かかり真魚「夜盗花」 | VG+ (バゴプラ)

かかり真魚「夜盗花」

カバーデザイン VGプラスデザイン部

先行公開日:2023.8.25 一般公開日:2023.9.28

※この物語には、暴力描写と性描写が含まれます。

かかり真魚「とうばな
10,018字

真桑瓜を濡らす水滴があざやかな夕暮れに染まる。甘露に変化したような鈍いとろみ、柄杓ひしゃくから放たれた水が橙色に照り輝くのはいつ見ても美しかった。晩夏とはいえ日差しが強く、朝夕二度の水やりは欠かせないが、いっとう素晴らしいのはやはり夕刻だ。暴君のように地をたぎらせていた灼熱の太陽がつかの間の死を迎える兆し、その静謐せいひつなたわみを胸一杯に吸い込みながら、疲れた植物たちに水をやるのはよかった。

しゃがみ込んで茄子の膨れ方を点検していると、「えらい良うなったね」と声をかけられる。顔を上げると、斜向かいに住む吉崎さんが立っている。齢は五十ほどで、がっしりした体躯の女性だった。いつも擦り切れた奇妙な柄の手ぬぐいを頭に巻いているが、お洒落というよりかは、薄くなった頭部を隠すためにしているらしい。私がここに嫁いでからと言うもの、いろいろと世話を焼いてくれるご近所さんだった。

「ええ、あれからだいぶいじりまして……」

「こっちのほうがええ。野菜も初めてにしては上手いんとちゃう」

口角をつり上げて、微笑みの形を作る。でも土づくりが難しくて、瓜なんか思ったより大きならへんのです、と言うと、吉崎さんは「こういうんは経験やからな」と思慮深そうに頷いた。支柱に巻き付いた朝顔もつぶさに点検すると、この株もええやん、赤紫のきれいな色。大丈夫、まめにやってたらすぐにコツわかるからな、と励ますように言う。私が頑張りますと答えると、吉崎さんは満足そうに頷いた。

茄子は酢でシメてもええ、まだ暑いから旦那さんも酸いのが欲しいやろ、ええよ、この時期は何でもお酢で、と言い残しながら、きびすを返す。

玄関に入る手前で、思い出したように吉崎さんが振り返った。

せや、あれはどうしたん。

捨てました。

ぽい、という仕草のつもりで、私は右手を閉じたり開いたりさせた。吉崎さんは頭の手ぬぐいを触りながら頷くと、黄ばんだ歯を見せて「ええ子やねえ」と言った。

夫は茄子の酢の物を気に入ったらしかった。作り方はインターネットで調べた。食卓に目新しいメニューがあるのに気づいた夫が、新しいやつ、と言うので近所の吉崎さんに教わったと答えた。茄子の酢の物は、きりっとした味の奥にやさしい甘みがあり、確かに旨かった。

「近所付き合いも、ちゃんとしてるんや」

「みんな親切なひとばっかりやで、いろいろ教えてくれるねん。もう半年やから、大体の人とは仲良うなったよ」

「有里子はそういうの嫌いなんかと思ってた」

「なんで?」

「いやなんか、都会の人やし」

「やから高校まではこっちにおったんやって」

「もうちょい西に住んでたんやんな」

「そう、●●の方」

酢の物に箸を伸ばしつつ夫の顔を伺う。しかし、夫は何も感じることがない様子でビールグラスを傾けながら、野球のナイター放送を見ている。

台所からさやが出てきて、首をすくめた。水色のワンピースの裾が揺れる。さやは私の横までやって来ると、顎をしゃくるようにして夫を指した。

「このひと、阿呆なんよ」

「そやろね」

さやは食卓に並んだ料理をひとしきり眺めると「美味しそう」と、うっとり言った。

「有里ちゃん、お料理上手かったんやね」

「上手くないよ。でも練習して鍛えたから、結婚すんのに」

「有里ちゃんのそういうとこ、ほんま凄いわ」

さやは感心するような声を出したが、不意に小声になると「わたしはアカンかったからねえ」と付け足すように言った。

さやの艶やかな髪を見る。血管が浮き出そうなほど繊細な首筋に掛かる、青みがかった黒髪は肩あたりで切り揃えられている。私はさやを手招きすると、箸で摘んだ茄子の酢の物を彼女の口に放り込んだ。

