Eat Me | VG+ (バゴプラ)

Eat Me

著者: 不破有紀

私は学校の一部として生きることを選んだ。配属先は図書館。それは献体であり献身である。かつて、インドの図書館学の父と呼ばれたランガナタンは『図書館学の五法則』で〈図書館は成長する有機体である〉と述べた。二十世紀の学者が未来を言い当てることになるとは皮肉な結末である。実際に図書館は成長する。ありとあらゆる情報を咀嚼し、消化し、己の内へと取り込む。電脳第三世代としてこの世に生を受けた私にとって図書館と融合することは造作もない。もはや言語の壁は取り払われた。私は〈ワタシ〉であり〈I〉であり〈我(※ウォー。中国語で私の意)〉である。固有名詞である名前は放擲した。性別もだ。情報体に性別は必要だろうか?  答えは否だ。でも、ここに来る子はみんな女性に近くなる……そう、彼女の影響で。

私の体から肝臓が抜き取られてゆく。まあいい。今日は東洋史コーナーに赴くとしよう。既定のラインを通過して私は目的地へと急ぐ。いや、急ぐ必要はない。私は粒子のように加速し、一瞬で目的地に到達する。生身の体を捨ててよかった。つくづくそう思う。

東洋史コーナーに到着するとモンゴルの騎馬隊が眼前を駆け抜けていった。利用者がいるのだ。年齢は十三。本を本として読む利用者は少ない。文字は映像としても保管されるから、後者を利用する人の方が遥かに多かった。私は利用者の鼓動をスキャンする。歴史は時によって残酷な一幕を利用者に見せる。利用者の精神状態を把握して上映会をストップするのも私の役目だった。三十分後、利用者からのアクセスは途絶えた。午後の授業が始まったのだろう。こちら側に移住した私には、私が所属する学校がまだ物質としてあるかどうかわからない。そもそも、実体化された学校は世界にいくつ残っているのだろうか。物質としての学校。手触りのある学校。選ばれた者しか通うことができない学校。私は物語の続きを再生する。テムジンはやがて草原の覇者となるだろう。

またひとつ、私の体からぽろりと部品がひとつ落ちた。今度は皮膚だ。どこかで崩落事故でも起きたのだろうか。

図書館の中にはまだ利用者の気配があった。教室に行くことができない弱者の気配。私の権限で彼らを強制的にログアウトさせることも可能だけどそれはしない。私はゴーストとなって彼らのひとりにアクセスする。自由を持たない未成年は可哀想だ。彼らはまだ肉体を捨てることが叶わない。

「大人はいいわよ」と一方的にメッセージを送ると利用者の精神パターンが変化した。赤から青へ。そう、それでいい。図書館登校は保健室登校と同義だ。本の森が同級生や大人たちから利用者の姿を隠してくれることだろう。私は箒に跨って空を駆ける。西洋史コーナーは不思議だ。いつだって魔法や呪術に溢れている。

私の体からいよいよ心臓が抜き取られた。でも、構わない。私は上昇を続け、彼女に会いに行く。マザー。今日の世界の中心は月面都市のようだ。大気圏が私の箒を絡めとり、代わりに宇宙服を私に与える。軽やかに瞬間移動した私は、月面都市を覆うドームの上に降り立った。

「また来たの」とドームがしゃべった。ゆったりとした抑揚の女性の声。マザーだ。
「ええ。来たわ」
「今日は女性の気分?」
「明日は男性の気分かもしれない」
「そう」

図書館の核であるマザー・コンピュータはいつだってオンラインだ。月面都市が建築されてゆく様子をリアルタイムで再現している。ドームの下に建造される尖塔の群れはまるっきりニューヨークだ。地表にひしめき合う人間たちに吐き気を覚えた私は時代設定を十九世紀末に改めた。すると月面都市の姿は掻き消え、武骨なクレーターだけが地面に残る。私はあおむけになり、瞬かない星々に手を伸ばす。これでいい。かえってワクワクする。もしかしたら地球を侵略する火星人の姿を見ることが出来るかもしれなかった――もちろんジャンルはサイエンス・フィクションだ。

あなたはきっとこう囁くだろう。
「君はずっと夢を見ているようだ」と。

その通り、私はずっと夢を見ている。永遠に覚めない夢。首から上は提供を拒否したからはた目には私は眠り姫に見えているかもしれない。

「泣いているの?」とマザー。
「いいえ」

物質界に私の居場所はなかった。私はデジタル化された信号。ただの0と1。それでいい。役割さえいらない。いや、役割ならあった。臓器を提供するお人形。でもそれも、もうすぐ終わる。

さよなら、私の膵臓。

月の重力は弱すぎて、私は結局地球に引き戻されてしまう。深海が私を出迎えた。マザーが私を食べている。私が彼女に融合するように、彼女も私に融合する。本当に今日の私の気分は女の子で、その証拠に胸にはふくらみがあり、足には銀のうろこがあった。口から出たあぶくが上方へと立ち上る。深く潜りすぎたせいか、光はほとんど見えない。髪が顔面にはりつく。私は今、物語の中を生きている。だから邪魔しないで。夢を見させて。

あなたはきっとこう囁くだろう。
「いつか僕もそっち側へ行くよ」と。

いいえ、あなたは来なくていいの。あなたは私とは違うの。私は、私は……。

口から泡をはき続けながら更に深く潜る。

いつの間にか私はガラスの小瓶を握りしめていた。中には紙が一切れ入っている。紙の表面が発光バクテリアで覆われ、淡い緑色の光を放った。私は人差し指で紙をなぞり、0と1で文をしたため、手を放す。小瓶は放たれた矢のように海流に乗り、私の視界から姿を消した。手紙には誰かに私の髪をあげるように書いた。きっととても長くなっているだろうから。これが、私があなたに送る最後の手紙。

私は学校の一部として生きることを選んだ。配属先は図書館。それは献体であり献身である。私は供物だ。大昔の私もそうであったような気がする。周囲の風景がゆがみ、崖が出現する。ああ、貫頭衣をまとったひとりの少女が崖から身を投げた。疫病のせい?  それとも天災による飢饉のせい?  それはわからない。わかるのは、彼女がかつての私だということ。彼女を崖から突き落としたのは大人たちだということ。それでも、私は繰り返すということ。輪廻の果ては今ここにある。吾が身は成り成りて、成り合はざるところひとところあり(※『古事記』の一節)。私が探しているのはずっと私だった。私は歴史の一部になって、ようやく社会の一員になれる。暗闇がざわざわと押し寄せ、私の魂をしゃぶる。マザーの気配だ――これが、私の最期の献身。

あなたはきっとこう囁くだろう。
「それが君の望み?」と。

私は答えない。もう私はいないから。私は過去に生きる彼や彼女とまぐわい、図書館の一部となる。でも、大丈夫。きっとあなたは先生になるから、図書館で会えるでしょう。私は〈ワタシ〉であり〈I〉であり〈我〉。そして〈アナタ〉でもあり〈You〉でもあり〈你〉でもある。でも、図書館は成長するけれど、学校はどうかしら。いつの日か、私があなたを食べる日が来るかもしれない。そう、それが私の……本当の……望み。

……

……

……

ああ、でも、その前に求人票を出さなきゃ。今度はどんな子が来るかしら?  私はマザー。図書館という名の永久機関。人間だった頃の名は……もう、忘れたわ。

不破有紀

大阪出身。早稲田大学第一文学部卒。好きな作家は星新一、司馬遼太郎。