『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』公開
2019年に公開され、R指定映画としては当時初の10億ドル超の興行収入を記録した映画『ジョーカー』から5年。トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス主演の続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が2024年10月11日(金) より日本の劇場で公開された。
1週間早く公開された北米ではその内容について様々な議論が飛び交っている。今回は、満を持して公開された『ジョーカー2』/『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のラストについて、ネタバレありで解説&考察していこう。以下の内容は本編の結末に関する重大なネタバレを含むので、必ず劇場で本作を鑑賞してから読んでいただきたい。なお、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は日本ではPG12指定作品となっている。
以下の内容は、映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の結末に関するネタバレを含みます。
Contents
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ/ジョーカー2』ネタバレ解説
「これがエンターテインメントだ」
映画『ジョーカー2』こと『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、ストーリーとしては前作『ジョーカー』のその後を描く正統な作品でありつつ、前作よりも一層作品に楽曲を取り入れたミュージカル仕立ての映画になっていた。この時点で少し驚いた人もいるかもしれない。一方で、『ジョーカー』の続編がミュージカルになるという話は製作が報じられた当初から言われており、トッド・フィリップス監督は宣言通りに『ジョーカー2』をミュージカルとして完成させたことになる。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が前作から大きく姿を変えた要因としては、レディー・ガガ演じるハーレイ・クインことハーリーン・クインゼルの存在が大きい。“リー”を名乗るこの人物は“ジョーカー”に心酔し、自ら精神病棟に入ることで勾留中のアーサーに接触。嘘を重ねてアーサーの心を掴んでいく。
リーが愛したのは凡人であるアーサーではなく、事件を起こしたカリスマの“ジョーカー”だ。二人はジョーカーが自由になったら「山を築こう」と歌の中で約束し、「これがエンターテインメントだ」と歌う。
前者はアンソニー・ニューリーとレスリー・ブリッカスがミュージカル『地球を止めろ 俺は降りたい』のために書いた「Gonna Build a Mountain」(1961)、後者はアーサー・シュワルツ作曲・ハワード・ディーツ作詞で作られたミュージカル映画『バンド・ワゴン』(1953) の挿入歌「That’s Entertainment」だ。
二人の歌を通した会話はいつも非現実的で、「これがエンターテインメントだ」という歌詞がその事実を認めているように思える。レディー・ガガの圧倒的な歌唱力に引っ張られるようにホアキン・フェニックス演じるアーサーの歌声にも力が入っていき、やがてアーサーは集団妄想(フランス語で「フォリ・ア・ドゥ」)の中のジョーカーを生きようとし始める。
リーだけでなく世間もまたジョーカーを偶像化し、ジョーカーの解放と再来を求めたのだ。そうしてアーサー自身もジョーカーを演じ、前作『ジョーカー』におけるアーサーによる殺人事件をめぐる裁判をショーに仕立てていく。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ/ジョーカー2』ラストの意味は?
惨めで矮小なジョーカー
映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』では、裁判所を舞台にしたジョーカーのショーが繰り広げられるが、その結果、アーサーは証人喚問を受けた唯一の友人ゲイリーに恐怖を与えていたことを知る。さらにカメラの前で拘置所の看守を煽った結果、その晩にアーサーを慕っていた若者リッキーが看守に殺されるという事態に直面する。
アーサーは弱者男性を代表する声のように振る舞っていたが、力を得たアーサーはゲイリーのようにより弱い立場に立たされている人物からは“強者”であり”恐怖”として映っていた。さらに自分の影響力によって若い人が死に至るという現実。さらにこの前には、アーサーはシャワー部屋で看守から暴行を受けている。ズボンを下ろされていることから、単なる暴力ではなかったということも想像できる。
自分より強い者から暴力を受ける恐怖。アーサーはその恐怖をゲイリーにも与えていたことに思い至ったのだろう。そして、メイクも取られたアーサーは、翌日の最終弁論で正直な気持ちを話すことを決意したのだった。
