1992年公開の映画『紅の豚』
1992年に公開された映画『紅の豚』は、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979) から数えて、宮崎駿監督の長編アニメーション映画の第6作目にあたる。スタジオジブリでは『魔女の宅急便』(1989) からアニメーターの正社員雇用を導入し、制作体制が変化するとともに、常にヒット作を生み出し続けなければならないという宿命を背負った時期でもある。
『紅の豚』からは日本テレビとの連携が以前よりも強化され、2024年には日本テレビがスタジオジブリを子会社化している。スタジオジブリの作品としても転換点とも言える『紅の豚』。今回は、そのラストの展開を中心に時代背景や気になるポイントを解説および考察し、感想を記していこう。なお、以下の内容はネタバレを含むため、必ず本編を視聴してから読んでいただきたい。
以下の内容は、映画『紅の豚』の内容に関するネタバレを含みます。
Contents
『紅の豚』ネタバレ解説
『紅の豚』の時代背景は?
「金曜ロードショー」公式サイトによると、映画『紅の豚』は世界恐慌の真っ只中のイタリア・アドリア海が舞台とされている。世界恐慌とは1929年にアメリカで沖田ウォール街大暴落に端を発する世界的な不況のことで、1930年代後半まで続いた。アメリカが大幅な関税引き上げを行なったことも世界的な恐慌の一因となった。
結局、アメリカ経済は政府が財政支出を増やして公共事業による雇用を増やすニューディール政策を経て、第二次世界大戦によって大規模な財政支出が生まれたことで本格的に復活を遂げる。不況と戦争が隣り合わせにあった時代で、実は2025年現在と似た時代でもある。
そんな時代に『紅の豚』のポルコ・ルッソは赤い飛行艇を操る賞金稼ぎとして生きている。ポルコは第一次世界大戦で活躍したイタリア空軍のパイロットだったが、退役してからは豚の姿になり気ままに暮らしている。
なお、「金曜ロードショー」公式では「世界恐慌の真っ只中」とされているが、劇中でポルコは1929年に発行された「フィルム」誌を読んでいる。このことから、1929年より後が舞台であることは確実だ。
イタリアでは1922年にクーデターによってムッソリーニの国家ファシスト党による独裁政権が誕生。その政権は第二次世界大戦まで続く。『紅の豚』では、戦友のフェラーリンから「空軍に戻れよ」と誘われたポルコは、「ファシストになるより豚の方がマシさ」と返しており、国に属する=ファシスト政権の配下に入るという認識を見せている。
気ままに生きていたポルコだが、気にかけているのはホテル・アドリアーノを経営するマダム・ジーナだ。これまでに三人の飛行艇乗りと結婚したが全員亡くなっており、ジーナは密かにポルコに思いを寄せている。ポルコがそれに応えないのは、一人目の夫が戦友のベルリーニであったこともあるだろうが、自分が“四人目”となってジーナを悲しませることを恐れているとも考えられる。
そんな日々に変化をもたらしたのはアメリカの飛行艇乗りであるカーチスだ。賞金稼ぎのポルコにしてやられていた空賊連合はカーチスを用心棒として雇い、ポルコの撃墜に成功。ポルコは飛行艇を修理に持ち込んだピッコロ社で17歳のフィオと出会い、フィオに修理を任せることに。
ファシスト政権に非協力的だったポルコは秘密警察に追われ、フィオと共に隠れ家へ戻るが、そこでカーチスと空賊の待ち伏せをくらってしまう。カーチスはフィオに一目惚れし、ポルコとカーチスはフィオを賭けた一騎打ちの戦いに挑むことになる。フィオは完全に“トロフィー”扱いだが、この辺りについては感想部分で詳述しよう。