「食べれる?」

「茄子、好き」

さやの目がきれいな三日月を描くのを見ると、自然と口元がほころぶ。

夫はテレビを見続けていた。打ち上がった白球が次々とグローブに吸い込まれ、どこか幾何学的な感じさえする鋭い直線で繋がれていくさまを熱心に追いかけている。

夫のグラスに目をやり、新しい缶ビールを冷蔵庫から出しに行く。

「もう一本飲むでしょ」

「え、ああ」

夫は聞いているのかいないのか、曖昧な声を出す。野球を好む夫は食事の最中にナイター放送を見始めると、熱が入って意識のあらかたをそちらに移してしまう。最初は向かい合って会話をしていても、いつの間にか視線は合わなくなっている。気にせずグラスにビールを足し、缶に半分ほど残ったぶんは自分で直飲みした。冷えたビールが喉を滑り、胃に落ちていく。三口ほど飲み、残りを夫のグラスにさっと追い足すと、食べ終わった食器を片づけるために席を立った。

水やりを終えて表に出ると、郵便受けの中をさらってまた家に入る。新聞と広告と幾らかのDMと封書たち。和室に座って麦茶を飲みながら、それらをひとつひとつ点検する。用のない広告とDMはゴミ箱に突っ込み、夫宛の封書をより分け、自分宛のものはシュレッダーに掛けてからゴミ箱に捨てた。

取り込んでおいた洗濯物を畳み、台所で米を研ぎ、炊飯器のタイマーを仕掛ける。また和室に戻り、残しておいたスーパーの広告に目を通す。特売品を一通りチェックしてから、冷蔵庫に残っている食材も踏まえて献立を立てる。

ごと、と音がして目の前の畳が持ち上がる。視界の端で見ていると、昨日と同じ様子でさやが出てくる。

「今日は卵豆腐?」

「濡れてる」

さやはずぶ濡れだった。びしょびしょの衣服をはぎ取り、下着もまとめて洗濯機に掛ける傍ら、さやを三面鏡の前に座らせ洗い立てのタオルで身体や髪を丁寧に拭いてやる。タオルの生地が肌に触れるたび、さやはくすぐったそうに笑う。タオル一枚では足りなくて、結局四枚くらい使う。

服が乾くまでのあいだ、全裸のさやと並んで広告を見る。さやは近所のスーパーの広告を眺めるのが好きだった。さやは食材のひとつひとつを指して、私に訊ねる。

「オレガノって何?」

「ハーブ、イタリアンに良く合うやつ」

「カルダモンは?」

「スパイス、インド付近原産のショウガ科のやつ」

「美味しいん?」

「バターチキンカレーとか、チャイに入れたらな。香りもええし、健康にもええよ。消化促進にも効果あるし、今の時期向きかも」

「そんなん使ったことない。有里ちゃん、家でチャイとか作る?」

笑いを滲ませた鈴のような声色。覗き込み合っていた広告から目を逸らすと、すぐ横にさやのすべやかな素肌がある。薄く唇を開き、さやの耳朶を口に含んだ。柔らかい軟骨が薄い肉ごしに感じられ、その繊細な感覚に背筋が泡立つ。舐めたり舌を穴に差し入れたり、一頻り耳を愛撫したのち首筋に移る。冷房では冷やしきれない、さやのぬるい体温を味わうために顔を埋める。

