阿部屠龍「父のある静物」 | VG+ (バゴプラ)

阿部屠龍「父のある静物」

カバーデザイン 梅野克晃

先行公開日:2022.10.8 一般公開日:2022.10.28

阿部屠龍「父のある静物」
4,480字

手の中の果実がつややかさを増すにつれ、汚れた布はさらに汚れていく。

何かを磨き清めるというのは汚れを別の場所に移すことであって、汚れの総和は変化しない。農業も同じだ。できるのは、一時的にバランスを偏らせるくらいのもんなんだ。土の中の栄養を一箇所に寄せてきた偏りがこのジャガイモで、デントコーンで、牛たちやおまえやおれなんだ。それだっていつかはこんなふうに土に還る。日曜農学者の父にかかれば牛舎の掃除ですら生命や生態系の本質へとつながった。聞いたのはこの部屋だった。書斎を持つのが少年時代からの念願だったと語った父の頬には、土が一条こびりついていた。

けれどあれから四十年経って脳裏によみがえるのは、農機会社のロゴ入りのツナギ姿で牛糞を掻き捨てる汗染みた背中の厚みのほうだ。机上の饒舌ではなく力仕事の寡黙だ。

大型送風機が攪拌を続ける稲藁と屎尿の臭いにわずかに甘みが混じるのは、一日三回の搾乳の時間だから。朝だろうか、夕だろうか。きっと昼ではない。射し込む光が美しいのはどこかに暗がりがあるからだ。父は一頭一頭に声をかけながら、前搾りからプレディッピング、乳頭を清拭してミルカーユニットの装着までをこなしていく。それを全頭ぶん。わたしはたぶん、渡された竹箒を放り出して牛舎をぶらぶら歩きながら、気まぐれに母牛たちの鼻先に餌を寄せてみたり、居着いている猫の親子をくすぐったりしている。発動機と真空ポンプの駆動音に重なって、スピーカーからは音質の悪いクラシックが流れ、きっと曲名も知らない父が母牛たちにかける声は、記憶の中でいつからかティッシュ配りのものに似通っていく。

クラシック音楽も声かけも、書斎に並べた本のどれかに、乳量や乳質のためにとあったのだと思う。まるで胎教めいているのに彼女たちの胎は空っぽで、雌は後継として育成牛舎に離され、雄は肉にするため安値で売られ、どちらにしろ産仔と再会することはない。もういない仔のために母が流す白い血が、パイプラインを通ってバルククーラーへと流れ込む。

わたしは果実を磨く。大学以来に描いたせいでデッサンは少し狂っているが、誰の目にもリンゴだとわかる。

父がわたしに自分と異なる道を選ばせようとしたのは、きっとそれも偏りだった。たとえば人生、父の跡を継いだ生業、広いだけの貧相な農地と傾いた牛舎。それらを汚れと思い、最も遠い場所として美術館を思いつくような父の脆さとひび割れを、書棚の背表紙はいまも途切れがちに語っている。わたしたちは未来を買いたくて本を手にとる。父は自分を汚れた布だと思い、娘は自分こそそうだと思い、結果として、わたしはどちらでもないままでいる。ここは父の取り戻したかった未来でも、わたしの目指した過去でもない。ロッキングチェアに揺られ、父の書斎に立てたイーゼルの前でリンゴを手にしているわたしは。

サイドテーブルに置かれた安物のプラコップの底でうっすらと、昨夜のビールの名残が光っていた。その朝の最初の記憶だ。わたしはコップを引っ掴み、女の腕を外してベッドを出る。大学サークルの飲み会。三次会から先は覚えていないが、あの様子ならすることはしたんだろう。名前もわからなかった。後悔と二日酔いがせり上がる。水を求めてキッチンに向かうつもりだったのに、初めての間取りに迷って別の扉を開けてしまう。

女がアトリエに使っているらしい部屋には、絵具と画集、それにキャンバスが、完成品も描きかけもいっしょくたにして転がっている。そのうち一枚にわたしの目は止まる。皮をむかれたレモンがある静物画。べつに上手いわけでもない模写だったけれど、アルデヒドの毒がわたしの脳をどうかさせて、その黄色い果実をとびきりにみずみずしく見せている。

