「次は理科の授業です。理科室へ移動しますよ」
用務員アンドロイドである私は、教卓の非接触型タッチパネルで、「教室移動」のボタンをタップしました。すると3年H組の教室は教卓に向かって右方向へと、ゆっくり水平移動を始めました。校舎から教室全体が抜け出たところで、窓の外の動きが止まりました。と同時に教室の四方から腕が伸びると、その先に花が咲くようにしてプロペラが拡がります。その瞬間、ガーゴイルの鳴き声のような甲高い音を響かせてプロペラが回転を始めました。10秒程で教室は木の葉のように宙に浮き上がり、中庭の上を特別棟へと滑るように飛び始めました。
窓を覗くと、他の教室も同じように教室移動を始めていました。まるで息の合ったマスゲームを見ているようです。教室同士がぶつかることのないように、全ての飛行経路は校長量子コンピュータによって最適化されています。
家庭科室ドックから2年B組が離陸するのを見守っている間に、教室は理科室ドックへ着地しました。プロペラを畳むと同時に、トレイが収縮して特別棟へと格納されていきます。
教室の動きが止まってから、私は教室前方にあるドアを開けました。その先にあるのは理科準備室です。私のステンレスの肌を、ひんやりとした空気が撫でました。部屋の奥には備品倉庫や薬品庫の入口も見えます。
その埃っぽい小さな部屋の片隅に、シャワールーム程の大きさの教師生成装置が鎮座していました。この装置で作られる疑似有機駆動体の教師は、授業をするのがお仕事です。
私は、教師生成装置に十分量の教師材料が充填されているかを確認しました。教師の材料は、特殊なシリコンと細い針金の神経骨格です。シリコン中には、電気刺激で収縮する疑似アクトミオシンが混合されています。神経骨格が電流を制御することで、疑似有機駆動体は人間のように動くことができるのです。私は教師生成スイッチを入れて、教室へ戻りました。
「では顕微鏡の準備をしましょう」
私は生徒たちと一緒に教室の背面へと歩いていきました。生徒というのは”あの人たち”のことです。その身体形状から、私はあの人たちを99%以上の確率で「人間」であると認識しています。稀に犬や猫と間違えることはありますが、犬や猫にも人間と同じように接しているので、今まで問題になったことはありません。
私は壁のIDリーダーに耐食グローブの掌をかざします。認証が完了すると、背面のシャッターが開いて顕微鏡の棚が姿を現しました。
「気を付けて席まで運んでくださいね」
私は生徒たちに優しく指示を出しました。
顕微鏡の準備が終わったところで、理科準備室のドアが開き、白衣姿の理科教師が姿を現しました。溶液の入ったビーカーを、大事そうに片手に持っています。シリコン素材の肌は人間そっくりです。しかし頭に埋め込まれた金色のチップが、疑似有機駆動体であることを証明するように輝いていました。
「それでは授業を始めよう。今日は貴重なミジンコの生体のスケッチだ」
教師は、ビーカーの中身をスポイトでスライドガラスへと落として生徒に配りました。
「生徒諸君は当然理解していると思うが、生体サンプルは非常に貴重だ。こと座α星、ベガの超新星爆発により、地球上の生命の約80%は絶滅した。
無論、人類も絶滅の危機に瀕していた。ガンマ線バーストにより未知のウイルスが多く誕生した一方で、ワクチンを開発できる人材とインフラが失われたのだからね。
しかし新しい生活様式を導入して、一部の人類は辛うじて生き残ることができた。この校舎も外気に直接触れないようにデザインされたし、人材不足の懸念から吾輩のような疑似有機駆動体による授業も取り入れられた。そこの用務員アンドロイドも、その一環だ」
教師は私を指してから、説明を続けました。
「野生のミジンコは、今も地球上のどこかに生息しているかもしれん。だが再発見には至っていない。野外調査は、かつての人類にとっての宇宙探査や深海探査と同等のコストとリスクを伴うものになってしまった。
用意したミジンコは本校で培養されてきたものだ。人間以外の生き物を見るのは初めての者もいるだろう。生命のありがたさを考え直す機会にして欲しい」
ゴム人間はそう語って、生徒たちに観察を始めるよう促しました。正直、このくらいの指導なら私にもできるのではないかと思っています。
私には、いつか教師になりたいという密かな夢があるのです。しかし私は用務員アンドロイド。運命付けられた未来を変える術はありません。ただ現実に目を瞑って、夢の世界に浸る機能しか備わっていないのです。
一体どんな人間が、機械に夢を見させることを望んだのでしょうか。きっとその人間は、機械に小説でも書かせようとしていたに違いありません。
