映画『正体』公開
染井為人の原作小説を映画化した『正体』が2024年11月29日(金) より劇場で公開された。映画『新聞記者』(2019) で日本アカデミー賞最優秀作品賞を含む6部門受賞を果たした藤井道人監督が指揮を執り、Netflixドラマ『新聞記者』(2022) などでタッグを組んできた小寺和久が脚本、アニメ『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(2022-2023) などの大間々昂が音楽を手がける。
主演は『烈車戦隊トッキュウジャー』(2014) のヒカリ/トッキュウ4号役以降数々の作品で主演を務めてきた横浜流星。2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で主人公の蔦屋重三郎を演じることも決定しており、押しも押されもせぬスター俳優の一人だ。
脇を固める俳優陣も吉岡里帆、山田孝之、松重豊、田中哲司ら実力派俳優から森本慎太郎、山田杏奈、前田公輝ら若手俳優まで豪華キャストが揃っている。磐石の布陣で映画化された『正体』はどんな作品になったのだろうか。今回はネタバレありで解説と感想を記していこう。なお、以下の内容は『正体』の結末についてのネタバレを含むので、必ず劇場で本編を鑑賞してから読んでいただきたい。
以下の内容は、映画『正体』の結末に関するネタバレを含みます。
Contents
映画『正体』ネタバレ解説
鏑木と又貫の物語
映画『正体』は、横浜流星演じる死刑囚の鏑木(かぶらぎ)慶一と、山田孝之演じる刑事の又貫征吾の二人のストーリーがメインで進んでいく。又貫は鏑木が容疑者となった一家殺人事件の捜査を担当していたが、松重豊演じる警視庁刑事部長の川田誠一の指示で鏑木を犯人と断定して捜査を進めるよう指示を受けていた。
映画『正体』には、「踊る大捜査線」以来の警察組織における上司と現場の刑事の間の軋轢という要素も盛り込まれている。だが、『正体』のユニークな点は、高校生だった鏑木を死刑判決に追い込んだ刑事の又貫の心が徐々に揺らいでいくことだ。
又貫はショック状態にあった被害者遺族から無理に証言を取るなど、上司に命じられて無理に進めた捜査に対して後ろめたさを持っていたと考えられる。吉岡里帆演じる安藤沙耶香の家で鏑木を追い込んだ時に、又貫は発砲することができなかった。本当に鏑木は有罪なのかという迷いがあったからだろう。
鏑木の足取り
一方、脱獄した鏑木は大阪の建設現場から新宿のメディア会社、長野県の水産加工工場、茨城県のケア施設を渡り歩いている。ちなみに原作小説では建設会社→メディア会社→パン工場&宗教団体→老人ホームを渡り歩いている。
映画『正体』では、鏑木は、建設現場でベンゾー、メディア会社で那須、水産加工工場で久間、ケア施設で桜井と名乗っており、各地で出会った人々はそれぞれ異なる印象を持っていた。だが、安藤沙耶香をはじめとする鏑木を知った人々は、次第に鏑木が冤罪ではないかと思うようになっていく。
中でも大きな役割を果たす安藤沙耶香は、冤罪被害者で弁護士の安藤淳二を父に持っている。安藤淳二は原作小説では渡辺淳二という名前で、安藤沙耶香とは無関係の人物だ。二人が親子という設定は映画オリジナルのもので、演じた吉岡里帆が脚本を読んで安藤沙耶香が鏑木を冤罪だと信じるに足る根拠が必要だと進言し、父が冤罪被害者という改変を製作陣が加えたという。
映画『正体』ラストをネタバレ解説
鏑木の目的と正体
映画『正体』の終盤では、又貫が鏑木の動きには意味があることに気が付く。鏑木は大阪の現場仕事で資金を集めた後、メディア会社で自分が巻き込まれた事件の情報を集め、鏑木が犯人だと証言した被害者遺族の井尾由子の居場所を水産加工工場で井尾の笹原浩子に聞き、井尾由子が入居していた茨城のケア施設を訪れていたのである。
