ネタバレ解説&感想『ゲド戦記』ラストの意味は? 宮崎吾郎監督のメッセージを考察 | VG+ (バゴプラ)

ネタバレ解説&感想『ゲド戦記』ラストの意味は? 宮崎吾郎監督のメッセージを考察

(C) 2006 Ursula K. Le Guin/Keiko Niwa/Studio Ghibli, NDHDMT

宮崎吾郎初監督作『ゲド戦記』

ジブリパークが2022年に開園し、2023年には宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』が公開されるなど盛り上がりを見せているスタジオジブリ。その人気の一翼を担っているジブリパークの製作総指揮を務めた宮崎吾郎監督の初監督作品が2006年公開の『ゲド戦記』だ。

原作者アーシュラ・K・ル=グウィンからの厳しい評価や、父親である宮崎駿監督との確執などが注目されがちな映画『ゲド戦記』だが、その内容は不変的かつ普遍的なメッセージが隠されている。そこに注目することで映画『ゲド戦記』の評価は変わるかもしれない。

本記事では映画『ゲド戦記』のラストについて解説と考察、感想を述べていこう。なお、以下の内容は映画『ゲド戦記』の重大なネタバレを含むため、本編視聴後に読んでいただきたい。

注意
以下の内容は、虐待についての記述を含みます。
ネタバレ注意
以下の内容は、映画『ゲド戦記』の内容に関するネタバレを含みます。

映画『ゲド戦記』ネタバレ解説

二つの物語と真の名

宮崎吾郎初監督作品『ゲド戦記』は複数の物語がベースになっている。まず、一つはアーシュラ・K・ル=グウィン原作『ゲド戦記』(1968-2001)の第3巻『さいはての島』(1972)だ。そして、もう一つが宮崎吾郎監督の父親であり、日本アニメを語る上では外すことのできない宮崎駿監督のファンタジー絵物語『シュナの旅』(1983)だ。

原作と原案の二つを持つ映画『ゲド戦記』について、宮崎吾郎監督は『シュナの旅』の登場人物にアレンジを加えていって、『ゲド戦記』に近づけていったという旨の発言をしている。また、『ゲド戦記』と『シュナの旅』には共通点がある。それはアイデンティティを探求する物語であるということだ。

『ゲド戦記』の世界において、名前は強力な力を持っている。そのため、登場人物たちは本当の名前、いわゆる真の名を隠している。真の名が知られるということは相手に自分の魂を預けるのと同義であり、相手の真の名を知っているということは相手を支配しているか、相手とかなり親密な関係であることを意味している。

この文化は現実世界と共通点がある。たとえば日本にも忌み名という文化があった。他にも武家では子供の頃に名前を幼名で隠し、出世した際には主君から名前を一文字貰い、名前を変更するなど、名前が持つ力が信じられていた。

アイヌの人々の間では子供に敢えて汚い名前をつけて厄除けをし、成長してから名前を変える文化があったとされる。キリスト教でも神のことは名前では呼ばず、「我が主」など言い換えている。

映画『ゲド戦記』では、人間界に現われた竜の共喰い以外に、世界の均衡が崩れつつあることの象徴として真の名を忘れるという事件が起きていた。それは風の司という役職の人々が風や波の真の名を思い出せなくなっている様子として描かれている。

アレンとハイタカの旅

映画『ゲド戦記』の主人公はゲドというよりも、父親であるエンラッドの賢王を刺し殺してしまったアレンだ。タイトルにもなっているゲドとは、アレンを導くアースシーの大賢人ハイタカの真の名であり、映画『ゲド戦記』は大賢人ハイタカのもとで、アレンが自分の心の闇と向き合うことに焦点が当てられている。

父親を刺してしまい、エンラッドの王国から逃げ出してきたアレンは、世界の均衡が崩れていることについて調べているハイタカと共に旅に出ることになる。その旅を通して、アレンは父親を殺してしまった自分に向き合い、その闇とも向き合うことになっていく。

農村が廃れているのを見て嘆くハイタカだが、アレンは大都市ホートタウンの惨状を見て驚きを隠せない。確かにホートタウンは賑わっている。しかし、その賑わいは決して健全なものではない。奴隷商人が闊歩し、アースシー世界における麻薬に相当するハジアに首まで使った人々がそこら中に倒れている。