生徒たちは顕微鏡の接眼レンズを覗き込んで、早速仮想ノートにスケッチを始めました。猫の姿をした仮想ノートたちは、腹のパネル部分にペンで線が引かれる度に、生徒にアドバイスを送ります。
「いいね、その調子!」
「もっと線を細くしてみよう」
生徒たちは、その声に従ってスケッチを進めていきます。
この猫の仮想ノートは、ノートやスケッチ用紙だけではなく、時には解答用紙にもなって生徒の成果を蓄積して、達成した内容に応じて新しい芸や言葉を覚えるようになっています。生徒たちは、力いっぱいの愛情を込めて仮想ノートを育てるので、自然と生徒たちは授業に取り組んでくれるようになります。
生徒たちが黙々とスケッチをしているのを私は眺めていましたが、ふと目を遣ると、教師が見当たりません。教室を見回すと、教室前方の床に溶けたアイスクリームのようなシリコン溜まりが出来ていて、その中に白衣が落ちていました。最近は、疑似有機駆動体が固体を保っていられる時間も短くなってしまいました。私は泥状のシリコンを吸引機で掃除してから、再び理科準備室へ向かいました。
教師生成装置のゲルタンクは空っぽに近くなっていました。補充用のゲルを倉庫に取りに行かねばなりません。その時、不意に壁際に置かれたメタンガスのボンベが目に入りました。その魅惑的な流線形から、私は目が離せませんでした。
そこでふと、ゲルの中にメタンガスを混ぜて教師を生成してみるという実験を思いつきました。もしかしたら教師が授業中に突然爆発する滑稽な姿が見られるかもしれません。生徒に危険が及ばないようにすれば、問題はないでしょう。それに教師が居なくなれば、校長量子コンピュータが私を教師に配置転換してくれるかもしれません。
私は「マトリョシカ」を口ずさみながら、メタンガスのボンベから伸びるチューブを教師生成装置のゲルタンクに突っ込んで、バルブを開きました。粘性の高いシリコンゲルの中で、メタンガスの気泡がシャボン玉のように幾つも生まれて、ゲル中を満たしていきます。美しい球形が膨らんでは、重力に逆らって浮かんでいきます。夢というのはこんな形をしているのかもしれません。
夢がたくさん詰まったゲルタンクの蓋を閉じてから、私は教師生成スイッチを押しました。まず中央のケージの中で針金の骨格が操り人形のようにぶら下げられ、そこにエアブラシドローンがゲルを噴霧して形を作ります。続いて上から伸びてきたアームが形の微修正をしてから、再びドローンが表面に塗料を噴霧します。ものの30秒でケージの蓋が開き、教師が平然とした顔で出てきました。教師は異変に何も気付かず、いつものように白衣を羽織りました。
「何をジロジロ見ているんだ?」
教師は怪訝な視線を私に向けました。
その固化した全身には、まるで宝石が埋め込まれているみたいに、メタンガスの気泡が散りばめられています。光を乱反射して虹色の煌めきを帯びていました。
「私は夢を見ています」
「やっと壊れたか、スクラップ野郎。校長に言って、早く新しい用務員に替えてもらおう」
「こちらこそ、長い間お世話になりました」
私は表情を笑顔に切り替えてから、教師の背中を追いかけて教室へと戻りました。
私は興奮しながらその時を待ちました。生徒に残り時間を告げる時。生徒のスケッチを批評する時。あの憎らしいシリコン野郎が爆発四散するのは今この時か、と何度も期待しましたが、しかし閉じ込められたメタンの宝石がシリコンの肌を内側から食い破ることはありませんでした。
そして教師が前の席の生徒の顕微鏡を覗こうとした時でした。おもむろにメタンの泡沫が小刻みに震え始めたのです。私の感情回路は、歓喜の声を上げそうになりました。
しかし結論から言えば、爆発などしませんでした。奴は溶け始めたのです。ゲルの皮膚に気泡が浮かび上がって、七色の宝石は空気の中に儚く消えていきました。教師の体はアメーバのように床へと垂れ落ち、しかも生徒の上にまともに覆い被さってしまいました。生徒はシリコンまみれです。
「これはやり直しですね」
私は肩を落として、吸引機で後片付けをしました。面倒だったので、顕微鏡のステージの上のミジンコの腐った死骸も吸い取ってしまいました。ミジンコも人間も、みんないなくなって随分経ちますが、あのポンコツ教師には、そこまで認識する機能は無いようです。
それから私は、生徒たちと一緒に新入生をお迎えに行くことにしました。各椅子に座らせていた生徒たちを手押し車に載せます。テディベアさんとくるみ割り人形さんは、いつものように仲良く隣同士です。手押し車を転がして、私たちは備品倉庫へと向かいました。
理科室は、生徒にしやすい物が多くて助かります。この人体骨格標本は良さそうです。人間である確率は10%。いや、人間と言えなくもない。50%くらいですね。いいえ、これは人間です。99%以上、人間です。
認識改変完了。
さぁ、新入生の歓迎会をしましょう。