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Moon Face

佐々木倫

町に月男と呼ばれる男がいた。まん丸のごつごつした顔は、日が沈むと周囲の明かりを静かに跳ね返して厳かに夜道を照らした。目もなく鼻もなく口もなく、だれも彼の声を聞いたことがない。だけど私にはなぜか、彼の言いたいことがよくわかった。それは一種の秘密の通信のようなものだ。ふたりだけの共通の暗号でしか解読できない。しかし通じているという確信めいた思いは一方通行だったのかもしれない。月男が私のことをどう思っていたのか、実際のところは知らない。私は自分がどのようにして月男と意思の疎通を図っていたのか、今となっては思い出すことすらできない。

あるとき地球から月へ資材を送るための輸送用ロケットの試号機が打ち上げられることになった。政府は月面の一部を開発して新しい教育の場にするのだそうだ。選定され送りだされた若い才能たちが、重力の薄い土地で、新素材に囲まれて、実験を繰り返し新たな科学技術を学び、応用し、発展させていくのだそうだ。地球では見られないようなまったく新しい才能たちが開花するだろう。と宇宙省長官は力説した。おばあちゃんは演説を鼻で笑い、電波を遮断し、私に床に就くよう促した。外はまだ明るいのに。と反発を覚えたが、逆らうすべはそのときまだなかった。

後で知ったことだが、私が聞き逃した演説の部分には、親のいない恵まれない子たちを月に送り集団生活を送らせる計画が語られていたのだそうだ。祖母はきっと私にその話を聞かせたくなかったのだろう。私は養子だった。おばあちゃんが五十の誕生日に私を家に迎えてくれた。私はおばあちゃんがとても好きだ。けれどおばあちゃんは貧しかった。数年前、足を悪くして、障害年金を頼って暮らしている社会的弱者だった。彼女は国に私を取り上げられることを恐れていたのだ。

月へロケットが打ち上げられた日、真昼だというのに花火が何発も打ち上げられ、宇宙開発の竣工を祝う小型ドローンたちが空を七色の光で彩った。私はほかの大多数の人たちと同じように、アパートの屋上から打ち上げの様子を見ていた。人ごみの中には月男の姿も見つけられた。月男が私に挨拶をする。こえのないこんにちは。私も月男に挨拶をする。こえのないこんにちは。私は月男の顔を見るだけで、彼が何を言いたいのか分かった。冷たい岩石とクレーターに彩られた彼の顔面は、じっと見つめていると不思議とそのとき自分が求めている物語が模様になって浮かび上がってくる。みんなに愛されて抱きしめられる女の子のすがた。握手をする黒い肌の人と白い肌の人たち。車いすから跳び上がるおばあちゃん。杖を放り投げて、叫ぶ。

「あぶない!」

月男の顔の表面が、不意に大きくえぐれた。ぼこぼこぼこ、と岩石が泡立って、紫色の煙が上がり始める。月男がうめいているのがはっきりとわかった。彼のうめき声にたまらず、屋上の壁に設置してあった消火スプレーを吹きかける。空を見上げている人たちと、私たちを眺めている人たちがちょうど群衆の中に半々になったころ、月男はマグマのように熱せられた顔面から奇妙な色の煙をあげながら、絶命した。

私はそのころ、自分が月男と心を交わせる唯一の人間なのだと思っていた。だから月男が死んだとわかったとき、泣いた。けれども町のみんなもそれぞれ同じ思いでいたようで、月男が亡くなって一週間は、町全体が喪に服しているようだった。

「俺が仕事がなくて落ち込んでいるときによ、あいつはパンの切れ端をくれた」

あいつには俺の気持ちが分かった。そしてもちろん俺にも、あいつの気持ちが分かった。と浮浪者が言ったとき、私は自分にかかっていた魔法が見る間に解けていくのを感じた。ふたりだけの、なんて思い上がりも甚だしかった。ふたりだけだと思っていたのは、私だけだった。私はその日から、朝も夜もなく勉学に打ち込んだ。心のどこかで、月男が私と浮浪者を隔てせずに受け入れていたということが、受け入れられなかった。私は、私はあんな薄汚い人間とは違う。もっと強く、賢く、美しく、愛される価値のある人間なのだ。

血の滲む努力の結果か、はたまた純粋な抽選の結果か、私は月へ送られる子供たちのリストの中に名を連ねることができた。祖母は言った。

「こんなこと、やっぱり私は馬鹿げていると思うね」

自然の摂理に反している、と彼女は繰り返した。

「私は選ばれた人間になれる。やっと。今まで私を無視してきた人たちを、見返すチャンスを与えられたんだよ。なぜ応援してくれないの? うまくいけば、仕送りだってしてあげられる」

