アンディとの別れ、そしてウッディの新たな旅立ちによって世界中に感動を与えた『トイ・ストーリー3』(2010年)から9年、製作スタッフの一部を新たにし、『トイ・ストーリー4』(2019年)のプロジェクトが始動した。
続編のニュースは好意的に受け入れられると同時に、あの完璧に思われた『トイ・ストーリー3』からどんな続きがあるのか、困惑をもたらした。
それほど、アンディとの別れは感動的で、15年にわたるこの物語の締めくくりに相応しいラストと言えたからだ。
今回は「トイ・ストーリー4の存在理由がいまいち分からない」「トイ・ストーリーは3までで完璧だった」と思う人々のために、この映画が伝えようとしたこと、シリーズを通して何を描こうとしているのかを解説したい。
前段階として、これまでの『トイ・ストーリー』シリーズの解説を読んでもらえると話が分かりやすいだろう。
『トイ・ストーリー』シリーズはウッディの冒険を描くとともに、裏のテーマとして、彼のおもちゃとしての役目を本当の人間の人生に見立てて扱ってきた。『トイ・ストーリー4』はその集大成である。
筆者はこの時点でまだ『トイ・ストーリー5』を未視聴だが、おそらく4までの流れを踏まえれば、5はウッディの役目は後方支援となり、「世代交代」に焦点が当てられるだろう。
つまり『トイ・ストーリー4』が、実質的なウッディの人生の幕引きの映画である。(もちろん、その後を描くシリーズが今後も作られる可能性はあるだろう。大ヒット映画の主役というのは、落ち着いた余生を過ごさせてもらえるとは限らないからだ)
所有されたおもちゃと「迷子」との対比
まずは映画のシナリオに沿って、構造を掘り下げていきたい。
『トイ・ストーリー』シリーズは常に、大きな二つの対比を扱ってきた。
トイ・ストーリー:新・旧のお気に入りの対比
トイ・ストーリー2:大量生産とヴィンテージの対比
トイ・ストーリー3:同型のおもちゃたちによる集団と個の対比
『トイ・ストーリー3』まで、この対比のテーマを使って丁寧にウッディの「個」の部分は確立された。
そして『トイ・ストーリー4』では、確立された「個」の集大成として、ウッディは新たな決断を下す。それが「所有されたおもちゃ」と「迷子」との対比から生まれる物語である。
ウッディと「迷子」との出会い
これまでの三作はどれも、持ち主がいる・居場所のあるおもちゃが主役だった。おもちゃがいるべき場所は子供部屋やおもちゃ屋、保育園であり、それ以外の場所で生きるおもちゃ、セールで売られたり貰われていくおもちゃの行く末は、描写の外や番外編にしか出てこない。
『トイ・ストーリー4』では一転して、ウッディにより広く大きな、そしてときに不条理な世界を提示する。
かつての子供部屋の仲間であるボー・ピープがたどり着いたのは、アンティーク店だ。その名前は「セカンド・チャンス」で、この場所での生き方を象徴的に表している。
製作当時、この店はおもちゃたちにとって、もっとアウトローな場所として構想されていた。闇取引のマーケットだ。そこにいるおもちゃたちは、修理して新しい持ち主に買ってもらうという人生のやり直しのため、ときに賭け事までして必要なパーツを手に入れる。
子供部屋で秩序に従って仲間たちをサポートしてきたウッディには思いもしない、強く、泥臭く生きるおもちゃたちが登場する。
ウッディはある意味で箱入りの存在だ。
外の世界で生きたことがなく、常に子供部屋がウッディの居場所だった。
だから愛してくれる持ち主のいない迷子のおもちゃたちは、ウッディにとって可哀想な存在だ。しかし、迷子のおもちゃたちの考えは違う。公園で、毎日訪れる違った子供たちとその時々で遊ぶことを楽しんでいるおもちゃたちがたくさんいた。
ウッディは初めて「子供は他にもいる」というボーの言葉を正面から体感し、衝撃を受ける。
『トイ・ストーリー4』でのウッディは、迷子のおもちゃたちの生き方を通し、子供部屋の外の「世界」との出会いを体験しているのだ。
「子供部屋を出て世界を見るチャンス」というボーの言葉が、ウッディに新しい生き方を考えるきっかけを与える。
自分は本当にこのままボニーの子供部屋で、お気に入りでもリーダーでもないまま、一生を終えるのだろうか? それが本当に、子供の支えになることなのだろうか? 自分は役目を果たしているのだろうか?