まじない師がまがい物を売る露天商にまで落ちぶれ、魔法を信じる者は減りつつある。ハイタカはそれでも魔法使いを続け、世界の均衡の崩壊を調べているのだ。アレンはハイタカとの旅を通して世界の均衡が崩壊していく様子を目の当たりにしてしまう。

人狩りと学習性無力感

アレンは火傷の痕がある少女を人狩りから救い出すが、その晩、路上で眠りに落ちた際に人狩りに捕まってしまう。そこを救いに来たのは眩い光を放つハイタカだった。魔法の力で人狩りを制するハイタカだったが、アレンと同様に捕まっていた人々も解放するも、彼らは荷馬車を降りようとしない。

ここで人狩りに捕まった人々が逃げ出さないのには理由がある。彼らは再び人狩りに捕まること、そして捕まった際にさらなる罰を受けることをひどく恐れているのだ。これは原案である『シュナの旅』でも描写された演出である。

一度、奴隷にされた人間の心についた傷はそう簡単には癒えない。このようになぜ罰せられるのかわからないにも関わらず、それが繰り返されることで「何をやっても無駄だ」という感情に陥ることを学習性無力感という。受け続けた仕打ちによる反動で、どんな可能性さえも「無駄な努力」と考え、自発的に行動をしなくなってしまうのだ。

人狩りに攫われた人々が逃げ出さないのはこの学習性無力感が影響していると考察できる。ハイタカが探している世界の均衡の崩壊の原因としてハジアの蔓延など、世界全体に広がる学習性無力感の解決法を探しているとも考察できる。宮崎吾郎監督の描くアースシーは学習性無力感によって病んでいるのではないだろうか。

テルーとの出会い

人狩りのせいで傷ついたアレンをハイタカはテナーのもとに連れていく。テナーはハイタカのことをゲドと呼ぶなど、親密な関係であることがうかがえる。前述の通り、アースシーにおいて真の名を他人に教えることは非常に危険だ。それを冒してでも、ハイタカがテナーに真の名を教えたということは彼女を信頼していることが考察できる。

原作『ゲド戦記』ではテナーはアチュアン島の墓地の巫女アルハであり、数少ない真の名を公にしている人物である。アチュアン島は魔法を忌み嫌う野蛮なカルガド帝国にあり、テナーはハイタカの活躍によって巫女という立場から救い出されたとされている。

ハイタカによって光の中へと救い出されたとテナーは語っているが、おそらくこのことを言っていると考察できる。映画『ゲド戦記』は壮年のハイタカの物語であり、若き日のハイタカは快活で英雄的な人物だったことが読み取れる。

ハイタカはアレンの心身の傷の具合を見て、信頼できるテナーのもとに身を寄せることにする。彼女のもとで農作業に励むアレンは自然と向き合うことで、世界の均衡について学ぶことになる。アレンはハイタカに魔法使いが魔法を使わずに農作業をするのかと尋ねるが、ハイタカは魔法をむやみに使ってはいけないと説くのだった。

テナーのもとで暮らしていた火傷の少女、テルーと偶然の再会を果たしたアレンは、テルーから「命を大切にしない奴なんか大嫌いだ」という言葉を投げつけられてしまう。これまでアレンは人狩りに襲われたときや、父親を殺したときに自分を含めた命を軽視することがあった。

命を軽視する性格を見抜かれたアレンは深く考え込むことになる。テナーの口からテルーは被虐待児であり、火傷は虐待が原因だと知らされたアレンはテルーが命を軽視する人間を嫌う理由を知った。ここでテルーが歌うが、テルーの唄は映画『ゲド戦記』のオリジナル演出だ。原作『ゲド戦記』のテルーは火傷で片目がつぶれ、手は鉤爪のように曲がり、喉も潰れているという設定になっている。

映画『ゲド戦記』ラストネタバレ解説

魔法使いクモ

世界の均衡を崩そうとしている魔法使いクモを追って家を出たハイタカと、自分の心の闇に怯えて家から逃げ出したアレン。二人が家を留守にしている間にクモの部下の人狩りによってテナーが連れ去られてしまう。

