第三回かぐやSFコンテスト最終候補作品
貞久萬「プシュケーの海」
研究所を出て海岸へと歩いていくと入り江を利用したプールが見えてきた。一匹のイルカが背びれを突き出して泳いでいる。わたしは水辺まで歩くと背びれに向かって叫んだ。
「メイビス!」
声に気がついたのだろうか、メイビスはこちらに近づいてきた。あと五メートルぐらい、というあたりで背びれは沈んで消えた。やはり気がつかなかったのか、少しがっかりしてると鈍色の流線型が水面から飛びだしてきた。高く飛び上がったメイビスの体はしなやかな弧を描いて落下する。派手な水しぶきが広がった。しかしこれだけ近距離なのに水しぶきはかからなかった。頭の良いイルカだ、わたしが濡れないように計算してジャンプしているのだ。
しばらくしてメイビスは水中から顔を出した。手に持っていたバケツから鰯を一匹つかむとメイビスに向かって投げる。メイビスはパクリと飲み込み、わたしをじっと見つめた。
海水に手をつける。水はまだ少しつめたいが泳ぐのに気持ちよい季節が訪れた。春だ、あれからもう一年が経つのか。メイビス、わたしと一緒に泳いでくれるか。
幼い顔つきは変わらなかったが実物のツグミはテレビ越しに見るよりもほっそりとしていた。病室に入ろうとした瞬間からベッドの上でわたしの顔をじっと睨んでいた。わたしの訪問は医師から聞いていたはずだし、無精ひげも剃ったし小綺麗な服を着てきた。睨まれる理由はないはずだが、こんなご挨拶では先が思いやられる。もっとも、知らない男が入ってきたのだから無理もないだろう。それにツグミは睨むしかできなかった。彼女と打ち解けるために雑談から入ろう、そう思っていたが単刀直入に言うことにした。
「先生から聞いていると思う。君に提案をしにきた。わたしが研究しているインプラントを体に埋め込めば、麻痺している君の体を動かせるようになるかもしれない」いや、ここはできると言い切ったほうがよかったか。
ツグミはわたしを睨んだままだった。首から下は動かすことはできないがしゃべることはできると聞いていた。今日は具合が悪いのかもしれない。
「聞いた」幼さの残る顔とはうらはらに大人びた声だった。たしか二十歳ぐらいだったはずだ。オリンピックでメダルを取ったときのインタビューでもこんな感じの口調だったのを思い出した。世界最速のスイマー。泳ぎ終えたばかりだったからと思っていたが、ふだんからこんな感じだったのか。
「足は?」「足?」「生えてくるの?」
わたしが研究しているのは脊髄損傷した神経をバイパスさせて情報伝達させるインプラントであって、それ以上の物ではない。
「それは無理だ」いつもの癖でそう言ってしまい、そして悔やんだ。もっと優しい言いかたをすればよかった。
「わかってるからいいよ。で、腕は動かせるようになるの?」
「かなりの確率で腕は動かせるようになる。だから泳ぐこともできるかもしれない」
「気休めなんかいらない。ちょっと前までは水に浮かんでたのに、いまはこうしてベッドに浮かんでるだけだし。背泳ぎは得意じゃなかったけどね。まあ腕が動かせたら体に繋がってるコードも引っこ抜けるか」ツグミはまだ生命維持装置に繋がれている。ツグミはしゃべり始めると饒舌になった。
病室を出て帰りたくなった。わたしは単なる研究者で、医師でもカウンセラーでもなんでもない。ましてや目の前にいる彼女は知り合いでもなんでもない。一ヶ月前まではメダルをいくつも取った水泳選手だったが、今は事故で両足を失い全身麻痺となってしまった人間にたいして、どう接すればいいのかわかるはずもなかった。人間相手は苦手だ。動物のほうがはるかに付き合いやすい。
「センセはイルカと一緒に泳いだことがあるの」「わたしは先生じゃないよ」「難しいこと研究してんでしょ、だったらセンセ」
「まあ、いいか。泳いだことはあるよ。わたしの研究はもともとイルカを中心におこなっていたんだ。哺乳類のなかで海洋生物は構造がシンプルで基礎研究にはもってこいだったんだ」
「そういうのはネズミを使うもんだと思ってた」
「ネズミも使うけど、ある程度体が大きいほうがいいんだ。脊髄も大きいし、インプラントを埋め込むにしても体への負担が少なくてすむからね」
「だったら猿でもいいんじゃない」
「うーん、もともとの目的は違ったんだよ。陸に打ち上げられてしまうイルカを助けるためだったんだ。インプラントを埋め込んで、陸に近づきすぎたイルカの行動を制御できないものかという研究からはじまったんだ」
しかし助けるためだとはいえ、イルカの意思に反して体をコントロールするというのは倫理的にまずいのではないかという意見に押されて中止になった。その代わりに研究の目的として浮上したのが損傷した脊髄のバイパスコントロールだった。
