スタジオ・ジブリ作品としての転換
『もののけ姫』以前、宮﨑駿監督は繰り返し反戦のメッセージを根底に描いてきたが、作品がエンターテインメントとして世に浸透しつつも、核となるメッセージはあまり伝わらなかったという実感があった、と語っている。
『もののけ姫』以前の10年間、監督として撮影したのは『となりのトトロ』(1988)、『魔女の宅急便』(1989)、『紅の豚』(1992)だ。いずれも主人公が新しい世界や価値観と出会い、それを自分の日常にしていく、あるいは自分を取り戻していく、といった冒険がポジティブに描かれる。
宮﨑駿監督がこの間に企画や脚本で携わったのは『おもひでぽろぽろ』(1991)、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』(1994)、『耳をすませば』(1995)で、社会問題を織り交ぜつつも、『未来少年コナン』(1984)、『風の谷のナウシカ』(1984)、『天空の城ラピュタ』(1986)といった初期の監督作品に比べて、主人公やテーマがぐっと現代に近付き、観客にとっての身近な物語になっている。
これらの作品群からの転換、また過去作品の癒しや優しさのイメージの否定として『もののけ姫』は構想された。
宮﨑駿監督は『もののけ姫』製作にあたり、固定化された主人公のイメージを脱し、さまざまな理不尽や社会問題と向き合って生きていくしかない現代の子供たちに届く物語を描こうとしたという。そして、主人公たちが向き合っていくしかない運命として「人間の業」が重要なテーマとして立ち上がってきた。すなわち、製鉄などの産業が発達すると、自然の恵みを忘れて森を削り、川を汚し、鉄から武器を作って戦争を始めてしまう、そんな人間の愚かさとの対峙である。
30年近くを経てもなお『もののけ姫』の持つメッセージが現代社会をくっきりと捉えているのは、こうした人間の業が、負の歴史を繰り返してしまうことを真正面から表現しているからだ。『もののけ姫』は室町時代の物語であり、1997年の物語であり、そして現代、未来の物語でもある。
以下の内容は、映画『もののけ姫』の内容に関するネタバレを含みます。
Contents
『もののけ姫』ネタバレ解説&考察
『もののけ姫』に登場する表現とモチーフ
光と影による「二面性」の表現
『もののけ姫』の舞台であるシシ神の森は、東北地方にあるアシタカの故郷からはるか西へ進んだ先にあるとされる。製作にあたり宮﨑駿監督は『風の谷のナウシカ』の腐海のイメージと同様に、「シシ神の森は屋久島をモデルにしたい」と決め、ロケも行われた。
宮﨑駿監督は屋久島に代表される照葉樹林を通し、日本の風土・文化の礎を描こうとしたとされる。そのため、シーンごとに照葉樹林がつくる光と影の対極的な表現は、『もののけ姫』において、とても重要なメッセージを宿している。
タタリ神
最初に光と影の対比が登場するのが、物語冒頭のタタリ神のシーンだ。
アシタカの住むエミシ村は森のひらけた場所にあり、光が当たっている。一方でタタリ神が登場する直前、あたり一体は不自然に影となり、アシタカの顔にも影が落ちる。これは当然、良からぬもの、光(エミシの村)を脅かすものが登場することを示唆している。
タタリ神が全貌を現すシーンでは、木陰から光の境界に出てくるところで身震いし、光が当たった部分にのみ猪の肉体が出現する。これも、タタリ神が単なる呪いではなく、かつて森を守ったイノシシの神であり、その二面性を内包することの象徴だ。
アシタカとカヤ
アシタカが村を出ていくシーンでは、カヤの顔は夜のなかにあっても月の光に照らされてはっきりと表情が見える。一方で、呪いを受け、村に居場所を失くしたアシタカには、別れのセリフで顔に影が落ちている。二人の運命が完全に分たれたことが示される。
神への畏れや自然を信仰する心を持って森とともに生きるエミシの娘・カヤは、作中では一貫して光の側にいる。
シシ神の登場
光と影の対比が印象的なのが、シシ神の登場シーンだ。タタラ場の牛飼い二人を連れてシシ神の森を横断するアシタカの視線の先、森の奥の不自然に明るい木の隙間から、シシ神のシルエットが見える。暗い色のアシタカの目にもその瞬間、光が映り込むが、呪いを受けた左腕が暴走した後はもとの暗い瞳に戻っている。そしてシシ神が去った後、森の奥は不自然に暗くなる。神々しさと畏怖とを同時に連想させる演出となっている。
タタラ場
人間の世界にも光と影がある。
タタラ場では製鉄のために休みなくタタラを踏まねばならず、夜になっても火が落ちない。仕事に励む女性たちの姿は明るく照らされている。
一方で、エボシの庭は静かで暗く、夜でも明るい村と違って影の中にある。ここにはハンセン病の患者たちが大勢いて、同じ人間であっても光の中を生きてゆける者、影の中を生きる者との対比がなされている。