さらには心の影と分裂したアレンの本体はクモによって館に連れ去られてしまった。クモは大賢人ハイタカを弱らせるために、親しい人物を人質に取るなど、その外堀を埋めていったのだ。

魔法を使えるものが減っていく世界で、数少ない魔法を使える魔法使いクモは永遠の命を求めていた。クモは生死の両界の扉を開くことが出来ると語り、アレンにハイタカが永遠の命を求めていると嘘を吹き込む。そしてアレンの真の名であるレバンネンを引き出し、彼を支配するのだった。

魔法を使いこなすクモだが、人狩りを配下に持つ彼ですら大賢人ハイタカは恐ろしい存在だったと考察できる。魔法を乱用せず、世界の均衡を重んじるハイタカは、正義感が強く、調和を重視する姿勢が見て取れる。それがクモにとって恐怖だったのではないだろうか。

事実、クモはかつてハイタカの逆鱗に触れている。クモはかつてハブナーのクモと呼ばれる魔法使いであり、金さえ払えばパルンの知恵の書で死人をよみがえらせていた。しかし、ハイタカの師匠をよみがえらせたことで、魂を弄んでいると義憤に燃えるハイタカによって黄泉の国の恐怖の底に突き落とされたのだった。

性善説を信じているのか、ハイタカはそれでクモが改心したと思っていた。しかし、クモは復讐の機会をうかがっており、世界各地の古の魔法の書をかき集め、生死両界の扉を開ける方法を探していた。

ここでクモは過去に囚われた人物であることが読み取れるが、ハイタカは未来に希望を抱いている人物であることが考察できる。ハイタカとクモはどちらも強力な魔法使いだが、見ている先は正反対の人物だと考えられる。

ハイタカとアレンの戦い

永遠不滅の存在になろうとするクモと、生と死の繰り返しこそが生命の根幹だと唱えるハイタカ。二人は対峙し、今にも決戦が始まろうかという緊張感の中、クモは刺客を差し向ける。その刺客こそ、レバンネンという真の名を知られて支配されたアレンだった。死を恐れるがあまり、アレンの目は曇ってしまっている。

魔法をみだりに使わないハイタカを倒すために、クモはハイタカと親しいアレンを差し向けたと考察できる。クモはハイタカを内心恐れており、直接対決を避けているように感じられる展開だ。人狩りの心臓を文字通り握るクモだが、大賢人ハイタカにはトラウマからか、ひどい恐怖心を抱いているのかもしれない。

アレンは閉塞感や不安に雁字搦めになり、自分を取り巻く世界の象徴である父親を刺し殺してしまった。ハイタカはそれを見抜き、死を拒絶することは生を拒絶することと同じであり、この人生というものは天からの授かりものだと説く。それによってアレンを落ち着かせることに成功したが、クモの魔術によって隙を突かれたハイタカは捕まってしまう。

そもそも、クモの館そのものがクモの仕掛けた壮大な罠だったのだ。テナーを攫ってハイタカを誘き出し、アレンによって混乱させる。その隙に館に仕掛けられた魔法でハイタカの魔法の力を奪う。

巧妙な罠だが、裏を返せばハイタカはクモにとって巨大な罠を仕掛けなければならないほど強力な存在だったと言える。そこに目を向けると永遠の命を欲する、部下の心臓を握って支配するなど、クモが実はハイタカが克服した弱い心を克服できていない人物であることが考察できる。

アレンの影

アレンの父親の形見であり、魔法で鍛えられた剣をハイタカから託されたテルーはアレンの影に導かれる。月明りに照らされるアレンの影は自分の正体を語る。前述の通り、アレンは不安で心がいっぱいになり、父親を刺してしまった。それは不安を糧に心の闇が増大したためであり、心の闇が身体の主導権を奪ってしまったのだ。

心の闇が主導権を握ったことで、アレンの心を照らす光は分裂し、アレンの身体を追いかけるだけの影になってしまったのだった。これは映画『ゲド戦記』のオリジナルの演出である。原作『ゲド戦記』では影は若きハイタカの心の闇(憎しみや傲慢)として描かれている。

