2017年発表の『ゲームの王国』で第38回日本SF大賞を受賞した小川哲による最新作、『嘘と正典』が2019年9月19日に早川書房より発売された。小川哲初の短編集である同作は、様々なジャンルの読者を魅了している。
その小川哲が2015年に第3回ハヤカワSFコンテスト〈大賞〉を受賞し、デビューを飾ったのが『ユートロニカのこちら側』(2015)だ。個人情報を代償に幸福な生活が約束される未来都市を舞台にした作品である。今回は、映画・ゲーム・文学など、ジャンルを問わず各方面で活躍するライターの梅澤レナがその魅力に迫る。
文・梅澤レナ
『ユートロニカのこちら側』は「管理社会」批判か
小川哲『ユートロニカのこちら側』は、だれが読んでも「現代的な文化」への警鐘ととらえるだろう。さらに突っ込めば、「管理社会」批判ととらえるひとも少なくはないはずだ。ジョージ・オーウェルの『1984』(1949)のように。
しかし、筆者は本作を「管理社会」批判とはとらえない。なぜなら、政府や官僚の管理する社会への糾弾ではないからだ。21世紀、とりわけ情報技術がすすみ、ビッグデータのアルゴリズム算出が生活になじんでいる現代社会の、「しあわせな監視文化」の糾弾とみている。この文脈での「文化」とは「社会生活全般」を指す。
情報を代償に得る幸せ
『ユートロニカのこちら側』はシリコンバレー企業を模したマイン社が管理するアガスティア・リゾートが舞台で、同社の設定を共有する全6章の連作短編。単に設定を共有するだけでなく、ある章に登場した人物が別の章でも登場することがあり、章が進むにつれて、ある人物のある章での側面とは異なった部分が別の章では描かれる、という点が特徴的だ。
マイン社は、アガスティア・リゾートという街区を世界各国に設け、運営している。そこでは、同社所有の情報銀行に対し、情報へのアクセス権をあずける代わりに、超福祉社会が保証されている。預ける情報には、視覚データ、聴覚データ、位置情報データ、購入履歴、ネットワーク閲覧履歴等、日常生活におけるあらゆる個人情報があり、プライバシーへのアクセス権を開示するのに比例し、情報等級(アガスティア・ランク)は上がる。等級によっては一生働かなくて済む。
また、区内では凶悪犯罪を未然に防ぐための最新の防犯システムと、ABM(特別管理局)という特別な警察機関が存在することで、治安も保証されている。
「透明性至上主義」への糾弾
アガスティア・リゾートほどではなくとも、われわれは企業や政府に個人情報を進んで提供する社会に生きる。監視文化は毎日の生活に入り込み、安全性や利便性を保証する。しかし、小川哲による「現代社会にはびこる、透明性こそが最上の交換価値」という文化への糾弾はこわいほどに的を射ている。じっさい、アガスティア・リゾートのモデルであるシリコンバレーでも、「透明性至上主義」は共有されている。現在の情報社会においては、プライバシーの透明化こそが経済的な価値であり、ユーザーは積極的にインターネット企業に個人情報を提供するものだ。
J・G・バラードが描いた透明性至上主義
ちなみに、透明性至上主義のSFは過去にも存在する。J・G・バラードの中編『殺す』(1988)がそうだ。
ロンドンの高級住宅街で発生した住人32人の惨殺事件と未成年の失踪事件を描いた著作で、印象的な比喩に「ジュニア版アルカトラズ」という言葉がある。「子どもへの徹底的な過保護は彼らをしあわせな牢屋に閉じ込める」という意味だ。各家庭には監視カメラがしかけられ、教育スケジュールは管理され、日々の生活報告は義務となっている。タスクの達成具合に対しては過度にほめそやす。こうしたなかで、「透明性」、「健全性」が追求され、ある種の「不健全さ」や「猥雑さ」は排除される。
『ユートロニカ』が補完する『殺す』
『殺す』は1988年の作品であり、昨今のような情報技術のない話ではある。そのため、『殺す』のほうが抽象性は高く、ある種の普遍性を唱えている。しかし、『ユートロニカのこちら側』のほうは現代的で具体性も高い内容のため、『殺す』のヴィジョンを補完しているともいえる。両作を読むことで、「しあわせな監視文化」「透明性至上主義」には不気味さを感じるだろう。
『殺す』にしても、『ユートロニカのこちら側』(特に第一章のリップ・ヴァン・ウィンクル)にしても、「しあわせな監視文化」と「透明性至上主義」が、人間にどのような破局をもたらすのか、そのヴィジョンに読者はおののくはずだ。
SF、とりわけスペキュレイティヴ・フィクションの真髄がここにあるのだ。
小川哲『ユートロニカのこちら側』は、早川書房より発売中。
小川哲の最新作『嘘と正典』も、早川書房より発売中。
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