一方のリーはジョーカーの解放を信じて自らにメイクを施し、コミックを意識したハーレイ・クインの姿になる。マーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインとはまた違う、ダークな印象を残したハーレイ・クインだ。そんなハーレイをよそに、アーサーは法廷で自分はジョーカーではなくアーサー・フレックだということ、全て自分がやったことであり、自らの母も手にかけたことを告白する。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を通して、アーサーは弁護士からは理論的に、大衆からは感情的に“ジョーカー”という人格の存在を認められるように求められてきた。アーサーを擁護する立場の人々にとってはジョーカーという偶像は都合が良かったのだ。しかし、繰り返しになるが、より弱い立場の人々にとってはジョーカーは恐怖の対象でしかなかった。
もともとカリスマなどではないアーサーは、「これ以上できない」と吐露すると、失望したリーと支持者たちは法廷を去っていく。『ジョーカー』でマーレイ・フランクリンを殺すときに使ったジョークの一節「ノック、ノック」の後に、アーサーはジョークではなく、「アーサー・フレック」と真実を述べる。自ら始めたストーリーを葬る一節だ。
ここまで繰り返し「これがエンターテインメント」と歌われてきたショーを現実に引き戻す言葉。そして、アーサーは人生が嫌になり、全てを吹き飛ばしたかったと動機を供述する。こんなに惨めで矮小なジョーカーは見たことがない。しかし、こんなに正直で人間的なジョーカーもまた初めてである。
引きずり出されるジョーカー
結審を待つまでの間、アーサーはリーに電話をかけて歌を唄う。ここで歌われるのはジャック・ブレル「If You Go Away(邦題:行かないで)」(1959)。「行かないで」と歌いながらも、「行ってしまうなら理解する」とも歌われている。このシーンでリーは拳銃を手にアーサーの留守電メッセージを聞いている。最初からリーが愛していたのはアーサーではなく、愛していたジョーカーが虚像だと知った今、アーサーの言葉はリーには届かない。
そして、法廷では陪審員によってアーサーに有罪判決が宣告されていくが、その途中で裁判所の壁が爆発。「吹き飛ばしたかった」というアーサーの言葉だけを切り取って間に受けたジョーカー支持者がテロを起こしたのだ。
ちなみにこのシーンでは検事補のハービー・デントの顔半分が負傷しているように見える。ハービー・デントはクリストファー・ノーラン監督の映画『ダークナイト』(2008) でも描かれたように、顔半分が焼け爛れたトゥーフェイスというヴィランになるキャラクターだ。
「ジョーカー」ユニバースでの更なる展開への種が蒔かれたように思われるこのシーンについては、監督の発言も合わせてこちらの記事で解説&考察している。
支持者に連れられて逃走することになったアーサーだが、アーサーが向かったのは『ジョーカー』で象徴的な使われ方をしたあの階段だった。実際にニューヨークのブロンクスに存在するあの階段は、『ジョーカー』公開後に観光名所となっている。
ちなみに裁判所からラストシーンまでのシーケンスは前作のラストを踏襲した展開になっている。『ジョーカー』のラストでも、一度は逮捕されたジョーカーがパトカーから引っ張り出され偶像として崇拝されるシーンがある。
しかし、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ではアーサーはこれを拒否してあの階段へ向かう。リーはアーサーと面会した際に、あの階段を登った先にある、アーサーが住んでいたアパートに住んでいると話しており、アーサーはリーに会いに行ったものと考えられる。
新しいハーレイ・クイン
そしてその階段には、髪を切ったリーが立っていた。通常長い髪をバッサリ切るというのは、未練を断ったり、大きなライフチェンジに直面したりしていることを意味するが、そんなことは分からないアーサーは新しい髪型をほめている。
アーサーがまだ逃げる理由があるとすれば、唯一自分を愛してくれたリーと共に残りの人生を過ごすためだった。しかし、ハーレイ・クインもといリーは、アーサーに「どこにも行かない」と告げ、ジョーカーがいないという事実は自分が認めたことだろうと突きつける。
アーサーは二人の間の子どもについても言及するが、ハーレイ・クインはそれに答えることなく「That’s Entertainment」を歌い出す。アーサーは「歌わないで、話をして」と止めようとするのだが、それがこのシーンを『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を象徴するシーンにしている。
歌い続け、人生を、事件を、社会現象をショーにしてきた“ジョーカー”が自ら「歌わないで、話をしよう」と呼びかけるのである。だが、ジョーカーに感化された人間にその言葉は届かない。アーサーとは身分も経験も人生も共有していないリーは、テレビに映ったジョーカーに憧れてハーレイ・クインとなり、アーサーの元から去っていった。アーサーとリーは、歌を通してしか会話ができない、フィクション上の関係でしかなった。
レディー・ガガが演じた新たなハーレイ・クインについては、“ハーレイがジョーカーから離れること”がお決まりになった昨今では、その設定の作り方が困難になるのでは、という懸念もあった。しかし、トッド・フィリップス監督は、これまでならシリーズを重ねて描かれていた“出会いと別れ”を極端に短いものにし、ハーレイ・クインを一方的に憧れて、一方的に去っていく自由な存在として描くことでその懸念を払拭した。この新たなハーレイ像も重要な考察要素になりそうだ。
ラストの意味は?