下腹部に指を伸ばすと、さやはふふふ、と息をこぼした。水気を取ったばかりの髪の匂いを胸一杯に吸い込む。蜜の香りが膨らんだ。さや、いい匂いする。花の匂い。低く言いながら奥を開くと、さやは私にしなだれかかって呻いた。溶けるような吐息の奥に、白い花弁が揺れる。

「有里ちゃん、」

「もうあいてる」

さやを組み敷く。華奢な肢体の下で、敷き詰められた月見草がささめきあう。来るべき夜のまたたきが聴こえる。華やかな漆黒の気配に、花弁は白から薄桃へとゆるやかに色を変えていく。

左の奥歯が痛むので、近所の歯科を予約した。こっちに来て以来、医者にかかったことはなかった。夫に相談すると案の定、家から二筋ほど向こうに建つこの歯科を勧められた。夫曰く、十五年ほど前に開院した病院で、最新の治療が揃っているかは分からないものの、それなりの腕だから、とのことだった。

「歯医者は近所の方がええんや。何回も行かなアカンかも知れんし、通いやすいのが一番やろ」

最もらしい話だ。しかし実のところ夫は、私が電車に乗ってどこかに行くこと自体を恐れていた。まるで電車に乗ってしまったら最後、もう二度とここへ帰って来ないとでも思っているようだった。

夜、私の身体をまさぐるたびに、夫は「向こうに帰りたいと思わんの」と尋ねた。私が何もかもを捨てて嫁いで来たのが、今でも腑に落ちないらしかった。

「なんで、楽しいよ。毎日」

「前の職場から手紙が来てたやろ」

「ええ? シュレッダーしたのに、わざわざ繋いで読んだん?」

「帰るんか、向こうに」

「帰らん、あんたの傍におる。そのために来たんやもん、私、あんっ、ああ、あああ」

大仰に喘いでおけば、夫はそのうち没頭して疑念を忘れた。しかしまた暫くすると、私が出て行くのではないかと疑心暗鬼になった。

歯科は、漆喰の剥げた白壁に囲まれたみすぼらしい建物の中にあった。しかし、足を踏み入れると内装はリフォームされていて、こざっぱりとした病院だった。

受付を済ませ、薄緑色のソファでしばらく待っていると、治療室へ呼ばれた。医者は思いがけず若い女で、一通りレントゲンを撮ったあと、それらを示しながら「虫歯になっているわけではないですね」と説明した。

「噛み合わせが悪くて、こちらの奥歯に負荷が掛かってるみたいです。右がこれだけ沈んでるのに比べて、左は高い位置にあるでしょう。噛み続けていると歯の根本に負担が行くんです。それで炎症が。とりあえず、少し削って摩擦を小さくしてみましょう。あとは、ちょっと経過を見ると言うことで」

「はい」

「ついでに歯垢も取って、綺麗にしときますね」

顔の上に柔らかい布が掛けられる。それでも布越しに感じる光は強かった。医者の手が的確そうに動き、口の中に押し入ってくる。不意に今、急にこの手に舌を這わせたりかぶりついたりしたらどうなるのだろう、という興味が湧いてくるが、誤って歯がなくなったり口が裂けるのも嫌なので、実行に移すのは止めておく。

治療室の窓際の飾り棚には、赤い象のぬいぐるみが置かれていた。ころんと丸いフォルムで可愛らしいが、目が取れてしまったのか、本来ボタンか何かが縫いつけてあるべきところには何も無かった。象は真っ白な壁に付いたシミのように、そこに静かに立っている。なぜ歯科で象なのだろう。特に理由はないのかも知れなかったが、真っ白な治療室でその象は異様な、ほとんど不自然なほどの存在感があった。私は目のない象の背のゆるやかなカーブを何度かなぞった。

ぼんやりしているうちに治療が終わった。

受付で支払いをするとき、歯科衛生士の女に声を掛けられた。女は保険証と新しい診察券を私に渡しながら「あの」と言った。目を合わすと、女はびっくりしたような顔つきになる。自分の口から声が出ていたのに、そのときに気づいたらしい。女は見る見る間に狼狽し始めた。私は得心がいった。