「飛ばねぇ豚はただの豚だ」の意味
こうした流れの中で、ポルコは「飛ばねぇ豚はただの豚だ」というジブリ史に残る名言を口にする。この場面は、ポルコが初めてカーチスとドッグファイトを繰り広げ、墜落させられた後にジーナへ電話をかけた際に出た言葉だ。
カーチスへの伝言を頼むポルコに、ジーナは心配していたのに伝言係のような用を頼まれたことに激怒。ポルコが空で死ぬことを恐れるジーナに、ポルコは「飛ばねぇ豚はただの豚だ」と返すのだ。では、「飛ばねぇ豚はただの豚だ」とはどういう意味なのだろうか。
『紅の豚』の劇中の時代背景に加え、もう一点重要なのは、『紅の豚』が製作された時代の背景だ。『紅の豚』が製作されたのは1990年に勃発した湾岸戦争の時期であり、劇中における“戦争”が占める割合に影響を与えたとされている。同じ宮崎駿監督の映画『ハウルの動く城』(2004) も製作中にイラク戦争が開戦しており、戦争というテーマが色濃く反映されている。
『紅の豚』の主人公ポルコは、宮崎駿監督が自分自身を投影したキャラクターとされている。つまり、パーソナルな作品ではあるのだが、その時代の社会の在り方に影響を受けた宮崎駿監督の意識が投影されているとも言える。
同じ時期に起きた世界的な事件といえば、1991年のソ連崩壊だ。宮崎駿が社会主義者であったことは広く知られている。宮崎駿自身、書籍『時代の風音』(1992) で「心情的左翼だった自分が、経済的繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間にだけはなりたくありませんでした」と語っている。
もっとも、宮崎駿監督はソ連も中国も米国も嫌いだと発言している。一方で、1992年頃は中国も改革開放で市場経済に移行し、巨大な社会主義国が「没落」していった時期でもある。「転向」して「理想のない現実主義者の仲間」になりたくなかったと語る宮崎駿監督がその時期に自分を投影して描いたのが、豚になった飛行艇乗りだった。
この背景を踏まえると、宮崎駿監督は社会主義者として敗北した自分を“豚”として描きながらも、それでも現実主義者にならずに理想を追ってアニメを作り続ける自分をポルコに重ね合わせたのだと考えられる。「飛ばねぇ豚はただの豚だ」は、言い換えれば「アニメを作らない理想主義者はただの(敗れた)理想主義者だ」という意味だったのではないだろうか。
映画『魔女の宅急便』では、絵を描くことと魔法で飛ぶことが並列で語られた。宮崎駿が82歳の時に公開された映画『君たちはどう生きるか』(2023) では、年老いたペリカンが「翼が折れた、もう飛べぬ」と言うシーンがある。そして、『紅の豚』では、ポルコがベティ・ブープ風、またはディズニー風の欧米のアニメ映画を観たポルコが「ひでえ映画じゃねえか」と不満を漏らす場面がある。これらを踏まえると、やはり宮崎作品では“飛ぶこと”と“アニメを作ること”は結びつけて描かれていると考えられる。
そうした、理想は捨てないが社会からは孤立しているというスレた感覚は、『紅の豚』の随所に見られる。フェラーリンの「国家とか民族とかくだらないスポンサーを背負って飛ぶしかないないんだよ」という言葉が世間の声だとするならば、ポルコの「ファシストになるより豚の方がマシだ」、愛国債券の購入を勧められた時の「そういうことはな、人間同士でやんな」「豚に国も法律もねぇよ」といったセリフは、自分を資本主義・市場主義の社会に巻き込んでくれるなという叫びのようにも聞こえるのである。
『紅の豚』ラストをネタバレ解説&考察
ポルコは人間に戻った?