『トイ・ストーリー3』までは、ウッディは人生に対する選択肢を全部は持っていない状態だった。アンディの子供部屋に残るか、ボニーの元へ行くか。究極の問いではあったが、常に焦点は持ち主の子供に当てられており、誰のものでもない人生、という選択肢は最初から排除されていた。
おもちゃは子供のそばにいて、子供の支えになること。それが、ウッディの考える「所有されたおもちゃ」としての役目だったからだ。
変化する世界に対し、ウッディは自分の中に軸として持っていたその価値観を強く自覚する。
それが鋭く描き出されるのは、ヴィランとのシーンだ。
ギャビー・ギャビーとウッディが理解し合える「所有されたおもちゃ」への憧れ
今作のヴィランとして登場するギャビー・ギャビーは、ウッディと同年代に作られたドールで、生産時からの不具合でボイスボックスが機能していない。彼女は一度も子供と遊んだ経験がなく、長い間──おそらく60年から70年、その日が訪れるのを待ち望んできた。
こういうヴィランを、観客である我々は知っている。商品棚から手に取られることなく売れ残り、ついには箱入りの未使用品のまま博物館に売られることになった『トイ・ストーリー2』のプロスペクター。持ち主に置いてけぼりにされ、帰ったときにはすでに自分と同型のおもちゃに居場所を奪われていた『トイ・ストーリー3』のロッツォ・ハグベア。
彼らは子供たちの所有物になることを諦め、所有者のいるおもちゃやその子供を憎み、誰の友達にもならない道を突き進んで、ヴィランになった。
ギャビー・ギャビーは子供に愛されたことがないという背景と、どんな手段を使ってもウッディのボイスボックスを手に入れようとする姿から、明らかにヴィランの立ち位置だった(それに、彼女が引き連れているベンソン・ドールは子供にとってトラウマ級の怖さがある)。
しかしプロスペクターともロッツォとも違うのは、長い時を経てもまだ、子供に愛される、という希望を彼女自身が捨てていないという点だ。
物語の中盤、バズも、ボー・ピープもアンティークショップへの再潜入を諦めてウッディから離れたが、ギャビー・ギャビーだけは違った。
彼女は、たった一人でフォーキーを助けに来たウッディに「戻ると思ってた」とはっきり語り、待ち構えていたのだ。仲間さえもついていけないと感じたウッディの行動を、ギャビー・ギャビーは「やり遂げる」と信じていた。
「俺を知らないくせに」
「知ってるわ」
「私たち、思いは同じじゃない? 子供のそばにいることこそ、おもちゃの一番大切な役目だと思ってる」
もちろんギャビー・ギャビーは、途中まで狡猾なヴィランだ。こうしてウッディに甘い言葉を囁くのも、ボイスボックスを手に入れたい一心だ。しかし彼女は、作中でほとんど唯一、ウッディの気持ちに真に寄り添う理解者でもある。
彼らは両方とも「古いおもちゃ」であり、持ち主に愛されること、子供の役に立つこと、それがおもちゃの役目だと心から信じているのだ。
だからこそ、ウッディは「それ(子供に愛される)って本当に素晴らしいこと?」と本心で尋ねてくるギャビー・ギャビーを、自分の「仲間」であると認識し、彼女を助けるために力を尽くす。
ウッディとギャビー・ギャビーのような古い、あるいは一度も所有されたことのないおもちゃにとって、子供の持ち物であるおもちゃは愛の象徴であり、憧れだ。誰かの特別なおもちゃになることでしかギャビー・ギャビーは救われないということを、ウッディは知っていた。
おそらく、ウッディのボイスボックスがなければギャビー・ギャビーはいつかはプロスペクターのように、誰かの手に取られることなど期待しないヴィランになっていただろう。ハーモニーに捨てられたときにウッディが「チャンスは他にもある」と諭さなければ、ロッツォ・ハグベアのように子供を憎むヴィランになっていただろう。
ウッディは、共感からギャビー・ギャビーを救い出し、そして彼女を持ち主のいるおもちゃにさせることに成功した。
かつてアンディがボニーに語った
「ウッディの一番すごいところは、友達を見捨てないってこと」
という言葉は、ウッディの行動理念にずっと息づき、誰かを救い続けている。
「俺は古いおもちゃだから(変われない)」と自虐するウッディだが、彼の「役目」とは一体、何から形作られたものなのだろうか?