そしてもののけ姫の襲撃を受け、アシタカは光のタタラ場(人間の世界)から暗い森の方(神々の世界)へと自ら踏み出すことを決意し、タタラ場を去る。
こうした光と影の演出によって、完全な善悪はなく、物事には常に二つの側面があることが繰り返し語られる。シシ神自身にも昼の姿と夜の姿があり、生と死の両方を併せ持っている。
『もののけ姫』の登場人物たちに込められた記号
アシタカとサン(社会に必要とされない自分)
宮﨑駿監督が、答えのない問題を抱える現代の子供たちのために、ステレオタイプから脱しようと作った主人公がアシタカだ。
彼はパズーのように終始まっすぐなわけではなく、ナウシカのように自分のコミュニティを背負い守るために戦うわけでもない。アシタカは村を守るために呪いを受け、それが原因で居場所を失ってしまう。もう一人の主人公であるサンも、生まれてすぐに山犬に差し出され、人間界を追われた。
アシタカは死の運命を暗く受け止め、サンは人間との争いに際し「死など怖いものか」と自分の命を差し出す覚悟をすでに決めている。二人とも社会に必要とされない人間であり、自分の未来に希望など抱いていない。
これは理不尽な運命のせいで居場所を奪われ、未来への希望が何ひとつ持てないと感じている、現代を生きる子供たちに寄り添うために作られた主人公像だ。こうした苦しみは、きっと世界中の子供たちが抱えている。
エボシ(神をも恐れぬ現代人の象徴)
製鉄で力をつけたタタラ場の人々がナゴの守と戦ったように、室町時代は技術の発展によって人間が豊かさを手にし、「神を恐れる」という価値観が薄れてゆく、時代の転換期 機である。その中にあってエボシは作中でもっとも近代的・現代的な人として描かれている。
「賢しらにわずかな不運を見せびらかすな」という印象的なセリフの通り、彼女もまた、時代の犠牲になって苦心しながらも生き抜いてきた人間である。本編では語られないが、エボシは若い頃に人攫いに遭い、倭寇の頭目の妻にされたが、頭角を表して頭目を打ち取り、財宝を奪って故郷に帰ってきた、という背景設定がある。
『もののけ姫』全編の色彩設計を担当した保田道世さんは、エボシの口紅にあえて当時貴重だったであろう赤を設定し、キリッとしたイメージを作ったと語っている。エボシは時代の先端をいくかっこいい女性の象徴であり、神をも恐れぬ現代人の精神を宿している。エボシの価値観はまさに現代の我々であり、技術の恩恵を受けながら自然を破壊し、戦に突き進んでしまう彼女の行動は、人間の業を鏡のように我々に突きつける。
コダマ(無垢な子供の象徴)
『もののけ姫』には徹底して小さな子供が登場しない。同じく自然と人との対立を描いた『風の谷のナウシカ』では、腐海に飲み込まれゆく小さな谷にも赤ちゃんが誕生しているシーンがあった。
『もののけ姫』は人間の力が強さを増してきた時代にありながら、エミシの村にもタタラ場にもアシタカやサン、カヤたち少年少女よりも小さな年齢の子供は描かれていない。これにより、サンと山犬、エボシと娘たちのように、血縁によらない絆が強調されている。
代わりに、無垢なるものの代表として出てきたのが森の精霊・コダマである。アシタカはシシ神の森のコダマを見て「ここにもコダマがいるのか」「森が豊かな証拠だ」と呟いた。どんな場所にも新しい命が誕生しており、子供の存在は豊かさの指標であるということだ。
樹齢何千年にもなる巨木を見て「お前たちの母親か」とアシタカが言っていることからも、コダマは子供の象徴であり、子供に必要なのは豊かな自然であるとのメッセージが込められていることが分かる。
『もののけ姫』の物語に込められたメッセージ
宮﨑駿監督と戦争の体験
宮﨑駿監督は1941年生まれで、3歳で宇都宮に疎開し、そこで空襲を経験している。当時、空襲から他者を助けられなかった経験や、戦後に中国での暴虐を武勇伝のように語る大人たちをたくさん見た経験から、自身の作品に反戦のメッセージを込め、迷わず他者に手を差し伸べられる主人公を描いてきた。
また、幼い頃に近所にあった製鉄所への憧れ、戦闘機等への関心も同時に持ち合わせており、宮﨑駿監督自身が、人間の技術が生み出す光と影の二面性について悩みを抱えてきたという。
そのため、『もののけ姫』ではそのメッセージがより強調されている。
核兵器の恐ろしさとシシ神の死
忘れられない恐怖体験として、宮﨑駿監督はアメリカが行った水爆実験の映像を見たときのことを語っている。
『天空の城ラピュタ』で地球に向かって撃たれる「ラピュタの雷」シーンの描写は、実際に水爆が爆発する瞬間の、分厚くドーム状に膨らむ原子雲や爆風の衝撃の凄まじさに酷似している。