女は知っている。狭い町だ、恐らく行きつけの歯科だったに違いなかった。

「後妻です」

ゆるく頭を下げると、女はアッと言った。しかし突然、自分を戒めることに成功したのか、すっと事務的な顔つきになると小袋を差し出した。

「鎮痛剤です。もし痛みが出たら」

建物の外に出ると、夕刻だった。西の雑木林の向こう側に、きらめきながら橙色の太陽が墜ちていく。商店街で手早く買い物を済ませて、菜園に水をやらなければならなかった。

お水、というさやの声が聞こえる気がした。

床下から音がする、と夫が言い始めた。何かが擦れるような音だという。

「なんか、さわさわ、みたいな静かな音」

「……何も聞こえへんやん」

「いつも聞こえるわけとちゃう」

曰く、それは主に私を抱いている最中に聞こえて来るらしい。耳朶の中を這い回るような気味悪い音で、事に集中できないのだと漏らす。錯覚ではないかと指摘すると、夫は首を振った。

「絶対違う。ほんまに気味悪い」

「ほんなら、もうエッチせえへん?」

夫は黙った。

私は夫と話すとき、言葉を選びながら喋る。彼が隠し持つあらゆるピンに指を這わせ、いつどれが抜けるのか推し量り、撫でたり引っ張ったりして試している。半年経っても、夫は片鱗を見せなかった。まだ私に怯えているのだ。しかし、じきに怯えは苛立ちへと変容し、私のことをまるで自身の尊厳を傷つけるもののように感じ始めるだろう。いっそ、そうなればいい。そうなれば話が早い。

あまりに夫が怖がるので、寝室を東の和室から北向きのそれに移した。家は夫の親戚筋が建てた築四十年ほどの古いものだが、土地の安さもあってか部屋の数が足りないと言うことはなかった。物置になっていたのを片づけて、布団が敷けるようにした。元々がらくたの多い家だった。私が拘りなく何でも捨てるので、北の和室はずいぶん綺麗になった。ついでに古臭い箪笥も処分し、板の間も整えた。最後に白くて丸みのある一輪挿しや藁編みの照明を飾ってみると、今風の和モダンな空間に仕上がった。

見違えた北の間は夫を喜ばせた。これなら、急な来客があっても自信を持って通せるという。

「リビングよりずっとええやん。この一見、和室に合わんっぽい花瓶がまた、都会的でお洒落やな」

言ってから、急に不安そうな顔になる。私が外からやって来た人間だというのを思いだしたのだ。その恐るべき小心には微笑みが漏れた。

新しい和室で、夫は私に身体を開かせた。夫のセックスは執拗だった。私はまさぐられている最中に、一日にあったことをすべて報告した。それは結婚当初からの是非そうしてくれという夫の懇願による習慣で、私は触られたり舐められたり突かれたりしながら、夫を送り出してからの細々とした出来事、吉崎さんを始めとする近所の人々、郵便局の受付や商店街の青物屋の店主と交わした些細な会話から、夕刻に見たドラマの再放送の内容やワイドショーのコメンテイターの顔ぶれまでを一頻り話した。こんな話をひたすら聞いても集中できるのに、些細な床鳴りが気になるというのは可笑しな話だった。

夫の安寧は一週間保った。しかし、やがて「向こうから音がする」と言い始めた。東向きの和室から聞こえる音が、やはり気になるという。私は小首を傾げ、そんな小さい音、ここまで届くやろか、と独りごちた。夫は一瞬鼻白んだが、怒りはしなかった。

その夜、私に覆い被さっている最中にふと身体を起こすと「ほら、また聞こえる」と言った。

「な、今やっぱり、東の和室から」

「よくわからん、聞こえてる?」

「あの音や」

夫は確信を持って立ち上がり、部屋を出ていった。私も身を起こして、後を追う。途中で台所に寄り、水道水をコップに汲んで飲んだ。コップを濯いでいると、向こうからギャッという夫の悲鳴が聞こえた。