「君と同じように脊椎を損傷して動けなくなったイルカが研究室にいる。君に提案したインプラントを埋め込んだ結果、今は入り江を利用したプールで自由に泳いでいるよ」
「名前はなんていうの」
「メイビス」
「女の子?」
わたしはうなずいた。ツグミ、メイビス。偶然とは面白い。
「考えておくよ」ツグミは答えた。
研究室に戻るとインプラントを埋め込むことにするという電話が病院からあった。
メイビス
音がする。クリッキス。好きな音。楽しいことが始まる。
鈍色の個体が世界をくりぬいていく。勢いよく突き抜ける。ここにいるよ。そして世界に舞い戻る。ぼんやりとしか見えない場所からよく見える場所へ、鈍色の個体は向かっていく。
見えた。クリッキス。
クリッキスが触れてきた。心地よい。クリッキス。楽しいことをしよう。
「メイビス。元気だったか」わたしはメイビスの体に触れる。もっと撫でろとメイビスがすり寄ってくる。メイビスはじっと見つめている。似ていないのにツグミの目と重なった。「一時間だけ一緒に泳ごう、メイビス」
最初は馬鹿馬鹿しいアイデアだと思っていた。
ベンジャミン・リベットの実験にもとづく意識受動仮説によれば、意識が行動を決定させるのではなく、意識は意識以外の部分で決定された行動を認識するだけの仕組みでしかない。メイビスに埋め込んであるインプラントが処理した情報をツグミのインプラントに通信し、それをツグミの脳にバイパスする。受け取ったメイビスの情報をツグミの意識は自分の意思で決定した結果だと認識できるかもしれない。そうすればツグミはメイビスとなって自由に泳ぐことができる。その際にメイビス側の情報は人間の言語に翻訳してやる必要はない。人の意識外の決定情報として翻訳してやればいいだけだ。その翻訳手順はインプラントに組み込まれたAIが学習してくれる。どのくらいの速度で泳ぐ、どっちの方向へと向かう、泳ぐのに必要なのはそれだけだ。メイビスの視覚情報もほしいが、水中での視覚情報はわずかでいいので処理能力も通信帯域も十分確保できる。
「インプラントを埋め込むにあたってひとつ提案がある」わたしはツグミにこのアイデアを話した。
わたしが病室に入るとツグミはわたしの顔をじっと睨んでいた。
「センセ、まだ全然体は動かない」
「手術はうまくいったよ。いま君の体のなかでインプラントが君の情報を学習している。たぶん腕を動かせるようになるには二週間ぐらいはかかると思う」
「二週間。そんなもかかるの」
「その代わり、泳ぐことはすぐにでもできる。ちょっとやってみようか。最初は一分だけだ」
「うん」
「目を閉じて、リラックスして。ゆっくりと切り替えていくから、だんだんと海のなかで泳いでいる感覚がつたわってくるはずだ」インプラントの外部制御端末を操作する。メイビスから送られた情報をツグミのインプラントに接続した。インプラントがその情報をツグミの脳に少しずつ送り始める。端末を操作して情報量を上げていく。
ツグミはメイビスと一体となって海を泳ぎ始めた。
一分はすぐに過ぎていく。ツグミの目が開いた。「わたし、ものすごく速かった」ツグミはぽつりとつぶやいた。
「君が望むなら一時間ぐらいまでなら毎日メイビスと一緒に泳げる。どうする」
「おねがい」
メイビスと一緒に、いや体感的にはメイビスとなって自由に泳ぐことで、生きる希望を持ってくれればいいと思った。メイビスと一体化したツグミは世界最速のスイマーだ。誰よりも速い。
それから毎日一時間だけツグミは泳いだ。体のほうも少しずつ順応されて動かせる部位が増えていった。今はまだ断片的だが数日のうちに思い通りに動かせることができるだろう。ただツグミは動かすことよりも泳ぐことのほうに熱心だった。それも無理もないことだとわたしは思っていた。
ツグミが昏睡状態に陥ったと連絡がはいった。インプラントに問題が起こったのかと思ったが、実際は違った。ツグミは深夜に生命維持装置のコードを引き抜いたようだ。命に別状はないが意識は回復していない。目処も立たないらしい。わたしは病院へと向かった。
エレベーターを出て病室に入ると、ツグミはじっと見つめているんじゃないかと期待した。が、ツグミは目をつむったままだった。モニターのなかでは心電図が動いている。動きにあわせてピ、ピ、ピ、と音をだしていた。病室のなかは静止しているのにモニターのなかだけは動いていた。
ツグミとの最後の会話が何度も頭をよぎる。
「センセ、ずっと泳いでいたい」
「それは無理だ。イルカは二十四時間泳げるが人は眠らなければいけない。それに長時間接続し続けた場合、脳に、いや人体にどういう影響がでるのかまだわかっていないんだ。だから泳ぐのは一時間だけで我慢してほしい」
もっと違う言い方をすればよかった。いつもするのは後悔ばかりだ。
「メイビス GO!」
わたしが背びれをつかむとメイビスはゆっくりと泳ぎ始めた。
ツグミ、君の意識は今どこにいる。