わたしはレモンに手をのばし、それを取り出した。

はじめての造果を口にしたわたしは、昨夜の唐揚げとシーザーサラダと大袋のポテチと、ビールレモンサワー赤ワイン胃液、さまざまのカクテルをアトリエの床にぶちまけた。取り出したての造果は画材がこびりついたままで、レモン果汁は酸化した油と金属の味がした。

既存の芸術作品で描かれた自然物の精巧な立体化。初期に取り出したまるごとのブドウの木なんかが良かったか、好意的な評価を受けたわたしの作品群は、そういうキャッチコピーで売り出された。そこに農家出身の現役女子大生のラベル、あとは美人がついたりつかなかったりで、最初期の父子家庭の苦学生というのはすぐにイメージ戦略的によろしくないとなった。農家の二文字もいつか消えた。ごくたまに性的指向にふれるメディアもあったが、とりあう価値のある記事は稀だった。

芸術作品に描かれたあるべき自然の姿をよみがえらせる。メディアの中で、わたしの作品はそうしたボタニカルだとかオーガニックだとかのシンボルに位置づけられ、喧伝され、そして馬鹿げたほど高い評価を得た。製作現場への立ち入りや展示後に作品を手放すことを固く拒んだのも、神秘性や希少性を高めたのかもしれない。それでもファンの所有欲には応えなくてはならず、複製作品に販売許可を出すことになった。わたしの「芸術活動」の実態はある作品の複製画からオレンジやブドウやイチジクを取り出すことなのだから、その複製品のほうこそ、世間がわたしのやっていると考えているものに近かった。

取り出しにはいくつか制約があり、そのひとつは、取り出されるものが絵画のサイズに依存することだ。風景画からミニサイズの樹木を取り出すくらいなら、いわば盆栽なんだとかでごまかせたが、遠景の果樹から取り出した極小サイズの造果オレンジだとそうはいかない。サイズにかかわらず、生き物は恐ろしくて試す気にならず、必然、はじめてがそうであったように静物画が最良の元画になった。

毎日、画集をめくって取り出すべき果実を探した。どの造果をどう配置すれば、人々が求めている品にできるかを思案した。構図。色彩設計。コンテクスト。それは創作によく似ていて、けれど決定的に異なる行為だと、気づいていたのはわたしだけだった。

わたしは果樹園に踏み入った泥棒だった。額縁ごしに手を伸ばし、丹精込めて育てられた成果を掠めとると、それらを軽トラックに山積みにして一袋いくらで売りさばく。わたしが目指していたのは、そんな荒れ野ではないはずだった。

夏休み前の最終登校日、自転車のカゴに丸めて突っ込んで帰った水彩画を父が褒めてくれた。画用紙の丸まり癖を伸ばすと、誰々の作品に似ていると言って真新しい画集を開き、たどたどしい解説付きでいっしょに眺めた。のちに父の解説は間違いだらけだったと知ったし、元よりお世辞にも似ているといえる出来ではなかったが、そのことは問題ではなかった。

父はわたしに絵が好きなんだなと言った。わたしもその時、そう思った。

わたしにとっての偏りは、たぶんその瞬間にはじまった。

ずっとわたしはそこに戻りたくて、戻れないから進むしかなかった。でも、はじめから地図を読み間違えていたのだとしたら、楽園の果実のために殺し続けた良心の報いを、いったいどこに求めればいい? 立ち尽くした荒れ野に答えはなく、その間にも通帳の数字だけが膨らみ続けていた。わたしは預金の大半を父に送った。

「たまのヘルパーだけじゃなくてさ。搾乳ロボットはどう。牛舎も建て替えてフリーストールにして。畑だって、思い切って全部オートメーションにしてみたっていいよ」はじめは遠慮していたけれど、「本当にやりたいことをやったらいいよ。わたしみたいに」

そう言うと、父はモニターごしに恥ずかしそうに笑った。

わたしは笑っていただろうか。

それから三年後の朝、前日から分娩房に入っていた雌牛の難産を探知した牛群管理システムが、契約獣医にアラートを送信した。分娩介助に駆けつけた獣医がベランダで倒れた姿を発見し、父はすぐさま救急搬送された。診断は末期の二型糖尿病に起因する心筋梗塞。父は一命を取り留めたが、仔牛は流れたと獣医は言った。

