『トイ・ストーリー3』(2010年)では、前作で触れられた「子供が大人になるのを止められない」という究極の問題が、現実となってウッディの前に立ちはだかる。
『トイ・ストーリー2』(1999年) の公開後、Pixarは『ファインディング・ニモ』(2003年)や『Mr.インクレディブル』(2004年)、『カーズ』(2006年)などさまざまなヒット作を生み出し、子供たちに愛されるアニメーション・スタジオへと成長した。
最初の『トイ・ストーリー』(1995年)から15年、スタジオの成長とともに、製作スタッフたちも人生の転換期を迎え、子供が生まれ、巣立つだけの時間が流れた。『トイ・ストーリー3』のテーマは、そうしたスタッフの人生の成熟から自然と生まれたものだ。
大人になってしまった子供とおもちゃの関係の変化は、『トイ・ストーリー』シリーズを見ていたかつての子供たちが、誰しも自分の物語として共感できる作りになっている。
一方で、『トイ・ストーリー3』には、アンディの成長に視点を当てた表のテーマとは別に、集団の中で「個」としての自分の居場所をどう守るか、という裏のテーマが存在する。
前回、前々回の記事と同様に、「個」のテーマがウッディの人生にどんな影響をもたらすか、解説したい。
同型のおもちゃたちによる、集団と個との対比
新旧のお気に入りの対比を描いた『トイ・ストーリー』、大量生産とヴィンテージの対比があった『トイ・ストーリー2』を経て、『トイ・ストーリー3』では、子供の成長によって興味を失われるだけではなく、同型のおもちゃによっても自分の居場所が奪われる悲しみが描かれる。
今作のヴィランであるロッツォ・ハグベアは可愛いクマのぬいぐるみで、抱きしめるといちごの甘い匂いがして、優しく落ち着いた印象を与えてくれる、サニーサイド保育園のリーダーだ。彼も昔、他のおもちゃと同じように愛されたおもちゃだった。
しかし、持ち主のデイジーの昼寝中に外に忘れられ、自力で家に帰ったときにはもう、自分とまったく同じ形のおもちゃにお気に入りの場所を奪われていた。
「自分じゃなくてもよかった」
子供のお気に入りになれないおもちゃは捨てられ、ただのゴミになる。しかも代わりの存在(同型のおもちゃ)はいくらでもいるのだ。
この強烈な経験が、ロッツォの中に消えることのない憎しみを生み出した。
今作ではロッツォ同様、とくに注目すべきおもちゃとしてバービーの活躍がある。
バービーはアンディの妹・モリーのおもちゃだ。
モリーもアンディ同様、成長に伴って興味が移り変わり、バービーを自分の手で保育園送りにするダンボールへと入れてしまった。
バービー人形は『トイ・ストーリー2』でも「大量生産」の象徴として登場する。
誰もが分かるドールのアイコン的存在であり、同じようなファッションに身を包み、同じような言葉を発する。前作で描かれたバービー人形はまさしく「代わりはいくらでもいる」おもちゃだった。
バービーが選ばれたのはおそらく、『トイ・ストーリー2』でPixar自身がバービー人形につけてしまったイメージの払拭の意味もあっただろう。
前作のバービー人形たちはみんな水着でプールを楽しみ、男性キャラ(ハム、ミスターポテトヘッド)からチヤホヤされる存在だった。
アメリカ社会において「ブロンド」と呼ばれて見下される、頭があまり良くなくて軽い金髪美女のステレオタイプがバービー人形だった。
しかし『トイ・ストーリー3』のバービーは、明らかに「個」として異彩を放っている。
バービーは勇敢で、友達思いで、頭が良く、リーダーシップを発揮する。
「権力は脅しではなく統治される者の同意から生まれるべきよ」
という作中屈指の名台詞をロッツォに放つ瞬間、バービーはこの映画の主役級の存在感を放っていた。
しかもバービー自身、ファッションを楽しみ、大量生産である自分の美しさを何も恥じていない。
単純にバービーのイメージを塗り替えるのではなく、ステレオタイプのブロンドの見た目や特徴そのままで、権力に物申す強い人間として描かれた。
サニーサイド保育園でバービーと運命的な出会いを果たすケンは、同じバービー・ドールのシリーズである。
ロッツォとの対決の場面でケンは
「あいつはただのバービー人形だ、同じものはごまんとあるんだぞ」と嘲笑され、
「僕には彼女だけだ」ときっぱり返した。
まさに集団の中で抜きん出る「個」を体現する存在として、バービーは象徴的に描かれている。
余談だが、本作ではかなり意識的に、社会において女性が被る逆境というものが描かれている。
ロッツォの本性が明らかになったとき、ロッツォに食ってかかったミセス・ポテトヘッドを「スイートポテトちゃん」などと呼んでロッツォは馬鹿にした。
