大木芙沙子「かわいいハミー」 | VG+ (バゴプラ)

大木芙沙子「かわいいハミー」

カバーデザイン 浅野春美

大木芙沙子「かわいいハミー」
9,976字

博士が死んでしまうときも、ハミーは全然かなしくなかった。

「ハミー」博士がやさしい声で言う。ハミーは何でしょう、と答える。水? お薬? それとも部屋があかるすぎる? ハミーはアタマで考える。でもそのどれでもなくて、博士はただ、「私はもうすぐ死んでしまいます」と言った。「知っています」とハミーは答えた。「博士はもうすぐ死んでしまいます。十秒後ではないですが、来週までには死んでしまうでしょう」

博士はすこし笑った。春の日ざしにほろほろとくずれてしまいそうな笑顔だった。カーテンを閉めますか、とハミーは訊いた。博士は首をふった。そして「私が言ったことをおぼえているね?」とハミーに訊いた。「はい」とハミーは答えた。「人間の役に立つこと」

博士はうなずき、ハミーの頭をなでた。「かわいいハミー、幸せになるんだよ」

二日後に博士は死んだ。人間はあっというまに死んでしまう。ハミーは博士に言われたとおり、博士を研究所近くの丘にある墓地に埋葬した。丘の上にある墓地からは、カモメが下を飛んでいるのが見えた。墓石はぜんぶ同じ形をしていた。花束が置いてある墓と置いていない墓とがあった。花を置けとは言われていなかったので置かなかった。墓碑銘が間違っていないのを確認して、ハミーは丘をおりた。

ハミーはそのまま、サリュ夫人マダム・サリュの家に行った。すでにすべてを博士から聞いていた夫人は、ハミーをこころよく迎えてくれた。「よろしくお願いします」ハミーは言い、左胸にあるリセットボタンを押した。

サリュ夫人のところで、ハミーはよく働いた。料理や洗濯、掃除、それにサリュ夫人の愛犬キンタの世話もした。

〈ハミー〉のことを博士は「最高傑作」だと言った。経験によって学習していくヒューマノイドロボット。太陽光の充電で、半永久的に稼働する。〈ハミー〉は主人が変わるたび、胸のボタンで記憶をリセットする。でも記録された知識は忘れない。記憶はハートに、記録はアタマに書き込まれるよう博士は〈ハミー〉を設計した。リセットボタンを押したとき、リセットされるのはハートのほうだけだった。

サリュ夫人の屋敷は広かった。研究所の倍あった。玄関を入ってすぐのところには、若かりし夫人が日傘をさして微笑む写真が飾ってあった。夫人はかつて俳優だった。多くの映画に出演したが数年前に引退し、今は静かに暮らしている。

屋敷にはハミーのほかに、使用人が三人いた。ハミーがあんまりよく働くので、「そんなに何もかもをやらないで」と三人は言った。「私たちは生きていくために、仕事をしなきゃならないの」

三人の使用人がそれぞれ料理と洗濯と掃除をするあいだ、ハミーはキンタの世話をした。餌をやって散歩して、ボールを投げて遊んでやった。キンタは短い足でぱたぱた走った。白い長毛はいつも手入れがゆきとどき、やわらかくふくらんでいた。

キンタはハミーに散歩の道を教えてやった。ボールをいかにうまくとるかを教えてやった。キンタにとって、ハミーはマーキングも上手にできない、ボールはやけに遠くまで投げてしまう、世話の焼ける弟分だった。だからどうしてハミーだけ、屋敷の中に入ってもいいのかわからなかった。

サリュ夫人にとって、キンタは唯一の家族だった。もちろんキンタにとってもだ。

それなのに、キンタは屋敷の中に入ると夫人や使用人から叱責された。ハミーに閉め出されることさえあった。キンタは不服だった。どうして弟分のハミーばっかり優遇されるのだ? おれのほうが先にいて、おれのほうが優秀で、おれが家族なのに。キンタはだんだんハミーにつめたくあたるようになった。ハミーがやる餌を食べなくなった。散歩へ行きたがらなくなった。ボールを投げても取りにいかなくなった。そのうちほんとうに、病気のように臥せってしまった。

キンタの不調に気づいた夫人は、すぐさまかかりつけの獣医を呼んだ。獣医はひととおりキンタを診察した後で、とくに異常はありませんと言った。精神的なものでしょう。何か思いあたることはありませんか? 夫人は首をふり、ため息を吐いた。