「有里子、有里子!」

「はい」

「これは何や」

「なに」

「捨てた言うてたん違うんか!」

東の和室に足を向ける。生ぬるい床板が足裏に張り付いては剥がれていく。こんなにこの家の廊下は長かっただろうか、と思いつつ、ようよう辿り着いた和室はほんのり明るかった。電気は付いていない。それでも、夫が剥がした畳と荒板の向こう側、床下からぱあっと広がる柔らかい光のおかげで、互いの表情は確認し合うことが出来た。

「……とうばなや」

夫が、床下に敷き詰まっている白い花を見て言う。小振りで可憐な花に似合わないその通称は、何度聞いても心地よかった。

夜盗花とは月見草のことだ。この地方独特の別称で、恐らくは地元の人間しか知らない。少し離れた私の生地でもそうは呼んでいなかったから、ほんの小さな集落の風習なのだろう。

数ヶ月前、家の表に並べたプランターに月見草を植えたところ、吉崎さんが血相を変えて飛んできた。曰く、このあたりでは忌花だという。

夜盗花ていうねん。夜に盗るに花で夜盗花、恐ろしい字ィ書くやろ。この花は夜に開くんや、日暮れになると真っ白に咲いて、明け方には薄桃に花弁の色をすうっと変えよる。何かを招くと言われとって、当然ええものやない。家のもんをすっかり浚っていくような、悪いもんを呼ぶんや。まあ花が呼んだかて、家に入れへんかったらいいねんけどな。でも怖いからやめとき。うちが生まれるずうっと前からある風習やし、この辺の人はみんな知ってる。見てるぶんには綺麗やけど、近所の人も嫌がるやろから。もっと何かええもん植えよ、紫陽花とか向日葵とか、野菜とかは興味ないんか。茄子と獅子唐やったら株分けしたげるでな、ほんならお家計も助かるやろし。そうしとき、な、そうするんがええで。

調べても、この地域で月見草が忌みものである根拠は分からなかった。しかし、私はその話を気に入った。プランターの株をすべて引き抜いたあと、今度はこっそり東側の和室の床下に植えた。床下は高さこそないが、広さは十畳ほどもあって、なかなかよい庭に思えた。私は秘密裏に夜盗花を買い集めて、床下に敷き詰めていった。床下に降りるたび、そこに満ちた冷たさは私をぞっとさせた。ここに閉じ込められていたさやは、どれほど心細い思いをしただろう。絡みつく冷気を覆うように柔らかい土を入れ、綺麗な花で埋めていく作業は、単調だが私を慰めた。

床下の花畑は順調に成長した。一切日光が当たらないにも関わらず、夕刻一度の水やりだけで夜盗花は満足らしかった。いつ荒板を外しても彼らは華やかに微笑み、つややかな花弁を開かせ続けていた。

そんな折、床下から奇妙な音が漏れているのに気づいた。草が擦れるような音だが、果たして夜盗花の立てる音なのかは分からなかった。ある夕刻、音のする最中に床下を覗き込むと、さやが這い出てきた。

「有里ちゃん」

さやはかつてそうだったように、少しはにかんで私の名前を呼んだ。さやは今しがた海から上がってきたばかりのようにびしょ濡れだった。肩で切りそろえた黒髪が頬に張り付いている。真っ白な腕は更に血の気が引いて、小刻みに震えていた。

