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いつかあの夏へ

佐伯真洋

生きものは好きじゃない。死の匂いがするから。

クラスメイトたちの多くは生物学の情報層級をFまで進めていたけれど、私は授業を避けていたから、Hランク止まりだった。それでも少し勉強してみようかな、という気になったのは、新しい課題がグループ学習だったからだ。

深呼吸すると、青い銀杏の葉の香りが胸いっぱいに満たされ、電子上に再現された森林公園の世界に身体が深く沈んでゆくのを感じる。素足の裏には湿った土の感触がして、コンクリートを穿つ河原の音がさらさらと耳に届いた。緑の中で、自分の髪が光合成をはじめるのを感じる。

手元のタイムレコーダーはちゃんと008年を指している。

豊かに生い茂った木々の葉は、灼熱の太陽光を適度に遮ってくれる。四百年もの間、少しも移ろわない景色だった。
「リンダ!」と私を呼びながら、すでにこの時代に潜っていたシュンとアキーラが近づいてきた。
「この年代にもいたわ」

年老いたアキーラが年輪を重ねた樹皮に覆われる手を広げ、太った黒い昆虫をこちらへ見せてきた。トウキョウボタルの成虫だ。

私たちのグループは、現実の森林公園から幾重にも積まれた情報の地層を潜って過去へと遡り、およそ一ヶ月かけて、三十年ごとの夏を追いかけてきた。そして分かったのは、四百年あまりこの公園の生物相はまったく変わっていないということだ。その中で見つけた例外が、前回のダイブで初めて発見したトウキョウボタルだった。つまり、とても安定した生命の楽園で、なぜか唯一絶滅してしまった蛍がいたということだ。
「ジョアンの層級では、もうこれ以上は潜れないんだってさ」

まだ変声期を迎えていないシュンが幼さの残る声に悔しさをにじませる。

情報層級は情報へのアクセス権と、時代へのアクセス権の両方を備えている。

今回の先生役であるジョアンの情報層級がCだったおかげで、私たちはここまで深く時代を追いかけてこられた。層級の高い仲間と学べるのは、グループ学習の醍醐味でもあった。
「……発光器官が大きいのと小さいのを標本に使おう」

ジョアンは密集する蛍の群れからいくつかの個体を厳選し、虫かごに優しく入れる。
「トウキョウボタルはゲンジボタルやヘイケボタルの仲間で、発光器官の大きさには個体差がある。絶滅したけれど、日本列島の発光する蛍の中では最後まで生き残った種だったんだ」

ジョアンは世界図書館の学術論文にアクセスし、読み上げはじめる。彼は語学や体育の授業にほとんど顔を出さず、生物と数学ばかりに取り組んでいた。私とは脳の作りが少し違っていて、多くの友人と触れ合うコミュニケーションは好まない。

グループ学習で彼の情報層級を知るまで、ジョアンをずっと仲良くなれない存在だと思っていた。けれど私は、彼のように高等教育レベルの層級を有する熱心な生徒をほかに知らない。

私の層級では初歩的な図鑑にアクセスするのが精一杯だ。ランクHで閲覧できる図鑑のページには、トウキョウボタルの写真とともに体の構造が記されているばかりで、他の種との関係性までは知ることができない。

ジョアンが虫かごを閉じるまで、私たちは少し離れて様子を見守った。彼は肌が触れ合うことを嫌うのだ。
「どうしてトウキョウボタルだけが生き残れて、どうして滅んじゃったのかなぁ」

発光する最後の蛍ならば、とても貴重な種だったはずなのに。なぜ四百年変わらない楽園の中で、この蛍だけが世界から見捨てられたのだろう。
「……僕のランクでは、そこまでの資料にアクセスできない」

私の疑問にジョアンは誠実に応えようとしてくれる。

私たちにアクセスが許されるレベルの記述は、あくまで「開示できる」情報に過ぎない。手に入れた情報がまるで世界のすべてであるかのように信じ込み、書かれていない部分まで勝手に想像するのはご法度だ。知識は地層のように積み重ねて得るものだから。
「四百年追っかけて、結局トウキョウボタルがこの時代にいたことしか分からないのか」

シュンの声は心底残念そうだ。
「仕方ないよ。標本をつけてクラスで発表しよう」

そう提案しながらも、私はシュンに共感していた。四人で追いかけた四百年の夏は、もう終わりを迎えてしまう。私は生物学の課題を生まれてはじめて楽しんでいた。
「リンダとシュン、情報層級が上がったんじゃない?」

アキーラのしわがれた声が上から降ってきて、私はシュンと顔を見合わせた。層級を確認すると、いつのまにか生物学:Gの文字が浮かんでいる。
「今ならみんなでダイブしても大丈夫かもね」

アキーラは私たちの前に自身のデータを提示した。そこには、生物学:Aの文字。
「トウキョウボタルが絶滅する理由の歴史まで、あなたたちを連れて行ける」

初めて見る最高層級の輝きに、私たちは息をのんだ。
「ちょっと待ってよ、生物学の層級はEだって言ってたじゃんか」

シュンが頬を膨らませながら怒る。
「まあ、みんなより長く生きているだけのことはあるのよ。嘘も年の功ってね」

森林公園をざあっと風が吹き抜ける。

私たち四人はアキーラを先生役にして、手をとり合った。彼女はタイムレコーダーを−730年にセットし、情報の層へと一気にダイブする。私はマイナスの年代を初めて見た。あまりに急激な潜りで、周囲の景色は虹を伸ばしたような模様にしか見えない。