どう生きたいか、というウッディの人生の終着点と『トイ・ストーリー4』のメインテーマ
『トイ・ストーリー』はおもちゃの話だが、シリーズを通して俯瞰すると、ウッディを成長する一人の人間として見立て、彼の人生を描いた物語になっている。
『トイ・ストーリー』では居場所を脅かされることによるアイデンティティの崩壊と確立が、『トイ・ストーリー2』ではルーツとモラトリアムが描かれ、『トイ・ストーリー3』では、おもちゃ自身もおもちゃの人生の主人公である、というテーマに沿い、ウッディは自己実現への道を踏み出した。
ウッディの人生において『トイ・ストーリー』を幼年期とするならば、『トイ・ストーリー2』は少年期、『トイ・ストーリー3』は青年期の終わりにあたるだろう。
そして『トイ・ストーリー4』が描いた人生のステージは、「役目からの解放」と「新たな役目を自分に与える」ことである。これは、ある程度の人生経験を重ねた大人にしかできない決断だ。
かつてアンディのおもちゃ部屋でリーダーだったウッディは、『トイ・ストーリー4』のボニーの部屋で、その地位を失っている。彼はお気に入りのおもちゃではなく、カリスマ的なリーダーでもない(フェルト人形のドーリーがボニーの部屋での実質的なリーダーを務めている)。保安官バッジを遊びの一環で取り上げられ、部屋の隅やクローゼットで長らく出番を待ち侘びている。
しかしウッディは、自分を見失いながらも、必死にボニーのおもちゃとしてやれることを試行錯誤する。子供のそばにいて、子供の幸せを守ることが自分の「役目」だと信じているからだ。
ウッディは今作で、ボニーのためになると信じ、自らフォーキーのサポート役を買って出た。自我の芽生えたばかりのフォーキーをおもちゃとして独り立ちさせるのは、さながら子育てと同じである。
夜は寝る間も惜しんでフォーキーをボニーのベッドに移動させ、危ない行動をするフォーキーを体を張って止め、自分の人生経験を語りながら、彼を抱っこしてやる。
ウッディの役目は完全に親であるが、アンディやボニーの成長を見守っていた頃のウッディとは違い、観客の目から見ても明らかにやつれていて、自信を失い、道に迷っている。
ボー・ピープに指摘された際に「もう俺にはこれしかないんだ」と本音を漏らす。
フォーキーとは一体何なのか。どうしてフォーキーは登場したのか。
過去のトイ・ストーリーと比べて明らかに異質なこのおもちゃは、ボニーの手作りであり、素材は使い捨ての先割れスプーンだ。ボニー以外のみんなにとって、また、本人の自認においても「ゴミ」である。
最初は積極的にゴミ箱に入ろうとしていたフォーキーだが、ウッディとの冒険を経て、やがてボニーのおもちゃとしての自我を確立していく。
おもちゃを定義するのは素材でも外見でもない。
子供にとってはどんなものもおもちゃになり得ること、ゴミに見えるものでも、持ち主によっては愛されるおもちゃになり得るのだということを、フォーキーは体現している。
最初に与えられた「ゴミ」の役目を超えて、フォーキーはボニーのおもちゃであることを選び、その役目を自分に与える。
それは、レトロ・ドールのギャビー・ギャビーが歩んだ道でもある。
付属の絵本と同じようにお茶会の練習をし、絵本に登場する女の子に似たハーモニーを「特別な子」と信じて疑わなかったギャビー・ギャビーだが、ハーモニーに「いらない」と言われ、完全に自信を喪失する。