自立した大人の女性をわざと女の子として扱い、口を塞ぐシーンである。ここでは、他の男性キャラはこのような性別に基づくステレオタイプな辱めは受けない。
ミセス・ポテトヘッドは毅然として怒り、「30個以上も付属品があるのよ、ちょっとは敬ったらどうなの」と性別ではない価値基準で抵抗を示した。
ケンも同様の扱いを受けた一人だ。
バービー・シリーズのケンはファッションが大好きで、元来優しく、可愛らしい字を書き、続編『ハワイアン・バケーション』でもロマンチストな面が描かれている。
そんなケンだが、ロッツォの圧制下で幹部たちと秘密の会議をしているシーンでは、賭け事に興じ、仲間たちに「いい女を手に入れたな」「やっぱり女の子のおもちゃだよな」と揶揄われ、「女の子のおもちゃじゃない!」と抵抗している。
男性中心の閉鎖的な環境で、過剰に固定された男性のイメージを押し付けるマッチョイズム、オールドボーイズクラブに対する批判的な表現である。
バービーの前でファッションショーを披露し、本当はありのままで生きたいと願っていたケンにとって、堂々と生きるバービーの存在は愛する恋人であると同時に、希望でもあった。
「ブロンド」の特徴を持ち、長い間女の子向け商品として地位を確立してきたバービー人形が、こういった性別に基づく構造的差別に立ち向かう存在の象徴として選ばれるのは、これからの社会を生きる子供の観客にとって、とても意義のある表現だ。
どんな自分になるかという『トイ・ストーリー3』からの問い
『トイ・ストーリー』シリーズを通して鑑賞すると、この映画は単なるおもちゃではなく、ウッディの成長を、まるで一人の人間の人生のように描いていることが分かる。
『トイ・ストーリー』『トイ・ストーリー2』と同様に、今作でのウッディに、どんな課題と人間的成長があったのかを見てみよう。
「代わりはいくらでもいる」「自分じゃなくてもいい」と繰り返されるのはロッツォの主張だが、『トイ・ストーリー3』は、実はこのヴィランの主張を一部では肯定している。
バズやジェシーなど、大学行きの箱に入れてもらえなかった、選ばれなかったアンディのおもちゃたちは、サニーサイド保育園の子供たちを見てこう思う。
「代わりの子供はいくらでもいる。アンディじゃなくてもいいのだ」と。
これまでの『トイ・ストーリー』シリーズで、おもちゃは常に選ばれる側だった。しかしこの映画の中で、選ばれるのはおもちゃだけではない。
アンディ、サニーサイドの子供たち、ボニー。ウッディと仲間たちの前には、持ち主に関する選択肢がいくつも提示された。
「代わりはいくらでもいる」
おもちゃを求める子供はいくらでもいる。誰を持ち主とし、誰のもとへ行くか。
おもちゃだって、子供を選ぶ権利があったのだ。
ウッディは違った。
『トイ・ストーリー3』が描く「集団と個の対比」において、自分自身に居場所を奪われるという悩みは、ウッディが経験し得ないものだからだ。
『トイ・ストーリー2』で描かれたように、ウッディは貴重なヴィンテージのおもちゃであり、シリーズを通して同型の別個体が登場せず、そこにいるだけで特別な存在であり、また、いつだってアンディの大切な友達であり続けた。
子供部屋の他の仲間たちと違い、唯一アンディの手で選ばれて、大学行きの引越し段ボールに入れられる。
集団の中でも抜きん出た「個」を持つ存在ゆえに、仲間たちからも孤立し、自分も生き方を選択する権利があるのだということを、ウッディは分からないままでいた。
ウッディは作中で
「新しい子なんていらない」
「アンディが俺たちを大学とか屋根裏に連れて行きたいんなら、そこにいるのが仕事だ」
とはっきり述べている。
しかし、ウッディは『トイ・ストーリ2』では、ヴィンテージのおもちゃとして博物館に飾られる人生よりも、子供に遊んでもらうのがおもちゃの人生だとして、アンディの元へ帰ることを選んだのだ。
果たして屋根裏で機会を待つことが、本当におもちゃとして正しい選択なのだろうか。
かつてロッツォと一緒にデイジーのおもちゃであったピエロのチャックルズは、ロッツォの変化についてこう語る。
「ロッツォはもう、俺の友達じゃなかった。誰の友達でもなかった」
このセリフは、誰かの友達であることこそ、おもちゃとして使命なのだと語っている。
そしてラストシーンで、仲間たちと別れて大学行きのダンボールに入るウッディは、アンディと母親の会話を聞く。
「ずっと一緒にいられたらいいのに」
「そうだね、ママ」
日本語ではこのようなセリフになっているが、英語では
I wish I could always be with you.
You will be, Mom.