私の言葉に、祖母は数分間沈黙したのち、

「あんたの人生だ。好きにすりゃいい」

と小さくつぶやいた。

祖母の背中を見ていられず、そっと家を出た。小雨が降りだしていた。

「月に行くんだって」

話しかけてきたのは、いつかの浮浪者だった。

私はあからさまに顔をゆがめ、彼を無視して歩き出そうとした。

「月男が死んだのは、俺はね」

浮浪者が言う。

「あのロケットのせいだと思ってるね。月の土地を開発しようなんてそんな」

罰当たりだ。浮浪者は小さくつぶやいて、地面に伏せ、泣きながら路面を舐めた。私はぞっと身震いした。まともではない。歩き去ろうとして、一度だけ浮浪者のほうを振り返った。彼は小さく何かをつぶやきながら、地面を愛撫していた。「お前も人の子なら、大地を抱きしめて死ね!」浮浪者の怒鳴り声が雨音に交じって聞こえた。いつまでも耳の中でこだまして離れない……。雨の中泣きながら家に帰った私を、祖母はぎゅっと抱きしめてお風呂を沸かしてくれた。月へ発つための準備も、それ以降何も言わずに手伝ってくれるようになった。私は本当はそのときすでに、自分の決断が、祖母を捨て去ることと同じだったことに気が付いていたのではなかったか。月へ旅立つ日、私は祖母を抱きしめて頬にキスをした。祖母は今までにない強い力で私を抱きしめ、そしてやがて、あきらめたように手を放し力なく笑った。

幸いなことに、月での教育プログラムに、私はかなりうまく適応できた。でも誰よりも抜きん出たところで私は満足できなかった。もっと、もっと努力して、誰からも優れた人間として認められるようにならなければならないと思った。月面で素粒子の研究をしているうちに、エネルギー問題を根幹から解決できるような、まったく新しいアイデアが舞い降りたとき、私はとうとう自分が神に選ばれるにふさわしい人間になれたのだと思った。

けれども世間の反応は冷ややかだった。私はますます研究に打ち込んで、月で生まれた子供たちの教育や指導を任されるまでになった。ほんものの選ばれしこどもたち。遺伝子の選定の段階から、私たちとは違う。デリケートで打たれ弱く、少しの刺激で命を絶ってしまう繊細なこどもたち。私は文字通り心と体を砕いて彼らに接した。

「先生」

呼ばれて振り返る。月で生まれた第三世代の学生が立っていた。

「もうすぐ完成しますね」

「軌道周回する疑似太陽を使った発電システム」

生きているうちに研究が実を結ぶなんて、私だって予想だにしなかった。

それくらい、月の子供たちは優秀だった。

もうすぐ、もうすぐすべてがこの手に入る。

望んでいた成功だった。そのはずだった。

プロジェクトは失敗に終わった。完全に人間のコントロール下に置かれるはずだった疑似太陽は、実験開始からたってまもなく制御不可能な状態に陥った。操作を誤ったり、リカバーのための判断に迷う隙もなく、私たちは瞬時に膨大なエネルギーを浴びて死んだ。月面は溶け、今もなお溶かされ続け、マグマのように醜く煮えたぎっている。教え子たちや月面に居住していた人間だけでなく、地球上の多くの生命も被害にあった。多くの死者を出し、二度と取り返せない損失を生んだ。私の意識は恥の重みに耐えきれず変形し、曲がり、ひしゃげ、押しつぶされ、圧力に耐えきれず、大きく伸び、膨らんでいった。失敗だった。しっぱい。ひとごろし! ひとごろし! ひとごろし! 養母が生きていたら何て言っただろうか。恥の意識は際限なく膨張を続けた。私は、わたし、は、ちがう、こうなるはずじゃなかった。私は自分の知識を人々の役に立てるために、還元するために、嘘だ、そんなはずはなくて、私はただただ、生まれてきたことを祝福されたかった。世界中の人に、受け入れられたかった。そのために血の滲む努力をした。なのに、ああ、すべて無駄になってしまった。無駄どころか! 私のしでかしたことといえば、積み上げたものをひとつひとつ自分で台無しにすることだけだった!

気がつくと私は自分の頭の重みにふらつきながらひとり立ち尽くしていた。見渡す限り水のたたえられた大地だった。帰ってこられたのだろうか。確かにあの時死んだはずだと思ったのに、私も、地球もーーーーーー

赤黒い水面をのぞき込むと、月のように大きく腫れあがった自分の顔が映った。目も鼻も口もないはずなのに、私は自分の顔面をありありと思い浮かべることができた。クレーターだらけの岩石の顔。白く鈍く光る顔。それは私の記憶の中にあった顔。多くの人の記憶に刻まれた顔。

遠くのほうから何かが近づいてくる。生き物の気配のように思える。息を殺してこちらの様子をうかがっている。私には彼らの言葉が分からない。けれども私は確かに彼らのことを理解することができた。彼らの心の奥にある恥の気持ちを、はっきりと理解することができた。照らしてくれる君はもういない。それならいっそ私が月になりたかった。

佐々木倫

人間としての生活が厳しく、キリンとして生きていきたいという思いで生まれた仮想人格です。お話を作って暮らしたい。