ギャビー・ギャビーは、フォーキーがゴミ箱に帰ろうとしたのと同じように、生まれ持っての役目を完璧に演じようとしていたのだ。
しかしウッディの手を取ってボニーの元へ向かう途中で、迷子の女の子に感情移入し、その子を助けるために行動する。彼女自身が長い間、迷子だったからだ。
この瞬間、ギャビーは持って生まれた「絵本」の中の自分から解き放たれ、自分自身に新しい役目を与え、心の声に従って生きるようになる。
「子供のそばにいることこそ、おもちゃの一番大切な役目だと思ってる」
その内なる心の声に従い、彼女は今度こそ、子供から選ばれる。
『トイ・ストーリー』シリーズでは、モノの心は生まれ持っての役目に従う、という決まり事がある。
バズ・ライトイヤーはスペースレンジャーとして、ギャビー・ギャビーは付属の絵本の物語に従い、先割れスプーンから生まれたフォーキーは、ゴミになることを望んでいる。カウボーイかつ保安官であるウッディは、誰より勇敢で、かつ秩序を重んじる義理堅いおもちゃとして生きてきた。これはウッディに生まれ持って与えられた「役目」なのである。
しかし、彼らは物語を通してやがて自立し、心の声に従って、自分の生き方を決定するようになる。
モノとしての生まれ持っての役目ではなく、子供と紡ぐ物語こそが、おもちゃを特別なおもちゃ・お気に入りのおもちゃにする。フォーキーとギャビー・ギャビーは、それを観客に教えてくれるのだ。
ウッディは物語序盤でバズに
「内なる声に従う」
「自分の一部が自分の本心を教えてくれる」
と語っている。
もちろんカウボーイとしてのウッディ、保安官としてのウッディだって、彼の心の一部なのだ。それは揺るぎない事実である。
一方で、ボー・ピープに惹かれ、彼女とともに新しい世界に踏み出したい、と思う心もまた、ウッディの本心だ。
物語冒頭から、ウッディの人生は「下の世代の育成」というターンに入っていた。
フォーキーがボニーのおもちゃとしての自我を持ったこと、そして保安官バッジをジェシーに譲ったことで、ウッディの子供部屋での役目の一つは終わりを迎える。彼は自らそれを選択する。ウッディがこれまでの人生で体現したことはジェシーの中で、フォーキーの中で、そしてバズの中で生き続けるのだと信じているから、ウッディは前に進むことができた。
ウッディは『トイ・ストーリー4』の冒険を通して新しい世界と出会い、これまでの自分の役目を脱ぎ捨て、新しい役目を自分に与えた。
ボー・ピープと一緒にいること。子供のもとに行きたいと願う迷子のおもちゃたちを助けてやること。
これが、ウッディの人生の選択であり、新たな役目としての始まりなのだ。
自分に与えられた(あるいはそう思い込んでいた)役目を果たせなかった・果たし切ったおもちゃたちが、心の声に従い、自分自身に新たな役目を与えて生きること。
これが『トイ・ストーリー4』が描こうとした真のテーマであり、ウッディの新しいスタートなのである。
世間の評価とのズレ・大人の観客に向けられたメッセージ
『トイ・ストーリー3』のラストに大号泣した観客たちにとって、『トイ・ストーリー4』でボニーからの愛情を失っているウッディを見るのは非常に辛く、また、誰か特定の子供のおもちゃではない、という選択を取ったウッディに、切なさを感じるかもしれない。
なぜ『トイ・ストーリー4』は、フィクションの中であえて痛みを描いたのか。なぜ持ち主のいない迷子のおもちゃ、子供からの無関心をここまで執拗に描いたのか。
