鏡像生命の香りを表現したアートプロジェクト
見た目も振る舞いも現生生物と同じ。しかし分子構造が鏡写しに反転しており、消化できる食べ物も感染する病気も違う、いわば鏡の国のエイリアン。「鏡像生命」と呼ばれるそんな生き物をつくる「鏡像生命学」と呼ばれる研究が今、世界中で進んでいる。
パンデミックの発生などの危険性が叫ばれつつも、医薬品への応用など、高いポテンシャルも秘めた鏡像生命研究を、科学者でない一般の人が身体的に、感覚的に思考するためのアートプロジェクト「鏡像生命香プロジェクト Mirror Life Project -Smell of a New Life-」が2026年2月7日(土)〜2月23日(月・祝)まで、SHUTL(東京都中央区)で開催される。制作を手掛けたのはスペキュラティブアーティストの長谷川愛。合成生物学者の藤原慶らがリサーチ協力をしている。
「鏡像香」をシミュレーションとは
鏡像生命研究とは、現在の自然界とは分子構造が鏡写しに逆転した生命システムを人工的に再現する試みである。我々人間を含む地球上の生命は、基本的に左手型のアミノ酸と右巻きのDNA二重螺旋から構成されている。しかし、合成生物学の進展により、2025年現在、鏡写しのDNA(左巻き)を複製する「鏡像ポリメラーゼ」や、鏡像タンパク質を合成するリボソームの研究が急速に進んでいる。これらが統合された時、自然界には存在しない「鏡像生命(Mirror Life)」が誕生する。それは、生命起源の謎を解く鍵となるだけでなく、既存のウイルスや分解酵素が作用しないため、永遠に腐敗しない素材や、革新的な医薬品への応用が期待されている。
一方で、この技術は存亡のリスクを孕んでいる。2024年12月、欧米の有力生物学者38名が『Science』誌上で緊急声明を発表し、鏡像生命研究の即時停止を呼びかけた。彼らが懸念するのは「究極のパンデミック」である。鏡像生命体は、自然界の免疫系や捕食者にとって「鍵穴の合わない」存在であり、認識されることなくすり抜け、制御不能な増殖を引き起こす可能性がある。これは、既存の生態系を不可逆的に書き換える「究極の外来種」となりうる。この勧告は、賢明な倫理的防波堤なのか、あるいは国家間の技術覇権を巡る駆け引きなのか。科学者たちの間でも、この「科学の死」たりうる警告の受け入れの是非や、受け入れたとしても境界線はどこでどのように引くのか、などの議論が継続している。本展示ではこの議論の記録の一部を動画で公開する。
原子力、遺伝子編集、AIなど、過去の歴史が示すように、人類が一度手にした「大いなる力」の前で立ち止まることは、競争原理の中で極めて困難である。もはやブレーキの設置が非現実的であるならば、我々はハンドルをどのように切るべきか。誰がその法的・倫理的枠組みを設計するのか。本プロジェクトは、この未知の技術のもつ科学的崇高さと惑星的危機の共存というジレンマを、科学者でない一般の人が身体的に、感覚的に思考するための「補助線」として構想する。
視覚的には区別のつかない鏡像世界を、我々はどう感知できるのか。その鍵は「嗅覚」にある。人間の嗅覚受容体は、鍵と鍵穴のように化学物質の立体構造(キラリティ)を識別する能力を持つ。今回は予算や安全性などの制約下、手に入るかぎりの薬品で100年後に実体化するかもしれない「鏡像生命レモン」と「鏡像生命菊」、そして現在の倫理観では決して制作不可能な「鏡像生命人間」の体臭を現在の化学知見に基づいて再構成する鏡像香シミュレーションに挑戦する。
制作を手掛けた長谷川愛と、リサーチ協力をした藤原慶は、『鏡の国の生き物をつくる SFで踏み出す鏡像生命学の世界』(日刊工業新聞社)を刊行したばかり。さまざまなジャンルの研究者とSF作家が参加した本書では、5編のSF短編小説によって鏡像生命がもたらす社会システムの変化や価値観の変化、そして鏡像生命を取り巻く人々の姿をシミュレーションしている。今回の展示とあわせて楽しめる一冊だ。
鏡像生命香プロジェクト Mirror Life Project -Smell of a New Life-
会場: SHUTL(〒104-0045 東京都中央区築地4丁目1−8)
会期:2026年2月7日(土)~ 2月23日(月)
時間:13:00-19:00
公式ページ:https://shutl.shochiku.co.jp/exhibition/rental-mirrorlifeproject/
制作:長谷川愛
リサーチ協力:藤原慶(慶應義塾大学)、髙田咲良(慶應義塾大学)、清河幸子(東京大学)
助成協力:石井・石橋基金による慶應義塾大学若手研究者育成ものづくり特別事業、慶應義塾大学 KGRI サイエンスフィクション研究開発・実装センター、日本学術振興会 学術知共創プログラム『ポストヒューマン社会のための想像学』
映像撮影:坂本麻人、長谷川愛
照明 : 渡邉菜見子
照明システム : 浪川洪作(7ild3)
制作運営協力:黒田純平
*来場注意*
本展示は、香りおよび光の演出を使用しています。香りや光が苦手な方は、ご来場の際にご注意ください。