鏑木はケア施設で井尾由子に自分が犯人ではないという証言をしてもらおうとしていた。そんな鏑木の足取りが刑事の又貫にバレていくのは、ほかでもない鏑木自身が他者と関わることを止めようとしなかったからだ。
普通逃亡犯というのは人と深い関わりを持つことを避けるものだが、鏑木は大阪で野々村和也と友達になり、新宿で安藤沙耶香に居候させてもらい、茨城で酒井舞に地元を案内してもらっていた。逃亡犯としては命取りになる行動だが、鏑木が他者に素の自分=“正体”を見せていたことが鏑木自身を助けることになる。
犯人は…
映画『正体』のクライマックスでは、鏑木はケア施設に立てこもり、SNSのライブ配信で目撃者の井尾由子から犯人は鏑木ではないという証言を得ようとする。作中でテレビで事件が報じられるシーンが多かったことから、「SNSで真実を伝える」という手法が対比として効果的になっている。このシーンの横浜流星の迫真の演技は流石だ。
奇しくも『正体』の製作にTBSが入っていることから実在するワイドショーの『ゴゴスマ』(2013-) などが登場するが、テレビは真実を伝えられず、鏑木本人が世間に発信するという形が成立している。最近話題になっている「テレビ vs SNS」の構図を彷彿とさせるものだが、制作時点では今ほどの状況になっているとは製作陣も想像だにしていなかっただろう。
井尾由子は事件当日のこと、類似事件で逮捕された足利清人が犯人だったことを思い出すが、証言は得られないまま警察が突入する。真犯人の足利役で怪演を見せた山中崇は藤井道人監督作品の常連で、山田孝之がプロデューサーと共同脚本を手がけた藤井道人監督作品『デイアンドナイト』(2019) にも出演している。
鏑木は警察に包囲されると、前田公輝演じる井澄正平が発砲して右肩を撃たれてしまう。ここでも又貫が発砲できなかったのは、やはり鏑木に冤罪の可能性があると考えたからだろう。井澄と違って又貫は、上司から直接命令を受けて冤罪事件を作り出していた張本人だったからだ。
映画オリジナルの展開に
事件後、又貫は鏑木との面会を経て、誤認逮捕の可能性があるとして記者会見で事件の再捜査を発表する。隣に座る上司の川田は驚きの表情を見せており、鏑木の独断であることが窺える。この又貫の葛藤と結末も映画オリジナルの内容だ。小説版の結末はぜひ読んで確かめていただきたいが、映画版は警察も内部から変われる可能性があるという希望を示した展開になっている。
鏑木は脱獄したい理由を、この世界を信じたかったと語った。高校生で逮捕された鏑木は、初めて社会に出て働き、他者に認めてもらい、人を好きになった。思い起こせば、ライターとしての有能さを認められた時の鏑木=那須は、言い表せない感動の表情を見せていた。鏑木は、誰かにとって必要な存在だと認めてもらうこと、自分を信頼してもらうことを経験していたのだ。
そうして鏑木と出会った人々は鏑木の冤罪を訴える活動を始めていた。鏑木は世界を信じ、それに呼応して人々は鏑木を信じた。安藤親子、野々村和也、酒井舞は街頭に出て署名を集めており、現場を目撃した井尾由子のもとを訪れる姿も見られた。鏑木との面会では「全部終わったら〜」と、鏑木が釈放されるという前提で声をかけていたのも印象的だった。
鏑木は、水産加工会社まで追ってきた安藤沙耶香の上司・後藤に「全部終わったら話します」と約束していた。鏑木の言う「全部終わったら」は、もしかすると井尾由子に証言してもらうための旅が終わったら、という意味だったのかもしれない。記者に話をするのは無罪判決が出てからでは遅すぎるからだ。だが、安藤沙耶香らが言う「全部終わったら〜」は紛れもなく鏑木の釈放後を意味しており、鏑木を強く勇気づけたことだろう。
一方で、鏑木と出会った人々も、その出会いを通して変化を経験している。不安定な暮らしを続けてきた野々村和也は資格勉強に取り組んでおり、上京して故郷に戻った酒井舞は東京の友人と自分を比べることをやめると決意している。互いに影響を与え合った関係であればこそ、信頼が生まれるのだ。
ラストの意味は?