水爆は広島・長崎に落とされた原爆よりもさらに威力の大きな核兵器とされ、実戦で使われた場合には世界を破壊するであろうという警鐘が、おそらく『天空の城ラピュタ』では直接的に描かれている。
『もののけ姫』では、シシ神の首が吹き飛ぶシーンが前述の「ラピュタの雷」シーンと非常に似ており、ドーム状に膨らんで広範囲に死をもたらすシシ神の体内の「ドロドロ」は、おそらく核兵器の比喩として機能している。
『もののけ姫』構想時に宮﨑駿監督が同時に手がけた『On Your Mark』(1995)が、核放射に汚染された世界で生きる人間の物語であることからも、やはりこの時期、核兵器による戦争という問題意識が根底にあったと見るべきだろう。
エボシ(神を恐れぬ現代人の象徴)によるシシ神殺しのシーンには、まさに核兵器を使用する人間の業が重ねられている。エボシの武器である火縄銃は、人間社会に恩恵をもたらす鉄から作られた。それまで神を一切恐れていなかったエボシは、シシ神が火縄銃に植物を生やしたことで初めて神に対する畏怖の念を抱いており、衝動的に発砲する。破壊のスイッチは常に、相手への恐怖や憎悪によって衝動的に押されるのだということがここでは示されている。
そして生と死の二つの側面を持つシシ神の力は「命を奪う」方に発揮され、核兵器の爆風と同様に、触れた瞬間に命を吸い取り、大量のコダマ(無垢な子供たちの象徴)と自然、タタラ場という人間社会すらも破壊し尽くしてしまうのだ。
ラストシーンで、首を取り戻したシシ神の力によって山にわずかな緑が蘇るものの、何百年、何千年かけて育まれた豊かな森は二度と取り戻せない。
物語の最後に残るもの
宮﨑駿監督が描いたのは、人間の業が生み出す徹底した破壊だったかというと、それだけではない。
物語終盤、アシタカは人間の暮らすタタラ場で、サンは森でこれからも生きるという決意をする。人間と自然との対立は繰り返されていくだろうが、共生の道を模索しようともがくのが二人の主人公だ。
ラストシーンでは、シシ神の森の奥深くで、コダマが一人ぽつんと頭を鳴らしている。森の守り神であるシシ神を失っても、コダマ(子供の象徴)は生まれる。理不尽な運命を背負いながらもこの地球に生まれてくる新しい命を肯定し、子供たちは生きていく、生きていくしかないのだという強いメッセージが、このワンシーンに込められている。宮﨑駿監督は過去にチェルノブイリについて、汚染されてしまった土地にも緑が生え、人間はそこで生きていくしかないのだ、と『月刊アニメージュ』1995年9月号インタビューなどで語っている。
これからを生きる子供たちのために
封切り当時の記者会見で、宮﨑駿監督は「社会全体が損得だけで生きることを説いてきた」ことを批判し、「生きることの意味を問う時代がきた」として、この物語を子供たちにこそ観てもらいたいのだと語った。
未来に対して希望を描けない現実の子供たちへの目線は、『もののけ姫』公開からおよそ30年を経て改善するどころか、ますます共感を得られるような状況になっている。
度重なる戦争、持続可能性を無視して経済活動のために消費される自然、差別による煽動や排外主義。それらの人間の業のせいで深まる社会の溝や気候変動など、切羽詰まった問題によって、今を生きる子供たちにとって未来の地球・人間社会は不安そのものの形をしている。こういった閉塞感は歴史の中で何度も繰り返されてきた。
この混沌とした世界の中で、それでも「生きる」ことの意味を見出していくのが、『もののけ姫』が描こうとした現実である。しかし今このときも、自らのルーツのために差別される子供がおり、権利を不当に奪われる子供たちがおり、何の罪もないのに兵器によって命を脅かされる子供たちがおり、目の前で起こっている虐殺を大人たちは誰も止められないでいる。地球という自然に育まれた人間は、兵器で地上を汚染し、自らの首を締め続けている。
映画公開当時、宮﨑駿監督は「この映画を観て子供たちが何を感じたか、本当はどういうふうに受け止めたかが分かるのは、もっと先」だとも語った。『もののけ姫』公開からおよそ30年、今や子供ではなくなってしまった私たち大人が、この物語を「自分の物語だ」と感じる現代の子供たちのために何を残していけるのか、ふたたび問われる時代が訪れている。
参考資料:『もののけ姫はこうして生まれた』(2001)
映画『もののけ姫』はBlu-rayが発売中。
『もののけ姫』のサウンドトラックは発売中。
本記事の筆者・佐伯真洋のSF短編小説が収録された『SFアンソロジー 新月/朧木果樹園の軌跡』はKaguya Booksより発売中。
本記事の筆者による『君たちはどう生きるか』の解説&考察はこちらの記事で。
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