吐息が漏れた。さやは右のえくぼをへこませ、私に笑いかけた。

「有里ちゃん、さむい」

私はさやの手を取って、畳に引き上げた。

這入ってくる、と夫は言った。その顔面は蒼白だ。

「有里子、おまえ吉崎さんに聞いた言うてたやろが。ほんでちゃんと捨てたって、全部燃やしたって俺に話してたんちゃうんか!」

「さやは私より要領悪かった?」

夫は凍り付いた。

敷居を跨いで和室に入った。障子の傍にさやが立っていて、目が合うとニコッと微笑んだ。

「おまえ、さや知ってんのか」

「あんたより知ってる。幼なじみやから」

私もさやも●●出身なんやで、あんたいっこも気づかんかったけど。小学校も一緒やし、中学高校もずっと同じクラスやった。あの子、可愛いけどちょっと抜けてるからな、面倒見てるうちに仲良うなって、それでずっと一緒におったんや。一緒に東京の国立大学受けよ言うて勉強して、せやのにあの子だけ落ちた。あんなに二人でいっぱい作戦立てて、一緒にルームシェアする約束までしてたのにな。色々話し合ったけど、結局浪人もお金かかるしなってなって、私がひとりで東京の医大に行って、さやはこっちで建築勉強して、それでも連絡はずっと取ってたし年に三回は会うてた。大学出てからさやは中小企業に就職して、そこに営業で出入りしてたあんたと知り合うて、ちょっと付き合ってから結婚した。私、あんたらの結婚式にも出席したで。さやはあんたのことを、気は弱いけど優しくてええひとやねん、と言うてた。やけど、結婚して一年後にさやはあんたから殴られるようになって、その三ヶ月後には折檻として床下に閉じ込められるようになった。さやがあんたの気にそまへんことをすると、ここの床下に閉じ込めたんや。あんたはさやが自分の見てないところに行くのを嫌がって、誰とも連絡取られへんようにしてた。携帯電話も取り上げて、中身も全部確認した。それだけやない、あんたはいろんなルールをこしらえて、さやの一日のすべての行動を監視してた。

二年後にさやは死んだ。床下に閉じこめられているときに具合が悪なって、数時間経ってようやく気づいたあんたは救急車を呼んだけど、もう間に合わへんかった。あんたは上手いこと立ち回ったから、さやへの加害は公にはバレへんかった。近所の噂には当然なったやろけどな、さやがあんたに殴られてるのを、みんなは薄々気付いとった。

なんで東京におった私が事情を知ってるんか言うたら、さやから教えてもらったからや。さやは死ぬ少し前に、私宛に手紙を書いとった。年賀状用のハガキの裏面に、小さい文字でびっしりと書いてあった。あんたにされたこと、されてること。ハガキは余ったのを隠し持っといて、この床下に閉じこめられたときに少しずつ書いたんやて。私が最初にこの家に来たとき、まずこの部屋の床下を見た。ポールペンと懐中電灯が出てきたで、奥の方からな。助けて欲しいというさやからの信号やった。でもそうして送ってくれた手紙は、すぐに私の手元には届かんかった。巡り巡って手元に来たときには、もうさやは死んどった。急に連絡がつかんくなって二年以上経ってたのに、私は自分のことで毎日忙しくて、まあ結婚したら変わることもあるんかなと適当に考えて、そもそもさやがよう分からん奴と一緒になったんが寂しくて、ほんでさやのことを完全に忘れとった。

さやはあんたに殺されたんや。ほんで、私はさやを見棄てた。

婚活アプリであんたを探すのは簡単やった。付き合ってたときにさやから散々話聞いてたから、趣味も嗜好も何でも知ってた。大変やったんは仕事先の病院を辞めるときだけ。ほとんど無理矢理辞めてきたから、今でもたまに連絡が来る。

「全部知っとったんか」

「当たり前やろ、知ってるから結婚したんや。どんな奴か見たろうと思ってな。さやを殺したやつが一体どんな奴なんか。……ふふ、ほんま何でハガキなんや、古風すぎるやろ。普通に新幹線のチケット買って逃げてきたら良かったんや、電話番号は変わってないねんからどこかに飛び込んで電話してきたら良かった。でも、さやはもうようせんかったんやな、そういうふうに考えたりする力も、自分の足で出て行く脚力も、全部あんたに駄目にされた」

