『大怪獣のあとしまつ』公開
2022年2月4日(金)から映画『大怪獣のあとしまつ』が全国公開された。「誰もが知る”巨大怪獣”の誰も知らない”死んだ後”の世界を描く」というキャッチコピーに高まらされた期待は、残念ながら外れてしまった。
怪獣映画の主役たる怪獣は、既に死体となっている。即ち動かない。このことは事前にアナウンスされている。怪獣の動かない怪獣映画をでは如何にして面白く見せるか、というところにまさに手腕が問われた訳だが、数々の下ネタ台詞や唐突なキスシーンでその瞬間だけ人目を惹こうとするような作劇に人間ドラマとしての奥行きは感じられない。
『大怪獣のあとしまつ』における下ネタの”つまらなさ”
映画『大怪獣のあとしまつ』では、「“ポリコレ”に縛られない過激な表現」を自己目的化したかのような下ネタの数々が見られた。劇中、大臣の一人は復興予算を出し渋る財務大臣に対して「それは元カノに費やした金額をセックスの回数で割るようなものだ」と言う。これを皮切りに、この大臣は何か上手いことを言おうとしては「石鹸を陰毛で泡立てるとよく泡立つ」などと一見含蓄のある名セリフ調に下ネタを口走る。
まず断っておくと、筆者は下ネタを下ネタであるというだけで毛嫌いする訳ではない。ただ、それが「面白い」場面は相当に限られる。実のところ、下ネタというのは誰にでも言える手軽さに反して、それを扱う手腕にはかなりの高度さが求められる職人芸なのではないかと思う。
そもそも排泄物や性器といった「下」の名を口にすること自体に面白さがあるのではなく、それは社会規範と密接な関わりを持っている。要するに、普段それを口にすることが禁じられているからこそ、その禁を犯すことそれ自体が面白いのだ。そのような自由を、筆者は一概に否定しない。
しかし、であればこそそれは極めて「プライベート」な営みである筈だ。下ネタというのは親しい「君と僕の間柄」であればこそ機能し、面白いと笑い合える。「”正しさ”によって下ネタの禁じられた(退屈な)公共空間」から「君と僕の親しいプライベート空間」に脱出した証として用いられた場合にのみ、下ネタは笑えるのだ。
では、『大怪獣のあとしまつ』は我々を退屈な公共空間から連れ去り私的な関係の豊かさへと開いてくれただろうか? 観客とそのような関係を結ぶべく演出やドラマ作りに真摯に向き合っただろうか? 残念ながら答えは「否」である。そこで開陳される数々の下ネタは、初対面の相手にいきなり渾名で呼ばれるような不快感のみを残した。てかお前誰、である。
以下の内容は、映画『大怪獣のあとしまつ』の結末に関する重大なネタバレを含みます。
”ネタ”では済まされないヘイト表現
そもそも観客が見たかったのは「怪獣の死体をどう処理するか」という難題に立ち向かう人々の勇姿およびそれを解決する為のロジックだ。それが散々ハラスメント紛いの不快な下ネタをぶつけられた挙句これ見よがしな「デウスエクスマキナ*」の自己言及通り、”光の巨人”のご都合主義的な力によって怪獣の死体が宇宙に打ち上げられるオチでは開いた口が塞がらない。
*物語においてに絶対的な力を持った存在が困難を解決に導く手法。
一体我々は何を見させられたのだろうか? 怪獣が死んでいるところから物語を始めるのであれば、その死体ともっと真摯に向き合うべきだった。謎の光によって怪獣が死んだ、ということは「怪獣」の存在と同様「その世界を成り立たせる前提としての嘘」として済ませ、あえて触れるべきではなかっただろう。
そもそもヒーローに変身して怪獣の死体を宇宙に打ち上げれば良いのなら、何故アラタはそれこそ物語が始まって三分以内に変身しなかったのだろうか?そうすれば、その時点で問題は解決、映画は終わっていた筈である。
