スウィーティーパイ | VG+ (バゴプラ)

スウィーティーパイ

「スウィーティーパイ」

卵胞絵師のニァグは、ついに禁忌に手を染めた。

産褥の谷の群卵に色彩を奏でる伝統ある九十七画派がひとつ、グーロザッハ派の頭領として、やむにやまれぬ選択だったとはいえ、いささか短絡に過ぎたかもしれない。電磁波の受容スペクトルを拡張する古の秘術を施したのだ。

「恥を知れ、ニァグ」と長老ワズは鋭い大顎を軋らせた。

「描くことに喜びを感じなくなりました。色褪せた世界に光を取り戻すつもりでした」

三周軌前より、前肢の震えが止まらなくなり、集中力が長持ちしなくなった。配電翅はしおれて皺が寄り、顔料を調合するパレットの役割を果たさなくなった。これらの症状をニァグは才能の枯渇と考えたが、師匠のワズに言わせれば、取るに足りぬ気の弱りに過ぎない。しかし躓きを知らぬ弟子は、ときならぬスランプに焦燥した。

「そして邪法を試したあげくに、しくじったというのだな」

ワズが結節部のスリットをはためかせれば、

「はい」としおらしくニァグは触角を縮めてみせる。

谷底で層を成す無数の卵たちは、卵胞絵師たちの壁画を音楽のように浴びながら孵化する。光受容器官は未発達であるにしろ、卵殻を透過する光の波長によって中身のゼラチン質は振動し、ホルモンの代謝を促す。これが不十分だと、産まれてくる子らは、発育が不全であるだけでなく共食いをしてしまうから、卵胞絵師が壁面に描く絵は種族の未来にとって限りなく重要だとされた。

マイクロ波から軟X線までの帯域を知覚できるようになったニァグだったが、それは期待したような色とりどりの鮮烈な世界ではなかった。複眼と神経節に編み込んだオード帯が拾う刺激は、脳の中で処理されたあげく、むしろ平板な色相となって沈着した。いまやニァグにとって世界とは、錆青磁色から滅紫色への単調なグラデーションになり下がった。処置は失敗だった。いまさらオード帯を取り外したとしても濃淡の幅が切り詰められるばかりで、もとの鮮やかさは望めない。絵師としての生命は風前の灯だった。そればかりではなくニァグは胡乱な副作用にも悩まされている。

「破門にしてください。このところ、わたしはいつも誰かの視線を感じているのです。このままではいずれ狂ってしまうでしょう」

「我が門の長として、絵から逃げることは許さぬ」

「誰かがわたしを見ているのです」

「気の病だ。しばし休息するがいい。すぐに元通りになる」

とワズは慰めたが、のちに別の門下生の前では、あれはもうダメだな、とはっきりと頭を振ったという。ニァグは、光輝あるハガーロシュタルの往来のあちこちに自分を監視する視線を感じると訴えた。単為生殖者たちの浴場でも、汽水域の祖霊廟でも、プライバシーの厳守される脱殻の閨においてさえ視線は付きまとった。天の彼方より射抜くものがあるとすれば、それは魂の正気を奪う悪霊の眼差しに違いない。門徒らは、胸から生えた二対の鞘翅を合わせると祈るように銀朱色の空に掲げたが、同じ空もニァグにとってはくすんだ滅紫色にしか映らなかった。

保管所で古代の壺が割れた。

七千周軌以前、ニァグらの種族が、まだラブロゥズァドという粘菌と共生していた頃の遺物である。共生時代には、絵よりも立体造形が発達した。粘菌を疑似肢として操縦する技術があったからだが、共生関係の終焉とともに、それも途絶えた。遺物の破損は、係員の過失だったが、怪我の巧妙というべきか、驚くべき事実が判明した。素焼きだと思われていた壺の内側には未知の釉薬が塗られており、割れた破片から、偶然にも、その玄妙にして奇抜な色合いが知られることとなった。

口のすぼまった壺の内を見ることは容易ではない。それなのにどうして内壁に凝った装飾を施したのか。研究者の間でも意見が分かれた。知られざる黒釉の成分もまた小さからぬ論争を巻き起こしたものの、いずれにしろ壺は修復され、歴史保管所であらためて展示されることになる。壺の口には、改良した内視用カメラのついたワイヤーが垂らされ、気門のコネクターを継ぎ換えることで、壺中に視点を置換した観測者は、望みのままにめくるめく天地を覗き見ることができた。画業を離れ、捨て鉢になったニァグは、ものは試しにと壺の中へ飛び込んでみることにした。

広々とした宇宙が、そこにあった。

壺の中身は明らかに天体を模していたが、しかしそれはニァグの宇宙ではなかった。天球を埋め尽くす星座がまるでニァグの知るものとは違う。あるいは何億年も昔の宇宙の姿かもしれない。それとも未来か。いずれにせよ壺の中空にある観測点から見る新たな宇宙の異彩は鮮烈で眩かった。