対照的に映画『ゲド戦記』では影の正体はアレンを支配する心の闇によって追い出された光とされている。原作では心の闇を受け入れたとき、ハイタカは大人となっていく。そうして原作『ゲド戦記』では、ハイタカは大賢人になった。

映画『ゲド戦記』ではテルーの「レバンネン、そうして命はずっと続いていくんだよ」と語りかけられたことで心に光が戻る。この演出について、原作者であるアーシュラ・K・ル=グウィンはアレンが分裂した理由が不明確だと批判している。

腕を切り落とす意味

テルーはアレンに真の名がテハヌーであることを明かし、二人はハイタカとテナーの処刑を阻止しようと走る。しかし、クモに真の名を握られているアレンは呼び出しの術で追い詰められてしまう。苦しむ最中、はじめて命を意識して剣を抜こうとしたことで、剣はそれに応えるかのようにその白刃を晒すのだった。

アレンはクモに切りかかり、その腕を切り落とす。腕を切り落とすという行為には古今東西、力を奪うという意味が込められている。西洋では8世紀頃の叙事詩『ベーオウルフ』で、主人公ベーオウルフが怪物グレンデルの片腕をもぐことで倒している。

日本では国譲りの際にタケミナカタが相撲で腕を失い、それによって諏訪の国に逃げる様子が神話として残されている。これは相撲のはじまりとされる神話で、ここでも腕を失うことが弱体化の象徴として描写されている。

クモも同じように、杖を握っていた腕を切り落とされると途端に老けていき、部下を失い、自分が何故永遠不滅の存在になりたいかを吐露する。その理由はハイタカへの復讐心であった。

怪物になり果て、テルーを人質に取り、生きながらえようとする姿は恐ろしさよりも心の弱さを感じさせる。クモは偉大な賢人などではなく、ただ死を恐れている老人に過ぎないのだ。

テルーの正体

朝焼けに照らされ、死んでしまったと思われていたテルーが立ち上がる。後光が差す中でテルーは竜へと姿を変え、魔法で永遠の命を求めていたクモを焼き払うのだった。原作『ゲド戦記』では竜は真の名しか持たず、魔法を扱う存在だとされている。テルーはある意味ではイレギュラーな竜であり、人間の親を持ち、忌み名を持つ竜だったのだ。

テハヌーは原作『ゲド戦記』において最長老にして竜族の長を務める竜カレシンの娘だとされており、テルーが真の名をアレンに伝えたときに姿を見せた金色の竜が映画『ゲド戦記』におけるカレシンだと考察できる。

一方で、この最長老カレシンはテハヌーと同じく鉄色の鱗を持つため、金色の竜は原作『ゲド戦記』でクモとの戦いに馳せ参じたオーム・エンバーという竜ではないかという考察もある。

また、原作『ゲド戦記』においてテルーは片腕が不自由であり、映画『ゲド戦記』ではテハヌーとして竜の姿になったときには腕の傷は無くなっている。これは前述の通り、腕が不自由であることが宗教学では力の喪失を表現しているためだと考察できる。

テルーは人間になっていたことで竜としての力を失っていた。だが、テハヌーとしてよみがえったときには竜として魔法の力が戻ったため、竜のテハヌーには腕の傷が無いのだと考えられる。

テハヌーによって飛び立ったアレンはハイタカとテナーのもとに戻り、春の農作業を手伝った後に自分の罪を償うべく、故郷に帰る決心をする。そうして、テナーの家から逃げ出すのではなく、旅立つアレンの姿を描いて映画『ゲド戦記』は終わるのだった。

映画『ゲド戦記』ネタバレ感想&考察

映画『ゲド戦記』に込められたメッセージとは何か

映画『ゲド戦記』は原作『ゲド戦記』を書いたアーシュラ・K・ル=グウィンから「私の本ではない。吾朗の映画だ」と語られ、厳しい評価を下していることが注目されがちだ。しかし、アレンやテルー、クモには民話や神話などにも通じるメッセージ性があることが考察できる。宮崎吾郎監督はこのメッセージを描きたかったのではないだろうか。