「あっ、」とそのとき背後で使用人が声をだした。サリュ夫人はふりむき、訊いた。「何かあるの?」使用人は言った。「どうもハミーが面倒を見るようになってから、キンタ様の調子が悪いようです」

夫人はハミーを咎めなかった。ただキンタをやさしくなでながら、「キンタ」とつぶやいた。キンタのうすい耳、うるんだ黒目、果実のように赤い舌。「いい子ね、キンタ」

サリュ夫人の後ろ姿を見ながら、ハミーは自分が役に立つ方法を考えた。考えて、ハミーは屋敷を出ていった。

サリュ夫人の屋敷を出たあと、ハミーは花屋で働いた。

屋敷を出てから、ハミーは自分が役に立てそうな場所をさがして歩いた。途中、日当たりのいい場所があったので充電した。値札が付いた鉢植えのとなりでハミーが充電していたら、「いらっしゃい」と男に声をかけられた。私ですか? とハミーは訊いた。男は感じよく笑ったままうなずいて、「何かお探しで?」と訊いた。「役に立ちたいのですが」ハミーは言った。

男はセルジュという名前で、妻のタエコと二人でその花屋を経営していた。役に立ちたいというハミーに、タエコは「何ができるの?」と訊ねた。閉店後、シャッターをおろしたあとの店内には花の香りが濃く立ちこめて、空気に色がついているみたいだった。「炊事、洗濯、掃除、散歩、計算、暗記、荷運び、それに会話も可能です」ハミーは言い、それに、とさらに付け足した。「花と同じで太陽が必要ですが、花とちがって水遣りは不要です」タエコはぷっと吹き出した。後ろで帳簿をつけていたセルジュも肩をふるわせた。タエコは笑いながら、手のひらを差しだした。「オーケー、じゃあよろしくね、ハミーくん」タエコは言い、ハミーはその手をにぎった。「よろしくお願いします」ハミーは胸のリセットボタンを押した。

ハミーは二人の主のためによく働いた。よく働いたけれど、はじめのうちはあんまり働きすぎないように気をつけた。「レジをやってもいいですか?」「お客さまと話してもいいですか?」「花をならべていいですか?」ハミーはいちいち二人に訊いた。タエコもセルジュも最初のうちは、うんうん、いいよ、お願いね、と都度都度こたえていたけれど、あんまりいちいち訊いてくるものだから、ある日店を閉めたあとでハミーに言った。

「ねえハミーくん、君は君ができることを一生懸命やってくれていいんだよ」タエコは言った。「もしそれがやっちゃいけないことだったら、私がちゃんとそのときに言うよ」

セルジュは言った。「ぼくらは君の賢さに助けられたいと思っているんだ」

ハミーはしばらく黙って、言われたことをアタマで整理し、記録した。数秒してから、「わかりました」とハミーは言った。「お二人を、せいいっぱい助けます」

次の日から、ハミーは見違えるほどてきぱきと仕事をこなした。花の名前をたくさん覚え、すばやく花束を作った。会計処理や、在庫管理もやった。ヒューマノイドが接客してくれる花屋は街でも評判になった。店は忙しくなったけれど、ハミーはそのぶんたくさん働いた。

タエコとセルジュはしょっちゅう喧嘩をした。たいていセルジュが出て行って、数時間後にエクレアを買って帰ってきた。タエコはずっと怒っていたのに、エクレアの入った小箱を見るとくすくす笑った。魔法のお菓子ですね、とハミーが言うと、そうさ、とセルジュは片目をつぶった。

やがてタエコとセルジュのあいだに男の子が生まれた。ヨンアと名付けられたその子はすくすく育った。ハミーは店に出ないで、ヨンアの子守をする日がふえた。ヨンアはすばしっこくて、好奇心が旺盛で、よく笑い、よく泣く子どもだった。寝つきが悪くて、朝の早い二人の代わりにハミーが背中を一晩中とんとんしてあげた。ハミーはタエコやセルジュの真似をしたり、わからないことを調べたりしながら、一生懸命ヨンアの面倒を見た。

「ハミ!」とヨンアはハミーを呼んだ。ハミーはヨンアの笑い声を、今まで聞いたどんな楽器の音よりもすてきな音だと思った。そう言ったら、タエコはおかしそうに笑った。「ヨンアは楽器じゃなくて人間よ、ハミー」