なんという彩りだろうか、とニァグは感嘆した。

これはわたしが失ったもの、いや、いつか見たいと望んでいたものだ。

極小の観測点となったニァグは、宇宙の片隅、見慣れぬ星図の一点を引き裂くようにして拡大する。恒星系は輝石の並びに似て美しく、そのうちでも青い惑星にとりわけ興味を引かれたニァグは、ぐんぐんと意識を近づけていった。そこには、ニァグらの種族とかけ離れてはいたが、同じく芸術と繁殖との間に橋を差し掛けるようにして文明を築く、いじらしい種族の姿があった。異質な建築様式と言語もひとたび慣れてしまえば、物珍しく愉快なものである。壺の中に本物の宇宙があるとニァグは思っていない。おそらく、これは失われた技術による精密な受像装置であり、どこか別の星系を映し出しているのだろう。

ニァグは冴え冴えとした色と光の世界に圧倒されて、息を吹き返した気がしたものだ。彼らの姿は、ニァグの星ではとても珍しい胎生動物に似通っていた。繊維質の外装品は着脱式だったが、体温を調節したり衝撃を和らげたりする以上の文化的な価値があるようだ。ニァグは、彼らのうちのある個体に眼をつけて、その行動を追うことにした。彼は、たった二種類しかない性の一方に属しており、また長い年月をかけた成熟の盛りをとうに越えて久しかった。さらに言うならば、他の個体に比して極めて繊細で、関節も顎も衰え果てており、なにより独りぼっちだった。

ヘンリーと呼ばれるその個体もまた絵師だった。ただし、その作品は彼自身のために描かれたものであって、きっぱりと他者の鑑賞を拒んだ。作品だけでない。ヘンリー自身もまた外界の視線から身を隠すようにして生きていた。雑役夫として仕事をしながら、誰とも交わらず、たまさか口を利くとすれば、下宿の大家であるネイサンくらいのもの。テープで補修した視力矯正具を鼻と耳に引っかけて、誰にも見られることのない非現実の物語を絵と文字にしていく、その生き様は、憐れではあったが、ひたむきで強靭だった。花模様の表紙に金文字の題字。色と線との絢爛たるダンス。粗悪な紙の表面に炸裂する色彩に眩暈がした。この壺の中の宇宙は、まるで極彩色の火花のようだったが、そこにおいてヘンリーの作品はとりわけ稠密な爆発と言える。ふと気付けば、ニァグの消し炭になりかけた画業への情熱が再燃していた。

ありがとう、ヘンリー。わたしは滅紫色の淵から這い上がった。君の手を掴んで。

ニァグは、いつしかヘンリーの心と記憶とに触れていた。

未成熟な雌性体が、ヘンリーの主要なモチーフである。幾度となく養子を迎え入れることを願ったヘンリーだったが、それは叶わなかった。精神疾患のためか養育能力がないと見なされたのだ。無垢なものへの満たされぬ憧れは、少女の姿となって筆先に迸った。ニァグはヘンリーのために嗚咽する。

長い軍用コートを着てゴミ箱を漁るのは、創造の材料を得るためだったが、アートに無理解な近隣の住民は眉をひそめた。ヘンリーは俗物たちの眼など気にかけない。ただひとつもっと別の視線を感じることがあって、それは彼の居城である小さな貸間に戻っても振り切ることができなかった。

「ねえ、君は誰なんだい? ぼくに付きまとっても楽しいことはないだろうに。もしかしたら君はスウィーティーパイの住人かな?」

ヘンリーがニァグに気付いているはずはなかった。これは老いた個体の妄想だろう。ここにニァグの実体はない。スウィーティーパイとは、幼き日のヘンリーに衝撃を与えた竜巻のことだった。ヘンリーは巨大ツイスターの中に別の宇宙を幻視した。

その証拠に、スケッチブックにはニァグそっくりの生物たちが殴り描きされていた。ニァグがヘンリーを見るようにヘンリーもまたニァグを見ていたとするなら――

あの眼差しは君だったのか友よ。

「ツイスターの向こうへ、もっとずっと遠くへ、ぼくを連れていってくれないか。それともぼくの少女を。ここはひどい場所だ。まったくいやになる‥‥おお、神よ、また天気予報が外れてる!」

気象に敏感な老人の独り言は、独り言らしく、誰にも聞き咎められない。ブツブツと唸る老人に安逸を与えてやるため、ニァグは壺の中から出た。舞い戻った収蔵室の質感は、やはり錆青磁色に乾いている。あの視線はもう感じない。頭部のコネクターをもぎ取るように外し、背中を振り返ると、そこにはひとつの卵があった。壺の中を旅しながら、知らぬうちに産み落としたものだろう。交配を必要としない単為生殖が可能なのは、周囲に他性のいない環境、それも乾期に限られるものだったが、生の営みにはいつだって例外がある。

「ようこそ渦の中心へ。かわいい子よ。怖がらないで。ここはそんなに悪い場所じゃない。さて随分と休んだ。そろそろ仕事を再開しないと」

ニァグは、配電翅のパレットに腹膜の蛍光不凍液をひり出した。そこに赤朽葉の鱗粉を振りかけると、天空にしか現れない幻日暈がキラキラと舞った。この美しい絵具は渓谷の岩壁によく映えるはずだ。ニァグの奏でる色彩が、卵の中の我が子を連れ出すだろう。

スウィーティーパイ、この眩い嵐の中へ。そして、あらゆるものの外へ。

 

 

 

 

十三不塔

2020年『ヴィンダウス・エンジン』にてハヤカワSFコンテスト優秀賞を受賞。また過去に本名名義にて講談社群像新人賞を受賞。お芝居やラジオドラマなどの執筆もしております。専門学校講師。いて座。なで肩
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