最後の希望が潰えたアーサーは、けれど留置所で平和な日常を取り戻していた。アメリカならすぐに死刑が執行されると見られるが、ジョーカーという虚像を殺したアーサーには、心の平穏が訪れているのだろう。
そんなアーサーの元に、面会者が訪れる。普通に考えれば、最終弁論で罪を告白したアーサーの元に、かつての友人だったゲイリーが和解の言葉を伝えにでも来たのかと想像できる場面だ。こんなアーサーにも、いや、こんなアーサーだからこそ、まだ面会しに来る人がいたのだと。
ところが、面会室に向かう廊下の途中で、アーサーは若い収容者からジョークを思いついたと声をかけられる。この人物は『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の序盤からジョーカーに憧れの眼差しを向けていた青年だ。
この人物が話したジョークは、サイコパスの男がバーで、テレビに出ていた有名なピエロが惨めな姿で飲んでいるのを見つけるというもの。サイコパスが「何か奢ろうか?(What can I get for you?)」と聞くと、ピエロは惨めにも「くれるなら何でも」と答える。これに対し、サイコパスは「じゃあ報いを受けろ」と告げる。
このオチと共に青年はアーサーの腹部をメッタ刺しにする。「報いを受けろ(You get what you fuxxing deserve.)」は『ジョーカー』のラストでアーサーがマーレイ・フランクリンに放ったセリフと同じだ。アーサーは皮肉にも、マーレイと同じように何者でもない青年にジョークのオチで殺されるという最後を遂げることになった。
また、メタ的な視点で見ると、『ジョーカー』でマーレイ・フランクリンを演じたロバート・デ・ニーロはかつて映画『キング・オブ・コメディ』(1982) で有名司会者をストーキングする若手コメディアンのルパート・パプキンを演じた。同作は『ジョーカー』に強い影響を与えており、何者でもない人間が著名人に危害を加えて新たな象徴になるという展開を繰り返しているという構図になってもいる。
腹部を刺されたアーサーの意識は、途中のリーと番組を持って歌を唄う妄想に戻る。その妄想でもリーから腹部を撃たれていたアーサーは、倒れ込みながら「息子にあとを継いでもらいたかった」と唄う。ここでそう歌った理由は、アーサーが殺されたことで新たな“ジョーカー”が生まれたことを悔いてのことだったのかもしれない。
ジョーカーに憧れていた青年はリーと同じく勝手にアーサーに失望し、「報い」を受けさせた。また、すぐに看守が来ないことから「面会が来た」というのは嘘で、青年と看守はグルでアーサーを葬ったものと考えられる。
そして最後に流れる曲が、「That’s Life」(1963) だ。『ジョーカー』のエンディング曲にはフランク・シナトラ版の「That’s Life」が使用されたが、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のエンディングではレディー・ガガがカバーしている。
この「That’s Life」は劇中でリーが歌っていた「That’s Entertainment」と対になっており、後者が「それがエンターテインメント」と歌われているのに対し、前者では「それが人生」と歌われる。「うつむいた日も顔を上げ、私はレースに戻っていくんだ」という「That’s Life」のラインは、ジョーカーという虚像に憧れるようなことはやめ、現実に戻れと訴えかけているようにも聞こえる。
こうして、満を持して公開された続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、社会現象を巻き起こした前作『ジョーカー』のショーに幕をおろした。ジョーカーという偶像をさらに神格化するのではなく、惨めで矮小なジョーカーの姿を見せつけ、「報いを受けるのが現実だ」と言い残して。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ/ジョーカー2』ネタバレ感想