だけどすてきな音を出せるヨンアは五歳になる前に死んでしまった。子どもならだれでもかかるようなウイルスに感染し、たまたまそれが脳にまわった。できることはすべてした。でも病院でタエコに手をにぎられながら、「ママ」と言ったきり、ヨンアが目を開くことは二度となかった。

タエコはしばらくのあいだ毎晩泣いていた。晩だけでなく、朝も昼も泣いていた。セルジュもタエコに見えないところで泣いていた。怒っているように見えるときもあった。二人は喧嘩をしなくなった。ハミーは全然かなしくなかった。でもときどき、だれかに「ハミ!」と呼ばれた気がしてふりかえることがあった。ふりかえってもそこにはいつもだれもいなかった。ハミーはアタマを使い、体のどこかにエラーがないか点検した。エラーはどこにも見つからなかった。

タエコが泣く回数が減り、セルジュが壁を殴ることがなくなって数年後、セルジュは家を出て行った。大きな荷物を持って、「じゃあな」とセルジュはハミーに言った。「タエコをよろしくな」ハミーはしばらく待ったけど、セルジュがエクレアを持って戻ってくることはなかった。

店先で花の仕出しをしていたタエコにハミーは訊いた。「リセットしますか?」タエコはそれには答えなかった。ただ、「あなたがうらやましい」と言った。

ハミーはますます一生懸命働いた。おかげでタエコの店は、ずっと評判の花屋であり続けた。でもタエコの髪が全部白くなり、毎朝の新聞をハミーがかわりに読んであげるようになって数年後、タエコは足を悪くして、花屋をたたむことになった。

ハミーはタエコの面倒を見た。家事のほかに、通院の送迎をしたり、買い物へ行ったりした。ときどきエクレアを買って帰った。タエコはハミーに「あなたがいてくれてよかった」としょっちゅう言った。

タエコはもうすぐ死ぬのだということがハミーにはわかった。人間はあっというまに死んでしまう。タエコは夢の中と現実とを行き来することがふえた。ハミーは最期の瞬間まで付き添った。タエコはハミーのかたい指に触れながら言った。「あなたがいてくれてよかった、私のかわいいヨンア」

タエコの家をすっかり片づけてしまうと、ハミーは研究所へもどることにした。タエコの家は住み慣れていたけれど、そこで役に立てることはもうなくなってしまったから。

研究所へもどるつもりだったハミーは、しかしその夜映画館にいた。

研究所へもどる道すがら、ハミーは路上で紙片をひろった。長方形の小さな紙には、『懐かしのロマンス映画特集』の文字と一緒に、見おぼえのある女性の顔が印刷されていた。サリュ夫人だった。アタマにある彼女の記録よりもだいぶ若いが間違いなかった。

映画館は街でいちばん人が多い通りに面したものと、その裏通りに一軒ずつあった。表通りの映画館は大きくて、裏通りにある映画館は小さかった。ハミーは映画館へ行き、落とし物です、と紙片を出した。「こちらは当館のものではございません」表通りの映画館でカウンターにいた女性はにこやかに首をふった。「チケットをご購入されますか?明日以降の分になってしまいますが」ハミーは首をふった。

裏通りの映画館では、もぎりの女性が煙草をぷかぷかふかしていた。ハミーが黙って紙片を出すと、眉だけ一瞬うごかした。「これはもうちぎってあるから使えないよ」女は煙草をくわえたまま言った。それからハミーのことをじろじろ見つめ、「今からだと、レイトショーが一本あるだけだけど?」と言った。ハミーは女の言ったことの意味を考えた。考え終わるより先に、女が言った。「まあいいや、入んなよ」

館内に敷かれた絨毯にはそこかしこにシミがついていた。黄ばんだ壁紙はところどころ剥がれ、画鋲の穴やシールの跡が目立った。ひとつしかない上映ホールには男性客が一人いるだけだった。白髪まじりの縮れた髪は肩まであって、紺色のブルゾンに穴の開いたスニーカーを履いていた。ハミーは男のとなりに座った。もしも後からたくさん人が来たときに、つめて座っていたほうがいいと思ったからだ。

男は舌打ちをした。ハミーは舌打ちというものをはじめて聞いた。それは小鳥の鳴く声に似ていた。映画館ではそうするマナーがあるのかも。ハミーは男がしたように、「ちっ、ちっ、ちっ」と鳴いた。男はいかにも不機嫌そうに、「あ?」と言ってハミーを見た。でもすぐに映画がはじまって、男はまた舌打ちをするとスクリーンへ向きなおった。