と語られており、アンディはただ同意しただけでなく、離れていてもいつもそばにいる、ということを確信したセリフとなっている。
ここでウッディは、アンディと自分に「時が流れても変わらないもの それは俺たちの絆 君は友達」という歌の通り、繋がっているものがあったことを思い出す。
そして仲間たちと自分に、新しい道を示すことを決意する。
仲間たちを愛してくれ、持ち主になってくれる存在が、自分にとってのアンディが、おもちゃには必要なのだと確信するのだ。
『トイ・ストーリー3』では、おもちゃ自身も、おもちゃの人生の主人公である、ということがはっきりと描かれている。
アンディしかいないと誓っていたウッディは、最後に自分で新しい持ち主を選び取った。
アンディが成長してしまったからだ、というのは表向きのストーリーラインだ。
実際にウッディが選んだのは、おもちゃとしてどう生きるか、という人生の選択である。
「アンディのおもちゃ」に固執するのではなく、ウッディは「おもちゃ」として生きたいのだと決めた。アンディと大学へ行って棚に飾られる人生ではなく、今度はボニーのおもちゃとして、遊んでもらい、同時に子供の友達でい続ける人生を選んだ。
では、アンディとの別れを選択したウッディは、これまでのウッディと違ってしまうのだろうか。
アンディはボニーに対し
「ウッディは強いカウボーイで、勇気がある優しいし賢い。
でもウッディの一番すごいところは、友達を見捨てないってこと。
絶対に何があってもそばにいてくれるんだ」
と語る。
ウッディをウッディたらしめるアイデンティティは、ヴィンテージのカウボーイ人形であることではない。子供部屋のリーダーであることでもない。
仲間を見捨てないウッディであること。
それがアンディの考えるウッディであり、最後のシーンで自分から大学ではなく仲間たちのいるダンボールに入ったことが、何よりのウッディらしさなのだ。
アンディとの物語が終わっても、ウッディはアンディが愛したウッディであり続ける。
前回の『トイ・ストーリー2』の解説で、ウッディがアンディとともに歩む時間はモラトリアム期だ、と紹介した。
アンディが親元を離れて独り立ちしたように、ウッディもまた、アンディの子供部屋という子供時代の象徴から出ることを選び、自分の人生の主役として、自己実現のために踏み出したのである。
CG技術の向上がもたらす新たな演出
1995年の『トイ・ストーリー』時点では、ロッツォのような毛に包まれたぬいぐるみは主要キャラとして登場しなかった。そもそも、Pixarがおもちゃの映画を最初の作品として選んだのは、当時のCG技術はプラスチックなどのマテリアルの表現が得意だったからである。
CGアニメでの毛の表現は非常に難しく、最初の『トイ・ストーリー』では技術が追いついていなかったが、『モンスターズ・インク』(2001年)での技術の飛躍によって、細かな体毛の表現が可能となり、ロッツォが生まれた。
ロッツォは『トイ・ストーリー』シリーズにとっては異質な存在だ。
抱き心地の良さそうなぬいぐるみは本来、優しさや愛情の象徴だが、この映画では見事にそれを逆手にとって、ヴィランとして登場して観客を驚かせる。
Pixarの他作品での技術の向上が、以後の映画の登場キャラクターに、レパートリーと深みを与えた好例と言える。
また、ぬいぐるみの描写が可能になったことで、本作ではスタジオジブリのトトロもカメオ出演している。
周囲を取り巻く環境も、1995年の『トイ・ストーリー』の頃はツルッとして光をよく反射させるアイビーなどの植物が採用されていたが、『トイ・ストーリー3』のボニーの家の庭では、芝生の質感や木々の間から漏れる柔らかな光が描写され、アンディとおもちゃたちの最後の遊びを彩った。
このシーンではおもちゃたちはルールに従いセリフがないが、彼らが至福のひとときを過ごしていることが画面から伝わってくる。同様の環境の演出はボニーの子供部屋でも見られた。ボニーのごっこ遊びでベッドの上に放り投げられるウッディは、セリフはなくとも、数年ぶりの遊びを心から楽しんでいることが分かる。
CG技術の向上によって、環境の演出も観客たちに感動を与えてくれる役割を果たしている。『トイ・ストーリー4』ではテーマに応じてこの演出がガラリと変化するため、次回の解説としたい。
本記事の筆者・佐伯真洋が齋藤隼飛と共訳した『ジ・アート・オブ トイ・ストーリー3』と『ジ・アート・オブ トイ・ストーリー4』は2026年6月30日発売。
映画『トイ・ストーリー3』はDVDとBlu-rayが発売中。
映画『トイ・ストーリー3』はDisney+で配信中。
第1作目『トイ・ストーリー』の考察はこちらから。
第2作目『トイ・ストーリー2』の考察はこちらから。
映画『トイ・ストーリー』のラスト解説&考察はこちらから。
映画『トイ・ストーリー2』のラスト解説&考察はこちらから。
映画『トイ・ストーリー3』のラスト解説&考察はこちらから。
『バズ・ライトイヤー』と『トイ・ストーリー』の繋がりについての考察はこちらから。
ピクサー映画『私がビーバーになる時』ラストの解説&感想はこちらから。