全てをひっくり返した『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は全米で日本よりも一週間早く公開され、低評価を受けてのスタートとなった。これは予想でしかないが、おそらく『ジョーカー』に感化された人は『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の内容が気に食わず、『ジョーカー』が嫌いだった人は『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を見に行かなかったこともその一因になっているのではないだろうか。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』がやったのは、『ジョーカー』で生じた社会現象をメタ的に作品に取り入れ、ジョーカーを偶像化する人々、ドラマとして楽しむ人々を突き放すことだった。『ジョーカー』が始めたストーリーにケジメをつけるには、アーサー自らが「ジョーカーはいない」と惨めな姿で宣言するしかなかったのだろう。
惨めなアーサーがカリスマ的なジョーカーに成っていく姿を演じたホアキン・フェニックスの演技力は見事だったが、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ではその逆(=偶像化されたジョーカーが惨めな人間であることを示す)をやって見せた。ストーリーテリングにおいても演技においてもちゃぶ台をひっくり返す見事な作品だった。それに、大衆の要望に応えるようなお利口さんなジョーカーを生み出さなかったことにも敬意を表したい。
『ジョーカー』の責任
トッド・フィリップス監督がこの判断に至った背景には、『ジョーカー』に対する想像以上の反響があったのだと考えられる。映画『ジョーカー』の公開後、日本でも2021年11月に京王線でジョーカーの仮装をした男が乗客を襲い、17人が負傷。“ジョーカー議員”を名乗る人物は排外主義の主張を続けている。
違う映画の例を挙げると、オリバー・ストーン監督の『ウォール街』(1987) ではマイケル・ダグラス演じる資本家ゴードン・ゲッコーを悪役として描いたが、その後、多くの若いアメリカ人が強欲なゲッコーに憧れて金融業界を目指した。『ウォール街』はアメリカ人にとって“一般教養”とされる作品になり、その現象は2008年に世界を巻き込む史上最大の金融恐慌、リーマン・ショックとして結実することになる。
オリバー・ストーン監督はその反省から2010年に続編『ウォール・ストリート』を発表。遅きに失した感はあるが、自らが生み出したキャラクターが起こした社会現象の責任を取るというのはクリエイターとしての在り方の一つだろう。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、トッド・フィリップス監督とホアキン・フェニックスが自らの手でジョーカーを葬った作品だと言える。パンデミックを挟んで5年というスパンで、大ヒットシリーズとなる芽もあったジョーカー/アーサー・フレックを葬ったのだ。
心に留めておきたいこと
ただし、精神障がい者である主人公の責任を最後まで追求する展開は少し距離を持って見ておきたい。現実においては、実際に精神障がいなどによって感情や行動のコントロールが難しい人、貧困や虐待を背景として犯罪に手を出さざるを得ない人も存在する。また、たとえ心神喪失などの理由によって被告に減刑や無罪が言い渡されたとしても釈放されるわけではなく、そこから措置入院となる。措置入院の後に退院した例は多くなく、退院したケースでも再犯率は極めて低いとされている。
「アーサーが死を持って報いを受ける」という『ジョーカー2』の結末もまた、“不条理”を是としたジョーカーの理論であり、物語そのものは拍手を送っていいエンディングとは言えない。あの私刑をもって「悪は罰せられた」と考えてはいけないのだ。
現実に生きる私たちは、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』というフィクションの影響を受け、処罰感情を満たすために他者を「演技だ」と糾弾するようなことがないようにしたい。多くのケースで必要とされるのは事前のケアであり、やるべきことは英雄を生み出すことではなく、ケアを行う組織や人々への支援を怠っている政府を変えることだということは心に留めておこう。
【ネタバレ考察】『ジョーカー2』の続編はある?
次のジョーカーは誰?