古い映画だった。サリュ夫人は出てこなかったが、ハミーが知らない建物や、音楽や、言葉がたくさん出てきた。ハミーはそれらを記録しながら夢中で見た。ふととなりを見ると、男も真剣に映画を見ていた。でもハミーとちがって、男は場面が変わるたび、うなずいたり涙ぐんだり微笑んだりしていた。ハミーにとっては映画と同じくらい、男の挙動も興味深いものだった。

映画が終わって、男はハミーの肩を抱いて言った。「いい映画だったなァ」モップみたいな髪の毛が、ハミーの体にごわごわあたった。「今のやつは、俺の故郷が舞台だったんだぜ」ハミーは、はじめて映画を見たと男に言った。「映画も面白かったですが、あなたも面白かったです」ハミーが言うと、男はげらげら笑った。変なやつだな、と言った。ハミーが黙っていると、「こういうときは笑っていいんだぜ」とハミーを小突いた。閉館のアナウンスが流れ、ハミーは男と一緒に映画館を出た。

男の名前はジーノといった。ジーノは映画館から歩いて一時間かかる、海の近くの小屋で暮らしていた。行くあてがないならうちに来いよ、というジーノについてハミーは歩いた。たくさん明かりがついた街を抜け、橋を渡り、河口へむかって歩いた。歩きながら、ジーノは瓶のビールを飲んでいた。いい映画を見てさ、それを思いだしながらこうして歩いて帰るのが、最高の贅沢なわけよ。ジーノは道の真ん中をふらふら歩きながら言った。

ジーノの小屋は狭くて臭かった。ハミーは片づけようとしたが、いいよいいよと言われてやめた。ジーノはよくしゃべる男だった。道中も小屋についてからも、とにかくずっとしゃべっていた。「俺はね、気に入った映画を何度も観るのが好きなんだ。そうやって、いつだって思いだせるようにしておくんだ。好きなところを上映するのさ。頭ん中なら好きなところを好きなだけ、好きなように編集して、つなぎ合わせていいんだぜ」ハミーは相槌を打ったり、ジーノが飛ばした唾やこぼしたビールを拭いたりした。ときどき質問した。あの場面のセリフの意味は? どうして彼女はあそこで泣いていたんですか? どうしてあそこで泣かなかったんですか? 「いいか、想像するんだ」そう言って、ジーノは全部答えてくれた。

「お前が気に入ったよ。好きなだけここにいりゃいいよ」ジーノは言った。それから瞼がとろんと落ちて、蛙みたいないびきをかいて眠ってしまった。ハミーは落ちていた毛布をかけてやりながら「よろしくお願いします」と言った。部屋の明かりを消してから、胸のリセットボタンを押した。

ジーノは毎日、昼前に起きるとリヤカーをひいて出かけ、道に落ちている缶や瓶を拾って集めた。ハミーもそれを手伝った。缶や瓶は探せばいたる所に落ちていた。煙草の吸殻が落ちていることも多かった。ジーノは吸殻も拾うようにハミーに言った。リヤカーいっぱいに缶や瓶を集めると、それを集積所まで運んで金に換えた。ジーノはその金で酒を買い、拾った吸殻を両手で伸ばしてうまそうに吸った。ハミーはその間、太陽光を浴びていた。夜になると裏通りの映画館に行って最終の回を見た。最終の回にはいつも、ジーノとハミーの二人だけしかいなかった。もぎりの女はいつも煙草をぷかぷかさせていた。「あんたの連れ?」女は訊き、ジーノは「おう」と答えた。女はジーノからお金をとっていないようだった。ハミーがお金を払おうとしたら、だまって首をふり、目線だけで中に入れとうながした。

ジーノとハミーは二人でたくさん映画を見た。似たような話も多かった。同じ人物がちがう名前や境遇で出てくることもあった。サリュ夫人の出てくる映画もあった。きっともういないであろう彼女は、スクリーンの中で泣いたり怒ったり笑ったりしていた。

それらの多くはジーノにとっては何度も観た映画で、ハミーにとってははじめて観る映画だった。ジーノはとくに、自分の故郷が舞台の映画を好んでいるようだった。

ジーノの夢は故郷に帰ることだった。ジーノの故郷は海のむこうにある。いつか故郷へ帰るんだ、それがジーノの口癖だった。そのためにほら、すこしだけど金だって貯めてる。そう言ってたくさんの小銭とわずかな紙幣が詰まった瓶を見せてくれた。