床下の夜盗花が、発光しながらさあっと揺れる。ささめくような音は床下に反響し、ほとんど笑い声に聞こえた。

「夜盗花の話を聞いたとき、素敵やと思った。何が来るんかは知らん。でも、うちに這入って来て、盗れるものは何でも盗って行けばいいと思った。何もかもを奪われるなんて、うちらにはお似合いや。この家におるのはあんたと私、さやを殺したあんたと、さやを見棄てた私。家の周りにおるのもさやに無関心やった人らや。せやから見てみたいねん、私が、あんたらが取り返しのつかへんようになるところ、そんなんがあるんやったら見てみたい」

夫が飛びかかってきた。髪を掴まれ引きずり回され、頬を叩かれ、引き倒されて腹や背中をめちゃくちゃに蹴られる。息が詰まって、みぞおちが熱くなる。身体がばらばらになったような奇妙な浮遊感に取り囲まれ、知らないうちに悲鳴が洩れていた。

ドンッ、という音が鳴って、夫が蹴るのを止める。

誰かが玄関扉を叩いたらしかった。

「なんや」

夫の声に被さって、またドンッと音が鳴る。今度は南の窓から。ドンッ、ドンッ、浴室、東の和室、再び玄関、北の和室。それらを合図に、ドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッ、とけたたましく家が鳴り始める。まるで家を囲む全ての扉や窓を、何かがノックしているようだった。

私がゆっくり身を起こすのを、夫はひきつった顔で眺める。夫は浅い息を繰り返し、悲鳴のように「あかん」と言った。素早く襖の前に移動し、玄関までの道を遮るように両腕を広げた。子供のように怯えている。

「有里子、あかん、絶対開けたらあかんで! 有里子!」

「もう開いてる」

低い笑いが洩れ、床下を指さす。

ぞっとするほど冷たい穴。

夜盗花が哄笑しながら揺れる。白い花弁を一斉に震わせると、ほうっと透き通るような桃色に移ろいながら、夜闇の終わりを招いてゆく。なにかが拉げる甘い匂い。さやが横まで這ってきて、伸び上がって私に接吻する。私はさやに口を開かせると舌を差し入れ、整った歯列や柔らかい舌先を愛撫する。さやのワンピースを剥がして小振りな乳房に指を這わす。さやの指も私の陰部に伸びてきて、開かれるたびに泡立つような快楽が腰に抜ける。さや、さや。囁くように息を吐けば、掬い取るようにまた口付けられる。

すぐそこで夫がわめいている。ただ、何を言っているのか分からない。向こうでガラス戸の割れる音がする。同時に軋む音、破れる音、崩れる音、あらゆるけたたましい物音が鳴り響き、家はみずみずしく裂かれていく。

さやの双眼を覗き込む。透き通るような藍色の瞳はこれ以上ないほど、やさしく揺れている。

さや、さや。さやの名前を呼ぶ。私とさやは深く愛し合う。

これがさやであるはずがなかった。

さやは死んだのだ。

でも、もうとまらなかった。

 

 

 

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かかり真魚

フード性悪説アンソロジー『燦々たる食卓』(2018年)を企画・編集。『燦々たる食卓』は食べるという行為に伴う負の側面や露悪的な演出等に注目したオルタナティブな文藝作品を集めたアンソロジーで、食と人間を描いた小説・漫画・俳句・評論等が収録されており、自身も民話「食わず女房」の語り直し「食はずの姉さん」を寄稿している。ドストエスフキーの小説をこよなく愛しており、複数の二次創作を執筆している。その他、ジャンル不定カルチャー誌『アレ』、『お前の地獄はおれの天国』、BL短歌同人誌『共有結晶』、『BL俳句誌 庫内灯』など、多数の同人誌に小説・短歌・俳句等を寄稿している。

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