電話を受けた時、わたしはホテルのシャワーで昨夜の名残を流していた。

最近はなにを描いているんだ。

病床の父がたずねるたび、わたしは同じ言葉で返した。描くんじゃなく、取り出すんだと。父はわたしの訂正にもうんうんと頷いて、娘が立派な絵描きになったことについて感想を述べる。世間的なわたしの肩書きは画家ではなく造形作家だけれど、管弦楽曲をすべてクラシックと呼ぶ父にとり、それは些細な違いにすぎなかった。だから最後には根負けし、わたしは立派な絵描きになった娘になった。ずっと同じ、ブドウとかリンゴとか、そういうのだよ。喜んでくれるかと父は問い、みんなまるで本物みたいだと言ってくれると返す。食べられそうなくらいだって。いつもならそこで終わる会話の末尾に、網膜症の目をこちらに向けた父は、確かになんだか甘い匂いがするな、と付け加えて、そこで会話は今度こそ最後になる。

働き詰めの毎日からオートメーション化によって解放された農家が身を持ち崩す例はいくつも聞いていた。だからといってそれが、自分の父にも起こると信じられるわけではない。でも、信じなかったわけでもない。わたしはコインを投げた。投げられていないコインの表裏を当てることは誰にもできない。けれど、わたしはコインを投げた。

選ばせたのはわたしだった。

看護師は切迫した表情でこちらに話しかけている。わたしは病室の壁にかかった絵画の紅い果実を見つめながら、コインは表と裏、どちらだったのかを考えている。もしくは、あの朝に流れた仔牛が雌雄どちらだったのかを。

わたしは磨き終えたリンゴを鼻先に近づける。部屋にただようテレピン油の匂いに混じって、かすかに甘いエステルの芳香を感じる。もう若くはない顎と歯には厳しい固さに、歯形をつけるだけで諦めた。それでも舌の上には酸味が残った。

座面から立ち上がると、窓を開く。乾いた土の匂いが部屋に吹き込んだ。風に青々と波うっているのは春に植え付けた馬鈴薯の畑で、わたしはついに一度も取り出すことのなかった塊茎のことを思う。あるいは母牛たちのことを。父のことを。

農場が父の代と同じ評価を取り戻すのはたやすいことではなかった。オートファームといえど、コンテナやタンクいっぱいの馬鈴薯や牛乳は、スイッチひとつで完成するものではない。試されているのは道具ではなくそれを使う人間なのだと、父の畑と牛たちは語らぬままわたしに教えた。それでも今年は先代を超えられる手応えを掴んだ。

ずっと聞きそびれていたことがあった。

あなたにとってわたしは、偏りは、汚れのことなのか、磨き清められたその場所のほうか。

尋ねるのではなくコインを投げて、わたしはいまも父の答えを知らずにいる。けれどそれでよかったのだ。本当はどちらでも。結果が裏でも表だったとしても、答えなど、偏りなど、本当はずっとどうでもよかった。

わたしは尋ねたかったのではなく、伝えたかったのだ。

紅い果実は手の中でずっしりと重い。

キャンバスには空になった果物皿が描かれている。

 

 

 

阿部屠龍「父のある静物」はKaguya Planetで開催された「果樹園の出てくるSF短編小説の公募」で採用された作品です。Kaguya Planetでは、同じ公募で採用された坂崎かおる「アネクドート」を先行公開しています。

 

阿部屠龍

北海道出身。ドラゴンと百合とSF・ファンタジーが好き。普段はカクヨムに小説を投稿している。ファンタジー小説『竜の骸布』(2017年)、百合小説短編集『百合以外全部嘘』(2018年)、短歌集『喪失と妄執』(2019年)と、三冊の作品集を発行している。アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』(訳大久保ゆう/フィルムアート社)の課題に取り組み、大戸又(サ!脳連接派)主催の合評会で腕を磨いている。2021年には第12回創元SF短編賞の一次選考を通過し、第14回GA文庫大賞(前期)では最終候補に選出。2022年9月に刊行された文芸サークル《汽水域観測船》による『時間百合SFアンソロジー』に「n回目のエピローグ」を寄稿している。

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