「変身」をオチに持ってくる為には、それまで「変身できない理由」を説得的に描かねばならない。けれど変身できない理由を描いてしまえば即ちネタバレとなってしまうので描けない。自縄自縛である。従って、ラストで何の脈絡もなく主人公が変身するというそれこそ「デウスエクスマキナ」的なご都合主義的なオチとなってしまった。
それまでに光の謎とアラタの消失が語られる描写はあったものの、それは「アラタと光に何らかの関係がある(変身する)」ことの伏線であり、アラタがラストまで「変身できない」理由を示すものではない。そもそもそれをオチにすること自体が構造的に破綻していたのである。作中でしつこく「デウスエクスマキナ」という単語が登場したのも、要はこのオチに対する自己弁護としか思えない。
すべてがその場凌ぎの下ネタと自己弁護に終始した『大怪獣のあとしまつ』の中で、しかし単に「つまらない」というだけでは看過できない点がある。それは怪獣の死体処理を迫り、安全と発表されれば掌を返して「怪獣の死体は我々の国の大陸棚にあるので返還しろ」と身勝手な要求を繰り返す「隣国」の描写だ。
劇中、アメリカは「米国」と実名で登場したにもかかわらず、明らかにハングルと思しき言語を話し韓国を戯画化したとしか思えないこの国は国名を伏せて「隣国」とのみ表記されていた。この手付きは何重にもわたって卑劣だ。
日本と韓国の間には勿論歴史的な課題が存在する。しかし、それこそそうした「正しさ」に縛られた公共空間を脱し、想像力で個人同士を結び付けることができるのが物語の持つ力ではないか。“下ネタ”に潜む公私の緊張関係には一瞥もくれずに無邪気にそれを振りかざしつつ、韓国への憎悪を煽る表現は「政治」に押し付けられた文脈をそのままなぞるだけで何の批判精神も窺えない。
「隣国」という曖昧な表記に留めてそれを韓国だと認識した観客に責任を押し付けようとする。このような描写は端的に”卑劣”と言う外ないだろう。正直弁護のしようがないと感じる。
まとめ
『大怪獣のあとしまつ』は、「反ポリコレ」的な過激さを自己目的化したような表現が退屈だった。即ち、本来表現したい「目的」があって選ばれる筈の手段が、「それをすることそのもの」が目的と取り違えられてしまったということである。「正しさ(のもたらす退屈さ)」から逃れることそれ自体が目的となってしまったように見える。しかし、いくら正しさから逃れたところで、それだけで面白さに辿り着ける訳ではない。
筆者も含め、多くの人は何も説教されたくて物語に触れる訳ではないだろう。「正しさ」と別の原理としての「面白さ」に魅了されたくて人は物語に触れる。とは言え、無自覚に性差別的な下ネタを垂れ流したところで、それがそのまま「面白く」なる訳ではない。
男性の口から一方的に女性を揶揄するような下ネタ、逆らえないアメリカには何も言わずに韓国だけを「隣国」という表記で曖昧に責任逃れをしながら嘲笑するような態度は果たして「面白い」だろうか? そこには、他者が他者に対して持つべき最低限の公平さや敬意が欠けている。だからこそ「笑える」のだとしたら、それが何故笑えるのかを一度考え直してみても良いのではないだろうか。
「正しさ」と「面白さ」の間には常に一定の駆け引きや緊張関係がある。正しいから面白いとか、正しくないから面白くないとかいうような分かり易い因果関係はない。人は正しくないものを、まさにその正しくなさ故に笑うこともあるだろう。だが無自覚な差別的表現にそのまま笑ってしまえば、それは結局は我々の暮らす現実の社会を息苦しいものとさせるのではないだろうか。誰もが、いつ自分が「笑われる側」になるのか分からないのだから。
自分が何かを面白いと思う時、一体自分はその何を面白く感じたのか。僅かでもそのように内省してみることで、より深い喜びや悲しみ、感情の深度に辿り着けると筆者は信じている。そして深い感情を味わう方が、その場凌ぎの下ネタに笑うよりも満足度は高いのではないだろうか。
映画『大怪獣のあとしまつ』は2022年2月4日(金)より、全国でロードショー。