それは、この作品が子供の観客ばかりを主体としたものではなく、他ならぬ、大人になってしまったかつての子供たちに向けられた作品だからではないか、と思う。
『トイ・ストーリー3』では、ボニーの部屋や庭に落ちる柔らかな木漏れ日などから、おもちゃが安心して子供と触れ合える、優しい居場所の演出がなされていた。
一方、今作では暗いアンティークショップや夜の遊園地が舞台となり、照明は自然物ではなくほとんどが人工の光だ。構想段階では闇市であったアンティークショップのアウトローな雰囲気や、迷子になりやすい夜の不安な遊園地が演出されており、照明からして明らかに、子供たちの居場所には主題がフォーカスされていない。
しかしアンティークショップの天井をボー・ピープと見つめるシーンでは、美しく光るシャンデリア・照明器具はそのまま、ロマンスの演出の役目も果たしている。
『トイ・ストーリー』シリーズのメインターゲットが子供であったのに対し、今作は、大人に対するメッセージが重視されていることがわかる。
『トイ・ストーリー4』では、ボニーもハーモニーも、おもちゃに対して非情にも見える行動を取っている。アンディとの約束を大人になるまでは守ってくれないボニー。古いおもちゃに関心を示さないハーモニー。しかし、これはとても自然な子供らしさだとも言える。
かつてのヴィランたちが語ったように、子供というのは嘘をつき、気まぐれで、いずれはおもちゃを手放す存在だ。それが当たり前の成長なのだ。
『トイ・ストーリー3』までのシリーズでは、子供はおもちゃの味方で、愛すべき存在であると強調されてきた。これは同時に、子供の観客に対し、おもちゃを傷つける遊びをすること、おもちゃへの関心をなくすこと、個体としてのおもちゃを重んじないことについて、ある種の罪悪感を植え付ける構造にもなっていたように思う。
『トイ・ストーリー4』はこの点が過去作とはまったく異なっている。
大人ならば誰しも、大切にできなかったおもちゃとの思い出が大なり小なりあるものだ。
特別な子供は一人だけじゃない。おもちゃは自分で自分に役目を与えて生きていける。
かつて子供だったすべての大人に対し、あなたが愛したおもちゃは自由であるのだと、大丈夫なのだと、フィクションの力でもって救いを与えてくれる。
そんな新しいパワーとメッセージを『トイ・ストーリー4』は発している。
「無限の彼方へ、さあ行くぞ」
というバズ・ライトイヤーの決め台詞は、人生を踏み出す勇気をたくさんの大人に与えると信じられ、映画のラストに選ばれている。
その意味が、少しでも多くの人の心に響くことを願っている。
本記事の筆者・佐伯真洋が齋藤隼飛と共訳した『ジ・アート・オブ トイ・ストーリー3』と『ジ・アート・オブ トイ・ストーリー4』は2026年6月30日より発売中。
「トイ・ストーリー」4ムービーコレクションは発売中。
映画『トイ・ストーリー4』はMovieNexがyが発売中。
映画『トイ・ストーリー4』はDisney+で配信中。
第1作『トイ・ストーリー』の考察はこちらから。
第2作『トイ・ストーリー2』の考察はこちらから。
第3作『トイ・ストーリー3』の考察はこちらから。
映画『トイ・ストーリー4』ラストの解説&感想はこちらから。
映画『トイ・ストーリー』ラストの解説&考察はこちらから。
映画『トイ・ストーリー2』ラストの解説&考察はこちらから。
映画『トイ・ストーリー3』ラストの解説&考察はこちらから。