映画『紅の豚』では、カーチスとの決戦を控えたポルコが弾丸のチェックをしている際に、フィオは人間の姿に戻ったポルコの姿を目にする。その姿はすぐに豚に戻るのだが、ポルコは戦友のベルリーニを失った過去について話し始める。
戦争の最後の夏に仲間たちとアドリア海の上空を飛んでいた。この時、マルコ(人間の時のポルコの名前)と一緒に飛んでいたのがジーナの一人目の夫のベルリーニだった。ジーナとベルリーニは2日前に結婚したばかりだったが、すぐに戦場に戻らなければならず、その道中で3機の敵機に遭遇して戦闘が発生したという。
気づけば残ったのはマルコだけで、目の前が真っ白になると、マルコは雲の平原の中にいた。周囲には仲間たちの艇が飛んでおり、その中にはベルリーニの姿も。そこは生と死の境目の世界だったのだろう。マルコはジーナを置いて天に昇ろうとするベルリーニに、自分が代わりに行くと訴えるが、気がつけば自分一人が海面スレスレを飛んでいたという。
自分だけ死ぬことができず、神から見放されたように感じたというポルコ。その後、マルコはイタリア空軍を抜けて、豚の姿になる。ポルコがいつ豚になったのかは明言されていないが、当時のパンフレットでは、マルコは軍に戻ることを拒否して自分に魔法をかけたとされている。
そして、ポルコとカーチスは最終的に殴り合いで試合を決し、ジーナの呼びかけで立ち上がったポルコが勝利。イタリア空軍が迫る中、フィオは去り際にポルコにキスをする。ポルコとカーチスは一緒にイタリア空軍を「他所に引っ張る」ことで共闘しようとするが、その時、ポルコを見たカーチスは「お前、その顔!」と驚くのだった。
つまり、カーチスが見たポルコの顔は人間に戻っていたのである。ポルコが人間の姿に戻ったのは、弾丸の手入れをしていた時と、最後のカーチスとのシーンだ。『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(2001) では、宮崎駿監督はポルコはこの後すぐに豚に戻ったと語っている。では、ポルコが人間に戻る条件とはどういったものなのだろうか。
ポルコはなぜ豚になったのか
フィオはポルコにキスをすれば人間に戻るかもしれないと語っていた。確かに『紅の豚』のラストでポルコが人間の姿に戻ったのは、フィオがキスをした後ではある。だが、それでは弾丸の手入れをしているときに一瞬人間に戻ったことや、その後にポルコがまた豚に戻ったという宮崎駿監督の話に説明がつかなくなる。
ポルコが一瞬だけでも人間の姿に戻った場面に共通するのは、ポルコが空軍時代の過去や他者といった自分が避けてきたものと向き合おうとしているという点だ。ポルコには軍人ではないので殺しはやらないという信念があった。だが、弾丸をチェックする時間は、人を殺しうる兵器と向き合う時間であり、故にポルコは空軍時代の自分、つまり人間の姿に戻っていたのではないだろうか。
最後にカーチスと協力してイタリア空軍を「他所に引っ張る」場面では、ポルコはその直前にフィオのために戦い、ジーナの声で立ち上がり、カーチスに勝利した。フィオからキスをされたというのも流れの中に組み込まれているが、その上で空賊達を無事に逃すためにカーチスとも協力するという展開は、ここまで孤独を好んできたポルコの姿からは想像できない展開だ。
戦争で共を失い、自分だけが生き延びてしまったポルコ。ジーナを未亡人にしてしまい、空軍に戻らず、社会から孤立しながら豚として生きることを決めたポルコ。そのポルコが自分の過去と向き合い、他者との関わりを回復しかけたときにポルコは人間の姿を取り戻したのだろう。だが、人間に戻ることがポルコの幸せとは限らない。
ポルコのその後、「ジーナさんの賭け」とは?
