなってしまっていることも、キキにとってウルスラの存在が大きくなっていく要因だろう。キキはウルスラに絵を描いてもらうことになり、アートについて話を聞く。労働や学問以外の要素に触れることは、人間にとってはとても重要なことだ。若い人の成長譚を描いてきた宮崎駿監督らしい場面だと言える。
クリエイターとしてのウルスラ
ここでウルスラは、魔法が使えなくなったキキに対し、「魔法も絵も似てる」として、自分も絵が描けなくなる時があると話し出す。その対処法を「描いて描いて描きまくる」と話すウルスラの言葉は、アニメーターとしての宮崎駿監督の言葉のようでもある。描けないときは散歩をしたりして時間を置くとまた描きたくなる、全然描けなくなった時があり、自分が見たことのある絵ばかりを描いていたことに気づいた——ウルスラはクリエイターとしての経験を共有していくのだ。
ウルスラは今でも同じだが、今は前よりも少し絵を描くことが分かったと話し、自身も絵を描くことと向き合い続けていることを明かす。キキにとっても、魔法とは今後もずっと付き合い続けるものであり、それを使って仕事をするということは、その結果と向き合うことだと、ここで気づいたのかもしれない。
絵を描くことは神様か誰かがくれた力で、おかげで苦労もするというウルスラの言葉は、そのまま「創作」に置き換えることができる。キキには、キキのことを羨ましがるトンボの姿も浮かんだことだろう。ここでキキは、人がやりたくても自分にしかできないことがあるという事実に思い至ったのかもしれない。魔法とは何かを考えたこともなかったというキキは、また新たな考え方、というより生き方に出会い、成長していくことになる。
この場面でキキは、ウルスラとの出会いによって大事なことに気付かされたと話す。女性たちとの出会いによって気づきを得ていくキキの姿は、映画『君たちはどう生きるか』の眞人の姿と重なる。ただし、『魔女の宅急便』のキキとウルスラの場合は、それが“シスターフッド”として描かれている点が特徴だ。
また、『魔女の宅急便』では、絵を描くことと魔法で飛ぶことを並列で語っているが、宮崎駿監督の『紅の豚』(1992) では、主人公ポルコが「飛べない豚はただの豚」と語る。まるで宮崎駿監督がアニメが描けなくなった自分に価値はないと言うかのようなセリフだ。まあ、『君たちはどう生きるか』では、年老いたペリカンが「翼が折れた、もう飛べぬ」と言う印象的なシーンもある。同監督にとっては「空を飛ぶ」ということと「アニメを描く」ということは同義なのかもしれない。
ニシンとカボチャのパイの老婦人に呼び出されたキキは、キキの名前が入ったケーキをもらう。老婦人は「キキという子に届けてほしい」と話しつつ、黙ってしまうキキに「キキ?」と呼びかけている。つまり、老婦人はキキの名前を知っているが、「魔女の宅急便」という仕事をしているキキに粋な言い回しでプレゼントを贈ったのだ。孫娘からは迷惑がられてしまったが、一方ではキキの仕事に感謝している人もいる。そうしてキキは自分の仕事の意義を改めて感じることになる。
クライマックスのキキの活躍
そして、映画『魔女の宅急便』のクライマックス。テレビで放送されていた飛行船の出発に際し強風で飛行船事故が発生すると、キキはトンボがこれに巻き込まれていることに気が付く。魔法が使えないキキは走って現場に向かうが、途中でおじさんに借りたホウキ(デッキブラシ)で飛ぶことに。魔法の力を取り戻したキキはなんとかトンボを助け出すことに成功したのだった。ここでも「飛びたいけど飛べないトンボ」を助けるキキは、「自分にしかできないこと」で人助けをしている。
ちなみに飛行船がぶつかるシティタワー(時計台)のおじさんは、冒頭でキキが話しかけた人物だ。キキに魔女は最近見ていないと教えてくれたおじさんは、ここでもなんとかトンボを助けようとしている。キキの救出劇をテレビで観ていたおソノは、お腹の子どもが動いており、出産が近づいていることを知る。エンドクレジットの背景では、おソノが無事に出産を終えて夫とピクニックをしているシーンが描かれている。一躍人気者になったキキは、飛行機を完成させたトンボや、その友達と共に野原をホウキで駆けている。
エンディングで流れる曲は、ユーミンこと松任谷由美(当時は荒井由実名義)の「やさしさに包まれたなら」だ。元は曲は1974年に発表された曲だが、その後歌詞が改変されて再リリースされた。「やさしさに包まれたなら、きっと目に映る全てのことはメッセージ」という歌詞は、様々な経験を経たキキにピッタリのフレーズになっている。
ラストのセリフの意味を考察
エンディングの幕間にはキキの父と母のもとにキキからの手紙が届くシーンが描かれる。ここでキキは、「落ち込むこともあるけれど、私、この街が好きです」と言い『魔女の宅急便』は幕を閉じる。キキの街での暮らし、つまり「魔女の宅急便」という稼業は完全な順風満帆というわけではないし、嫌な思いをしたりもする。けれど、それも含めて受け入れて、この街に残るということをキキは選んだのだ。
先に触れたように、「届ける」という労働が必ずしも誰かに喜ばれるわけではない。それは全ての仕事に当てはまることだと言えるし、「生きる」ということも、誰かに迷惑をかけながらでも営んでいくしかない。『君たちはどう生きるか』で集大成を見た、宮崎駿監督の「生きる」というテーマがここでも、「落ち込むこともあるけれど、それでも」というメッセージと共に描かれているように感じる。
ちなみにジジは最後まで話せるようにならなかったが、これは劇中でもキキが触れているように、ジジが言葉を話せたわけではなく、キキがジジの言葉を自分なりに解釈して聞いていたということだと考察できる。キキはジジを通して子どもっぽい嫌味を表現する必要がなくなってしまった、労働の現実に向き合わざるを得なくなり、自分の中でジジを通して消化する逃げ道を失ったと考えることもできる。
キキは良いことも悪いことも受け入れて、それでも魔法を使って仕事をするという道を選んだ。『魔女の宅急便』というタイトル通り、本作は魔法と仕事をテーマにした物語であり、13歳の少女の成長を描いた作品でもある。その後の宮崎駿作品に通じる要素もたくさん見られた本作。『魔女の宅急便』の内容を踏まえて、改めて他のジブリ作品を観てみると、新たな発見があるかもしれない。
ジブリ映画『魔女の宅急便』はBlu-rayが発売中。
角野栄子の原作はKindleで配信中。
久石譲が手がけた『魔女の宅急便』サントラ音楽集は発売中。
『アーヤと魔女』のラストについてのネタバレ解説はこちらから。
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