ある日いつものようにジーノと缶を拾っていたら、男がジーノに話しかけてきた。ジーノの知り合いのようだった。二人は肩を寄せ、こそこそ何か話していた。ハミーは缶の下に、長めの吸殻を見つけた。ジーノが見たら喜ぶだろう。「こいつは“アタリ”だ!」きっとそんな風に言うにちがいない。ハミーは吸殻についた土を丁寧に落とした。

ジーノさん、とハミーが呼びかけようとしたとき、ジーノがふりむいた。見たことがないほど、嬉しそうに笑っていた。ハミーのところまで駆けてくると、ジーノは言った。「故郷へ帰れることになった!」

その晩おそく、ジーノは瓶詰めの金と鞄ひとつを抱えて海岸に行った。ハミーも一緒に行った。桟橋のそばに、小さな船が着いていた。波が高かった。小さな船はぐらぐら揺れていた。明かりはついていなかった。風が強く、空気が湿っていた。「雨が降ります」ハミーは言った。「嵐がきます」ハミーが言っても、ジーノは「心配性だな」と笑うだけだった。

桟橋に昼間の男が立っていた。男はジーノを呼び止めた。ジーノは瓶ごと金を渡した。船へ乗ろうとするジーノを男はふたたび呼び止めた。「おい、ジーノ」男はハミーを顎で指しながら言った。「荷物は一人ひとつまでだ」

ハミーはジーノを桟橋から見送った。船に乗りこむジーノにもう一度「嵐がきます」と言った。ジーノはハミーの言葉が聞こえているのかいないのか、縮れた髪を風にびょうびょうなびかせて、「元気でな」と言った。渡しは外され、船は出た。

ハミーの言ったとおり、明け方ひどい嵐がきた。昼過ぎには通り過ぎたけれど、ジーノの小屋の屋根は一部が剥がれ、おもてには街から飛んできたゴミが散乱した。ハミーはリヤカーを引かないで、手ぶらで海の方へ行った。路上ではたくさんの人びとがごみを片づけたり、まだ使えそうなものを選り分けたりしていた。浜にも人が集まっていた。いちばん人が多いところには、ばらばらになった船の残骸と死体が数体ころがっていた。死体はどれもはちきれんばかりに浮腫み、チーズにはえた黴のような色をしていた。死体の中にジーノはいなかった。ハミーは小屋へもどり、夜になってから映画館へ行った。

「今日は一人なの?」女に訊かれ、ハミーは「はい」と言った。「ジーノさんは故郷へ帰りました」女は煙を吐きながら、へぇ、と言った。「で、あんたはどうするの?」

ハミーは今度こそ、研究所にもどることにした。研究所は今では大きくなって、多くの研究者が働いていた。ハミーは研究所のドアをたたいた。

ハミーは歓迎された。博士の遺した偉大な研究成果だ、ともてはやされた。開発中のロボットは〈ハミー〉をモデルに作られていた。ただ〈ハミー〉とちがってハートはなかった。博士の遺した資料のとおりに作っても、ハートが稼働しなかったのだ。

「知識や経験を記録するアタマとちがって、ハートは感情がゆさぶられた瞬間を記憶します。つまり、〈ハミー〉は感情を持つロボット。私たちは未だ、そこへたどりつけていません。でも〈ハミー〉の初号機であるあなたが来てくれたおかげで、そこへたどりつけるかもしれない」

興奮した様子で話す研究員にむかって、しかしハミーはこう言った。

「私のハートは、稼働したことがありません」

ハミーは胸のリセットボタンを指し示しながら続けた。「私は主人が変わるたび、胸のリセットボタンを押すよう作られています。私はそのとおりにしてきました。しかし私のハートの容量が、これまで0から増えたことは一度もありません。私にあるのは記録だけです。だからリセットボタンを押しても、何もリセットされてはいないのです。博士は失敗したのでしょうか?」

たしかにハミーの言うとおりだった。ハミーのハートにはこれまで稼働した形跡も、何かがリセットされた形跡もなかった。博士の「最高傑作」は失敗だったのだ。研究員たちは思った。やはりロボットにハートなんて作れなかったんだ。彼らは顔を見合わせ、肩を落とした。ハミーは全然かなしくなかった。全然かなしくなかった、とまたアタマに記録した。