まず、アレンが社会からの抑圧により、尊敬していた父親を殺害してしまうのは心理学者ジークムント・フロイトのエディプスコンプレックスで語られる「父殺し」だと考えられる。フロイトは男児は母親を手に入れ、父親と同じ立ち位置になろうとすると考えた。そして男児は父親の強さを求めて、同一化しようとするがそこで父親の恐ろしさにも気が付く。そこで去勢される不安を感じ、これを克服して独立していくとフロイトは考えていた。

アレンの父親は賢王と呼ばれるほど優れた君主だったが、それがアレンに不安という形でのしかかり、キャッチコピーになっている通りの「父さえいなければ、生きられると思った。」という感情に陥らせたと考察できる。

そして映画『ゲド戦記』のラストではアレンは父殺しが罪であり、父親を超えたわけではないと受け入れ、前に進んでいくことが描かれたとも考察できる。本当の意味で父親を超えるためのアレンの旅はここから始まるのかもしれない。

他にも名前が持つ力や腕の喪失など、宗教的なシンボルが映画『ゲド戦記』には散りばめられていると考えられる。宮崎吾郎監督は宮崎駿への父殺しではないと語っているが、「パトレイバー」シリーズで有名な押井守監督は厳しい評価の中で最初の一本としては良い映画として評価し、宮崎吾郎監督は本当の父殺しの映画を撮るべきだと語っている。

映画『ゲド戦記』は平凡な映画だと評価されることが多いが、神話や伝説で語られるようなメッセージが込められている映画だと言えるのではないだろうか。宮﨑吾郎監督が描きたかったであろうメッセージ性に注目して映画『ゲド戦記』を観直すと、新しい発見が得られるのかもしれない。

世界の均衡はどうなった?

映画『ゲド戦記』では、世界の均衡を壊し、生と死の両界の扉を開けようとしていたクモを倒すことで一時的に世界の均衡が崩れゆくのを止めることが出来た。しかし、ハイタカの人生をかけた目的である世界の均衡を取り戻すことはクモを倒しただけでは達成されていない。

クモはハイタカと対峙したときに、自分が世界の均衡を破壊せずとも、人間の際限のない欲望によって世界の均衡は崩れゆくと語っている。事実、クモの部下のウサギ以外にも奴隷商人たちはホートタウンに溢れ返っており、世界各地に麻薬であるハジアは広まっている。

世界の均衡を壊しているのはクモだけではないのだ。ある意味では人狩りの際に触れた学習性無力感が世界の均衡を壊しているとも考察できる。クモが直接手を下さずとも、世界の均衡は崩れはじめていたのかもしれない。

また、ハイタカはテナーに魔法の力が弱まっていると語っている。映画『ゲド戦記』では魔法を信じる者も減り、魔法を使えなくなる者も増えていることをホートタウンのまじない師が語っている。映画『ゲド戦記』のアースシー世界は大きな転換期が訪れているのかもしれない。

 

映画『ゲド戦記』はBlu-rayが発売中。

ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
¥6,055 (2025/03/25 14:12:12時点 Amazon調べ-詳細)

映画『ゲド戦記』の声優キャストはこちらの記事で。

宮崎吾朗監督作『アーヤと魔女』の声優キャストはこちらの記事で。

宮崎吾朗監督作『アーヤと魔女』のラスト解説&考察はこちらの記事で。

『ハウルの動く城』の声優陣はこちらから。

『ハウルの動く城』の解説&考察はこちらから。

『魔女の宅急便』の声優キャストはこちらから。

『魔女の宅急便』の解説&考察はこちらから。

鯨ヶ岬 勇士

1998生まれのZ世代。好きだった映画鑑賞やドラマ鑑賞が高じ、その国の政治問題や差別問題に興味を持つようになり、それらのニュースを追うようになる。趣味は細々と小説を書くこと。
お問い合わせ

関連記事

  1. 『アリータ』から『アンダン』へ——『アンダン〜時を超える者〜』アルマを演じたローサ・サラザールの表現力

  2. 『ポケモンコンシェルジュ』が12月28日よりNetflixで独占配信 完全新作のストップモーションアニメ

  3. 『X-MEN‘97』にデッドプールは登場する? スタジオ幹部が語る今後の展望

  4. ネタバレ! あの登場人物に注目『君たちはどう生きるか』のキーになったキャラクターを考察