一方で、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』には今後も物語が続いてく可能性が残されている。まず、リーがアーサーの子を妊娠したという件について。これはアーサーの担当弁護士だったメアリーアン・スチュワートがリーは嘘をついているとアーサーに告げた後に出てきた話で、視聴者は簡単にこれが嘘だと勘づくことができる。
しかし、最後の階段のシーンでアーサーから子どもについて聞かれたリーは妊娠したことが嘘だとは言わなかった。また、アーサーがリーに電話をかけたシーンでリーは拳銃を自分の頭に当てていたが、あそこで自死しなかった背景にはお腹の中の子どものことを考えたという可能性もある。いずれにせよ、トッド・フィリップス監督はリーが本当に妊娠している可能性を残して物語を閉じることにしたのだろう。
あの後リーが子どもを産み、自分が理想とするジョーカーに育てるとすれば……。『ジョーカー』では、ジョーカー事件によって起きた騒乱の中でブルース・ウェイン少年の両親が銃撃される場面も描かれた。「バットマン」シリーズではこの出来事によってブルースがバットマンになることを決心するのだが、かねてより「ジョーカー」シリーズではジョーカーとバットマンの年齢が離れすぎていることが指摘されていた。
もしリーの子どもがバットマンと対峙するジョーカーになるとすれば、ジョーカーとバットマンの年齢差は10歳くらいになる。私たちが「ジョーカー」だと思っていたストーリーが「ジョーカーの父」の物語だったとすれば面白くはあるが、流石にちょっと「エンターテインメント」すぎるだろうか。
次のジョーカーは?
順当に次のジョーカーが描かれるとすれば、いや描かれないとしても、次にジョーカーになるのは最後にアーサーを刺殺した青年だろう。私たちはアーサーのことを知っているので、何者でもない人物に殺されたと思ってしまうが、マーレイ・フランクリンの立場に立てば、彼はアーサーといいう何者でもない人物に殺されたのだ。
最終弁論でジョーカーを否定し、信者達を失望させたアーサーを殺した新たなジョーカーとしてあの青年が崇められる展開は想像に難くない。アーサーが死んでも物語は終わらず、社会のシステムが整備されない限りは大衆の怒りは矛先とその代弁者を探すことになる。
ちなみに、最後にアーサーを刺した青年を演じたのはソナー・ストーリーで、自身のInstagramで『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のラストに自身が関係していることを示唆する画像を投稿している。
新たなジョーカーの単独映画で、ということにはならないかもしれないが、ハーレイ・クインの単独作など「ジョーカー」とユニバースを共有する作品が作られるとすれば、ソナー・ストーリーが演じた青年が新たなジョーカーとして再登場する可能性もあるだろう。
ショーを続けるために
また、先に触れた検事補ハービー・デントも新たなヴィランとしてゴッサム・シティに現れる可能性は大いにある。ジョーカーは現象となり、肉体を失った。ゆえに社会の仕組みと大衆の認識が変わらない限り永遠に生き続ける存在にもなった。その混乱の中で台頭するのはレディー・ガガ演じるハーレイ・クインか、ハリー・ローティー演じるトゥーフェイスか。
アーサーが現実に帰った今、ショーは続いていくのだろうか。少なくとも、私たちは現実に戻り、「ジョーカー」で描かれたような大衆とは違う姿を見せなくてはいけない。トッド・フィリップス監督がジョーカーを葬りショーを終わらせたのは、『ジョーカー』を経て現実に起きたことへのアンサーだろう。フィクションがフィクションとして続いていけるように、現実の問題と向き合うことを忘れずにいよう。
映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は2024年10月11日(金)より全国の劇場で公開。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』特典付きオリジナル・サウンドトラックは発売中。
ハーレイ・クインを演じたレディー・ガガが劇中で歌った楽曲などを収録したアルバム『ハーレクイン』は、特典付きで予約受付中。
前作『ジョーカー』は4K ULTRA HD&ブルーレイセットが発売中。
レディー・ガガが演じたハーレイ・クインの革新性と、過去作との違いについてはこちらの記事で。
トッド・フィリップス監督が明かしたラストでのアーサーの心情についてはこちらから。
『ジョーカー2』に登場したハービー・デントの背景についての解説&考察はこちらの記事で。
本作でオリジンが描かれたキャラクターのまとめはこちらから。
前作でホアキン・フェニックスが語ったアーサーの幼少期についてはこちらから。
『ジョーカー』吹き替え声優のまとめはこちらから。
『ジョーカー』で流れた曲のまとめはこちらの記事で。