原里実「ひかる水辺のものたち」 | VG+ (バゴプラ)

原里実「ひかる水辺のものたち」

カバーデザイン 篠澤隆文

先行公開日:2021.10.23 一般公開日:2021.12.4

原里実「ひかる水辺のものたち」
3,907字

大好きだったユーリが男になった。

湖のほとりで、たくさんの女たちに囲まれてユーリはいた。四分の一周ほど離れたところから様子を見ているわたしに気がつくと、無邪気に合図をよこしてみせた。

わたしはわざとそっぽを向いた。本当は、ユーリがわたしを見てくれてうれしかったけど。でもそれと同じくらい、嫌だった。自分が女たちに囲まれていることを、そしてその様子をわたしが見ることを、なんとも思っていなさそうなユーリが。

昨日まで、女だったユーリには見向きもしなかった彼女たち。

わたしの視線の先には、紫色の華奢な花が、一輪だけぽつりと咲いている。わたしは、ユーリのほうを見たくない、という一心だけで、その花をただまっすぐに見つめていた。そんな不純な動機で花に申し訳ない、なんて思いを抱いてから、しかし、わたしが見ようが見まいが花はただここに凛と咲いているだけなのだと開き直る。

そうやって意地になっているわたしのうしろから、みずみずしく湿り気を帯びた緑のカーペットを踏み締める音がする。大きな影をともなって、それは近づいてくる。みし、みし。

誰かくる、わたしは気配に神経をとがらせる。誰だろう——でも本当は願っていたし、きっとそうに違いないと楽観的に予想してもいた。ヘソを曲げたわたしを見かねてやってきてくれるのは、きっときっと——。

「シイタ」

振り返って、想定とは違う個体がそこにいるのを見つけたわたしがとっさに試みたとおり、落胆の色をすべて隠し切ることができたとは思わない。でもシイタは何も言わずに、わたしの隣にからだを据える。放射状にひろがったシイタの尾が、地面にむした緑との美しいコントラストをつくりだす。

「きれいだね」

わたしが見つめていた紫の花を示して、シイタは言った。

「うん」

わたしはこたえながら、ついには善良なシイタをだましたようで、ずっしりと気が重くなる。

花の匂いに誘われたのか、いつのまにか小さな生きものがやってきて、花弁のなかでもぞもぞと動いている。じっと見ると、ホルホトルホの幼体である。シイタの横顔に視線をやれば、真剣な表情で見入っている。そして大きなからだを縮こめるようにしながら、そっと口をひらいた。じりじりと伸びてゆく舌先を、固唾をのんで見守っていると、最後の一瞬だけ俊敏に動いたそれがみごとに獲物を巻き込んでいた。

「すごい」

思わず、口から漏れた。

「口を開けてごらん」

安堵と誇らしさを半分ずつ混ぜたような表情で、シイタがうながす。

「いいの?」

わたしの質問に、声を出さずにうなずいた。ためらいながらも口をひらくと、細い舌先が割り込んでくる。

口のなかでうごめくそれを奥歯ですりつぶすと、ぷちりとした感触とともに、甘酸っぱい味わいが広がった。

「おいしい」

わたしは言った。

「そうでしょうとも」

とシイタは満足げにからだをふるわせる。

ユーリはわたしより何年も先に生まれているから、すでにいくらかの小さな子を産んでいる。それに、女のなかではからだも大きなほうだった。だから、このあいだ食われてしまったハンの代わりに、じき誰かが男になるんじゃないかってみんなが言いはじめたとき、もしかしたらユーリかもしれないと思わなかったわけじゃない。一方で、これだけたくさんの女がいるなかで、よりにもよってユーリなものかとどこかたかをくくっていたのも事実だった。

うっすらと背中に浮かびはじめた紅い線を、ユーリはわたしに見せてくれた。それは、ユーリの性が変わりはじめているしるし。

わたしはため息をついた。ああ、やっぱりユーリだったのかと。加えて、それがあまりに美しかったから。わたしはおもわず舌の先でなぞった。くすぐったそうに、ユーリは身をよじった。

「どこか痛かったり、する?」

「ちっとも」

ユーリは涼しい顔で言った。その言葉を信じるなら、ユーリのからだはきわめて静かに少しずつかたちを変えていったということだ。

ユーリは怖がったり、不安がったりするそぶりはわたしに見せなかった。それは、新しいもの好きで怖いもの知らずのユーリが、新しい性を獲得する過程にある自分を楽しんでいたからかもしれないし、複雑な心境を吐露する相手としては、わたしがまだ幼すぎると思っていたからかもしれない。

「スウ、わたしの子を産む?」

わたしの腹を舌でなでながら、ユーリはたずねた。ユーリが触れたところから、わたしのなかに何かがじわりと染みいってくるような感覚を、おぼえた。

それに対する居心地の悪さはすぐにやってきた。ユーリとふれあうことは何度もあったけれど、そんな気分になったのは初めてだったから。

「まずはわたしのからだが、子を宿せるようにならなくちゃね」

わたしが言うと、ユーリはやさしく、そうだね、と言った。聡いユーリのことだから、わたしがちゃんと質問に答えていないことなど、きっと気づいていただろう。

シイタの尾はほかの男たちと比べても飛びきりゆたかにつやめき、光の加減により深い藍のようにも葡萄色のようにも見えた。背中の紅はくっきりと色濃く、強靭な透明の皮膚の内側に沈んでいる。