降り立った先に整備された公園はなく、遠くまで広がる河原と木造の家々のあいだを、私たちの時代よりもまろやかな太陽が沈みゆくところだった。

あまり豊かとは言えない色彩の世界に、黄緑の明かりが灯りはじめ、ひとつふたつと数を増やしてゆく。
「トウキョウボタル……?」

私の疑問にアキーラは首を振る。
「ゲンジボタルね。このころ、蛍はとても身近な存在だったの」

アキーラはふたたび私たちの手をとって、今度は未来へと歴史の地層を上りはじめた。彼女の手からは木切れがぽろぽろとこぼれ落ち、握っているとちくりと痛む。

緑から紅へ、葉を散らし、晴天にまた枝を伸ばし、目まぐるしく季節は巡ってゆく。やがて大きく黒い雨粒が空から降ってきて、地面を焼いた。−655年。
「あれはなに?」
「人を殺す兵器よ」

あまりに残酷な言葉を耳にして、なんのために、とたずねようとしたけれど、焼け野原はやがてすぐに景色を変える。

樹木はまた伸びて、今度は切り倒された。あっという間に開けた土地が現れ、かわりに太陽を照り返す高層建物が天を貫く勢いでそびえたつ。空は翳り、摩天楼が人工の光をそこら中に振り撒いている。素足がひんやりとアスファルトをとらえた。タイムレコーダーは−600年代を刻んでいる。

層を上るにつれ暴風が、豪雨が、都市を破壊しては建物を成長させてゆく。
「昔、学校は豊かとは言えなかった。ジョアンのような生徒は別の教室に押し込まれていたし、私やシュンのように年齢を超えたクラス参加も当たり前じゃなかった。リンダのように、嫌いな授業に出ない生徒は落ちこぼれと非難された」

情報層級Fまでの歴史の授業では決して習わない内容だとすぐに悟った。私はマイナスのつかない、0年代以後の世界しか知らない。

やがて私たち四人の足元から、無数の光の粒が舞い上がる。今度こそトウキョウボタルが一斉に羽を広げて飛び立ったのだ。人工灯の中で輝く蛍の美しさに、息を忘れて魅入ってしまう。
「トウキョウボタルの全盛期よ。こうしてビルの合間を彩るために設計された種なの。このとき、蛍はとうに滅んでいた」

歴史の層をたどりながら、私は目につく人の姿に違和感を覚えていた。みんな似たような四肢を持ち、髪や肌の色も数種類しか確認できず、私たちより瞳はずっと色素が薄い。やがてその人々も数を減らし、−100を刻む頃には人類を視界の端に捉えることはなくなった。

タイムレコーダーが0年を指し、ようやくアキーラはダイブを止める。摩天楼は公園に変わり、コンクリートから大理石、金属に変化していった地面はいつのまにか土に戻っていた。
「西暦2600年に世界が再編されて、私のような一部の人間は身体を変えて長いときを渡った」

私たちの多くは多様な動物や植物と融合した肉体を持って生まれてくる。けれどアキーラは、生まれてから身体を変えたと言っているのだ。
「トウキョウボタルが滅んだのは、世界が自然に還ったからよ。人工の生命体は他の種よりも長く生き、そして新しい世界に耐えられなかった」

辺りを見渡すと、すでに完璧に調整された楽園が私たちを包み込んでいる。
「あの人類たちはどうなったの?」

シュンがいつもより低い声でたずねた。
「私たちサピエンスと呼ばれた旧人類は、あなたたち新人類に未来を託した。私のように、薬で身体を変えて環境に適応できた個体を除いてね」

アキーラは両腕を空に伸ばす。
「樹木化した腕は、新しい世界を生きるために作り変えたの」

アキーラが告白を終える。やがて紫外線の強い太陽は森の奥へと完全に沈み、ジョアンが長く息を吐いた。
「AとBには閲覧規制の情報が含まれる。僕たち、アキーラと見た景色を忘れちゃうんだよね」

では何のためにアキーラは私たちを生徒役にして歴史を潜ったのだろう。

彼女は柔らかく微笑んで、首を振った。
「いいの。君たちが好んで、学んで、成長するたびに知識の扉は開かれる。そしていつの日かAの階層に至るでしょう。それまでは記憶の底に眠っていても、この経験は君たちの心に地層のように刻まれている」

頭上にはもう、一等星が瞬いていた。

一週間後、私たちはトウキョウボタルの標本について発表し、クラスメイトと知識を分かち合った。グループ学習が終わっても、私は生物学の授業に出るようになった。

授業中、教室の外に広がる緑の中に、羽虫が一匹飛び立つのが見えた。そこに死の匂いを感じる。けれどなぜか、以前のような嫌悪感はない。

タイムレコーダーは408年の夏を刻んでいる。私はそれを愛しいと感じ、ゆるやかに瞳を閉じて風を感じた。

佐伯真洋

1991年生まれ、大阪府出身。仕事と育児をしつつ大学で勉強中。子供を難病で亡くしたことがきっかけで多様性と社会の未来を考えるようになり、小説を書きはじめた。全盲の卓球選手を描いた『青い瞳がきこえるうちは』で第11回創元SF短編賞の最終候補になる。好きなものはディズニー、ハリーポッター、ジブリ。とくに『千と千尋の神隠し』はセリフを暗記するほど鑑賞している。