映画『正体』のラストシーンは、鏑木に再び判決が言い渡される場面だ。法廷の傍聴席には、安藤沙耶香、野々村和也、酒井舞、そして又貫征吾の姿もある。判決が言い渡されるシーンは無音になるが、安藤沙耶香の隣の人の反応、支援者たちの反応、そして鏑木慶一自身の反応を見ると、無罪だということが確信できる。
観ている側としては、最初の周囲の反応では、その人達がどちらの味方なのかが分からないため確信が持てないのだが、徐々に希望が現実に変わっていき、じんわりとハッピーエンドを実感できる演出になっている。これも映画ならではの演出で、小説の結末については是非原作でチェックして欲しい。
エンドロールで流れる曲はヨルシカ「太陽」。映画『正体』のために書き下ろされた楽曲で、「ゆっくりゆっくりと彼方へ」「恐る恐ると羽を広げながら」と、鏑木の心情を思わせる歌詞が唄われている。
映画『正体』ネタバレ感想&考察
実際に起きている事件
2022年には亀梨和也主演でドラマ化もされている『正体』だが、本作では鏑木が拠点を移し続けるテンポの良さと、鏑木を追う又貫が背負う緊張感が映画というメディアにマッチしていたように思う。加えて藤井道人監督が作り出す映像も凄まじく、引き込まれるカットが惜しみなく詰め込まれている点も魅力だった。
元々、原作の『正体』はモデルになった事件は存在しないとされている。原作者の染井為人
は、フムフムニュースのインタビューに、「未成年でも死刑になることがあると知ったこと」が本作を書くきっかけになったとし、「警察署から逃走して自転車で日本一周を目指した容疑者」がストーリーを膨らませるきっかけになったと話している。
後者の事件は2018年に起きたもので、強盗致傷の容疑で勾留されていた樋田淳也容疑者が警察署から逃げて自転車で旅を続け、48日後に逮捕された。同容疑者は立ち寄った地元の人からは「好青年」と思われていたが、窃盗を繰り返して逃走していたという。この事件は冤罪事件ではないと見られている。
一方で、『正体』の刊行後に再審無罪が確定したのが袴田事件だ。1966年に袴田巌さんが強盗殺人と放火で逮捕され、1980年に死刑が確定したが、粘り強い市民運動と法廷闘争の結果として2024年9月の再審で無罪判決、翌10月に検察が上訴権を放棄して無罪が確定した。
袴田事件では、警察が自白を強要し、検察が証拠を偽造するという公権力による不正が起きていたが、長らく死刑判決を覆すことができず、一人の人間の人権と人生を奪った。無罪確定後、裁判官・検事総長・静岡県警本部長・地検検事正が袴田さんに謝罪している。
死刑についても考える
日本で戦後に死刑判決が無罪に覆った例は5件存在する。死刑撤廃の論が根強いのは、国家による殺人を許容しないという理由もあるが、冤罪被害者を殺してしまう可能性があるためでもある。現実では、鏑木のように脱獄して無罪を証明することはできない。
映画『正体』では、結果的に刑事の又貫の良心が鏑木を無実判決に導くことになった。国家権力の内部から一人の人間が行動を起こしたこと、自分の罪を無いことにしなかったことで真実が明らかになった。
映画『正体』は冤罪事件と公権力の暴走について考えさせてくれる作品だ。私たちは更にもう一歩踏み込んで、死刑制度について考えを巡らせることもできるだろう。一人の英雄の登場を待ち、人間の善性を信じるだけでなく、制度設計を見直すことも必要だ。
振り返りたい安藤淳二の姿
タイミングの妙は、SNSで“悲劇のヒーロー”を生む流れが大きくなってきた中で映画『正体』が公開されたことだ。本作においては容疑者がSNSで直接発信できるということが良い方向で描かれたが、償うべき罪を背負った人間がこれを利用しないか、私たちがその“印象”で犯罪者を偶像化してしまわないかという点には注意しておきたい。
罪の有無は時間をかけて吟味し、裁判によって公正に判断が下されるべきだ(その時間が十分に確保されるためにも、死刑制度の見直しは検討される必要がある)。映画『正体』で印象的だったのは、冤罪被害者である弁護士の安藤淳二が、自分が無実でも被害者が依然として存在していて、真犯人が捕まっていないことを痛切に思うシーンだ。
私たちは元々の被害者や被害者遺族に寄り添わない“正義”の主張に陥らないように十分に注意しなければならず、この安藤淳二の感覚を忘れずに持っているべきだと思う。世の中に氾濫する情報が安易に「真実」と認められてしまわないために司法制度が存在する。その司法がでっち上げなどを行わずに機能することと、私たち世間が冷静な目を持つことはセットで達成されるべき課題だと言える。
映画『正体』の強さの正体
映画『正体』は、ご時世もあって注釈や留意点と共に語らなければならない作品になってしまった感はある。それだけ重要なテーマを扱った作品ということでもあるだろう。だが、映画としては、その繊細な議論の土壌になるだけの強度もある。
それは、藤井道人監督の映画製作者としての実力と、横浜流星、山田孝之の迫真の演技の賜物だろう。5タイプの鏑木を演じた横浜流星の七変化ぶりと、芯に残る鏑木らしさの表現は見事で、弱さゆえの揺らぎではなく、強さの中にある揺らぎを表現した山田孝之の演技は流石としか言いようがない。
時代が変われば映画『正体』の見方はまた変わるのかもしれない。だが、この時代にこの作品に出会えたこと、この作品を土壌として今の社会について考えることができることは幸いなことなのだと思う。
映画『正体』は2024年11月29日(金) より劇場公開。
映画とは異なる結末が描かれる染井為人の原作小説『正体』は光文社文庫より発売中。
大間々昂が手がけたオリジナル・サウンドトラックも発売中。
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