「みんなついこのあいだまで、シイタに夢中だったのにね」

その言葉がシイタの気分を損ねうるものだと思い至ったのは、すでに口の端からこぼれてしまったあとだった。しかし、シイタはわたしの不安をよそに愉快そうにしている。

「目新しいものが関心を集めるのは、しごくまっとうなことだよ」

たしかにシイタのいうとおり、ユーリの前に男になった個体も、変わったばかりの当初は女たちがかわるがわる相手にしてほしがって大変そうだった。けれど最初のものめずらしさが過ぎ去れば、やはりシイタのからだの美しい色がいっとう視線を集めた。

「スウも、ユーリのところにいかなくていいの?」

シイタがそっとたずねる。それを合図に、わたしはユーリにふたたび視線を送ることができた。見たくない、けど、見たい、けど、見たくない。わたしの「たい」はあまりにも不安定で、行動をゆだねるのには頼りなさすぎたから。

ユーリは、さっきまで自分をとりかこんでいた女のうちのひとりと縒りあいはじめたところだった。ユーリの舌が、女のからだを繊細になぜる。湿り気を帯びた肌が、たがいに吸い付きあう。わたしの目は遠くからそれを注視する。ユーリの尾が、西陽を受けてぬらりと光る。

腹のあたりが、ぎゅうとしめつけられる。見たい、見たくない、見たい。わたしはいたたまれなくなって、また目を逸らした。

ユーリはわたしになんでも話して、教えてくれた。とっておきの昼寝の場所も、ウクワの実の食べ方も、ときおり見る悪い夢のことも。子を産むために、男とするのがどんなことかも。

「ユーリのところにいくのは、あとでいい」

あとで。ほかの誰もいないとき。わたしたちしか知らないところで、たくさんおしゃべりしたい。でも、それはいまじゃない。

「なぜわたしたちは子を産むんだろう」

気づくとわたしはそうつぶやいていた。初めて口にして気づいたのは、わたしのなかに長いあいだ、その疑問がかたちにならないままずっと存在していたということだった。

「そんなこと、考えたこともなかったよ」

シイタは言った。そうだろう。きっとシイタだけじゃなくて、みんなも。そんなことは考えない。わたしのからだの細胞だって、なぜ分裂するかなど考えない。それと一緒。わたしたちはもっと大きな命の、一部にすぎない。

だけど。

「だけど産まなかったら、わたしたちいつかみんな老いて死ぬか、あいつらに食べられるかして終わりじゃない」

シイタの言っていることは、わたしにだってよくわかる。でも。

「なぜ、終わりじゃいけないの?」

質問を重ねるわたしに、シイタの尾は困ったようにゆらゆらと波立った。それは、きっと——。

「終わりにしてもいいかどうかは、わたしたちが、誰かが決められるようなことじゃないんじゃないかな」

わたしはシイタの瞳を見つめた。いままさに目前に広がる湖のような、深いふかい碧色をしている。その瞳の湖に、ふと、とまどいの一雫が落とされた。

「スウ、子を宿せるようになったの?」

わたしはゆっくりとうなずいた。

まだ、誰にも言っていない。わたしのからだに訪れた変化。小さな頃からずっとずっと、この変化が訪れたとき最初に告げる相手はユーリだと思っていた。わたしのいちばん近くにいたユーリ。でも現実はそうはならなかった。

視界のすみで、ユーリが交接をつづけているのがわかる。じわりとからだの奥深くから、熱がこみ上げる。きっとわたしもほかのみんなと同じように、染み付いた本能に身をまかせるほかないのだ。それでもわたしには。

わたしにはユーリだけが特別だ。

じっとシイタがわたしを見つめる。シイタのからだもまた、わたしの熱にあてられてゆくのがわかる。

ためらいがちに、シイタの舌が伸びてくる。

怖気づきそうになる気持ちを遠くへ追いやるように、それをみずからの舌で絡めとり、引き寄せた。バランスを崩したシイタのからだが覆いかぶさってくる。世界がひるがえって、青い空が見えた。

わたしはシイタにぴたりと身を寄せる。背中越しに、女と混じりあっているユーリと目があった。

だいじょうぶ。

ユーリはおだやかに、そう言った気がした。だいじょうぶ。

それを合図のようにして、からだの外に思考が溶け出してゆく。わたしは一枚の膜になり、湿度を帯び、波うって、躍動する。ふくらんだり、ちぢんだり、押しては押し返されて、やわらかな弧を描く。スウ、スウ。表面張力の向こうから、シイタがわたしを呼んでいる。あるいはユーリかもしれない。わたしたちはゆっくりと回旋する。そして渦巻くひとかたまりの水になる。

 

 

 

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原里実

1991年生。ゲンロン大森望SF創作講座5期生。CINRAの編集者。2014年に「タニグチくん」が第20回三田文学新人賞佳作を、2016年に「レプリカ」が第三回文学金魚新人賞 辻原登奨励小説賞を受賞。2018年には両作を収録した短編集『佐藤くん、大好き』(金魚プレス日本版)を刊行。2021年には「A Family of Plants」(邦題:植物家族)がWorld Literature Todayに掲載。第一回かぐやSFコンテストで選外佳作となった「永遠の子どもたち」が「Eternal Children」としてAsymptoteに掲載。(翻訳はいずれもToshiya Kamei) 揺れ動く心情を確かな手触りで表現した短編小説を多数発表している。
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