映画『紅の豚』のラストは、フィオのモノローグで閉じられる。イタリア空軍の出動は空振りに終わった=ポルコは捕まらなかったようだが、フィオがミラノに帰る日になってもポルコはフィオの前に現れなかったという。フィオとジーナは友人になり、フィオがピッコロ社を引き継いだ後も夏の休暇はホテル・アドリアーノで過ごしているという。カーチスもアメリカで俳優として成功しているようで、時折手紙を送ってくるらしい。
最後にフィオが「どうなったかは私たちだけの秘密」としている「ジーナさんの賭け」というのは、中盤でジーナがカーチスに語っていたものだ。ポルコはいつも夜のお店にしか来ないが、ジーナが昼に庭にいるときにポルコが訪ねてきたら、ポルコを愛そうと賭けをしていると明かしている。
つまり、ポルコが昼間にジーナの前に現れて、ジーナがポルコを愛することになったのかどうかは、ジーナとフィオの間の秘密だということである。『紅の豚』の最後には、フィオとジーナは共にポルコに好意を寄せているが、ポルコはどんな道を選んだのだろうか。
宮崎駿は先の書籍で豚に戻ったポルコのその後として、「飯を食いにジーナの前に現れる」とも語っている。「飯を食いに」ということは、庭ではなくお店に顔を出しているのだろう。それに、ポルコが豚であり続けているということは、過去とは向き合わず、他者に内面に立ち入らせずに気ままに空を飛んでいるということだと考えられる。ポルコはきっと、「飛ぶ豚」であることを選んだのだろう。
『紅の豚』ネタバレ感想
ジェンダー描写は…
映画『紅の豚』は、示唆に富んだ余白のある作品で、ストーリー以外の点でも、公開から30年以上が経過した今見ても新鮮なドッグファイトのアクション、久石譲の音楽に加藤登紀子が歌う主題歌「さくらんぼの実る頃」など、多くの魅力を持つ作品だ。
一方でやはり気になるのはジェンダー描写である。ステレオタイプな女性観を持っている主人公のポルコに対し、それに屈しない「自立した女性」としてジーナとフィオが描かれる。当時としては、これはこれで進歩的な描き方だったのかもしれないが、2025年になって観ると古臭さは否めない。
『紅の豚』の終盤、フィオは「俺たちの敬愛するフィオ・ピッコロ嬢の運命が決まる決戦」と勝手に運命を決められ、「景品がいなくなっちゃダメだよ」とトロフィー扱いされる。周囲が女性を神聖視したり物扱いしたり役立たず扱いしてたりしても、ジーナとフィオはそれを軽くいなして折れることがない。
現実であればハラスメントをした男性は無視されるか、叱られた上で社会的に制裁を受けるが、ジーナとフィオは「言いなりにならない」という一線だけを守りながら男性達の欲望を受け止める役割を担っている。ジーナとフィオが「言いなりにならない」「反撃する」という設定は、女性にそういうリアクションをしてほしい、強い女性像であってほしいという作り手の欲望が透けて見えてしまう。
言い返してくれる=相手にしてくれる人は、最も「都合の良い相手」でもある。故に相手にしてもらえる男性達は反省することはなく、ジーナとフィオから本気で嫌われるキャラクターは『紅の豚』には登場しない。
ポルコ自身も、17歳のフィオとホテルオーナーのマダム・ジーナのダブルヒロインから惚れられるというハーレムエンドを迎える。その上で、どちらかを選んでどちらかを失うという選択を迫られることもない。やはりここにも男性のとっての「都合の良さ」が感じられる。
異色の作品でもある『紅の豚』
一方で、バァちゃんを含む女性達がポルコの飛行艇を作り上げるという展開は、スタジオジブリのアニメーターに女性スタッフが多かったことを反映させた設定だと考えられる。また、ラストのフィオを連れて去っていくジーナのカッコ良さは多くの人が認めるところだろう。
女性主人公の作品が多いジブリ作品の中で、ダンディズムに溢れる主人公を置いた異色の作品でもある『紅の豚』。戦争と国家、自由や理想を追求して生きることをテーマにした、深いメッセージ性を持つ作品であることも事実だ。皆さんは『紅の豚』をどう観ただろうか。
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