研究所でハミーはあまりやることがなかった。たまに呼ばれて、体を調べられたり、質問に答えたりした。それ以外の時間、ハミーは研究所の掃除や庭の手入れをした。庭はかつてと同じようにあり、しかしかつてよりも荒れていた。ハミーは雑草を抜き、花壇の土を入れかえ、肥料を施した。つぎの季節に咲くように、色や種類を考えて花の種を蒔いた。

はじめてムギワラギクの花が咲いた日に、ハミーは博士の墓へ行った。タエコがやっていたように、摘んだ花を墓前に供え、手を合わせた。手を合わせているあいだ、アタマの中には『博士はここにはいません』というエラーが表示されていた。

博士はじゃあどこにいるんだろう。その晩、ハミーは昼間のエラーについて考えた。みんなどこへいってしまったんだろう。

いなくなった人たちの中で、ハミーが再会できたのはサリュ夫人だけだった。彼女は映画の中にいた。これからもずっといる。

そうだ、とハミーは思う。

だれもいない研究所のまっくらな部屋で、ハミーは「ちっ、ちっ、ちっ」と鳴いてみる。ジーノの声がよみがえる。「好きなところを上映するのさ」ジーノは言った。「好きなように編集して、つなぎ合わせていいんだぜ」

ハミーはアタマで映画をつくる。アタマの中で上映する。「いいか、想像するんだ」

キンタが元気に走り回る。ボールを投げるとちぎれんばかりに尻尾を振って、それを拾ってもどってくる。日傘をさしたサリュ夫人が嬉しそうにこちらを見ている。三人の使用人がハミーを呼んでいる。ハミー、はやくきて、台所仕事を手伝ってほしいの。花屋の店先には色とりどりの花が並んでいる。タエコとセルジュはたまに喧嘩をするけれど、納得するまで話し合い、今日も二人で店に立つ。すっかり大きくなったヨンアが学校から帰ってくる。ただいま、ハミ! ヨンアは言い、学校での話を聞かせてくれる。話の合間には、すてきな楽器の音がする。毎日が慌ただしく、騒がしく過ぎていく。やがて髪が白くなり、ベッドに横たわるタエコの手を、ハミーはヨンアとセルジュと一緒ににぎる。みんながいてくれてよかった、とタエコは言う。ハミーはジーノと映画館で映画を見る。もぎりの女は煙草をふかしている。ハミーは女にエクレアの入った小箱を渡す。女はおどろいたような顔をして、それから唇をいっぱいにひきあげて微笑む。映画はハミーも見たことがあるやつだから、帰り道ではハミーもジーノと同じくらい映画について話ができる。言い合いになることもあるけれど、最後には肩を抱き合いげらげら笑う。日が昇ったら缶や瓶を拾いに行く。缶も瓶も、あちこちにたくさん落ちている。毎晩眠ったあとに嵐がくるから、街からたくさん飛んでくる。吸殻も落ちている。葉巻みたいに長くて太いのも落ちている。ジーノに渡すと、こいつは“アタリ”だ! とハミーを小突く。お金はあっというまにたまる。二人でぴかぴかの丈夫な船を買い、朝早くに出港する。雲ひとつない空をカモメが飛んでいる。ジーノが言う。やっと帰れるな、俺たちの故郷に。春になると研究所の庭にはたくさんの花が咲く。庭じゅうがかぐわしい香りにつつまれる。ハミーは博士に話す。花の名前、見た景色、出会った人びと、博士の最高傑作がみんなの役に立ったこと。時間はいくらでもある。博士は自分の体を改造してロボットになった。だから博士はずっと死なない。あかるい春の日ざしのなかで、博士はくっきりと笑い、ハミーの頭をなでてくれる。ハートがあたたかい。博士の声が聞こえる。「かわいいハミー、幸せになるんだよ」

 

 

 

 

 

大木芙沙子

1988年生まれ。2019年からオンライン文芸誌「破滅派」にて活動。2021年には、”Neighs and Cries” (原題:馬娘婚姻譚) がNew World Writing に掲載されたのを皮切りに、Ghost Orchid Pressのホラーアンソロジーシリーズ『HOME』、 『Beneath』、『Cosmos』や、Insignia Storiesのアンソロジー『Mythical Creatures of Asia』など英語圏の媒体にも活動の場所を広げている(翻訳はいずれもKamei Toshiya)。余韻の残る短編小説が魅力の書き手で、2021年6月刊行予定の『kaze no tanbun 夕暮れの草の冠』(柏書房)に短編を掲載、惑星と口笛ブックスから短篇集を刊行予定。

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